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ぐりゅんさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[49768]2006年3月9日
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[49756]2006年3月9日
ぐりゅん
[49583]2006年3月1日
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[49547]2006年2月28日
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[49527]2006年2月28日
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[49403]2006年2月23日
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[48975]2006年2月4日
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[48576]2006年1月21日
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[48530]2006年1月18日
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[48527]2006年1月18日
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[48496]2006年1月18日
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[48493]2006年1月17日
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[47965]2006年1月5日
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[46489]2005年11月6日
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[45590]2005年10月12日
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[45557]2005年10月10日
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[45546]2005年10月10日
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[45521]2005年10月9日
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[45491]2005年10月8日
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[45454]2005年10月6日
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[45434]2005年10月6日
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[45353]2005年10月3日
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[45213]2005年9月28日
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[45072]2005年9月22日
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[44761]2005年9月7日
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[44660]2005年9月4日
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[44611]2005年9月2日
ぐりゅん

[49768] 2006年 3月 9日(木)23:19:25ぐりゅん さん
デルタ線―私鉄代表はここかな
JR路線で、という前ふりでしたが、
私鉄においては近鉄のこちらが代表格でしょうか。
ごく短い短絡線ですが、看板列車の名阪特急が通過することもあって路線図にもわざわざ記されており、
いわゆる鉄分のうすい方にもそこそこ知られているようです。
[49756] 2006年 3月 9日(木)00:15:47ぐりゅん さん
浜松市の方角区名
[49636] 稲生 さん
[49712] inakanomozart さん
「先行他市」は、特に静岡市を名指し(笑)したかったわけではなく、
合併時の自治体名がらみでもめたところはいくつもあるし、程度に考えていたのですが。

私自身は、公募の時も投票でも、方角名でない区名を支持していましたが、
方角名にほぼ決定でも、残念とは思っていません。

静岡市の、駿河、葵という佳称(駿河は地名ですが市の一部に名付けるという意味で)と違って、
単なる方角名だと、事業所名等には使いにくいかもしれませんが、
それこそ大阪の「ミナミ」「キタ」のような地域の総称となって、
個別の場所を指す時は区名の下に残る歴史的(?)町名が使われる、というのもかっこいいと思います。
# 区名の定着以前に、将来そこまで発展するのか、というツッコミはなしで。


ところで(以前にも触れましたが)、「A」~「C」・「E」・「F」区を地図で見ると
旧浜松市中心部(=「A区」)から見れば、なるほどきれいに東西南北になっているんですね。
# 「西区」と「北区」との位置関係がちょっとアレ…とは思いますが

そう思ってみると、案外ふさわしい名前なのかもしれません。
[49583] 2006年 3月 1日(水)23:06:09【1】ぐりゅん さん
Re:浜松市の区名選考
[49570] みかちゅう さん
「公募した以上は多数意見を採用するのが原則」というのが私の考えなので、
残念ながら、私とは考え方が異なるようですね。
私は「審議会で決める」とはじめに謳った以上は、公募の結果の多数意見といえども
「参考資料」の一つに過ぎないと考えます。
もっとも、「多数の支持を得た」という事実は判断に影響を与えるべき、とは思います。

方角名が支持されたのは「無難である」「1文字だけなら住所記入がラク」なんて考えた方が多かったのではないでしょうか。
実は、第3回審議会の議事録に、ほぼそのままの話が載っています。

佐久間地域自治区の代表委員の話ですが、近隣に区名公募のハガキを配り、
書いてもらった時に「北区」というのが出てきた。なぜかと聞くと、「一文字書けばいいから」

北遠の一番奥に住んでいると、他地区、旧浜松市内のことはよくわからない、
年を取ってくると、手紙等でも書く文字が少ない方がいい、ということのようです。
この例に限らず、「普通」の人にとっては、自身の住んでいる地域ならまだしも、
「区」全体、ましてや他の区についてどの名前が「ふさわしい」か選べと言われても、わからない
というのが正直なところなんでしょう。

で、ここからがツッコミどころですが、おそらく応募した人というのは、
「一般」の人より、地名…とは言わないまでも、合併とか市の動向とかへの関心が強いと思われます。
今回の投票結果は、そういう積極的な人たちの多くが「方角名の方がいい」と考えた、
という事実を表しているわけですね。
合併による自治体名変更とは違って、
区名っていうのは、見かけ上は今の住所に余計な文字列が追加されるだけですから
歴史だの文化だのに無理にこだわらず、機械的な命名で十分と考えるのも合理的です。

このあたり、結果を見た審議会委員の面々はどのように感じているのでしょうね。
また、この掲示板で「無個性」な命名に異を唱えていらっしゃった方々のご意見はいかがでしょうか。

※ 話の筋にあまり関係がないので、回収率云々の段落を削除しました。
[49547] 2006年 2月 28日(火)22:53:26【1】ぐりゅん さん
方角名はイヤだと言えど…
>>浜松の区名ネタにレスをいただいた方々

私の発言で誤解を招いてすみません。
すでに、[49533] inakanomozart さんの発言にありますが、
今回の区名投票は、多数決ではなく協議の参考とするためのものであって、
正式には次回3月6日の審議会で、最終の答申案がまとめられることになっています。

さて、浜松市の公式サイトに、審議会の議事録が載っています。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/dmc/kuwari/top.html

区名投票を決めた第4回の議事録を見ますと、方角名は審議会内でも評判がよくないようですが、
はじめの区名公募の時から制限を付けなかったのだから、これは受け入れるべきとして、
・旧浜松市基準で中央/東西南北と付けても、全市で見るとアンバランス
・市の所在地は市役所の位置で代表されるので、そこを中心として見るのにも一理ある
・F区は、旧引佐郡から三方原地区までを総称できるような命名は困難、
 「歴史的」名称は区の下の町名に残すこともできる
等々、「西」「北」をあえて重複させて候補に挙げた根拠も含め、議論されています。

先行他市で、審議会が謎の「判断基準」を持ち出して紛糾させた例を他山の石に
ヘタに多数意見を葬り去ることのないよう、慎重な検討が進められたようです。

しかし、今度の投票結果でも方角名支持が大多数。
先の審議会で「ただ、東西南北ということだけで考えたのなら、勘弁してもらいたい。」と
発言した委員もいましたが、多数派となった人たちは何を思って選んだのでしょう。

また、応募総数6万余という数字をどう考えるかということもありそうです。
区名公募の時は応募ハガキを5万部配布して、実際の応募はその2割の約1万通でした。
今回は、市の広報と一緒に直接各世帯に計28万部を配布、
しかも切手不要で投函できるようにしたにもかかわらず、返ってきたのはやはり2割強でした。
これをもって市民の総意を表しているとは言いがたいかもしれませんが、
方角名が強く支持されたという結果は、事実として重く受け止めなければなりません。

さて、どんな結論が出るのか、とても興味深いところです。
[49527] 2006年 2月 28日(火)08:14:12【2】ぐりゅん さん
浜松市 区名候補の投票結果を発表
浜松市の区名五択の投票結果が発表されました。
 A区:中央区
 B区:南区
 C区:東区
 D区:浜北区
 E区:西区
 F区:北区
 G区:天竜区
公募の時には「浜名」「引佐」がトップだったE・F区も方角名という結果に。
F区の「北」と「引佐」が接戦だった他は、全て1位の候補が他を大きく引き離していたようです。
やはり、区名は「単純でわかりやすい」方がいい、ということなんでしょうか。
もっとも「南」はともかく、
「東」も「西」も「北」も、市内での位置関係を表すことにはなっていないのですが。

で、さっそくというか予想通りというか、A区の「中央」について、
再開発地区の町名でも揉めたばかりなのに、今度は区名にまで持っていくのかということで
ひと騒ぎ始まりそうです。
[49443] 2006年 2月 24日(金)23:58:35ぐりゅん さん
ツメが甘かったです
[49414] 星野彼方 さん
美章園
しまった、完全に見落としてました。
文の里については、阿倍野区の「区のあらまし」とは別のところで見つけたのですが、
公式ページにも載っていたのでそちらのリンクを挙げました。でも、他の町名まで確認してませんでした…


ロータリー(違)ネタ
高速のJCTが対象外というのはわかっているのですが、
ここは外せないと思います。
[49403] 2006年 2月 23日(木)00:09:30ぐりゅん さん
駅名由の地名(文の里)
見つけたので報告(笑)します。

大阪市阿倍野区文の里
参考: http://www.city.osaka.jp/abeno/outline/name_place.html

今の文の里駅(市営谷町線)ではなく、旧南海平野線の駅名由来です。
平野線開通当初は、田んぼの真ん中で駅すらなかったのですが、
近隣に学校が増えて「文ノ里」という駅を設置、
後年、町の名前としても文の里が採用されたそうです。
[49268] 2006年 2月 17日(金)17:50:22【1】ぐりゅん さん
大阪は「マチ」と読む?
ちゃんと全部追いかけるのはたいへんなので、ちょっと地下鉄の駅名から拾ってみました。

「マチ」と読む
本町、南森町、谷町、扇町、松屋町
「チョウ」と読む
大国町、昭和町、中崎町、弁天町、恵美須町

と、どちらも5駅ずつ、という結果になりました。

仮に半々でも、「チョウ」と読むところが多い東京と比べれば、やはり違いがあると言うことなんでしょうか。

追伸
マチの方は全部住居表示にも実在しますが、
チョウは、昭和町以外、少なくとも現在は「町」がつかないようです。
[49008] 2006年 2月 5日(日)22:39:08ぐりゅん さん
天龍川町 追記
[48975]の補足です。

「はままつ町名の由来」(神谷昌志著・静岡新聞社刊)によると、
和田村が浜松市に合併した際、この地域の大字名であった橋羽はそのまま市の大字となったが、
翌年天龍川町に名称を変えたそうです。その理由は
「天竜川駅のある町であり、世間的にも天竜川の名称の方が町の位置関係を示すにに適している」
と考えた、と記述されていました。

旧称の「橋羽」はかなり「伝統のある」名称だったようですが、文明の利器の威光の前にはかすんでしまったようです。
[48975] 2006年 2月 4日(土)17:28:41ぐりゅん さん
天竜川駅と天龍川町
[48925] YASU さん

[44611]にも書いておりますが、
天龍川町が、駅名から名付けられたと言うのは、間違いないと思います。

その根拠は、今は手元にないので申し訳ないのですが、
某ミニコミ誌にたまたま天龍川町の由来が載っていて、確か
浜松市編入にあたって、町名を決める際に、
域内に天龍川駅があるのでその駅名をもらって天龍川町とした
というように書いてあった憶えがあります。

時間があればちょっと図書館にでもいって、裏付けを探してみたいと思います。
[48576] 2006年 1月 21日(土)00:31:40ぐりゅん さん
いろいろ
[48547] 稚拙 さん
私も、5年ほど前の7月に知床五湖に行ったのですが、
やはりクマが出るとかで三湖から先は回れませんでした。
とても残念でしたが、それと同時に、さすが知床、観光客よりクマ優先、と感服した憶えがあります。

[48561] まがみ さん
茨木から万博記念公園方面へのバスは、確か10分ごとぐらいに出ていたと思います。
「最寄り」の解釈の違いかもしれませんが。
>> 万博つながりで、
大阪万博の時は、私はまだ幼稚園にも上がる前で、
そもそも何があるかもよくわからずに、ただ連れて行かれただけでした。
で、見たパビリオンの思い出というよりは、なんか怪しげな記憶しか残っていないのですが、
自分の意志で出かけた(万博じゃないですが)ポートピアとか大阪花博とかよりも
印象に残っているのがふしぎです。

[48558] ただけんさん
[48571] 愛比売命 さん
実は、鉄道&鉄馬の2足のわらじを履いていると、
行き先(距離)等で簡単にどっちで出動するか切り分けてしまったりします。
それに、所帯持ってしまうと動きづらくなりますし(笑)
もう20年近く乗り続けている1200cc車がこわれる前に、一度は北海道を走ってみたいのですが。
# 北海道の国鉄-JRは、全線乗ってしまったのでなおさら…
[48530] 2006年 1月 18日(水)23:34:47ぐりゅん さん
Re:市外局番(浜松地域について)
[48524] 逆太郎 さん
地元の新聞にも載っていましたが、静岡、浜松はそれぞれ来年2月、4月に導入予定ということで、
もう決定事項のような表現でした。(一応、末尾に「住民の意見を募る」との文言はありましたが。)

これは、天浜合併の協議会の時にも議題に上がったことがあって、
同じ市内で「市外」通話になるのもおかしいけど、053に統合すると基本料金が上がるから、
当面そのままでいいんじゃないというような結論だったと思います。

総務省が音頭取りということは、国策として同市内は同MAにしたいということ?
だとすると
> 天竜MA(0539)は旧豊岡村(現磐田市)のみが残される
の磐田市(0538)への統合を同時に謳わないのは、おかしいことになるのですが。
[48527] 2006年 1月 18日(水)23:03:28ぐりゅん さん
Re:世界の国からこんにちは
[48490] いっちゃん さん
[48521] 稲生 さん

40代駆け出し(笑)の思い出です。
地元大阪なので、特に盛り上がっていたのかもしれませんが、
姉の幼稚園のお遊戯でも、あの歌に合わせて踊っていました。

万博にも、もちろん連れて行ってもらいました。
太陽の塔の中が一番印象に残っていますが、その他は悲しいことに
「でっかい赤いソ連館の外観」とか「よくわからないけどスゴイ行列に並んだ」とか
どうでもいいことを断片的にしか覚えていません。


来場者6400万人って、当時と今の交通事情を考えるとなおさら、
よくこれだけの人が来たものですね。
[48496] 2006年 1月 18日(水)00:48:42ぐりゅん さん
私も最○端
私も紹介します。

最北端 宗谷岬(稚内市)
12月だったので、降り立った時他の観光客は、同じバスに乗っていた一人しかいませんでしたが、
宗谷岬の歌が高らかに流れていました。
ちなみに稚内駅より歩いてすぐ(嘘)のノシャップ岬には何度か訪れましたが、
水族館の開館シーズンに行ったことはありません。

最東端 納沙布岬(根室市)
でかいモニュメントには圧倒されますが、沖合に島影が見えると感慨深く、宗谷よりも「国境」を感じさせます。
根室駅からの道程には、地震による凹凸ができていました。

最南端 足摺岬(土佐清水市)
高松-中村の夜行鈍行からバスに乗り継いで訪問しました。

最西端 佐世保駅(佐世保市)
夜行鈍行「ながさき」に乗るために、青春18きっぷで深夜到着。
一応改札外まで行きましたが、「佐世保を歩いた」と言えるほどの記憶はありません。

最高端 富士山富士宮口六合目(富士宮市)
バイクのツーリングで新五合目まで行った時、話のタネにと六合目までメット抱えたまま往復しました。

最低端 吉岡海底駅 (松前郡福島町)
見学ルートを一回りする間、ずっと最前列で付いて回っていたせいか
係員の人から記念品買わんかとサシで声かけられたのが印象に残ってます。(もちろん楽しい思い出ですよ)
[48493] 2006年 1月 17日(火)23:48:06ぐりゅん さん
浜松の区名候補
YASUさん 稲生さん

ほぼデキレースだった市名公募の時よりは盛り上がるかと思っていたのですが、
区名公募も今回の五択も、世間話にさえほとんど出てきませんね。

そんな少数精鋭(?)の応募で選ばれた区名案でさえ、一番人気だったのは
旧浜松市の分割区(A~C区)は単なる方角地名、浜松以外の旧市・郡が入る区は、旧市・郡名そのままでした。
まぁ特に浜北など、旧自治体名の復活を意識していた人もいるにせよ、
大勢としては単純にわかりやすさを求めていて、「この地名でないと」と考えている人は少ないのかもしれません。
むしろ審議会の方が、方角地名は避けるべきとか言った人もいたとか、いろいろこだわりを持っていそうですね。
[47965] 2006年 1月 5日(木)02:36:14ぐりゅん さん
新年ごあいさつ&浜松市の区名
あけましておめでとうございます。
このところごぶさたしておりますが、本年もよろしくお願いします。

さて、すでに[47707] 稲生 さん が紹介されておりますように
年明けとともに浜松市の政令市化時の区名投票が実施されます。
私は[46489]に書きましたように、区名候補にも応募していたのですが、
こちらの五択にももちろん参加すべく、以下のように選んで投票するつもりです。
A区:浜松区 (曳馬区)
B区:南区 (中田島区)
C区:竜西区 (長上区)
D区:浜北区 (美薗区)
E区:浜名区
F区:引佐区
G区:秋葉区

()内は区名候補応募時の私の案です。
A区とC区は、私の投じた区名候補も選択肢に上がっていたのですが、浮気(笑)しました。
[46489] 2005年 11月 6日(日)00:27:39ぐりゅん さん
浜松の区名案
[46381] はやいち@大内裏 さん
[46382] YASU さん
[46406] futsunoおじ さん

A区を「中央」区とするのは、昨今のあれを見ていると
十分当たり障りがありそうな気がするのですが(笑)
「東」「南」と合わせ、もう一ひねりほしい、に賛成します。

まぁ、あんまり凝った名前にされても宛名書きが面倒になるだけなので
そこそこに抑えてはほしいですがね。

ちなみに私は、以下の案で応募しました。
A区:曳馬区(ひくま)
B区:中田島区(なかたじま)
C区:長上区(ながかみ)
D区:美薗区(みその)
E区:浜名区(はまな)
F区:引佐区(いなさ)
G区:秋葉区(あきば)
[45590] 2005年 10月 12日(水)01:43:40【1】ぐりゅん さん
占冠、汽車
[45582] Hokkaidian さん
占冠といえば、通ってる「汽車」が特急だけということで、一部の方面では有名ですね。
昔乗り鉄してた頃に、駅に降りたことはあります。

けっこう立派な駅でしたが、スキーシーズンだったのに、ありていに言えば閑散…
という印象でした。(ごめんなさい)
当時すでに、クルマで行く人の方が多かったのかもしれませんね。
まだニセコ等ほどメジャーではなかったとも思いますが。

私?、もちろん、当時健在だった富内線に乗るため、日高町行きバスに乗り換えました。(笑)


[45588] 般若堂そんぴん さん
北海道で電車が走っているのは、JRの
青函トンネルから函館まで、室蘭から千歳空港・札幌を経て旭川まで、札幌から小樽まで
と、函館市内、札幌市内の路面電車や地下鉄です。
占冠に行くのは最新鋭の特急もありますが、全てディーゼル車です。

それはともかく、
北海道では電車も含めて鉄道を汽車とよぶ
件について、
私が北海道に滞在(住んだことはありません、旅行のみですが)した中では
(大ざっぱに「いいひと。」の頃、およびそれ以前になりますが)、
確かに現地の人と話した時はそうだったように思います。
ただYHなどでは、「内地」からの客に合わせてか、「ディーゼルも含めて電車と呼ぶ」派も
少なくなかったと思います。
[45557] 2005年 10月 10日(月)08:58:42ぐりゅん さん
わかりました
[45548] 般若堂そんぴん さん
さっそくていねいなご返答ありがとうございます。

「日本は増大させようとする人口を支えるだけの力を持っていたか」
あるいは「日本が増大させようとした人口規模は日本が支えることのできるものであったか」
という問いに対しては,「否」と考えます(ぐりゅんさんの仰る「歴史観」とはさほど関連がないと思います).
私は、「曲がりなりにも」と表現しましたように、その時の力は十分ではなかったかもしれませんが、「持っていた」と考えます。
国に脅威が迫っていても、力がある規模に届いてなければ「その一歩」すら踏み出せないから、一方で、
「選択できる」と言える程の水準であったとは思えない
と明言できるのは、結果を見てしまったからではないか、と思うからです。

結局、「歴史観」を排除するつもりであっても、
過去の話題を語る時に、歴史に対する見方の違いを切り離すことはできないのですね。
私の浅はかな試みに、長々とおつきあいいただきありがとうございました。

また、オーナー様へ、オフトピでお騒がせして、申し訳ありませんでした。
[45546] 2005年 10月 10日(月)00:29:43ぐりゅん さん
スタンス
[45527] 般若堂そんぴん さん
先の私の発言で、一部、攻撃的な表現になってしまっていたことについては、おわびします。

部分を否定しただけで「それまでの連綿と続く歴史を全て否定する」と判断されてしまうのですね(絶望).
この話題の発端は「生めよ殖やせよ」のフレーズでした。
それが使われていた頃に限定すれば、日本はすでに国際的に孤立した状態になっていましたから、
裏付けとなる経済力は、「無理」をして取り繕ったものでしかないし、実際ほどなく破綻しました。(というか敗戦したのですが)

でも、日本は開国以来、キャッチフレーズこそいろいろありましたが、
欧州列強に潰されないために、ずっと勢力拡大(人口増を含む)路線をひた走ってきたはずです。

そこで、(何度もくり返しになりますが)
私は初めから(この手の話題でフレームの原因となる「歴史観の差」を排除したい目的もあって)
「最後の選択は最悪なものになったが、そうだとしても
『その選択をする(できる)ために、そこまで貯えてきた地力は評価すべき』ではないか。」
という意味の発言を続けておりましたが、これに対する回答はいただけておりません。

引用レスであっても、インターネット掲示板では一般的に回答の義務はありませんから、
触れたくない話題には、対応していただく必要はありません。
しかし対応されない以上は、私が把握しうる情報と印象で判断せざるを得ませんので、
その点についてはあしからずご了承いただきたいと思います。
[45521] 2005年 10月 9日(日)00:04:39ぐりゅん さん
一気に、脱力してしまいました。
[45495] 般若堂そんぴん さん
要するに、ご自分で「軍事力を背景とした勢力の拡大は、拡大とは認めない」と結論づけただけですね。

私は、始めに般若堂そんぴんさんが、進出の文字をかぎかっこ付で書かれていたのを見た時から
「そういう思想」の方なんだろうなとは思っておりました。
それで、歴史観の絡む議論はしないと釘を刺したのです。
特に近代日本の採った政策の功罪については諸説あるので、そこを言い合っても結論が出るとは思えない、
で、「何を買ったかはともかく、そのためのお金があったのかどうか」という面にしぼりたい、
とずっと主張していたつもりですが、
「オレ定義で言えばアウトだから」で片付けられるとは、正直、予想できない結末でした。


開国以降、列強の砲艦外交に翻弄され、不利な内容の和親条約や貿易契約を結ばされつつも
決してその軍門に下ることなく、国際協調路線を堅持(そうしないと滅ぼされていたでしょうが)して
着実に国力を高めていった、明治前半の努力は無視ですか。

次のステップを踏み出す時に軍拡路線(?)を選択したことが悪と思うなら、それはそれでかまいません。
しかしその時、さらなる協調路線を採ることも、選択肢としてあったのかもしれません。
つまり、少なくともこの時点においては、
対外侵攻に頼らずとも、国が進む方向を自力で選択できるだけの国力を得ていたわけです。

それを一歩間違えただけで、それまでの連綿と続く歴史を全て否定するのですね。

<チラシの裏>
いや、経済協調が最重要なのは当たり前じゃないか、
いくらそれまでの行いがよくても、一瞬でも武力に頼る選択をした時点で台無しだよ
などと「現在の価値観」できれいごとを並べる御仁は、きっと
昔も今も、「戦争」も外交戦略の一つである、とか
「当時は」武力侵攻による植民地政策は列強のトレンドだった(日本の開国もこれが原因ですね)、とかの
正論を言っても受け付けてはくれないのでしょうね。
</チラシの裏>
[45491] 2005年 10月 8日(土)00:13:32ぐりゅん さん
前提とは
[45463] 般若堂そんぴん さん
(おお,回文にしてフルハウス!)
ありがとうございます。Cool head, but warm heartですね。
かなりオフトピになってしまってますが、続けさせていただきます。

論旨を整理します。
まず私[45434]は、
戦前の日本が、当時の人口増加(ないし版図拡大)政策を許容しうる経済力を持っていたことを
「前提」(=当たり前に成り立っている)と表現しました。
それに対し、般若堂そんぴん さん[45443]は、
それは間違いであるとして、その根拠に「無謀な対外拡張政策を採ったこと」を挙げました。

で、それに対する私の反論[45454]は、
国外に新たな領土を求める政策を「選択肢に持てたこと」自体が、
国力(経済力を含む)が十分にあった証だ、というつもりだったのですが、
私の表現が稚拙で伝わらなかったでしょうか。
ロシア相手にその考えは甘いとか、ABCDで打撃を受けたのは資源がない証拠だとかは
私は、この話題には全く関係ないと思っています。


基本的に,耕地面積・居住面積が不足していると考えたからこそ,「満州」に「進出」,また南米等への移民を促進したのでは?
その通りだと思います。
しかしその当時、日本は貧困にあえいでいたのですか。違いますね。
# 念のためですが、「国の総体」で考えた場合であって、貧困層が存在しなかったという意味ではありませんよ。
それなりに活発な経済活動が行われ、国として成長・発展していたからこそ、
完全に飽和して大きな問題にいたる前に、領土を増やそうという選択肢を採ったわけです。
進出できるだけの力を持っていたから、そういう手が打てたのです。

出先を間違えたとか引き際を誤ったとか、突っ込みどころはいろいろあるでしょうが、
「能力を持っていたかどうか」と、それを「どう使ったか」「結果がどうなったか」は別問題です。
# もっとも当時の欧州の主要国(本国の面積は狭いですね)は、いずれもその戦略で植民地を拡大していましたから、
# 日本がそれに倣ったこと自体は、特におかしな判断ではないと思いますが。

現在の日本だって、本土の面積は大して変わりませんが、人口は当時より増えています。
持っている国力を、かつての「領土拡大」の代わりに例えば「貿易の振興」等に振り向けることによって、
本来のキャパ以上の人口を支えているわけです。
そして「金を出すだけ」と揶揄されつつも、一応大国のひとつとして、国際的に一目置かれる立場にあります。

その「国力」の中で「軍事力」こそがその「脅威」でしょう.
当時の日本は軍備の増強に傾倒しており、その軍事力は列強でさえも脅威と感じていた、ということですね。
では、それほどの軍事力を確保するためには、何が必要だと思いますか。
強力な武器・兵器を開発・装備し、練度の高い兵士を育成・訓練し、統率された組織体制を維持運営し…
そのための原資はどこから出てくると思いますか。
当時の国家予算や、そのうち軍につぎ込んだ割合など、調べる気もありませんが、
それでも少なくとも、特に通常の国民生活を混乱させることはなかったのですから、
十分な経済力を持っていた、以外の結論が出せますか。
[45454] 2005年 10月 6日(木)23:34:59【1】ぐりゅん さん
人口と活力
[45443] 般若堂そんぴん さん
その前提が確保できていなかったからこそ,無謀な対外「進出」が実行され,
対外進出し、領土の拡大を図ろうとすれば、
経済的にも人的(数だけでなく質も)にも莫大なコストがかかるであろうことは、
素人にもわかります。
ハンパな規模の国では、そんな政策は検討案にすらならないと思いますよ。

曲がりなりにも実行できるだけの国力が、当時の日本にはあったと考える方が自然です。

ABCD包囲陣により危機に陥ったのでは?
列強の進出に呑み込まれないために国力を貯え、後発ながら「勝ち組」に加わろうとしたところ、
古株連のイジメにあって、引っ込みがつかなくなったようなものですね。

日本の存在を脅威に感じたからこそ、よってたかって潰そうとしたんじゃないですか。


まぁ歴史観は人それぞれですので「議論」をしても始まらないですが、
 # そもそもここはそんな場ではありませんし
当時の日本が、国内の人口増を支える経済力を確保できていなかった、
という点については、上記の通り反論します。

住民増を政策の一つに掲げる(国はわかりませんが)自治体は、いくつもありますよね。
その目的はたいてい地域の活力向上のたぐいだと思いますが。
また、事実として、
人口は、国・地域・自治体等の活力を表す指標の一つとして、現在でも使用されていますよね。
[45434] 2005年 10月 6日(木)02:03:28ぐりゅん さん
Re:人口問題に関して
地理ネタと外れるので、触れたくなかったのですが。

[45412] 般若堂そんぴん さん
「戦後最大の政府の政策の失敗」と言うよりは,昭和前期の「生めよ殖やせよ」こそは「最大の失政」と思えるのです.
[45421] 2005 年 10 月 5 日 (水) 18:25:16 eiji_t さん
戦前の政策は軍事国家なら当然の政策だと思います。子どもを「小国民」と呼び、兵士の予備軍と考えていたからです。問題は軍事国家に突き進んだ事にあると思います。

戦前・戦中の日本のことを「軍事国家」と称しているのだとすれば、
もう一度歴史や社会の勉強をしなおすことをお勧めします。

それはさておき、
国の人口は、それを養える経済力を確保できる、という前提でなら、
文字通り「国勢」の重要な指標となります。
当時の白人中心の国際社会(現在でもそうですが)に対して、それなりの発言権を得るためには、
影響力を行使できる証を示すことが必要ですから、
国力の増強および誇示のために人口増を目指すことは、
軍備の増強(それも目的だったでしょうが)以外にも意義のあることです。
[45353] 2005年 10月 3日(月)01:18:45ぐりゅん さん
静岡の魅力?
10月2日付中日新聞に「しずおか日本一過去最多128項目」という記事が載っていました。
静岡県の魅力を多くの人に知ってもらおうという、県の取り組みの一つだそうで
代表的なものは記事でも紹介されていましたが、詳細は県ホームページ参照とのこと。
http://www.pref.shizuoka.jp/j-no1/index.htm

例えば、県単位での産品出荷額やら逆に消費量(支出額)というのは、
ある意味県勢の一面を表しているものに違いないのですが、
年間降水量やらどこぞに生えている樹木の幹回りが一番といわれても、
なんだかなぁという感じもします。(おもしろいですけどね)

一位以外の項目例では、スパゲティの年間購入量が28位に低下とか。
そういえば、餃子では静岡・浜松の2都市が宇都宮と争っていたはず。
県単位で見ればどうなんでしょう。
# リンク先には載っていないようですが。
[45213] 2005年 9月 28日(水)23:53:05ぐりゅん さん
国勢調査のこと
>> 二世帯暮らし さん
[45199]
> 誰が見ても私の家の出入り口は一つしかありませんから、二世帯住居用住宅でないことは明らかです。
[45152]
> それでも、訪れた調査員は「二世帯ですね」、私「はい、二世帯です」と二通の調査票を渡されました。

出入り口が一つしかなくても、調査員には家の中の間取りなど知るよしもありませんから
(玄関が共通でも、居住空間が独立していれば別世帯の扱いとなりますよね)
二世帯っぽければ、居住者に質問して確認するのは当然のことだと思います。
それに対して「おざなり」な返答をしておきながら、
(これは私の邪推ですが、 二世帯暮らし さんの記述からそのように感じられました)
真摯に対応した(めんどくさいから二世帯分渡しとけ、と思っただけかもしれませんが)
調査員をあげつらうのはいかがなものでしょうか。

[45194] inakanomozart さん ではないですが、
国勢調査の意義 自体に疑問を持っているわけでもなく、単に自分の気に入る気に入らないで、
協力しないばかりか、調査員の勘違い(その場で訂正できる程度)への対応までいちいち糾弾されるようでは、
この国の人は、こういう活動への熱意、あるいは地元(村町市県府道都-国)への愛着すら失ったのかと
暗澹たる気持ちになります。
[45072] 2005年 9月 22日(木)00:44:22ぐりゅん さん
店名
[45053] 般若堂そんぴん さん
[45069] matsu さん

どこにあるのかわからない支店名と言えば、
忘れちゃいけないのが「日本一」支店ですね。
# いや、逆の意味で思い切り特定できてしまいそうですが。

三井住友銀行は去年の店舗統合でなくなってしまったそうですが、
UFJ銀行は健在です。
[44761] 2005年 9月 7日(水)23:50:45ぐりゅん さん
取り急ぎお礼
[44684] 太白 さん
メンバー紹介文ありがとうございます。

私のハンドル名は、ドイツ語の「緑」からとっております。
残念ながら、こちらのオーナーさんとは関係ありません。
# これからはお世話になりますが…

それにしても、旅行献血が趣味(?)の方って、思いのほか多いんですね。
私も、意外とたくさんいるんだなぁ。と感心しております。
献血旅行もよくやってましたが、こちらの同好の士はいますかね。
[44660] 2005年 9月 4日(日)01:03:41ぐりゅん さん
西宮&中心街って…
[44617] 愛比売命 さん
[44624] らるふ さん
[44581] まがみさん
[44641] 小松原ラガー さん

私は、学生時代に阪急を使ってましたが、西宮北口は普段は通過するだけでしたし、
待ち合わせなら、残念ながら三宮か梅田が定番でしたので
単に大きめの乗換駅、程度のイメージしかありませんでした。

もっともそれは、まだ直角平面交差があった頃ですので、(改修前後、どちらも体験した世代です)
最近の、地元の方が日々感じられるイメージの方が、現実なんでしょうね。


[44650] 千本桜 さん
○○市の中心街へ行くことを、「○○へ行く」と言うことはよくあるような気がします。
何しろ、○○市内に住んでいても、中心集落名が「○○」でなくても使います。
中心街の近くに駅があるなら、その付近の代表名として駅名「○○」が使われているのかもしれません。

ところで、大阪市には中心街と呼べる地区がいくつか(梅田とか難波とか)あるのですが、
日常会話では、実際の目的地にかかわらず「大阪へ行く」と表現することが、よくあります。
また大阪の私鉄では、特に昔は顕著だったのですが、
列車の行き先を自社ターミナル駅名でなく、単に「大阪行き」と案内することも
普通に行われていました。
こちらから考えると、市域で区分して呼んでいるようにも思えます。

果たして、法則性は導き出せるのでしょうか…
[44611] 2005年 9月 2日(金)02:11:30【1】ぐりゅん さん
Re: 地名が駅名によって、変わっていく。
[44606] 牛山牛太郎 さん
確か「仙台」だって、後付けの佳称地名だったんですよね。
今回の「杜せきのした」にしても「美田園」にしても、
命名に当たって、政宗のエピソードのような壮大感があれば、また受け止め方が違っていたでしょうか…

ところで、駅名によって変わった地名、ですが、
浜松市天龍川町の名前の由来は、実は天竜川そのものではなく、天竜川駅です。
当時は、天竜川上流から船で運ばれてきた物資を鉄道に積みかえる拠点だったそうで、
まぁ駅の名前が一つのステータスだったんでしょうね。

※「杜せきのした」を端折って書いていたのを訂正しました。


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