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okiさんの記事が20件見つかりました

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[72442] 2009年 10月 26日(月)08:43:20oki さん
第二十四回 十番勝負
アナグラムはすべて解けた、と思います。
想定数は確認していませんが、この市で答えたいので。
問一:阿南市
これでやっと5問。
先は長いか・・・
[72399] 2009年 10月 24日(土)22:18:11oki さん
第二十四回十番勝負
やっと4問目。
問八:総社市
[72388] 2009年 10月 24日(土)11:27:26oki さん
第二十四回十番勝負
想定解数が合っているので、これで良いと思います。
そう考えれば良かったのですか。
問七:旭川市
[72292] 2009年 10月 22日(木)01:43:11oki さん
第二十四回十番勝負
問二:鳴門市
想定解数の検証はしていないのですが、条件は満たしているので、とりあえず回答しておきます。自信はありません。
[72284] 2009年 10月 22日(木)00:33:32oki さん
全国の市十番勝負(第二十四回)の解答
う~ん。考えると分かるものなのですね。
問五:笠岡市
[72277] 2009年 10月 21日(水)23:54:55oki さん
第二十四回十番勝負
初めて、自力で分かったような気がするのですが。
これで良いのかどうか。
問十:徳島市
[72066] 2009年 9月 25日(金)17:21:06oki さん
石高変遷
[72052]で、ニジェガロージェッツ さん が平成19(2007)年の石高を掲載されていたので、ふと思い立って、幕末時から現在までの石高の変遷を都道府県別に計算してみました。

(単位は万石・%)
県名幕末石高07年石高(米)07年/幕末増減率
青森県40.7199.4389.9
岩手県47.6206.3333.4
宮城県77.2272252.3
秋田県50.7366.3622.5
山形県102.1279.7173.9
福島県125.8296.8135.9
茨城県114.5269.3135.2
栃木県76.5240.5214.4
群馬県63.660.0-5.7
埼玉県89.3116.830.8
千葉県96.2219.1127.8
東京都29.70.5-98.3
神奈川県39.010.7-72.6
新潟県128.3433.7238.0
富山県80.7141.074.7
石川県75.891.320.4
福井県77.293.921.6
山梨県31.119.9-36.0
長野県78.6149.690.3
岐阜県71.279.812.1
静岡県70.762.1-12.2
愛知県124.1106.7-14.0
三重県84.3104.223.6
滋賀県85.9117.136.3
京都府57.654.5-5.4
大阪府71.520.5-71.3
兵庫県122.8129.35.3
奈良県49.633.1-33.3
和歌山県40.824.9-39.0
鳥取県43.844.72.1
島根県48.664.232.1
岡山県80.8116.143.7
広島県62.892.447.1
山口県100.377.5-22.7
徳島県30.744.344.3
香川県29.349.468.6
愛媛県43.452.521.0
高知県49.441.4-16.2
福岡県140.9129.3-8.2
佐賀県44.994.4110.2
長崎県27.545.966.9
熊本県85.1140.264.7
大分県58.585.145.5
宮崎県39.152.133.2
鹿児島県60.877.126.8
上記計3151.15405.671.5
東北・新潟572.52054.2258.8
その他2578.63351.430.0
(※幕末の石高は、歴博の「旧高旧領取調帳データベース」を元に算定。北海道、沖縄は表に含めていない)

ニジェガロージェッツさんご提供の07年石高は水稲だけの収穫量ですが、幕末のデータは水田のほか畑作の石高等も含まれているので、本来であれば直接比較が不可能な数値です。したがって、あくまでもお遊びのデータということでご理解下さい。
お遊びのデータであることを前提として、あえて分析を加えれば、東北各県および新潟での石高の大きな増加が注目されます。幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加していますが、そのうち東北・新潟が約260%増(3.6倍)に対し、他の地域は3割増に過ぎません。明治以降、東北や新潟でいかに米の増産が図られたかを物語っています(もちろん北海道も)。
そういえば、思い浮かぶ米の品種も、ササニシキ、コシヒカリ、あきたこまち、そしてキララ397など、「北」のものばかりですし。西南日本から栽培の広がった米が、いつの間にか北日本を主産地にするようになっていたことを、改めて実感した次第。
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。私はもっぱら、妻の実家から送ってもらっている阿波米ですが。
[72024] 2009年 9月 21日(月)16:49:18oki さん
「阿土」か「阿佐」か
[72022] 88 さん
ですから、土佐の「佐」が土佐を代弁すると言うのは本来ありえません。「佐」は佐渡を示します。
阿佐海岸鉄道は、この歴史を踏まえていない名称のつけ方です。

歴史的に見れば88さんのご意見が正しいです。江戸時代、吉野川の高知藩領部分を「阿土」川とも称していたようですし。
一方、「四国循環鉄道阿土海岸線敷設促進に関する陳情書」と言うのが、少なくとも第16国会(1953年)、22回国会(1955年)に徳島県議会から出されており、「阿佐海岸」鉄道はもともと「阿土海岸」線と考えられていたようです。したがって、
[72023] Issie さん
既存の(とは言っても全然一般的ではない)「阿土」と差別化するためにあえてそうしたのか,それとも何も考えていないのか。
に関しては、敢えてそうしたのだろう、と考えられます。
なぜ「阿土」を「阿佐」に変えたのかはよく分かりませんが、この鉄道(の計画線)が室戸岬を境に東線・西線に分かれていたため、発音しにくい「阿土東線(あととうせん)」を避けて「阿佐東線(あさとうせん)」を選んだのかもしれません。

ただし、「阿土」、「阿佐」のどちらも、元徳島県民の私にとってさえ馴染みの薄い表現です。山脈内部に縦貫道路が何本も走っていて伝統的に往来の繁かった阿讃国境に対し、阿波・土佐両国の関係が非常に薄かったことが反映されているのでしょう(阿土山地は初めて目にしました)。

「備」は、備前・備中・備後のどれかに当てはめるよりは、この3国に分かれる以前の「吉備」と考えた方が自然ではないでしょうか。
そうなのかもしれませんが、現代の感覚では、「両備」というと岡山県内の備前・備中の意味で、広島県に属する備後とは少し距離があるのでは、と感じられるのですが。
また、美作は吉備が3国に分かれた後、さらに備前から分かれた国ですから、この考えに立つと「備作」という表現は成り立たない、ということにならないですか。
[72021] 2009年 9月 21日(月)13:03:20oki さん
Re:旧国名の組み合わせ地名・名称
[72010] オーナー グリグリ さん

あまり知られていなさそうなのを。

阿淡(阿波・淡路)・・・阿淡交通社
藩政期はともに蜂須賀氏の領国だったので頻用され、かつては阿淡汽船という定期航路もありましたが、今はあまり聞きません。

越佐(越後・佐渡)・・・越佐人物誌(書名)
これもあまり一般的ではない様子。

備作(備前/備中・美作)・・・備作山地県立自然公園
ほかに、県立備作高校、吉井川に架かる備作大橋というのもあります。自然公園は備中、高校・大橋は備前だと思います。

雲伯(出雲・伯耆)・・・雲伯方言
雲伯方言というのは、「砂の器」のあれですね。

「国」が現役であった江戸時代以前は、隣接(近接)する国同士であらゆる組合せの表現がなされたと思いますが、現役の地理名称でなくなってから1世紀が経つ現在、一般的に使用される組合せは限定されていると思います。上のようなグレーゾーンの組合せについて、どこまでを採用するかが問題になってくると思いますが。

ところで、以下は反則でしょうか?
両毛 両総 両丹 両備 両筑
[71997] 2009年 9月 19日(土)20:49:39oki さん
古代郷と昭和自治体 その2
[71947] 今川焼 さん
古代郷と昭和自治体 追加します

大量に追加いただき、誠に有難うございます。
私が確認したのが61件、今川焼さんのが66件。うーん、これほどまで見逃しが多かったとは。昭和合併期の自治体名を知らないことを自ら暴露したようなものですね。

このままでは申し訳ないので、私のと今川焼さんのと合計125件についての簡略な集計結果を以下に示します(125件の表はお目汚しなので省略。もしもお入り用の方がいらっしゃればメールでお送りします)。

  件数構成比(%)
合計125100.0
--------------
畿内97.2
東海道1814.4
東山道1713.6
北陸道21.6
山陰道2217.6
山陽道1814.4
南海道1814.4
西海道2116.8
--------------
東北43.2
関東129.6
中部1814.4
近畿2822.4
中国2620.8
四国1612.8
九州2116.8
--------------
2419.2
32.4
8971.2
97.2
--------------
存続5040
消滅7560
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
志木の場合は、本来新羅郡志楽郷で遺称地は現在の和光市白子地域、志木市は明治以降に「僭称」したものと判断しています【この種の考証をはじめると切りがないのですけどね】)

五畿七道で見ると分かりにくいのですが、現在の地方区分で見ると、近畿以西に偏っているのが明らかです。東国の場合、現在の比定地すら明らかでない古代郷が少なくありませんから、当然といえば当然の結果。
都道府県別で見ると、兵庫県12、島根県10、岡山県9がベスト3、旧国別では讃岐、出雲、土佐の3国が6郷ずつで同率首位です。
島根・出雲が非常に多いのが注目されるところ。四国、九州の多さが結構意外で、逆に北陸は予想より少ないですね。
町が7割を占めるのは、前にも触れたように、町が郷と同じように郡の一段下のレベルに位置する存在だからでしょうね。当然ながら、その半数以上が平成の大合併で消滅しています。
[71892] 2009年 9月 7日(月)03:38:15oki さん
古代郷と昭和自治体
[71891]で、富来について以下のように書いたので、このような事例がどのくらいあるのか、検証してみました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。

下表で道~郷は「和名類聚抄」に記載されている地名であり、郷名は9世紀初頭のものです。都道府県・市区町村は平成大合併前のもので、現在も存続する自治体名は「○」、合併で消えた名称には「×」を付しています。
古代の郷名が昭和合併期の自治体名として存続していると考えられる事例を取り上げていますが、富来のように古代~中世~近世~近現代を通じて現役地名だったとは限りません(そこまで検証していない)。また、郷名が国名・郡名と一致するものは除外しています。
和名類聚抄の底本は京大が所蔵する本居宣長旧蔵本ですが、ざっと見ただけなので、取り残しがまだあると思います(富来のように途中で地名が変わったものもあるはずです)。また誤解もあると考えますので、ご指摘いただければ幸いです。

No都道府県市区町村現存
1東山道陸奥宮城多賀宮城県多賀城市
2東山道出羽飽海遊佐山形県飽海郡遊佐町
3東海道常陸久慈大田茨城県常陸太田市
4東海道常陸行方麻生茨城県行方郡麻生町×
5東海道常陸行方板来茨城県行方郡潮来町×
6東山道下野都賀小山栃木県小山市
7東山道下野河内三川栃木県河内郡上三川町
8東山道下野芳賀氏家栃木県塩谷郡氏家町×
9東山道上野利根渭田群馬県沼田市
10東海道安房安房白浜千葉県安房郡白浜町×
11東海道武蔵多磨狛江東京都狛江市
12東海道相模高座寒川神奈川県高座郡寒川町
13北陸道能登羽咋荒木石川県羽咋郡富来町×
14東海道甲斐山梨石禾山梨県東八代郡石和町×
15東海道甲斐巨麻市川山梨県西八代郡市川大門町×
16東山道信濃更級麻績長野県東筑摩郡麻績村
17東山道美濃本巣穂積岐阜県本巣郡穂積町×
18東海道遠江敷智浜津静岡県浜松市
19東海道駿河廬原蒲原静岡県庵原郡蒲原町×
20東海道遠江蓁原相良静岡県榛原郡相良町×
21東海道参河碧海智立愛知県知立市
22東山道近江犬上甲良滋賀県犬上郡甲良町
23山陰道丹後与謝宮津京都府宮津市
24畿内山城綴喜田原京都府綴喜郡宇治田原町
25山陰道丹波天田夜久京都府天田郡夜久野町×
26畿内摂津八部長田兵庫県神戸市長田区
27山陽道播磨明石垂水兵庫県神戸市垂水区
28山陽道播磨美嚢吉川兵庫県美嚢郡吉川町×
29山陽道播磨多可加美兵庫県多可郡加美町×
30山陽道播磨多可黒田兵庫県多可郡黒田庄町×
31山陰道但馬美含竹野兵庫県城崎郡竹野町×
32山陰道但馬美含香住兵庫県城崎郡香住町×
33畿内大和城下三宅奈良県磯城郡三宅町
34畿内大和葛下當麻奈良県北葛城郡當麻町×
35南海道紀伊日高南部和歌山県日高郡南部町×
36山陰道因幡八上若桜鳥取県八頭郡若桜町
37山陰道石見美濃益田島根県益田市
38山陰道出雲能義安来島根県安来市
39山陰道出雲飯石三屋島根県飯石郡三刀屋町×
40山陰道石見邇摩湯泉島根県邇摩郡温泉津町×
41山陽道備中哲多新見岡山県新見市
42山陽道備中下道成羽岡山県川上郡成羽町×
43南海道阿波麻殖川島徳島県麻植郡川島町×
44南海道讃岐山田高松香川県高松市
45南海道讃岐三野詫間香川県三豊郡詫間町×
46南海道伊予宇和三間愛媛県北宇和郡三間町×
47南海道土佐安藝奈半高知県安芸郡奈半利町
48西海道豊前田河香春福岡県田川郡香春町
49西海道豊前京都刈田福岡県京都郡苅田町
50西海道肥前養父鳥栖佐賀県鳥栖市
51西海道肥前彼杵大村長崎県大村市
52西海道肥前松浦値嘉長崎県北松浦郡小値賀町
53西海道肥後球麻人吉熊本県人吉市
54西海道肥後葦北水俣熊本県水俣市
55西海道肥後飽田殖木熊本県鹿本郡植木町
56西海道豊後速見由布大分県大分郡湯布院町×
57西海道豊後大野緒方大分県大野郡緒方町×
58西海道大隅姶羅鹿屋鹿児島県鹿屋市
59西海道薩摩頴娃開聞鹿児島県揖宿郡開聞町×
60西海道日向諸県財部鹿児島県曽於郡財部町×
61西海道大隅姶羅串占鹿児島県肝属郡串良町×

全部で61件です。これが多いか少ないかは議論の余地がありますが、和名抄所載の郷名、昭和合併期の市町村数はともに3000を超えるので、その2%弱と言うことになります。統計学的には、5%水準で有意、つまり十分に珍しい事例と結論づけることが可能でしょう(有意性検定にあまり意味があるとは思いませんが)。
属性別に区分すると、市が17、区2、町41、村1です。町が圧倒的に多いですが、市レベルの地名は郡・国名を流用することが多かったからだろうと思います。
逆に言うと、昭和の大合併は、近世に7万以上あった「村」を古代の「郷」レベルに整理して3000強の自治体をつくったと考えられるかもしれません。

平成の大合併は、さらに郡レベル(全国で500~600)を目指し、最終的には「道」レベル、つまり道州制を志向するものなのでしょうか。
[71891] 2009年 9月 7日(月)02:40:34oki さん
富来の冠称に関する考察
今回の富来に関する議論の根源は、千本桜さんの次のような問題意識にあります。

[70836] 千本桜さん
富来地区、西海地区については、大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。
自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。
そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。

そもそもの発端は、EMM さんの
[70743] EMM さん
旧富来町のうちで「富来○○」となっているところがあり、そうなっている字名は「旧・旧富来町」だったところのみ。
しかもそれだけでなく、旧西海村だったところが合併に際してすべて「西海○○」になってます。・・・・・・・
千本桜さん的には特に「富来町○○」→「志賀町西海○○」は「きわめて喜ばしい事例」かも?
という書き込みですが、この記述自体、大河原町などでの「地名浸食」に対する千本桜さんの考えを理解しているからこそ、出てきたものだと思います。

以上の経緯と、これまで略述してきた富来の歴史を踏まえた上で、志賀町「富来」・「西海」という冠称についての私の「解釈」を以下に述べておきます。

千本桜さんは富来、西海について、昭和29年まで(明治合併期)の村名と見ておられるようで、これは現象的にはその通りですが、実際にはさらに深い意味があるだろうと思います。

まず「富来」に関してですが、この地名は、富木院の誕生からは約1000年、前身である荒木郷を含めれば1200年以上の歴史を持っています。古代・中世・近世を通じ、常に現役の地名であり続け、明治合併期に村名になり、昭和合併後も町名として生き残りました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。
したがって、志賀町との合併に伴って「富来」の地名が消失することは、この地名の歴史を知る地元の人たちにとって、耐え難い事態であったと想像されます。では、富来の地名を残すにはどうすればよいか。
「地頭町」だけを「志賀町富来」に変更することはできないでしょう(領家町が黙っていないし、地頭町の名前が消えることにも猛反対が起こるはず)。また、「地頭町」、「領家町」、「高田」を合併した上で「富来」を名乗ることもできない(それが可能であれば、とっくの昔、富来宿の存在した江戸時代にそうしたはずです)。つまり、ピンポイント地名としての「志賀町富来」をつくるのは無理だと言うことです。
であれば、冠称形式を選択せざるを得ません。歴史的ないきさつを勘案すれば、かつての富来院の地域に「富来」を冠称することも考えられますが、(昭和)富来町でありながら富来院ではなかった熊野地区の存在から、それは難しいでしょう。逆に、近世の富来宿であった「地頭町」、「領家町」、「高田」だけに「富来」をかぶせることもあり得ますが、八朔祭りに富来地区として参加している七海、生神、牛下を除外するのも妙な話です。
以上のように、近世以前と近代以降のさまざまな経緯が複合した結果、志賀町との合併に伴って「富来」の冠称を付す対象は、(明治)富来村の範囲にならざるを得ないだろうと、私は思います。

一方の西海ですが、おそらく、[70771] EMM さん にあるように、志賀原発の建設に際して最後まで強硬に反対した旧・西海漁協の影響が大きかったと思います。西海漁協の沿革を示すと次のようになります。

1912年(明治45)風戸、風無、千浦の各浦に漁業組合設立
1921年(大正10)3組合を統合して西海漁業組合設立
1949年(昭和24)西海漁業協同組合に改組
1954年(昭和24)富来町(昭和)誕生
1967年~1983年(昭和42~58)能登原発への反対運動
1993年(平成5)志賀原発1号機運転開始
2000年(平成12)石川とぎ漁協発足(西浦漁協との合併による改称)
2005年(平成17)富来町が志賀町に合併
2006年(平成18)石川県漁業協同組合とぎ支所発足
2007年(平成19)とぎ支所から西海支所に改称

注目されるのは二点です。一つは、西海漁協が「富来」に対するロイヤリティーをまったく持っていないであろうこと、もう一点は、EMM さんも言及された志賀原発との関係です。
まず「富来」との関係では、(昭和)富来町が誕生したのは1954年ですが、富来漁港を抱える西海漁協が「とぎ漁協」に改称したのは半世紀近くが経過した2000年で、しかも07年には「西海支所」に戻してしまっています。西海支所への復帰を報じる北国新聞の記事にあるように、水産物のブランドとして「富来」は無意味であり、「西海」を維持した方が有利と考えたのだと思います。
志賀原発との関係では、西海漁協は、原発建設に対して周辺漁協の中で最後まで組織的な抵抗を続けたようです。原発に対する賛否はひとまず置くとして、漁民にとって、原発事故に伴う風評被害はもっとも警戒すべき事象でしょう。原発の放射能漏れは真っ先に周辺の海を汚染し、その程度にかかわらず、周辺水産物の売行きに悪影響を及ぼすはずです。
西海地区の漁民にとって、原発の名称を「能登」から「志賀」へ封じ込めたにもかかわらず、合併によって「志賀」の地名を名乗るようになったのは誤算だったろうと思います。西海漁民にとって、富来は無視すれば良い存在ですが、志賀は積極的に消し去りたい地名のはずです。それができないので、せめて「西海」を冠称する。そうすれば、北国新聞の写真にもあるように、志賀を表面に出さずに、「西海」ブランドを押し出すことができます。「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、「西海」は現実的なブランド構築と風評被害の回避が大きな目的であったのではないか、と私は考えます。

根拠の乏しい推測が多すぎると思われるかもしれませんが、「富来」「西海」の2地区だけに冠称が付された原因は以上のようなことではないか、と考えています。少なくとも、この2地区の冠称について、明治合併村を基準にしたフォーマットから見て不揃いだから統一すべき、などと外部の人間が簡単に言うべきことではないと思います。
あまりにも当たり前の結論、と思われるかもしれませんが、「富来」に関する私の解釈は以上で終わりです。異論・反論・反証・論駁を期待したいところです。

最後に、千本桜さんにお伝えしたいこと。
千本桜さんの地名に対する愛着は十分に分かっていますし、「地名浸食」に対する憤りにも共感します。しかし、今回の件に関し、千本桜さんが事例として挙げたのはすべて東北地方のものです。対してEMMさんは、[70838]
能登の大字は基本的に1集落1大字、大字の単位=集落=祭礼の範囲…「八朔祭りの中心で、富来を叫べ」
と仰っています。東北の村の多くは1集落1大字ではないので、千本桜さんがあげた事例は、「富来宿」の存在を実証するためには無意味なのです。それが、EMMさんを苛立たせた大きな理由だろうと思います(もう一つは私が途中で割り込んだことでしょうが)。
以降で、東北(東国)の近世村と能登を含む西国(畿内近国)の近世村との相違について考察するつもりです。以前千本桜さんは、東北地方で、近世村の名称とその中に設置された宿駅の名称が違うことについて疑問を呈されていたと思いますが、その点に関しても検討するつもりですので、議論に参加いただければと思います。
[71851] 2009年 9月 3日(木)01:20:51oki さん
コンビニの出店・閉店数
[71845] みかちゅう さん
本当は、チェーンごとにこの1年で「新規オープンした店舗」と「撤退に追い込まれた店舗」の数を知りたいですね。新規オープンすら公式ホームページでは宣伝していないし、閉店なんて絶対に知らせたくないので、地道に調べるしかないですね…。

この種のデータは、各社のIR情報のページに掲載されています。当該企業に投資しようと考える場合、出店数・閉店数というのは重要な業績指標ですからね。
で、上位3社のデータから出店と閉店数の経年変化を整理したのが以下の表です。

  2004年2005年2006年2007年2008年2009年
セブンイレブン店舗数103031082611310117351203412298
 出店904891832816874 
 閉店381407407517610 
 純増523484425299264 
ローソン店舗数782180778366856485878674
 出店711717700452501 
 閉店455428502429414 
 純増2562891982387 
ファミリーマート店舗数599462846501669168917091
 出店606586520542550 
 閉店316369330342350 
 純増290217190200200 
【※店舗数は各年2月末、出店・閉店数は3~2月の1年間の数値
  ファミリーマートの店舗数は宮崎・鹿児島・沖縄・北海道を含まない
  資料出典はここ→セブンイレブン(P1)ローソン(P36)ファミリーマート(P3)

ここに見るように、上位3社とも毎年数百店の出店をしていますが、同時に少なくない数の閉店店舗があります。いわゆる「スクラップアンドビルド」を積極的に進めているわけです。
特にセブンイレブンはこのところ閉店が急増しており、それに伴って店舗数の純増が大きく減っています。逆にローソンは、閉店数はあまり変わらないものの、出店が減っているために同じく純増が急減という状況です。
コンビニ業界は、店舗数が飽和状態に達しているとの見方もあり、他社との競合だけでなく、自社店舗間の競合すら辞さないという地域も出てきています。
同業者を撤退に追い込み着々と自社の店舗数を増やしているのはどこのチェーンでしょう
どころではなく、業績の悪い店はどんどん潰し、売上と利益の見込める新店を血眼になって捜しているのが実態と言えるでしょう。


[71819] 今川焼 さん
[71738] YT さん
富来に関する情報提供、有り難うございます。さて、富来のまとめを書かなければ。
[71777] 2009年 8月 24日(月)01:43:31oki さん
富来の明治合併村と祭り
富来の明治合併村と祭り

また書き込みの間が開いてしまい、はるか昔(8/11)のことになりますが、まず御礼を。

[71594] [71596] なると金時 さん
新幹線が今止まってますよ。
運転再開したそうです。
情報提供有り難うございました。
現在、我が家ではテレビが映らない状態のため、この情報がなければ、東京駅へ行ってから右往左往するところでした。前日の地震に比べて揺れが小さかったため、新幹線が止まるなど想定外だったもので。
結局のところは、新幹線が2時間半遅れたため、予約していた高速バスには乗れなかったのですが、何とかその日のうちに帰郷することができました。感謝いたします。

さて、富来についてですが、[71678] でEMM さん から教えていただいた周辺の祭り情報と、近世村、近世郷庄、明治合併村の関係を以下のようにまとめてみました。

明治村近世村郷庄役場
富来村地頭町富木院八朔祭り
富来村領家町富木院八朔祭り
富来村高田富木院八朔祭り
富来村七海富木院八朔祭り
富来村生神熊野方郷八朔祭り
富来村牛下熊野方郷八朔祭り
東増穂村相神富木院八朔祭り
東増穂村八幡富木院八朔祭り
東増穂村里本江富木院八朔祭り
東増穂村給分富木院八朔祭り
東増穂村八幡座主富木院
東増穂村中泉富木院
東増穂村相坂富木院
東増穂村草江富木院
東増穂村大鳥居富木院
東増穂村中浜富木院中浜祭り
西増穂村酒見富木院酒見大祭
西増穂村稲敷富木院稲敷祭り
西増穂村栢木富木院栢木祭り
西増穂村大福寺富木院大福寺祭り
西海村風無藤掛郷西海祭り
西海村風戸藤掛郷西海祭り
西海村千浦藤掛郷西海祭り
西浦村鹿頭藤掛郷鹿頭祭り
西浦村赤崎藤掛郷赤崎祭り
西浦村前浜藤掛郷前浜神社
西浦村小窪藤掛郷
西浦村篠波藤掛郷
西浦村深谷藤掛郷
(※「-」は不明、「○」は明治合併村の町役場所在地です)

これから見ると、明治の富来村に合流した6村は、すべて八朔祭りに参加しています。東増穂村の村々も、多くが八朔祭りにキリコを出しているようです(祭りの状況が不明な村のうち八幡座主村はもともと八幡神社の神田で、中泉村、相坂村は神戸だったそうです)。
逆に西増穂村は、すべて八朔祭りとは別に個々の近世村単位で祭りを行なっていると考えられます。
一方、西海村に合流した3村(久喜は千浦の枝村だったと考えられます)は西海祭りをともに開催しているようですが、西浦村は西増穂村と同様、各村が個別に祭りを行なっていると見られます。

このような近世村(現在の大字)と祭りとの関係が、明治合併期以降に生じたか、それ以前からの慣行だったかは即断できません(富来地区とそれ以外で八朔祭りの開催日時が違っていた時期もあるようですし)。しかし、祭りの主体となる各神社は明治以前の創建でしょうから、江戸時代には神社(=祭り)と近世村(大字)との基本的な関係ができていた、と考えてもいいのではないかと思います。
同じ神社の祭りを共催する近世村は、日常生活の面でも密接な関係を持っていたと考えられます。その意味からすれば、この地域の明治合併村は、祭りの共催関係に象徴される相互間の関係の深さをもとに、合併の単位を決めていったと見ることができます。
ここで、富来院のうち八朔祭りに参加する村々が富来村と東増穂村に分かれたのは、前者が地頭町村などの町場、後者が農漁村だったからでしょう。熊野方郷に属していた生神、牛下両村が(明治)富来村に属したのは、外浦街道や渡海船などを通じて「富木宿」と密接な関係を持っていたためだと考えるのですが、両村が八朔祭りに参加していることからして、江戸時代にはすでに富来八幡の氏子であったのだと思います。
西増穂村になった4村は、ひょっとすると中世の酒見村の系譜を伝えるものかもしれません。
西海村と西浦村に関しては、歴史地名体系の千浦村の項に「風戸村から前浜村にいたる村々では刺網鯖漁が行われ、西海刺鯖として金沢表へ運ばれた(能登志徴)」とあるので、江戸時代にはかつての藤掛村全域が「西海」と呼ばれていたようです。位置関係から見て、西浦というのは西海のうちの西浦を意味するのではないかと思われます。また、西海村になった3村は現在西海祭りを共催していますが、風戸の松ヶ下神社、風無の西海神社、千浦の渡会社は、江戸時代にはすべて神明宮で、明治以降に改称しています。もともとは一つの神社で、集落の拡大分化とともに分祀されたのかもしれません(神明社は伊勢内宮の末社ですから、前に触れた富来御厨との関係も考えられますが、これだけでは何とも言えません)。

かなり時間がかかりましたが、私が分かる範囲での、「富来」の歴史を、古代~明治合併期にわたってまとめてみました。次回は、以上を踏まえた上で、[70743] でEMMさんが、[70753] で千本桜 さんが提起された、「富来」、「西海」の冠称に対する私の解釈を書き込みたいと思います。
また、お二人の間の行き違いについて、その背景として近世村の在り方に関する東国と西国の相違があるのではないか、との仮説を立てているので、引き続きその点についても投稿したいと考えています。

現在青森市におり、初めて自宅以外から書き込みしています。1週間ほど滞在する予定ですので、時間が取れれば三内丸山遺跡を見ておきたいと思っているところです。
[71593] 2009年 8月 11日(火)07:28:19oki さん
地頭町・領家町の歴史概(妄)説
前回から間が開きましたが、「広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係」について。
これを考えるためには、地頭町・領家町の歴史について押さえておく必要があると思います。

まず、地頭町・領家町という名称が、「下地中分」に由来することは間違いないと思います。(下地中分について、ここで詳しく説明する必要はないと思いますが、事例としては、有名な伯耆国東郷荘に関する説明を御覧下さい~歴史→中世→鎌倉・南北朝時代→東郷荘と辿っていくと下地中分についての記述が出てきます)。
富木地域での下地中分の実態を示す文書は発見されておらず、中分の対象となった荘園が富木院だったのかどうか、当事者である地頭(武士)や領家(公家・寺社)が誰だったか、時期はいつか、などについては一切不明です。
ただ、下地中分が盛んに行なわれたのは鎌倉中期(13世紀中葉)から南北朝末期(14世紀末)とされているので、この地でもその頃に実施されたのでしょう。また、建治年間(1275~77)以降、富来を名字とする武士が現われますから、その一族が地頭の任にあったのかもしれません。
いずれにせよ、下地中分に基づくものとすれば、地頭町・領家町はペアをなす地名と考えることができます。

次に各町についてですが、史料上、先に現われるのは領家町で、天正5年(1577)に「とき村領家町」とあるのが初出です。もちろん、文献に初めて現われたのがこの時だというだけで、もっと前から領家町が存在したことは確実でしょう。
地頭町はやや遅れ、慶長九年(1604)の史料に「富木之院地頭町」とあるのが初出のようです。が、こちらも、上記の事情から領家町と同様の16世紀後半、もしくはそれ以前から存在したのは間違いないでしょう。

ここで注目されるのは、史料初出時の戦国時代から、両者とも「町」と呼ばれていること。農業集落が町と呼ばれることはないでしょうから、地頭町、領家町とも、遅くとも16世紀後半の時点で、人家が密集するとともに、定期的な市が立つなど交易機能を持った場所であったと思います。江戸時代の初め、この地に外浦街道の宿駅が置かれたのも、もともとそこが交通の結節点であり、それを背景とした商業機能を有していたからだろう、と考えます。

また、もう一つ気になるのが、高田村に属する地域に、「高田遺跡」と呼ばれる弥生中期から室町期におよぶ複合遺跡が存在すること。弥生時代の土坑墓、古墳時代の祭祀遺構、奈良時代前期の鍛冶に関連する工房跡、平安時代に属する竪穴住居跡などが検出され、さらには鎌倉・室町時代の遺物として中国製陶磁器類や銅銭が発掘されたそうです。具体的な場所は統合前の富来小学校の敷地(富来高田2-41)で、富来川左岸に位置し、現在の地頭町・高田市街地の北側に隣接しています。

で、以下は推測です。
古代~中世のこの地域に、荒城郷、富木院などと呼ばれ、一定のまとまりを持った領域が存在したことは間違いありません。高田遺跡は、この領域の中心的な集落であったのではないか、そして、富来川の沖積平野が拡大するとともに、中心地がより下流部の地頭町、領家町に移っていったのではないか、と思うのです。
荒城郷=富木院の範囲が、西方海岸部の藤掛村、酒見川流域~富来川下流の富木七ヶ(富木村)、富来川上流の稗造庄、その東方に位置する鉈打村から成っていたとすれば、その中心となる場所は富来川河口部以外にありません。酒見川流域とは近く、富来川の流域は直接的な影響下に置ける。鉈打村とも、富来川支流の広地川の谷から盤谷峠を介した連絡が確保されている。河口部なので水運の拠点ともなる。これだけの条件を備えた場所が、地域の中心にならない方がおかしい。
さらに想像を逞しくすれば、荒木の遺称地が地頭町の南側にあることから考えて、荒木とは高田遺跡のことであり、荒木郷荒木里とでも呼ぶべき地であったのではないか。

何を言いたいかというと、荒木郷荒木里が富木院富木となり、それが地頭町・領家町に引き継がれた、つまり、江戸時代に富木宿(あえてこう言っておきます)が成立する以前から、富来川河口部の町場は「富木」と呼ばれていたのではないか、ということです。しかし、下地中分の区分線が富来川に引かれたため、富木院富木のうち川の左岸は地頭町と名乗り、右岸は領家町となった。地頭方、領家方の勢力がこの地域から消えた後も、両者間の対立意識は尾を引き、地頭町、領家町が一体となった富木町を名乗ることはついになく、外からは富木と呼ばれながら、内部では地頭町、領家町の区分が残った、このように想像するわけです。

もちろん、以上は史料的な裏付けがまったくない、単なる想像です。しかし、このように考えれば、江戸時代を通じて、一方では一体的な町場としての富木であり、他方では地頭町村、領家町村という別の村であった、という両者の関係がうまく説明できるような気がするのですが、いかがなものでしょうか。忌憚のないご批判を頂きたいと思っているところです。


今日から帰省するのですが、田舎でネットに繋げるかどうか分からないので、1週間くらい、追加の書き込みができないかもしれません。その間、富来の冠称について考えを巡らせたいと思います。

(追記)
書き込もうと思ったら、[71592] Issie さんの地震の記事を目にしました。これから新幹線で東海道を下り、高速バスで淡路を通って徳島まで帰省する予定なのですが、台風は来ているし、2日続けて東海地方を震源とする地震はあるし、無事に帰り着けるんやろか。
[71458] 2009年 8月 7日(金)01:18:21oki さん
富木(富来)の歴史概説
古代から戦国時代に至る、「富木」の歴史を概説しておきます。本来、EMMさんが原稿を用意されている部分だとも思いますが、とりあえず、調べたこととそれに基づく私の考えを書いておきますので、間違いがあればご指摘下さい。

「富木」に関する名称変化を時代順に一括すると次の通り。
奈良時代:荒城(荒木)郷
平安時代:富木院
戦国時代:富木村(富木七ヶ)

富木の歴史は古代の荒城郷に遡ります。和名類聚抄では荒木郷ですが(これは9世紀初頭と想定されます)、より古い形は荒城郷のようです。大日本古文書では天平勝宝2年(750)の記事に「越中國羽咋郡荒城郷」が記載されており、遅くとも8世紀には存在した地名と考えられます(東大史料編纂所データベースの正倉院文書の画像です。プラグインを入れないと見られないかもしれません)。
現在、地頭町の南に荒木隧道、荒木ヶ丘グラウンドゴルフ場などが確認されますが、この荒木が古代郷の遺称地とされています。

平安時代には富来院がありました。富来(富木)は荒木の「荒」を佳字である「富」に変えたものと考えられています。
資料上確認できるのは承久3年(1221)の「能登国田数注文」が最初ですが、富来院の成立は郷の解体後、院が置かれた11世紀初頭と推定されています(歴史地名大系による)。
「田数注文」の時点で、院から酒見村・藤懸村・釶打村が分立していることが確認されます(これらの範囲については後で触れます)。残った富木院は、資料上、南北朝期には京都の吉田社領であり、また伊勢神宮領の荘園を記載した「神鳳鈔」には貞治3年(1364)付けで「富来御厨」の記載があるようですが、いずれにせよ詳細は不明です。文明2年(1470)、総持寺文書に「富来院豊田西方町後百苅等」とあるのを最後に、所領としての「富来院」の名称は消えた、とのことです。

戦国時代には、大永六年(1526)の気多社年貢米銭納帳に「富来村七ヶ」が現われます。同様の表現として、「富木七箇・七ヶ庄」などもあったようです。そのほか、年次の明らかな資料として、天文10年(1541)の気多大宮司家文書に「富来地頭方百姓さた」、天正5年(1577)の同文書に「とき村領家町」などが確認されるということで、「富木村」の表示がかなり一般化していたと考えられます。
「と考えられます」というのは、歴史地名大系にそう書いてあるということで、自分で確認したわけではありません。申し訳ないので、「富来七ヶ」の事例を示しておきます(これもプラグインが必要かもしれません)。

さて、ここで問題は以上の富木院、富木村などがどの範囲を指すかですが、参考になるのが[71198]でも引用した三州志 図譜村籍(1819)です。この資料には、富木院26村のほか、先の能登国田数注文にも名が出た藤掛郷9村、釶打郷9村の名前が記されています。また、今回の議論に関係するものとして、稗造庄8村、熊野方郷15村も記載されています。以下に一覧表を示し、カッコ内には各村が属した明治合併村の名称も付記しておきます。

富木院26村:
地頭町、領家町、高田、七海(富来村)
東小室、広地、江添、大西、貝田、田中、和田、今田(稗造村)
八幡、八幡座主、給分、中泉、相坂、里本江、草江、大鳥居、相神、中浜(東増穂村)
酒見、稲敷、栢木、大福寺(西増穂村)
藤掛郷9村:
千浦、風無、風戸(西海村)
深谷、前浜、篠波、鹿頭、小窪、赤崎(西浦村)
釶打郷9村:
藤瀬、河内、西谷、鳥越、古江、大平、町屋、上畠、免田(釶打村)
稗造庄8村:
尊保、阿川、楚和、鵜野野、灯、入釜、地保、切留(稗造村)
 以上が、中世富木院(古代荒城郷)の範囲と考えられます

熊野方郷15村:
領家七海、生神、牛下(富来村)
三明、中畠、中山、町居、日用、草木、日下田、谷神、荒屋、豊後明(熊野村)
福浦(福浦村)
長田(上熊野村)

まず、能登国田数注文に記載された地名から片付けていくと、田数注文の藤懸村は藤掛郷9村で、明治大合併時の西海村、西浦村に対応する地域と見られます。釶打村は明治合併時に羽咋郡釶打村になった地域に該当するでしょう(現在は七尾市、平成合併前の鹿島郡中島町に属します)。酒見村は、当然酒見村(およびその周辺?)です。
ほかに富来川上流域を占める稗造庄があります。田数注文にはないので、それ以降に富木院から分立したと見られますが、この地域は天明六年(1786)に金沢藩領から幕府領に替地になったとのことで、富木院と別になっているのはそのためかもしれません。
戦国時代の富木村(富木七ヶ)は、上記の富木院、もしくはそれに稗造庄を加えた範囲と目されます。また、この富木村に藤掛郷、釶打郷を加えた範囲が平安時代の富木院で、おそらく、古代荒城郷の広がりに対応するものと考えられます。

一方、熊野方郷15村は、中世に「直海保(のうみほ)」と呼ばれていた地域の一部です。直海保は、熊野方郷と、その南に位置する旧志賀町の上熊野地区から成っていたと考えられていますが、資料上の初出が応永19年(1412)と遅く、富木院や荒城郷との関係はよく分かりません。直海保は福浦など海岸部を除いて神代川上流の米町川水系に属し、富来川・酒見川水系を主とする富木院等とは生活圏が異なると考えられるので、富木院=荒城郷には含まれなかったと思いますが、確証はありません。
ただし、[71408]でむっくんさんが触れられたように、「羽咋郡誌」には富木院、藤掛郷、釶打郷、稗造庄、熊野方郷を併せて「富木郷」と称するようになった、との記述があります。この記述が正しいとすれば、江戸時代前期には富木院などの中世以来の呼称がまだ残っており、後期にはそれが廃れて富木郷と呼ばれるようになったと思われます。

以上が、江戸時代以前の「富木」の概説です(一部江戸時代も含みますが)。富木院、富木村、富木郷など、同じような名称が出てきて、しかもその範囲が時代によって異なるのでややこしいと思いますが、ただ一つはっきりしているのは、これらの富木はすべて、[70838]でEMMさんが仰った「広域地名」だということです。江戸時代の、「地頭町および領家町から成る富木」というピンポイントの地名とは異なるものです。

[71198]
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。
と述べたことの背景説明が以上で、戦国期に広域地名としての「富木村」があったことは明かです。

で、私の役目はここまでで、後はお任せします、とはいかないですね。
次は、広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係について考察する必要が出てきますが、これは次回に。
最終的には、明治合併村との関係を経て、なぜ「富来」「西海」のみ冠称されているか、というそもそもの疑問に立ち返らなければならないのですが、結構道は遠そうです。


なお「羽咋郡誌」には、
「地頭町領家町は旧名は富木村といひ富木川ここに至りて海に入る」(31コマ
あるいはむっくんさんが引用されたように、
「富来は富来郷唯一の名邑なり市街は富来川を以て地頭町・領家町の二に分たれ元は二者を合せて富来駅と称へ又富来町村といへり」
など、地頭町、領家町を合わせた「富木村」ないしは「富来町村」があったかのような記述があります。しかし、後者はその典拠を示しておらず、前者の資料は「能登国田数目録解」のようですが、現物を目にしていないので、当否の判断ができません。ただし、[71224]で指摘したように、三州志来因概覧では「今富木村ナシ」と明記されていることから、少なくとも、金沢藩が認定した村としての「富木村」はなかったのではないか、と考えます。


あと、資料について。
むっくんさん、「羽咋郡誌」のご紹介有り難うございました。これは見逃していたので、参考になりました。
EMMさんが[71427]で引用された「越登賀三州誌」は、上記の「三州志」のことです。引用名称が不明確でしたね。これはデジタルライブラリーにありますが、本記、来因概覧、故墟考、本封叙次考、図譜村籍、沿革図伝からなる大冊で、ライブラリーでも6部立てになっており(1884年に出版された刊本です)、内容を確認するだけでも大変です。とりあえずは、上記で引用した来因概覧と図譜村籍の富木に関する部分だけで十分だと思います。
また、「富来町里本江および風戸に関するフィールドノート」のご紹介、有り難うございました。興味のあるところのみ拾い読みしている段階ですが、目を引いたのは、八朔祭りを行なう富来八幡神社がかつての富木院および稗造庄諸村の郷社であり、風戸を含む漁村部の藤掛郷の方は別の神社で個別の祭りをやっているらしいこと。「富来」の冠称との関係から言えば、熊野方郷に属しながら(明治)富来村に合流した生神、牛下両村が富来八幡神社を郷社としたのかどうかが気になるところですが。
[71256] 2009年 8月 2日(日)01:59:38oki さん
外では富木 内では地頭/領家
[71240] EMMさん
[71199]では大変失礼しました。
なんだか出鼻をくじかれた様な感じがして訳の分からない八つ当たりのような書き込みをしてしまいました。

とんでもありません。EMMさんが原稿の用意をしているのを分かっていながら、割り込む形で書き込んだわけですから、こちらこそ恐縮いたします。
私は気が向いたときに現われて、突然姿を消す不良メンバーで、メインイベントである十番勝負にもまったく参加しない人間ですから、気になさらないで下さい(十番勝負は、本当に、全然分からないのですよ。どうしたらあんな問題に解答できるのか、不思議でしょうがない)。
ただ、EMMさんと千本桜さんという、この掲示板の巨頭お二人の議論が、感情的なレベルになりかかっており、お二人の主張のどちらにも全面的には賛成できないので、私の集められる資料と、そこから推測できることを提示した、ということはあります。
富来に関しては、まだ書き込む予定ですので、それを含め、冷静な意見のやり取りができればいいと思っています。

時間が2時間ほどしかなかったので主に「富来院や富来郷など、富来が冠された広域地名の範囲」を書いた部分を見てきたのですが(これは別途まとめます)、江戸時代の辺りの記述中になぜか「商業集積地」としての地頭町・領家町の記述や、富木駅に関する記述が見あたらないのです。
この点に関しては、そもそも歴史地名大系に、地頭町や領家町単独の説明はあっても、両者を合わせた「富木」についての記述がまったくない、という点を含め、いささか疑問を抱いているところです。

少し参考になるかもしれない、と思う資料に、金沢大学文化人類学研究室の地頭町に関するフィールドノートがあります。
この中の「富来地区と地頭町の概要」には、富来川両岸に位置する地頭町、領家町、高田(の一部)が一体的な街区を形成し、旧富来町の中心的な商業地域であったことが記載されています。
その中でも地頭町は特別な存在で、周辺の農漁村に対する「町」であるだけでなく、領家町に対しても一段高い立場に自らを位置づけており、地頭町はダンナサマ、オヤッサマの町、領家町はシンタク(分家)の多いオッサマ(次・三男)の町、という階層意識があったようです。
今までに見た資料から得られる感覚では(感覚ですよ)、「富木」は外部向けの名称、もしくは外部からこの地域を見たときの地名という気がします(いちいち示していませんが、江戸時代や明治初期の全国・能登地域レベルの地図で、富来川河口に富木の地名を記したものがかなりあります)。一方、内部的には地頭町と領家町が厳然と区分されているのははっきりしています。金沢藩の村明細等もそうですし、郡区町村一覧以降の明治期の資料でも両者が別の村であるのは疑いがありません。

このような、外部向けの富木、内部での地頭町・領家町の峻別という事情の背景に、上記のような地頭町の特権意識があり、それが富来町史や歴史地名大系の記述に影響しているのではないか、という気もします(推測以前の想像ですね)。

以上の検証も含め、県立図書館での「富来駅年代記」などの成果を楽しみにしています、が、無理のない範囲でのご報告をお願いします。

次回は古代~戦国期の富木に関する概説を書き込む予定です。
[71225] 2009年 7月 31日(金)16:06:47oki さん
富木宿はあったか?
[71224]の続きです。

EMMさんがこだわっておられる「富木宿」について。
[71199] EMM さん
富来宿という言い方をどの程度されていたかというのは、わたしとしてはほとんど無いのではと思うのです。
それと、交通の面で富来のことを考える場合は(富来に置かれた宿駅の規模、宿と言えるまでに発達していたのか?等)は福浦との関係込みで考えた方が良いんじゃないかと思うのですが。

私が言いたいのは、[71198]であげた種々の資料から推測して、「地頭町、領家町から成る富木」が「富木宿」とも言われていた可能性がある、ということで、「富木宿と言われていた」と断言するつもりはありません。同時代の資料で「富木宿」という語を確認していませんから、断言はできないのです。
ただ、歴史地名大系の川尻村の項に、次のような記載があることは触れておきたいと思います。
「川尻宿は外浦街道一宮宿と富来宿の間にあり」

また、富木の規模については、先の資料に引用した「繁盛の地也」、「小繁華ノ地ナリ」などの形容から判断するしかありませんが、外浦街道という限定された地域内で見れば、それなりの中心性を有していたと思います。
富木と他の3つの宿駅の家数、人口は次の通りで(歴史地名大系に引用する天保年間の村明細の数値)、4つの中では富木、今浜が群を抜き、家数では富木がもっとも多かったようです。

 家数人口備考
富木2551135地頭町、領家町の合計
川尻43201
一宮179793一宮、一宮寺家の合計
今浜2131246

富木の宿駅機能と福浦とは、直接の関係はないと思います。富木が金沢藩の指定した宿駅であるのに対し、福浦は幕府が指定した西廻航路の寄港地だからです。富木は外浦街道という限定された地域における人馬(陸上)交通の小中心ですが、福浦は幕府米の回漕船や北前船が風待港とした、全国ネットワークにつながる海運の拠点で、両者の受け持つ役割はまったく違います。したがって、外浦街道の宿駅としての富木を考える場合、福浦との関係まで考慮する必要なないだろうと思います。

地頭町・領家町から南の外浦街道がどんなところだったか…と言うことも宿駅としての富来を考える上で重要なんじゃないかな、と思います。福浦・牛下・生神の集落は三方向「切り立った山」に囲まれてますし。
歴史地名大系に次のような記述があります。
「外浦街道は富来駅の南の荒木が最も難所で、風が荒く波が高い時は四~五町ほどが往来不能となり、越後の親不知に匹敵するともいわれた」
これから見ると、荒天時に荒木海岸のルートが途絶することはあったようです。しかし、全国幹線である東海道ですら大雨の際には通行止めになったのですから、その程度のことは織り込み済みだったのではないでしょうか。

近世の富木に関する考察は、とりあえず以上で終わりです。
[71199] EMM さん
私が思っていたのは、両地所では江戸時代やそれ以前の文献中に出てくる「富来村」「富木村」という記載は、「富来院」「富木院」のバリエーションだと判断されているのでは、と言うことです。
私の考えでは、戦国以前の「富木村」はEMMさんの仰る通り「富木院」のバリエーションです。しかし江戸時代(正保・天保郷帳)の「富木村」は、[71224]で述べたとおり「地頭町+領家町から成る富木」に引きずられた金沢藩の捏造もしくは勇み足だと思います。
次回は、戦国時代の「富木村」に至る富木の歴史を振り返ってみたいと思います。
[71224] 2009年 7月 31日(金)15:22:38oki さん
地頭町+領家町=富木≠富木村 その2
最初にお詫びとお礼を。
[71200] 88 さん
お名前(ニックネーム)欄に記入するのは、ニックネームではなく暗証コードです。
[71212] オーナー グリグリ さん
[71200]で、88さんがアドバイスされている通りです。[71198]の書き込みは自分色に修正しておきました。
88さん、アドバイス有り難うございます。長らく書き込みしていなかったので失念しておりました。
オーナー グリグリさん、誠に失礼いたしました。自分色への修正有り難うございます。今後は気をつけますので、よろしくお願いいたします。

で、本題の富来ですが。
[71199] EMM さん
「どういう形であれ、地頭町1集落(果たしてあそこを1集落と言っていいのかと言う問題はありますが)を指す形では富木村という表現はされていない」
この考えには全面的に賛成です。[71198]で私が提示した「富木」は、あくまで地頭町、領家町の総称で、おそらくは両村の連接する町場のみを指す語だと考えています。対して、「富木村」などというものは、江戸時代には存在しなかったと思います。

では、どうして正保郷帳や天保国絵図などに「富木村」が記載されているのか。この理由は、[70838][70940]でEMMさんが触れられた正保郷帳の作成過程にあるようです。
歴史地名大系の石川県の文献解題で、「加能越三ヶ国高辻帳原稿(正保郷帳)」に関し、金沢藩の集めた基礎資料から幕府に提出する郷帳を作成する際、「一定の加工」がなされたとの記述があります。ここでの議論に関係する分では次のようなものです。
「村高の小さな村を二または三ヵ村程度合せ、そのうちの一ヵ村に他の村高をすべて組込む加工」。その後の郷帳(元禄郷帳および天保郷帳)も、「これを基準に机上の操作を加えたもの」であったということです。
正保郷帳では、「富木村 領家町 町本江村」という記載がなされ、天保国絵図では「富木村」と「富木村之内領家町町村」が図示されていますが、これらは、以上のような加工・操作によって生まれたもので、EMMさんが仰るとおり、「前田家が作った亡霊」と言うべき存在です。
実際はどうだったかというと、歴史地名大系の記述では、寛文10年(1670)の「三箇国高物成帳(村御印)」、および天保年間(1830~44)の「村明細」に、地頭町村、領家町村が記載されていることが明記されています。
正保郷帳などは幕府に提出した、いわば外部向け文書、村御印や村明細は金沢藩の内部文書です。要するに二重帳簿を作成していたわけですが、両者の内容に差異がある場合、内部文書が正しいと見るのが当然です。したがって、この2村が別個の村として存在したことは明らかです(歴史地名大系の記述によれば、両村の間には対立もあったようです)。
なお、「富木村」が存在しなかったことに関しては、前述の三州志来因概覧(寛政11年)にも、「今富木村ナシ」と明記されています。

実際に存在したのが地頭町村、領家町村であったとして、次の問題は、なぜここに「富木村」なるものが出現するか、です。ここで、近隣で金沢藩の「加工」を受けたと考えられる村をいくつか見ると、次のようになっています(天保国絵図の記載です)。

・七海村/七海村之内領家七海村  ・小室村/小室村之内高田村
・八幡村/八幡村之内里本江村  ・鹿頭村/鹿頭村之内小窪村
・笹波村/笹波村之内前浜村

これらの例から分かるのは、金沢藩の「加工」によって親村の扱いを受けている村が、すべて実際の名で挙げられていることです。富木のように、存在しない村名を親村の名として「捏造」したものはありません。これは天保郷帳の基本的なフォーマットで、他の国についても、親村には実在する村の名が使われているはずです。
では、富木村だけが例外なのはなぜか。ここからは私の推測ですが、ごく単純に、「地頭町、領家町から成る富木」が存在したため、両者を合わせて捏造した村を「富木」と呼ぶのが自然だったからだろうと思います。天保郷帳のフォーマットに従うなら、ここは「地頭町村」と「地頭町村之内領家町村」とするのが普通です。あえてそうしなかったのは、「富木」という総称地名が存在したからだ、と考えます(あくまで推測ですが)。

長くなったので、いったん切ります。
[71198] 2009年 7月 30日(木)19:08:02oki[oki2] さん
地頭町+領家町=富木≠富木村
大変ご無沙汰しております。okiです。
久々に覗いてみたところ、付いていけそうな話題があったので、富来を巡る議論に参加させてください。
議論の流れから言って、EMMさんのご意見を伺ってから書くべきなのでしょうが、考えが若干異なるようなので、先に記述させてもらいます。

[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?

このご意見に対し、二点異論があります。私の考えは次の通りです。
1.富来は、歴史上広域地名であった時代が長いですが、江戸時代においては、富来川河口部の地頭町、領家町から成るピンポイントの「富木」という地名が存在したと考えます。この富木が「富木宿」と呼ばれることもあったと思います。
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。

まず1について、「地頭町、領家町から成る富木」に言及した、江戸時代中期~明治初期の資料を以下に列挙します。
(以下の資料において、引用部分の漢字はすべて現行字体としています。助詞や句読点は適当に補いました。富木、富来の地名が混在しますが、原資料の記述に従います。「」内が引用部分です)

能登名跡志 安永六年(1777)
平凡社の日本歴史地名大系にも引用されている、江戸中期の能登の地誌です。今浜、一宮、神代川尻などに続いて「富木」が立項されており、次のような記述で、「富木」が地頭町村、領家町村の惣名(総称)であることが記されています。
「富木とは此辺の惣名にして、邑は領家町村、地頭町村川隔て、家数五百軒斗有り。市場にして商家也。川の東は地頭町、川の西は領家町也。繁盛の地也」

日本東半部沿海地図(伊能小図) 文化元年(1804)
いわゆる伊能小図(東日本部分)の写しです。リンク図葉には、地頭町、領家を併記した上で、両者について「富木共曰(とも言う)」の書き込みがあります。

三州志 図譜村籍 文政二年(1819)
三州志は加越能三国に関する江戸後期の地誌です(これも歴史地名大系に引用されています)。その図譜村籍の中に、「富木院二十六村並垣内六処」として中世富木院に属した近世村が列挙されており、地頭町、領家町も含まれます。その末尾に次のような割注があり、地頭町、領家町、高田村からなる「富木」が存在したことが明らかです。
「地頭町、領家町、高田村。之ヲ合テ富木ト云」

能登めぐり 文久元年(1861)
能登の主な町や著名な景勝に関する画文集です。「富木」の風景画もあり、地頭町と領家町の間の富木川に橋が架かり、両者が一体化していることが分かります。他の他の図葉と比較すると、富木はかなり繁華な町と見られます。

第1回共武政表 明治8年(1875)
文献紹介は不要ですね。この中に「富木駅/高田村」で人口1709人という記述があります。明治14年(1881)の第4回共武政表には「富來(地頭町村・領家町村・高田村)」で人口1821人という記載があることから、「富木駅」が地頭町村・領家町村であることは確実です。

能登地誌略その1 明治11年(1878)
明治初期の能登の地誌です(同じ名称の文献があるので、その1としています)。富木が羽咋、子浦、今浜と同レベルの一つの「邑」であること、その富木の中に地頭町が存在することが示されています。
「富木、羽咋、子浦、今浜ノ四邑ハ、共ニ小繁華ノ地ナリ。富木ハ、商家多ク、近郷諸村ノ物産皆此地ヨリ輸出ス。」
「七尾警察署分署ハ、今浜、大念寺新村、富木(地頭町~実際は割注)・・・ニ在リ」

能登地誌略その2 明治11年(1878)
「富木邑ハ、郡ノ稍北ニアリ。地頭、領家、高田村ヲ合セ称ス。」
地頭町、領家町、高田村から成る「富木邑」が存在することが示されています。

以上の資料から、江戸時代に、地頭町、領家町(場合によっては高田村)から成る「富木」が存在したことは明らかだと思います。
江戸時代初期、地頭町には、今浜、一宮、川尻と並んで能登外浦街道の宿駅が置かれました。即物的には伝馬が常備されたわけですが、当然ながら、宿屋が集まり、商家が密集する町場が形成されていたはずです。「能登めぐり」から分かるように、地頭町、領家町は橋でつながって一体的な町場となり、それが「富木」と呼ばれたと考えられます。
一般的に言って、宿駅が「宿」と「呼ばれるのは当然です。傍証を挙げると、「能登めぐり」では今浜、一宮が「宿」と記載されており、富木を「宿」と呼んでもおかしくありません。また、第1回共武政表で「駅」とされた所の多くが、一般的には「宿」と呼ばれているのはご存じの通り。さらに言えば、平凡社の歴史地名大系の「富来八幡神社」の項で「地頭町・領家町などいわゆる富来宿」という記述もなされています。
したがって、「地頭町、領家町から成る富木」は、「富木宿」と呼ばれることもあっただろう、というのが私の考えです。

長くなったので、とりあえずここで切ります。
EMMさんは完答されたようですので、十番勝負の邪魔にはならないと思いますが。

(長いこと書き込みをしていなかったためか、okiで新規書込をすると「既に他の方が使用しています」という表示が出て書き込み不能になりました。仕方がないのでニックネームをoki2としています。ご了承下さい。)


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