5月頃に話題になっていました町が村に編入されるという伊達町のケースですが、先日パラパラ地図福島県版を作っていて気になりましたので伊達町史で調べてきました。
5月頃の議論は
このへん
その頃の地図は
パラパラ地図福島版で1955年頃をご覧ください。(宣伝)
さて、このようになった経緯は結論からいえば、反対派が多かった伏黒村に対して、旧伊達町側が最大限に譲歩した結果のようです。
昭和の大合併の発端となった1953年の合併促進法によって、福島県は保原地区1町5村(保原町、大田村、上保原村、柱沢村、富成村、伏黒村=伏黒村を除く1町4村は後の保原町)による合併計画を立てました。この枠組みは保原町の求心性など、まれにみる好条件であると県は見ており、伏黒村を除く5町村も積極的に動いていたようですが、伏黒村は合併には消極的だったようです。その理由としては裕福だったからというものもあったようです。
一方、旧伊達町側ですが、計画では飯坂地区2町4村(飯坂町、湯野町、平野村、中野村、東湯野村、茂庭村=後の飯坂町)との枠組みになっていたようです。しかし、伊達町(伊達郡)にとって『飯坂町は信夫郡に属し郡が違うのと、又経済的事情を異にして居り、且つ飯坂町は温泉地帯であるので人情風俗等諸般の事情が著しく相違しておる関係上』(伊達町史に載っていた「町村の配置分合についての処分申請書」添付の「配置分合を必要とした理由書」より)90%以上の町民が伏黒村との合併を望んでいたそうです。
そんなわけで、伏黒村は保原地区と伊達町の両方からラブコールを受け、村内は保原地区、伊達町、合併しないの3派に分かれて陳情合戦など混迷を深めていきました。
1954年9月の伏黒村議会では当分合併の意思は決定しないでおくとの結論になっていますが、伊達町との対等合併の際は条件として役場も郵便局も伏黒村側にという意見に全員で賛成したなど、伏黒村が合併に関しては上の立場にたっていたことが見て取れます。
3派に分かれていたもののしばらくは大きな動きはなく、1955年3月に保原町と飯坂町は合併を行い、伊達町と伏黒村は取り残された状態になってしまいました。そんな中8月に伏黒村長が病死し、10月に新村長が無投票で選出されました。村の将来が分かれている状態で無投票というのも最近の合併を見ていると信じられませんが、この村長の交代で沸騰化した世論がいくらか沈静化したそうです。
結局、1956年9月の促進法期限が迫っていることから、伊達町が譲歩に譲歩を重ね、編入合併、名前も伏黒村、役場も伏黒村という形で合併が成立しました。人口はほぼ同じ(伊達4273人、伏黒4187人(1954))でしたが、歳入、歳出、生産額、国県税額などすべて旧伊達町が上回っていたそうです。
さて、3ヶ月後の町制施行についてはよくわかりません。伊達町史では町制を施行の1文で済まされていました。合併直後、伏黒の名としたのは伊達町が譲歩し、伏黒村をたてるためですが、何故、合併直後から伏黒町とならなかったのか、何故町制時に伊達町となったのか。この時期は合併数ヶ月後に市制、町制するケースもいくつか見られるので、合併と市制町制は分けて考えられていたのかもしれません。改称の方は……まさか人口がわずかに多い伊達町が伏黒村を嵌めた???(冗談)