古代から戦国時代に至る、「富木」の歴史を概説しておきます。本来、EMMさんが原稿を用意されている部分だとも思いますが、とりあえず、調べたこととそれに基づく私の考えを書いておきますので、間違いがあればご指摘下さい。
「富木」に関する名称変化を時代順に一括すると次の通り。
奈良時代:荒城(荒木)郷
平安時代:富木院
戦国時代:富木村(富木七ヶ)
富木の歴史は古代の荒城郷に遡ります。和名類聚抄では荒木郷ですが(これは9世紀初頭と想定されます)、より古い形は荒城郷のようです。大日本古文書では天平勝宝2年(750)の記事に「
越中國羽咋郡荒城郷」が記載されており、遅くとも8世紀には存在した地名と考えられます(東大史料編纂所データベースの正倉院文書の画像です。プラグインを入れないと見られないかもしれません)。
現在、地頭町の南に荒木隧道、荒木ヶ丘グラウンドゴルフ場などが確認されますが、この荒木が古代郷の遺称地とされています。
平安時代には富来院がありました。富来(富木)は荒木の「荒」を佳字である「富」に変えたものと考えられています。
資料上確認できるのは承久3年(1221)の「
能登国田数注文」が最初ですが、富来院の成立は郷の解体後、院が置かれた11世紀初頭と推定されています(歴史地名大系による)。
「田数注文」の時点で、院から酒見村・藤懸村・釶打村が分立していることが確認されます(これらの範囲については後で触れます)。残った富木院は、資料上、南北朝期には京都の吉田社領であり、また伊勢神宮領の荘園を記載した「神鳳鈔」には貞治3年(1364)付けで「富来御厨」の記載があるようですが、いずれにせよ詳細は不明です。文明2年(1470)、総持寺文書に「富来院豊田西方町後百苅等」とあるのを最後に、所領としての「富来院」の名称は消えた、とのことです。
戦国時代には、大永六年(1526)の気多社年貢米銭納帳に「富来村七ヶ」が現われます。同様の表現として、「富木七箇・七ヶ庄」などもあったようです。そのほか、年次の明らかな資料として、天文10年(1541)の気多大宮司家文書に「富来地頭方百姓さた」、天正5年(1577)の同文書に「とき村領家町」などが確認されるということで、「富木村」の表示がかなり一般化していたと考えられます。
「と考えられます」というのは、歴史地名大系にそう書いてあるということで、自分で確認したわけではありません。申し訳ないので、
「富来七ヶ」の事例を示しておきます(これもプラグインが必要かもしれません)。
さて、ここで問題は以上の富木院、富木村などがどの範囲を指すかですが、参考になるのが
[71198]でも引用した
三州志 図譜村籍(1819)です。この資料には、富木院26村のほか、先の能登国田数注文にも名が出た藤掛郷9村、釶打郷9村の名前が記されています。また、今回の議論に関係するものとして、稗造庄8村、熊野方郷15村も記載されています。以下に一覧表を示し、カッコ内には各村が属した明治合併村の名称も付記しておきます。
富木院26村:
地頭町、領家町、高田、七海(富来村)
東小室、広地、江添、大西、貝田、田中、和田、今田(稗造村)
八幡、八幡座主、給分、中泉、相坂、里本江、草江、大鳥居、相神、中浜(東増穂村)
酒見、稲敷、栢木、大福寺(西増穂村)
藤掛郷9村:
千浦、風無、風戸(西海村)
深谷、前浜、篠波、鹿頭、小窪、赤崎(西浦村)
釶打郷9村:
藤瀬、河内、西谷、鳥越、古江、大平、町屋、上畠、免田(釶打村)
稗造庄8村:
尊保、阿川、楚和、鵜野野、灯、入釜、地保、切留(稗造村)
以上が、中世富木院(古代荒城郷)の範囲と考えられます
熊野方郷15村:
領家七海、生神、牛下(富来村)
三明、中畠、中山、町居、日用、草木、日下田、谷神、荒屋、豊後明(熊野村)
福浦(福浦村)
長田(上熊野村)
まず、能登国田数注文に記載された地名から片付けていくと、田数注文の藤懸村は藤掛郷9村で、明治大合併時の西海村、西浦村に対応する地域と見られます。釶打村は明治合併時に羽咋郡釶打村になった地域に該当するでしょう(現在は七尾市、平成合併前の鹿島郡中島町に属します)。酒見村は、当然酒見村(およびその周辺?)です。
ほかに富来川上流域を占める稗造庄があります。田数注文にはないので、それ以降に富木院から分立したと見られますが、この地域は天明六年(1786)に金沢藩領から幕府領に替地になったとのことで、富木院と別になっているのはそのためかもしれません。
戦国時代の富木村(富木七ヶ)は、上記の富木院、もしくはそれに稗造庄を加えた範囲と目されます。また、この富木村に藤掛郷、釶打郷を加えた範囲が平安時代の富木院で、おそらく、古代荒城郷の広がりに対応するものと考えられます。
一方、熊野方郷15村は、中世に「直海保(のうみほ)」と呼ばれていた地域の一部です。直海保は、熊野方郷と、その南に位置する旧志賀町の上熊野地区から成っていたと考えられていますが、資料上の初出が応永19年(1412)と遅く、富木院や荒城郷との関係はよく分かりません。直海保は福浦など海岸部を除いて神代川上流の米町川水系に属し、富来川・酒見川水系を主とする富木院等とは生活圏が異なると考えられるので、富木院=荒城郷には含まれなかったと思いますが、確証はありません。
ただし、
[71408]でむっくんさんが触れられたように、「羽咋郡誌」には富木院、藤掛郷、釶打郷、稗造庄、熊野方郷を併せて「富木郷」と称するようになった、との記述があります。この記述が正しいとすれば、江戸時代前期には富木院などの中世以来の呼称がまだ残っており、後期にはそれが廃れて富木郷と呼ばれるようになったと思われます。
以上が、江戸時代以前の「富木」の概説です(一部江戸時代も含みますが)。富木院、富木村、富木郷など、同じような名称が出てきて、しかもその範囲が時代によって異なるのでややこしいと思いますが、ただ一つはっきりしているのは、これらの富木はすべて、
[70838]でEMMさんが仰った「広域地名」だということです。江戸時代の、「地頭町および領家町から成る富木」というピンポイントの地名とは異なるものです。
[71198]で
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。
と述べたことの背景説明が以上で、戦国期に広域地名としての「富木村」があったことは明かです。
で、私の役目はここまでで、後はお任せします、とはいかないですね。
次は、広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係について考察する必要が出てきますが、これは次回に。
最終的には、明治合併村との関係を経て、なぜ「富来」「西海」のみ冠称されているか、というそもそもの疑問に立ち返らなければならないのですが、結構道は遠そうです。
なお「羽咋郡誌」には、
「地頭町領家町は旧名は富木村といひ富木川ここに至りて海に入る」(31コマ)
あるいはむっくんさんが引用されたように、
「富来は富来郷唯一の名邑なり市街は富来川を以て地頭町・領家町の二に分たれ元は二者を合せて富来駅と称へ又富来町村といへり」
など、地頭町、領家町を合わせた「富木村」ないしは「富来町村」があったかのような記述があります。しかし、後者はその典拠を示しておらず、前者の資料は「能登国田数目録解」のようですが、現物を目にしていないので、当否の判断ができません。ただし、
[71224]で指摘したように、三州志来因概覧では「今富木村ナシ」と明記されていることから、少なくとも、金沢藩が認定した村としての「富木村」はなかったのではないか、と考えます。
あと、資料について。
むっくんさん、「羽咋郡誌」のご紹介有り難うございました。これは見逃していたので、参考になりました。
EMMさんが
[71427]で引用された「越登賀三州誌」は、上記の「三州志」のことです。引用名称が不明確でしたね。これはデジタルライブラリーにありますが、本記、来因概覧、故墟考、本封叙次考、図譜村籍、沿革図伝からなる大冊で、ライブラリーでも6部立てになっており(1884年に出版された刊本です)、内容を確認するだけでも大変です。とりあえずは、上記で引用した来因概覧と図譜村籍の富木に関する部分だけで十分だと思います。
また、「富来町里本江および風戸に関するフィールドノート」のご紹介、有り難うございました。興味のあるところのみ拾い読みしている段階ですが、目を引いたのは、八朔祭りを行なう富来八幡神社がかつての富木院および稗造庄諸村の郷社であり、風戸を含む漁村部の藤掛郷の方は別の神社で個別の祭りをやっているらしいこと。「富来」の冠称との関係から言えば、熊野方郷に属しながら(明治)富来村に合流した生神、牛下両村が富来八幡神社を郷社としたのかどうかが気になるところですが。