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okiさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[76809]2010年11月18日
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[76729]2010年11月10日
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[76694]2010年11月7日
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[76678]2010年11月6日
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[76674]2010年11月6日
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[76668]2010年11月5日
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[76667]2010年11月5日
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[76662]2010年11月5日
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[76661]2010年11月5日
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[76637]2010年11月3日
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[76610]2010年11月3日
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[76601]2010年11月2日
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[76579]2010年11月1日
oki
[76574]2010年10月31日
oki
[76429]2010年10月23日
oki
[76422]2010年10月23日
oki
[74769]2010年4月8日
oki
[74636]2010年4月3日
oki
[74632]2010年4月3日
oki
[74627]2010年4月3日
oki

[76809] 2010年 11月 18日(木)18:12:09oki さん
町村制施行時の千葉県県令
むっくん さん宛ての業務連絡です。

居住地域周辺についての調べ物をしていて、千葉県(正確には千葉県立図書館)が明治8年~32年の県報をウェブ上に公開しているのを見つけました。
その中に、町村制施行時の県令がありました。明治22年3月分の県報のうち、35ページが該当部分です。
町村制の根拠が明治22年3月27日付県令19号、町村の廃置分合が同20号になると思います。具体的な配置分合の状況は38ページ以下に記載されています。

[75042] の「市制町村制施行時の府令県令(ver.4)」では、千葉県分は未発見になっていたので、とりあえずご報告しておきます。
[76729] 2010年 11月 10日(水)01:40:49【1】oki さん
あなうなぎ
[76725] hmtさん
[76724] おがちゃん さん
[76721] Issie さん

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

「妹(いも)」の原義は、男性の側から年齢の上下に関係なく姉妹を呼ぶ語で、英語のsisterと同じです。転じて、結婚相手や恋人を意味するようになっています。「いもうと」はhmtさんのご指摘通り「いもひと」が変化したもので、もともとは姉妹を意味していたものが、年下の妹だけに限定されていったようです。
「妹」の対義語が「兄(せ)」で、こちらも女性が兄弟を呼ぶ際に用いるのが原義で、夫や恋人に転じたと考えられます。「夫」、「背」の字も用います。
したがって、「妹兄(いもせ)」は兄妹、姉弟、あるいは兄弟姉妹の意に用いていたようですが、「妹背(いもせ)」となると、Issie さんの仰るとおり、もっぱら夫婦もしくはそれに準じる男女を意味します。

これだけなら良いのですが、歴史上のどこかで妹背の音に逆転が起こったようで、妹を「せ」と呼ぶ場合が生じています。備中国で発生した現象らしく、「妹尾」を「せのお」と読み(岡山市南区)また「妹(せ)」(倉敷市)もあります。倉敷市の「妹」は和名抄の「呉妹(くれせ)郷」の遺称地とされており(備中呉妹駅があります)、かなり早い段階で「いも」→「せ」の逆転が起こったようです(「背」を「いも」と読む例はないようですが)。これ以外に「妹」を「せ」と読む地名としては、北秋田市妹尾館(せおだて)があります。なぜ、備中から遠く離れた秋田の地に「妹(せ)」の音があるのかは不明です。
(「兄弟姉妹」コレクションで、「倉敷市妹山(いもうとやま)」とされているのは、「せやま」だろうと思います。)

さらに、これが日本語の摩訶不思議なところですが、「妹」は本来「いも」ですから、「妹尾」を「せのお」と読まない地名も当然存在します。私が確認しているのは、次の2つ。
和歌山県日高郡日高川町上初湯川妹尾(いもお)
鹿児島県薩摩川内市高城町妹尾(いものお)
よろしければ、地名コレクションに追加してください(読みは「地図閲覧サービス」のものなので、正しいという保証はありませんが)。

以下は四方赤良の狂歌
あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは

鰻→山の芋→妹→背→裂く→焦がすと繋ぐ、達意洒脱の芸です。

※書き込もうとしたら、Issie さんの[76727]が先にあったのですが、ま、いいかと。
[76694] 2010年 11月 7日(日)11:09:39oki さん
寒田 西寒田 西寒多
[76624] オーナー グリグリさん

臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田
読みが「ささむた」と面白いですね。これはもちろん採用なんですが、大分市寒田(そうだ)とは関連があるのでしょうか? 少し離れていて読みが違いますが偶然では片付けられない何かがありそうです。

面白そうなので調べてみたら、意外な事実を発見しました。
まず先に、臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町の西寒田について。
この地名は、1975年(明治8)に5つの近世村が合併してできた村名に由来しています。その5村とは、豊後国大野郡の寒田(そうだ)村、細口村、松原村、御霊園村、鍋田村の5つ。西寒田の村名は、寒田村にある西寒田(ささむた)神社に由来しています(西寒多神社とも表記する)。
市区町村変遷情報によれば、西寒田村は明治大合併で、鳥岳村、千塚村など大野郡の6村と一緒に戸上村を構成しました。戸上村は1955年(昭和30)に犬飼町、長谷村と新設合併して新たな犬飼町となりますが、1957年(昭和32)、一部が大野郡野津町に境界変更されます。地形図を見ると、野津町に編入されたのは元の御霊園村、鍋田村の部分のようです。
寒田、細口、松原は犬飼町に残り、結果として臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田の分断地名が生じました。これ自体はよくあることです。なお、地形図から判断すると、松原は松田という集落名になっているようです。また、寒田は地図上で松田の北北東にある神社記号(これが西寒田神社です)の周りにあったはずですが、地図上に集落名が記載されておらず、無住地になっているのかもしれません。

次に、グリグリさんが指摘された大分市寒田ですが、なんと、こちらにも西寒多神社があります(読みは「ささむた」で同じです)。おっしゃる通り、この二つは偶然では片付けられません。二つの地点を結びつける説があります。
豊後大野市の西寒田神社の社伝によると、ここは延喜式内社の大野郡西寒多神社であり、応永10年(1403)もしくは応永15年(1408)に豊後国守護大友親世が大分郡植田(わさだ)に分祀し、その地を寒田と名付けた(これが大分市寒田)、というものです。
この説が成り立てば、大分市の寒田は豊後大野市から移った地名と言えるのですが、実際には延喜式内社である西寒多神社は大野郡ではなく大分郡にあったというのが通説で、そうであれば、大分市寒田の西寒多神社の方が先にあったのかもしれません。こちらの社伝では、応神天皇9年(278)に西寒多山(神社の南にあり、現在は本宮山)上に創祀され、応永15年に大友親世が現在地に遷座した、ということになっています。
どちらの説が正しいかは分かりませんが、「応永15年に大友親世が現在地に遷座」という点では一致しています。また、神社そのものが古い歴史を持つことも確かで、「日本三代実録」には貞観11年(869)に、豊後国の西寒多神を従五位下に叙したという記事があります。
いずれにせよ、寒田というあまり見られない地名と、ほかには存在しない西寒多(田)神社とがセットで存在するわけで、豊後大野市の寒田(西寒田)と大分市の寒田が無関係なはずはない、と考えられます。

なお、西寒田神社を紹介したサイトで、所在地が臼杵市野津町西寒田神尾392となっていますが、おそらくこれは間違いで、西寒田神社は豊後大野市側にあるはずです。
[76678] 2010年 11月 6日(土)15:24:41oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾の二
[76674]の那珂市が既出のため、再答します。

問三:姫路市

[76677] maki さん
問三の那珂市は[76671]で今川焼さんが解答されています。

わざわざご指摘いただき、まことに有難うございます。
[76674] 2010年 11月 6日(土)10:24:58oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾
問三:那珂市

これも、準備はしてあるのに気付かなかった口
[76668] 2010年 11月 5日(金)22:23:51oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の玖
問九:西東京市

リストは準備しておいたのに
[76667] 2010年 11月 5日(金)21:19:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の捌
問六:阿波市

個人的には、これしかない、という回答です
[76662] 2010年 11月 5日(金)18:07:54oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の漆
連投失礼します

問五:日立市

江戸川区民としては、せめて第一ヒントで答えたかったところ
[76661] 2010年 11月 5日(金)17:19:25oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の陸
分かった問題から答えていこう

問一:別府市
[76637] 2010年 11月 3日(水)22:17:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の伍
とりあえず、最初に見つけた市で

問八:釜石市

案の定、問十を間違えたので完答権をなくしてしまった。
ま、その前にほかの問題も正答できるかどうか危ないわけだが。
[76610] 2010年 11月 3日(水)00:49:28oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆

問十:夕張市

これが最後の一つだと思うのですが、いまいち不安も


[76605] Issie さん
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。三木氏は1907年(明治40)の生まれなので、この発音を保持したのは明治生まれの世代までではないでしょうか。
一方、三木さんは「しぇんしぇい(先生)」という言い方もよくしていました。こちらはまだ生きていて、私でも使うことがありますね。「今回の十番勝負はじぇんじぇん分かりません」などと。
[76601] 2010年 11月 2日(火)22:30:51oki さん
自治体越地名 ブービー賞
香川県で2件発見しました。

観音寺市本大町/三豊市豊中町本山乙・本山甲
観音寺市本大(もとだい)町と三豊市豊中町本山乙は江戸時代の本大村(もとのおおむら)、本山甲は寺家村です。この地域は、中世には周辺を含めて本山庄に属しており、本大村は江戸時代初期に本山大村(もとやまおおむら)と呼ばれていました。
本大村は財田川の両岸に広がる村で、明治合併時に、川の右岸(東側)が寺家村と合併して本山村になり、左岸地域は吉岡村などとともに一谷村を構成しました。本山甲・乙は、本山村の2つの大字を甲・乙と名付けたのだと思います。本大町と本山乙はもともと本大村で「本」の字を共有するので、分断地名と考えていいと思います。本山甲まで含めるかどうかは、判断をお任せします。

丸亀市飯野町東分/綾歌郡宇多津町大字東分
江戸時代は鵜足郡東分村です。明治合併時に西分村、東二村とともに飯野村を構成しましたが、1955年(昭和30)に飯野村が丸亀市に編入された際、大字東分の一部が宇多津町に編入されました。さらに1959年に、宇多津町東分の一部が丸亀市に編入されています。

これで空白県は鳥取だけに。
[76579] 2010年 11月 1日(月)01:50:04oki さん
自治体越え地名の検討をお願いします
十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。

[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。

更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。

まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十

石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。

次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山

堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。

江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。
[76574] 2010年 10月 31日(日)23:57:38oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の参
誤答したくないので手堅く

問四:国分寺市

前回の回答から中5日。何をやっておるのやら
[76429] 2010年 10月 23日(土)21:34:40oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の弐
想定解数もチェックしたので、間違いないと思います。
四国が売り切れているので。

問七:淡路市

今回の目標は、できるだけ多く正答すること。
[76422] 2010年 10月 23日(土)19:35:14oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の壱
ご無沙汰しております。

問四:大垣市

小千谷市が?だったのですが、とりあえず自分を納得させました。
[74769] 2010年 4月 8日(木)01:50:43oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の伍
問二:小松市

今日は久しぶりに都心に行き、その車中で分りました。
2問ほど失敗したので、想定解を数えてから解答することにします。左にないと駄目、と理解したのですが・・・
これで、完答の権利は確保したはずですが、残り7問なんですよね。先は遠い

久しぶりに良い機嫌で電車に乗ったので、乗り過ごして本八幡まで行ってしまいました。タクシーで篠崎駅まで戻ったのですが、運転手さんに「もとはち」って言いますかと確認したら、「聞いたことがない」とのことでした。江戸川と荒川の間でのみ通用する略語ではないかという気もします。
[74636] 2010年 4月 3日(土)14:41:38oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の肆
問三:茂原市

想定解数が若干合わないのですが。
これも安全を見込んで。
[74632] 2010年 4月 3日(土)14:14:20oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の参
問九:四国中央市

お題には合う。非該当市も説明がつく。
ただ、想定解のリストアップが大変なので、安全そうなところで見切り発車。
[74627] 2010年 4月 3日(土)13:22:05oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の貳
問六:小松島市

想定解ピッタリ。


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