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[65120] 2008年 5月 14日(水)01:40:22oki さん
正距方位図法_その2
[65116] にまん さん
探しているのは「東京中心の正距方位」の地図です。国境と主要都市が記載されていて、A3~A4程度に印刷できるとベストです。

地図サイトではありませんが、PTOLEMYという地図ソフトがあります。
私自身はここのところ利用していないので、どの程度詳細な地図が描けるのか分かりかねるのですが、東京中心の正距方位地図の作成は可能です。
[65091] 2008年 5月 11日(日)22:58:42oki さん
明治初期の地図情報について
明治大合併期までの市区町村変遷に関し、文字資料としては近代データライブラリなどを参照できるようになっています(特に、むっくん さんの「[62863] 市制町村制施行時の府令県令(ver2)」には大変お世話になっています。これだけの資料を発掘していただいたことに感謝いたします)。
加えて、ネット上で明治初期の地図情報を公開するサイトも増えてきました。皆さん、あまり触れられることがないようなので、私の知っているものをご紹介しておくことにします。

1.関東地方
歴史的農業環境閲覧システム
明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」のうち、関東地方の分を閲覧できるようにしたサイトです。確認した限りでは、明治13~15年時点の地図のようです。明治前期の市区町村変遷に興味がなくとも、地図好きであれば見逃せないサイトだと思います。

2.大阪府(および隣接地域)
大阪市立図書館イメージ情報データベース 地形図をさがす
「2万分の1仮製地図」を選ぶと、明治10年代の地形図の閲覧が可能です。画面が小さくて見にくいですが、現在の地形図を参照しながら閲覧すれば、見たい地域に素早くたどり着けると思います。
ちなみに、このサイトで「妙見山」を見ると、[65062]でご報告した山下町/村が、明治18年測量時点で山下「町」となっていることを確認できます。

3.奈良県
奈良県立図書情報館 絵図展示ギャラリー 古地図・地図
「大和全国地図」、「大阪府奈良県管内細見全図」などが明治10年代の地図です。後者は奈良県が大阪府と一体であった時期のもので、大阪府管内の摂河泉3国と大和国が1枚の地図に描かれています。

4.徳島県
徳島県立図書館 デジタルライブラリ 所蔵絵図
「阿波国全図」が明治3年の地図です。ほかに、明治合併期直後のものと見られる「徳島県明細全図」があり、合併後の村とその中の大字との領域が分かります。

5.岡山県
デジタル岡山大百科 コレクション一覧 絵図・古地図
(「絵図・古地図」ページには直接飛べず、「コレクション一覧」へのリンクです)
「岡山県管内地図 岡山県管内図」が明治12年、「岡山県三国地図」が明治18年の地図です。両者を比較すると、大多府村は明治12年から18年の間に日生村から独立したようです。

以上のうち、1以外では、明治前期のほか江戸期の絵図や大合併期以降の古地図も閲覧可能なので、興味のある方はご覧下さい。
また、これら以外で、村レベルの位置確認が可能な明治前期の地図を閲覧できるサイトをご存じの方は、教えていただければと思います。
[65081] 2008年 5月 11日(日)18:05:34oki さん
メンバー登録のご報告
昨日、メンバー登録をいたしました。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

改めて自己紹介をしておきますと、出身地は徳島県阿南市、現住地は東京都江戸川区です。経県値の登録もしておきました。点数は167点で、こちらのメンバーでは平均的です。愛媛、島根、沖縄と3県も未踏県があるのが痛いところです。

現在、天保郷帳の藩政村から明治大合併期までの推移を調査・入力しているところですが、枝村まで対象にしており、独立・合併などのデータが整備されていないこともあってなかなか進んでいません。藩政村の地図上の位置も入力しているので、ある程度整理できれば、データをプロットしてGoogle Earthなどで閲覧可能にしたいと思っているのですが、いつになることやら。

とりあえず、今後ともおつきあいをお願いいたします。
[65062] 2008年 5月 11日(日)01:08:56oki さん
山下町/村
ご無沙汰しております。

[65038] 伊那谷さん
[65048] むっくん さん

山下町/村について、むっくん さんが挙げられた以外の資料を含め、江戸末期~明治合併期までの経緯を整理してみました。

No調査時点出版年資料名編著者山下?備考
1天保9.5天保国絵図江戸幕府笹部村之内山下町
2明治最初期不明旧高旧領取調帳明治政府なし
3明治13年明治14.3郡区町村一覧内務省地理局山下村
4明治14.1.1不明第4回共武政表陸軍省参謀本部山下町山下町・下財屋敷併せて105戸480人
5明治14年中明治18.8明治14年兵庫県統計概表兵庫県庶務課山下町
6明治16.12明治18.4地名索引内務省地理局山下町
7明治17.7?明治17.11兵庫県管内郡区町村名一覧福本虎蔵山下村調査時点は識語の時点。内容は郡区町村一覧の引き写しでは?
8明治19.1明治20.10地方行政区画便覧内務省地理局山下町
9明治22.4.1明22.5.14兵庫県市町村名称区域及役所役場位置福永惟精山下村/山下町調査時点は県令施行日
10明治22.4.1明22.11.13新旧対照市町村一覧和泉橋警察署山下村同上
11明治22.4.1明25.9.20兵庫県報類纂第2冊明治22年今井馬吉,山下三郎山下村同上

まず、山下という地域は、遅くとも天保期(1830~40年代)から「町」と呼ばれていたことが分かります。笹部村の枝村の扱いですが、国絵図では山下町の北側に古城跡が記され(今も城山があります)、町の北隣に下財屋敷(現在は下財町)の地名があることからすると、中世に国人土豪クラスの居館があって一定の商業機能を備え、それが近世に引き継がれたのかもしれません。ただ、資料4で明治14年の人口が山下町、下財屋敷併せて500人弱ですから、さほどの規模ではなかったと思われます。
次に、資料2では山下の名称が記載されていないので、幕末明治移行期はまだ笹部村の枝村であり、資料3の明治13年までに独立して山下「村」になったと考えられます。
それ以降、資料4~資料8(明治14~19年)は基本的に山下「町」であり、資料3、4の調査時点が正しいとすれば、明治13年中に町になったのでしょう。なお、資料7では「村」ですが、この資料は町村の配列が資料3(郡区町村一覧)と同一であり、後者を引き写したものではないかと思います(資料7の時点は巻頭の識語の執筆時で、実際の調査時点は記載されていません)。
以上であれば、江戸時代に農村の枝村として小さな町場であった地域が、明治に入って独立、その後町になった、というよくある話です。奇妙なのは、明治合併時の資料9~11で山下「村」となっている点です。特に9の場合、東谷村を構成する旧村名としては山下「村」なのに、東谷村の役場所在地としては山下「町」である、という摩訶不思議な記載になっています。

この説明として考えられるのは次の3点。
1.資料9、10、11で、単純に町を村と誤植した。
2.資料8(地方行政区画便覧)の調査時点である明治19年1月から、合併県令の公布された明治22年2月までの間に、町から村に変更された
3.県が認定する公式の自治体名は「村」であるが、地元では江戸時代以来「町」と呼ばれており、それを採用する資料があった

以上のうち、3は伊那谷さんの
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
と同じような考えですが、兵庫県や内務省の公式資料である5、6、8に山下「町」とあるので、ちょっと採用しがたい。
2は、まったくないとは言い切れませんが、いったん町になった自治体が村に戻った例を知らないので、考えにくいと思います(明治維新後、大合併期までに町から村になった例をご存じの方はご教授下さい)。
1については、資料9は町、村の両方が記載されているのでどちらかが誤記であることは明白ですし、10も下財屋敷を下財屋村と誤植していることから、ほかにも誤りがある可能性は高い。11は県庁に直接調査を依頼しているため信頼性はありますが、誤植がないとは言い切れません。

したがって、私としては、町を村と誤植した可能性がもっとも高いと考えますが(3つの資料が揃って誤植した、とするのは躊躇する面があるものの)、伊那谷さん、むっくんさん、いかがでしょうか。

ただ留意が必要なのは、どの資料にも誤記、誤植は必ずあるだろうということ。たとえば、「地方行政区画便覧」の巻末には2ページにわたって正誤表が記載されており、その中には漢字の間違いとともに町と村の誤記も多数見受けられます。このような誤りは他の資料にもあるはずで、何らかの疑問が生じた場合、可能な限り複数の資料を援用してその整合性から当否を判断するしかないと思います。と言っても、一つの資料が間違っていた場合(特に県や国の公的資料)、他の資料にも誤りが連鎖する場合があってなかなか難しいとは思いますが。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。
[64114] 2008年 3月 24日(月)03:19:11oki さん
高校数検証
[64050] EMM さん
少なくとも、七尾市に関しては何らかの注釈が必要だと思います。
また、ほかにも「移行期間中」の学校がある市がないかどうかの追加調査が必要なのではないでしょうか。

遅くなりましたが、追加調査の結果です(05年時点で高校数が7校以上の市に限定。「-」は不明です。表がちょっと複雑なので、きれいには整形されません)。

  旧市のみ   合併市町村を含む   
 2002年 2002年 2005年 2007年  
市町村高校数生徒数高校数生徒数高校数生徒数高校数生徒数備考
七尾市6185982331920946204109年4月から5校
高梁市5 -7 -814296177610年4月から5校
五所川原市6 -8 -8298582719   
福知山市6 -8 -8427084072   
天草市 - -834738291682638   
本庄市55237765697616975991   
栃木市6604466044760037587905年に1校開校
室蘭市7361973619733707309508年4月から6校

改めて調べて確認したのは、次の点です。
1.少子化に伴う高校の再編整備の行なわれている市があり、それに伴って高校数は減少する。今後減少を予定している市もある。
2.ただし、再編後の高校と閉校予定の高校は移行期間中に併存しており、閉校まで「瞬間風速」で高校数が増加することもあり得る。
3.逆に、平成の大合併の影響で、合併後の市の高校数は増加する。
4.生徒数が数10人程度の分校や定時制高校も1校に数えられており、高校の多さは必ずしも生徒数に連動しない。

以上の市のうち、高校の再編が行なわれているのは七尾市、高梁市、室蘭市で、前2市はすでに最高時より高校数が減少、室蘭市もその予定です(現時点で各市に存在する高校名と近年の再編経緯は、下の方に詳しく記載しています)。
また、七尾市と高梁市は瞬間風速で増加した事例で、七尾市はEMMさんご指摘の通り。高梁市も、高梁工業・成羽・川上農業の3校統合で高梁城南高校が誕生していますが、その開校時点である04年4月から3校閉校の06年3月まで、高校数が一時的に増えています。室蘭市は、室蘭東と室蘭商業が合併した室蘭東翔高が室蘭東の校舎に06年4月開校していますが、08年3月まで室蘭商業も存続し、見かけ上は高校数7校で変わっていません。
次に合併の影響では、上記のうち合併を経験していないのは栃木市と室蘭市のみ。他は合併で高校数が増加(水増し?)しています。天草市は、旧市そのものがないですから、合併による増加とは言えないでしょうが、合併前の最大自治体である本渡市の高校数は3校でした。

また、分校や定時制の高校も1校として数えられていますが、ほとんどの場合、その生徒数は少数です。たとえば、定時制の七尾城北高の生徒数は07年時点で45人、高梁市でも定時制である市立松山高・市立宇治高が2校合わせて55人、五所川原市の金木高校市浦分校(定時制でもある)が52人と言った具合。このような定時制高校・分校を、全日制と同列に置いて高校数を論じるのが妥当かどうか。

以上のような状況で、学校数が多いからといって、必ずしもその市の高校力(適当に作った言葉です)が高いとは限らず、生徒数等も加味して考える必要があると思います。

その中で異彩を放つというか、孤高を誇っているのが栃木市。8万人台の人口で、合併せずに高校が7校。生徒数は5879人で5991人の本庄市を少し下回りますが、本庄の7校のうち2校は旧児玉町所在ですから、旧市レベルでは栃木市の方が多い。しかも、他都市の多くで高校数が減少する中、05年4月の学悠館高校の開校で1校増えています。学悠館は定時制ですが、昼夜開講の単位制を取っており、07年の生徒数が661人と、全日制に引けを取りません。
何と言っても特筆されるのが、普通科の男子校である栃木高、女子校の栃木女子、実業科の栃木農業、栃木工業、栃木商業と、市名(ですよねこの場合)を冠した県立高が5校揃い踏みしていること。高校再編の進んだ現在、市名のついた県立の男女農工商高校が全部揃った都市などというのは、北関東や東北の県庁所在地レベルの都市でもなければ、滅多に見られないのでは([64054] 右左府さん によれば、能代市も以前はすべて揃っていたそうですが)。さすが元県庁所在地。人口10万人以下都市の「実質的な」高校力チャンピオンは栃木市で決定、というところですね。
[64047] いっちゃんさん
県南4市で人口最少となろうとも、栃木県南で揺るぎない「格」を備えているのが栃木市
と仰るとおりです。

ただし、その栃木市でも、02~07年の生徒数は6044人→5879人と減っています。07年の数字には学悠館の生徒数が加わっていますから、県立5校と國學院栃木の既存校では800人以上減少していることになります。栃木市といえども、少子化による生徒数減少の趨勢には抗し得ないということです。まして、他の市では大きく減っており、分かっている範囲では02~07年におおむね1割以上の減、天草市では1/4の減少です。学齢期人口は今後も減り続けますから、高校や生徒数も減少は確実。各都市の高校力は今後も衰えていくことが予想されます。寂しいことですが。

以下は、現時点で各市に存在する高校名と近年の再編経緯、および合併との関係。
-----------------------------------------------------
七尾市
公立全日制:七尾高校、七尾東雲高校(七尾工業・七尾商業・七尾農業の3高校を移行し、04年4月新規開校。3校の閉校は06年3月)、田鶴浜高校(旧田鶴浜町)、中島高校(09年3月七尾東雲高と統合して廃校予定。旧中島町)
公立定時制:七尾城北高校
私立高校 :鵬学園高校

高梁市
公立全日制:高梁高校、高梁城南高校高梁校地、高梁城南高校川上校地(高梁工業・成羽・川上農業の3高校が統合されて04年4月に高梁城南高校開校。ただし3校の閉校は06年3月。高梁校地は高梁工業の、川上校地は川上農業の校舎を引き継ぎ。川上校地は10年3月閉校予定。成羽は旧成羽町、川上農業は旧川上町所在)
公立定時制:市立松山高校、市立宇治高校
私立高校 :岡山県高梁日新高校

五所川原市
公立全日制:五所川原高校(定時制併設)、五所川原高校東校舎(分校)、金木高校(旧金木町)、五所川原農林高校、五所川原工業高校
公立定時制:金木高校市浦分校(旧市浦町)
私立高校 :五所川原第一高校、五所川原商業高校

福知山市
公立全日制:福知山高校、府立工業高校、大江高校(旧大江町)
公立定時制:福知山高校三和分校(旧三和町)
私立高校 :京都共栄学園高校、福知山成美高校、福知山女子高校、福知山淑徳高校

天草市
公立全日制:天草高校、苓明高校、天草工業高校(以上3校旧本渡市)、牛深高校(旧牛深市)、天草東高校(旧有明町)、倉岳高校(旧倉岳町)、天草高校西校(旧天草町。01年4月に、独立した天草西高校から天草高校の分校に移行)河浦高校(旧河浦町)
公立定時制:定時制のみの高校はなし
私立高校 :なし(通信制の勇志国際高校が本校を置くが、カウントせず)

本庄市
公立全日制:本庄高校、本庄北高校、児玉高校、児玉白楊高校(以上2校は旧児玉町)
公立定時制:なし
私立高校 :本庄第一高校、本庄東高校、早稲田大学本庄高等学院

栃木市
公立全日制:栃木高校、栃木女子高校、栃木農業高校、栃木工業高校、栃木商業高校
公立定時制:学悠館高校(05年4月開校)
私立高校 :國學院大學栃木高校

室蘭市
公立全日制:室蘭栄高校(定時制併設)、室蘭清水丘高校、室蘭工業高校(定時制併設)、室蘭東翔高校(室蘭東と室蘭商業が合併し、室蘭東の校舎に06年4月開校)、室蘭商業高校(08年3月閉校予定)
公立定時制:定時制のみの高校はなし
私立高校 :室蘭大谷高校、海星学院高校
--------------------------------------------
[64048] 2008年 3月 17日(月)01:48:25oki さん
七尾市の高校数
[64046] EMM さん
七尾市に現在有る高校は七尾高校・七尾東雲高校・田鶴浜高校・中島高校(以上県立全日制)・七尾城北高校(県立定時制)・鵬学園高校(私立)の6校となっております。
このうち、七尾東雲高校は2006年4月に七尾商業高校・七尾工業高校・七尾農業高校が統合されてできた高校です。
よって、2005年時点での七尾市内の高校は6-1+3=8校です。
鹿西高校(鹿島郡中能登町)を間違えて勘定してませんか?

表に示したのは05年学校基本調査の数値です。ただし、文部科学省の全国データでは市区町村レベルの数値がなく、全都道府県の統計を調べると時間がかかるので、統計局の「統計でみる市区町村のすがた2007」所載の全国市区町村別データを直接の引用元としています。したがって、各市に所在する高校をすべて調べ上げたわけではありません。
この調査の調査時点は毎年5月1日で、分校は1校と数える、全日制と定時制が併置されている場合は1つの学校と見なす、通信制のみの高校は含まない、という調査設計になっています。
で、改めて石川県の05年調査を確認したところ(PDFファイルの8ページ、別表7です)、七尾市の高校は公立全日制7、同定時制1、私立全日制1の計9校であったようです。EMMさんのあげられたのと比べると公立全日制が1校多くなっていますが、どちらが正しいのか、私には判断がつきません。また、中能登町には公立全日制高校が1校カウントされているので、鹿西高校が七尾市分に含まれていることもないと思います。
[64042] 2008年 3月 16日(日)16:55:46oki さん
表の訂正
今回はデータ出所が確かですから、間違いないはずです。
と言っておきながら、早速間違えてしまいました。[64032]今川焼さん ご指摘の室蘭市が抜けていたので、訂正しておきます。
また、福知山市の高校は7校とされていて、表の8校とは異なりますが、他の市と基準年を合わせるために、統計の数値のままにしてあります。05年以降に統廃合等があったのかもしれません。

市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
七尾市618719209465721106.2
高梁市387998142942635109.9
五所川原市621818298565487105.3
福知山市819778427088235107.6
天草市9647382916102339106.1
本庄市819577616983652102.1
栃木市823407600388095107.0
室蘭市9837273370111709113.6
富士吉田市525726242353348101.5
萩市579906157360708104.7
能代市628586287268755109.4
佐渡市673866194372249107.2
栗原市802486235882282102.5
中津川市84080625428347499.3
中津市843686303386644102.7
宇和島市894446289897234108.7
大和郡山市916726277296070104.8
米沢市9317864267102641110.2
大仙市933526264197471104.4
[64041] 2008年 3月 16日(日)16:33:54oki さん
人口に比べて高校の多い都市
[64032] 今川焼 さん
ところで、福知山市は他に府立高校が3校ありますが、このような人口8万人クラスの市で、7校も高校を擁する市って他にあるでしょうか。

調査結果です。

市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
七尾市618719209465721106.2
高梁市387998142942635109.9
五所川原市621818298565487105.3
福知山市819778427088235107.6
天草市9647382916102339106.1
本庄市819577616983652102.1
栃木市823407600388095107.0
富士吉田市525726242353348101.5
萩市579906157360708104.7
能代市628586287268755109.4
佐渡市673866194372249107.2
栗原市802486235882282102.5
中津川市84080625428347499.3
中津市843686303386644102.7
宇和島市894446289897234108.7
大和郡山市916726277296070104.8
米沢市9317864267102641110.2
大仙市933526264197471104.4
<参考>
市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
高槻市3518269772429556584.0
川口市4800798679838954581.1
所沢市3361007565127007280.4
八尾市2734876475725739994.1
 ※資料:人口=05年国勢調査 高校数=05年学校基本調査

今回はデータ出所が確かですから、間違いないはずです。
人口が少なくて高校数が多いということは、中心性はあるものの、その及ぼす範囲の狭い都市ということです。また、歴史はあるものの現在は衰退傾向を示す、という予想も成り立ちます。その手の都市は、昼夜間人口比が高くなるはずと思って一緒に調べてみました。
予想通り、江戸時代に城下町や陣屋所在地だった都市が多く、ほかも門前町、宿場町、在郷町など。昼夜間比も、中津川市を除いて100%を超えています。
逆に、人口が多いのに高校数が少ないのは大都市圏のベッドタウンですね。
[63996] 2008年 3月 12日(水)21:23:58oki さん
筑紫野市武藏
[63981]千本桜さん
どうして二日市の武蔵でもないのに、山口の立明寺に「むさしケ丘」なる団地ができちゃったんですか
[63990] 中島悟 さん
考えられるのは
 1.この辺一帯が広く武蔵と呼ばれていた。
 2.武蔵に近いからと、公社の担当者が適当に決めた。

武蔵は江戸時代の武蔵村で、その由来は大字武蔵に鎮座する椿花山武蔵寺(ぶぞうじ)のようです。武蔵寺は、現存するものでは九州最古の寺院だそうで、創建者である虎丸長者にちなむ縁起絵図もあります。Wikipediaによれば、武蔵台高校も武蔵村や武蔵寺にちなんで命名されたようです。
武蔵寺については、蘇我臣日向身刺(そがのおみひむかむさし)なる人物も関連しています。中大兄皇子の頃の政治家で、同族である蘇我倉山田石川麻呂を中大兄に讒言し、族滅させたものの、根拠のないことを知った皇子が後悔して身刺を大宰師に左遷したとのこと。その後、身刺は孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺」を建立しましたが、この般若寺は筑紫野市に遺跡のある塔原廃寺で、それが再興されたのが現在の武蔵寺、という説もあるようです

いずれにせよ、武蔵もしくは武蔵寺は、現地周辺ではそれなりにネームバリューのある名称のようで、「むさしケ丘」団地の命名起源はそれに因むものでしょう。
ちなみに、筑紫野市やその周辺は新興住宅地に「○○丘」、「○○台」を付けるのが大好ききなようで、市内にちくし台団地、ちくしヶ丘団地のほか、美しが丘南・北、光が丘、桜台、太宰府市に長浦台、青葉台、大野城市のつつじヶ丘、緑ヶ丘、南ヶ丘、旭ヶ丘、紫台、平野台、宮野台など、どこかで見たような新興地名が目白押しです。

このうち、ちくし台団地、ちくしヶ丘団地は筑紫野市筑紫に位置し、筑紫の名称は延喜式内社の筑紫神社に由来するようです。「むさしケ丘」は、ちくしヶ丘のペアとして発想されたのかもしれません(どちらが先に建設されたのか確認していないので単なる想像ですが)。
[63922] 2008年 3月 4日(火)02:07:40oki さん
訂正してお詫び申し上げます
[63914] 千本桜 さん  宮城県の人口最小町

宮城県の人口最小町の欄に福島県岩瀬郡鏡石町が記載されているのが気になりました。

改めて元の資料を点検したところ、岩瀬郡が宮城県に含まれることになっていたのでした。おまけに、岩瀬郡だけでなく、安達郡、安積郡、北會津郡、南會津郡、大沼郡、河沼郡、耶麻郡、西白河郡、東白川郡、石川郡という多数の郡が宮城県に属しているではありませんか。さらに言うと、鏡石はこの時点で町ではなく村であり、町に昇格したのははるか後世の1962年のようです。
重ね重ねのミスをしてしまい、まことに申し訳ありません。宮城県の人口最小町は栗原郡岩ヶ崎町に訂正します。また、上記の次第で宮城、福島両県の関連データが大きく狂っているので、その部分をお示ししておきます。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村
宮城縣5648203233177栗原郡岩ヶ崎町2930桃生郡深谷村9379-6449
福島縣7378212430293磐城郡四倉町2776安達郡小濱村4962-2186

もともとこの資料は、人口などの数値そのものに疑問な点がかなりあり、原資料から入力する際にタイプミスしたのだと思うのですが、数値以外にも明かな間違いがあることが分かりました。したがって、[63912]に示した表はあくまで参考程度のものとしてお考え下さい。
元の資料は筑波大学空間情報科学分野の村山祐司先生が提供されているものなのですが、おそらく学生に入力させて、読み合わせもしていないのでしょう。しかし、他人の入力したものをチェックもせずに使用したのは私なので、責任は私にあります。やはりデータの正確性をきちんと確かめることが第一ですね。反省しております。

ついで、といっては何ですが、[63668]で触れられた「賀」美石村の件、
[63761] 88 さん
では「加」美石村と結論づけられていますが、新たな資料を発見しました。
[62863] むっくん さん が発掘してくださった「現行宮城県布令全書」に、県令第8号として、明治22年3月31日付の合併後宮城県市町村一覧表があり、その中では「賀」美石村と明記されています(111丁です)
したがって、誕生時には「賀」美石村であった、と考えるほかありません。賀美石という村名は、同村谷地森にある延喜式内社の賀美石神社に由来するものと想定され、賀美石小学校、賀美石郵便局が存在することも、この見方を裏付けます。また、現在の加美町のHPでも、賀美石村と明記されています。
一方で、88 さんが1954.7.1付けの新設合併告示で確認されているのですから、消滅時に「加」美石村とであったことも確かでしょう。
もちろん、途中で改称したということでもないと思います。にもかかわらず、誕生時と消滅時で、県や総理府の公式文書に記載されている名称が異なる、という事態が生じているわけです。
ここからは推測ですが、賀茂と加茂に見られるように、地名で「賀」と「加」の混用は一般的で、それもほとんど一方的に「賀→加」の変化が起こっています。「賀」と「加」が同音で、「加」の方が字形が簡単、しかも「賀」の一部分として「加」が含まれているという事情によると思います。さらに賀美石村の場合、賀美郡であった郡名が、村の誕生時には加美郡に変化していました。
以上の事情が作用して、本来「賀」美石であったものの、「加」美石と書かれるのが普通になり、消滅時には、公式にも「加」美石が使用されていたのではないか、と思われます。あくまで推測ですので、間違っているかもしれませんが。

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[63918] 伊那谷 さん
以上の事情なので、ご提供した資料は参考程度のものとしてご理解下さい。

また、明治大合併期後の町について補足しておくと、[63912]の記述では町になったのが合併前から町を称していた自治体だけのようにも取られますが、もう一つ、大きな供給源として旧城下町があったと思います。
大合併期に市になったのはたかだか40程度で、大半が表高20万石以上の大藩の城下です。それ以外に藩は200以上あり、小規模な陣屋を除いても、100以上の城とその城下町が存在しました。その多くは町になったはずです。この場合、自治体としての町の構成要素として、旧城下内の複数の町が含まれたと思います(字としての町、というべきでしょうか)。

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[63916] hmt さん
現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書の正しいリンク先を教えていただければ幸いです。

JPEG2000で閲覧しているので、その該当ページのURLを貼り付けたのですが、それでは正しいページにリンクしないようです。お手数を取らせて済みませんでした。今後はページを明記するようにします。
字とは何か、という問題に対する参考にもなるか、と思ってこの部分を引用しておいたのですが、はるか昔に言及されていたのですね。さすがhmt さん、敬服いたします。
浜名港の件は私も気がついていたのですが、長文になりすぎたのと、浜名港に新居宿以外の村が含まれるか否か、については何も語られていないので割愛したのでした。

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上記を書き込もうとしたら、
[63919] EMM さん Re:町と村 その他(石川県関係)
のご指摘がありました。やはりほかにも間違いがありましたか。
おそらく、他の府県でも間違っている部分があると思いますので、[63912]で示した表は、全面的に撤回します。改めて信用できる(原典を確認できる)データをもとに、正しいものを作り直したいと思います。
といっても、万単位のデータを入力するには相当な時間がかかるので、いつになるか分かりませんが(そもそも、本来やるつもりであった藩政村から明治合併期までの村の推移を明らかにする作業がほとんど進んでいないもので)。

とりあえず、寝ることにします。
[63912] 2008年 3月 3日(月)02:04:30oki さん
町と村 その他
[63737] 伊那谷 さん
[63862] 88 さん

いずれにせよ、結果としても(法律である)(旧)町村制では町と村の別は人口では区別していなかったようです。法律M44施行の(新)町村制でも同様に規定は見つかりません。内務省令や内務省告示などに何らかの規定があるのだとは推測しますが詳細は不明です。

ご存じだと思いますが、M21(1888)法律第1号市制町村制には、「市制町村制理由」という付属文書があり、その中に町村(および市)に対する明治政府の認識を示した部分があります。町と村の関係について、もっとも肝要な部分を示すと次のようになります(新漢字に直し、濁点、句読点を補ってあります)。

「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ、本邦現今ノ状況ヲ察シ旧来ノ慣習ニ依リテ之ヲ考フルニ、都会輻輳ノ地ヲ除クノ外、宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。」

持って回ったくだくだしい表現ですが、要するに、町と村は「人民生計ノ情態」を異にするものの、「都会輻輳ノ地」と対比した場合町村間の相違は小さく、「施政ノ大体」では異同が認められないので、町村制という同一の制度を適用する(一方、都会輻輳ノ地である市には市制という別の制度を適用する)、ということです。
当時の政府は、市と町村とは別の存在と認識していたが、取り立てて町と村を区別する必要性を認めていなかったようです。
ただ町と村は「人民生計ノ情態」が異なるわけで、具体的にはどう違うのでしょう。「現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書によると、町と村は次のように定義されています。

一 郡ト称スルモノハ国中ノ区分ニシテ村町ヲ轄スルモノナリ
一 村ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ字ヲ轄シ農民ノ部落ヲナスモノナリ
一 町ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ商民ノ市街ヲナスモノナリ。字ヲ轄スルコト村ニ同ジ
一 字ト称スルモノハ村町中ノ区分ニシテ数十百筆ノ地ヲ轄スルモノナリ

町は人家の密集した市街地で商業活動の盛んなところ、対して村は農村地域、というのが「人民生計ノ情態」の具体的な有様ということで、ごく常識的な考え方でしょう。
一方、町村制はその第3条で、「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」と規定しています。従来の区域を存する以上、名称もそのままにするのが当然でしょうから、結局のところ、町村制施行時までに「商民ノ市街ヲナ」して町であったところはそのまま町であり、村であった自治体は村の名称を継続した、ということになります。
実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
この場合、町と村の別を人口で区別するという発想は基本的になかった、と考えられます。

以上ではあまりに当たり前すぎて詰まらないので、町村制施行直後の町と村の人口を示すデータをご呈示しておきます。府県毎の町と村の平均人口と、人口が最小の町と人口最大の村との一覧です。資料出所は以前ご紹介した明治24年の徴発物件一覧表で、明治22年の町村制施行から2年後ですが、大きくは変わってないはずです(資料の制約から九州北部の4県分が欠損しています。鹿児島県も少しおかしいようですが、そのままにしてあります。北海道と沖縄は含んでいません)。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村の差
青森縣922552856165三戸郡三戸町4045上北郡野邊地村7001-2956
岩手縣4364202597205氣仙郡盛町1728膽澤郡金ヶ崎村5177-3449
宮城縣6551302808325岩瀬郡鏡石町2758桃生郡深谷村9379-6621
秋田縣6511142665213雄勝郡岩崎町1536北秋田郡阿仁銅山村8641-7105
山形縣8056112906210飽海郡松嶺町2711西村山郡谷地村8843-6132
福島縣6070112560145磐城郡四倉町2776行方郡小高村4391-1615
茨城縣4355442574351那珂郡大宮町1614西葛飾郡五霞村7019-5405
栃木縣7572233623128安蘇郡堀米町2447足利郡北郷村8781-6334
群馬縣5312373165168西群馬郡伊香保町1051山田郡韮川村9374-8323
埼玉縣4823362696324北埼玉郡騎西町2325榛澤郡藤澤村5056-2731
千葉縣5502453054295香取郡滑川町2106海上郡高神村6781-4675
東京府76519283796南葛飾郡新宿町1324荏原郡大森村9767-8443
神奈川縣7320183079205鎌倉郡藤澤大富町1742久良岐郡戸太村10519-8777
新潟縣5285471896736刈羽郡椎谷町1069北蒲原郡新發田本村7327-6258
富山縣5482302128237砺波郡福岡町1772砺波郡平村5466-3694
石川縣5489142275259珠洲郡飯田町2139江沼郡大聖寺村9692-7553
福井縣832793034157今立郡鯖江町2958今立郡上池田村8035-5077
山梨縣2248142南巨摩郡増保村10206
長野縣8824152762369小縣郡長久保新町1060諏訪郡上諏訪村9034-7974
岐阜縣4687242383151可児郡兼山町1291大野郡大名田村8002-6711
静岡縣6128272998272引佐郡金指町1086有渡郡長田村10353-9267
愛知縣6222231943576知多郡高横須賀町1321碧海郡北大濱村5767-4446
三重縣7963182456309度會郡大湊町2118答志郡磯部村5407-3289
滋賀縣1291563210189神崎郡八日市町3823有渡郡豐田村6913-3090
京都府5496152008264船井郡園部町2219宇治郡山科村7052-4833
大阪府5311112542297茨田郡守口町1370西成郡難波村26405-25035
兵庫縣6818292818506有馬郡湯山町1824多可郡中村6796-4972
奈良縣6468123038137宇陀郡松山町1936吉野郡十津川村10419-8483
和歌山縣882022469227西牟婁郡田邊町7199有田郡湯淺村11455-4256
鳥取縣165929邑美郡富桑村3513
島根縣4304111926319周吉郡西郷東町664迩摩郡明治村4967-4303
岡山縣702932260446東南條郡津山東町3617小田郡笠岡村8591-4974
広島縣6371142984357豐田郡御手洗町1590安藝郡仁保島村15060-13470
山口縣1143643952192玖珂郡柳井津町4139都濃郡徳山村12113-7974
徳島縣1285424402137美馬郡脇町7177勝浦郡小松島村12617-5440
香川縣1093853325176多度郡多度津町6699豐田郡大野原村8958-2259
愛媛縣5159122947284温泉郡道後湯之町1267西宇和郡伊方村6735-5468
高知縣285322793194長岡郡後免町835香美郡槙山村6859-6024
熊本縣3855252842300阿蘇郡高森町1722葦北郡水俣村12725-11003
宮崎縣55605410895南那珂郡油津町2514西諸縣郡小林村10796-8282
鹿児島縣974027谿山郡谷山村25060
全国計6001668266910214周吉郡西郷東町664西成郡難波村26405-25741

ご覧のように、平均人口で比べれば村より町の方がよほど大きくなっていますが、個々の町村で見ると、すべての府県で、人口最小の町より人口最大の村の方が多数の人口を抱えています。人口最小町については、それなりの歴史と拠点性を有し、人口はさほど多くないにしても、この時点で町であっておかしくないところが多いと思います。この状況では、単純に人口基準で町村を区分することができなかったのも無理はないでしょう。

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なお、ついでなので、「市制町村制理由」に則って、町村と明確に区別された市についての明治政府の考え方を、次にご紹介しておきます。
・「都会輻輳の地」は、町村と「人情風俗を異にし、経済上自ずから差別がある」ために別に市制を適用する。
・市は基本的に区を継承するものであるが、市制によって明確に郡から分離するとともに、従来区内の町(旧城下内の町)が独立した自治体であったのを改めて、市を最下級の自治体とする(これによって、旧城下内の町が市の内部的な区分=字に戻った、と言えます)。
・市制の施行対象は、3府のほか、人口25,000人以上の市街地とする(従来の区以外も市制の対象にするということです)。
・「区」を改めて「市」とするのは、3府では区が存続するため、これとの混同を避けるためである。

どのような基準で市制の適用対象が決定されたかが窺えてなかなか面白い記述だと思います。実際、明治24年時点の市のうち人口最小の姫路市で24,608人ですから、人口規定はかなり厳密に適用されたようです。

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もう一つ、以下の件について。
「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?
これが一体何なのかは、[63862] 88さんの説明でお分かりかと思います。明治政府は、従来区々としていた自治体の区域名称を町、村に統一しようとし、新田、宿、浦、分、組、郷、島、浜、山、寺、谷、刈、等々を名乗っていたところの多くがそれに従いましたが、郡区町村編制法の時点では旧来の名称に留まったものも少なくなかったようです。
明治24年の段階でも、新潟縣岩船郡粟島浦、神奈川県北多摩郡府中駅、同南多摩郡日野宿が、町村に名称変更していません。明治30年までには変えたようですが。
[63579] 2008年 1月 26日(土)15:15:31oki さん
地名の発音雑感
[63576] Issie さん

的確なご指摘ありがとうございます。
1:カナ表記が現実の発音を“その通りに”写しているとは限らない(これは現代表記も同じ)。

この意味で、調べるときに少し期待を持っていたのが「実用帝国大字辞典」です。「実用帝国地名辞典」と同じ人物の著作ですが、まさに「カナ表記で現実の発音を“その通りに”写す」ことを目的としています。「地名辞典」の方の前書きによれば、現地調査のほか、現地の役所、学校などと何度もやり取りするなど、相当苦労して「見出仮名の発音の儘の表出」に努めているようです。たとえば、徳島県の「一宇」は「いッちュー」と表記されていますが、ともに内務省地理局編纂で
“公式表記”
である「郡区町村一覧」や「地名索引」では「いちう」の表記ですから、「大字辞典」が実際にかなり調査した上で地名表記を行なっているのは事実と考えられます。
また、正確な発音表記のため、長音に「棒引き仮名遣い」を利用し、促音、拗音は小書きのカタカナで表しているのがお分かりと思います。

ですので、「あそー」は当時の発音をそのままうつしたものだと考えます。ですが、「すがお」の方は若干疑問があります。というのも、橘樹郡向丘村の菅生だけでなく、全国すべての菅生の発音が「すがお」だとされているからです。今朝、図書館で平凡社の歴史地名大系を調べたところ、あきる野市の菅生は室町期に「須賀尾」と表記されていたそうなので「すがお」でしょうが、ほかの菅生のほとんどは現在「すごう」の発音になっており、それらが明治後期にすべて「すがお」であったとは考えにくいのです。
著者も言うように、「数萬の地名、時に或は誤謬なきを保せず」ということで、すべての地名について表記されている発音が正しい、とは言えないようです。

ともあれ、今回調べて改めて確認したのは、明治初期はもちろん、学校教育を通じて歴史的仮名遣いが一般に普及定着したとされる大正期以降になっても、地名の発音表記に本則から外れた揺れが見られることで(1929年地形図における「かきを」駅)、こういう類はほかにもたくさんあると思われます。
また、向丘村の菅生の発音にしても、「すごう」「すがお」のどちらかが絶対的に正しいというものでもなく、時代により、地域により、あるいは人により、両方の発音が併用されていたことも十分に考えられるところです。

発音だけでなく、文字の表記も含めてこのような「揺れ」を許容せず、
「公式表記が絶対である」という“思い込み”が激しくなっている
のが現代の特徴で、パソコンによるデータ処理の一般化(「揺れ」を吸収できないデータベースの蔓延)がそれに拍車を掛けているように思います。私自身はできるだけ「思いこみ」に囚われないようにしたいと思っているのですが、自分でお馬鹿なデータベースを扱っていると、役所が出しているデータなのに、櫻井と桜井、四条畷と四條畷が混在し、検索がうまくいかなくてイライラしている、のも事実なのです。

以上、地名の発音に関するとりとめのない雑感です。
[63574] 2008年 1月 26日(土)03:36:03oki さん
麻生 菅生 柿生
[63555] 稲生 さん
[63556] スピカ さん
[63557] [63558] Issie さん

調べてみました。

 18791883190319121917
上麻生カミアサフカミアサフかみあそー
下麻生シモアサフしもあそー
菅生スガフスガフすがおスガオスガフ

 188918991912192119291954
柿生かきをかきおカキオかきをかきお
忠生ただをただおタダオ(タダ)オ(タダ)オ(タダ)オ
 ※すべて、資料掲載の読みがなをそのまま記載しています
  柿生は、1912まで村名、1921以降は駅名を示しています

基礎資料は以下の通り。
1879 郡区町村一覧
1883 地名索引
1889 新旧対照市町村一覧
1899 実用帝国地名辞典
1903 実用帝国大字辞典
1912 改正新旧対照市町村一覧
1917~地形図

「かきを」と「かきお」が混在したり、「すがお」より後で「スガフ」が出てきたりして解釈が難しいのですが、少なくとも、明治大合併時に「かきお」「ただお」という音を持つ村が出現した時点で、「麻生」は「あそう」、「菅生」は「すごう」と発音していたようです。
村名に引きずられて大字名の発音が変わっていったようにも思えますが、いかがなものでしょうか?
[63483] 2008年 1月 19日(土)01:30:38oki さん
共武政表 徴発物件一覧表 その他のデータ
[63482] hmt さん 
近代デジタルライブラリーに、明治40年発行の「徴発物件表」がありました。
ご教示いただき、有り難うございます。

実は、共武政表と徴発物件一覧表については、ほかにもネット上にデータソースがあり、そちらについてご報告しようと思っていたところなのです。

それは、筑波大学の村山祐司先生が運営されている歴史地域統計データのサイトです。見ていただければ分かりますが、明治期の市区町村レベルのデータとして、明治13年の共武政表、24年、30年、34年、40年の徴発物件一覧表、大正期のものとして大正9年の第1回国勢調査、昭和初期の第3回国勢調査(昭和5年)が掲載されています。いずれもエクセルデータなので、そのままダウンロードして閲覧するだけでなく、加工・分析することが可能です。
ほかにも、明治5~18年に至る県レベルの人口統計である日本全国戸籍表、郡区レベルの日本全国民籍戸口表(明治19年)などもあります。
これらは統計データですが、地図データとしても、大正・昭和期の県別行政界データ、明治24年の関東地方、近畿地方、北陸地方の旧市区町村界データも収載されています。
いずれもダウンロードにはユーザー登録が必要ですが、メールアドレスを記入するだけなので簡単です。興味のある方は閲覧してみてください。

私はかなり以前に発見して共武政表以下のデータも見ており、[63434]でご呈示した新居宿等の人口もそれに拠っています。ただ、データ量が膨大なのと、地名とのマッチングに結構手間がかかるので、まだ有効な分析はできていない状態です。
近代デジタルライブラリーに「徴発物件表」があるのは知りませんでした。歴史地域統計データの明治13年の共武政表と照合すると、後者は前者のデータを忠実にデジタル化しているようです。

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なお、このサイトの年次別行政区界シェープファイルのダウンロードというページに、別の興味深い地図データがあります。1889~2006年の任意の時点で、市区町村別の行政区界データをダウンロードできるというものです。つまり、このデータを利用すれば、明治大合併期から平成合併期までの任意時点の市区町村地図を自由に作成することができます。
データ形式はシェープファイルなので、MANDARAなどのGISソフト(もちろんフリーの)で閲覧、加工が可能です。世界測地系の経緯度座標で表現されているので、KMLファイルに加工してGoogle Earthに表示することもできます。
このデータは、1995年の国勢調査町丁・字等別地図(境域データ)の町丁字界を結合することにより作成されたものです。住居表示が行なわれた都市部では、現行の町丁字界は必ずしも明治期市区町村の境界とは一致しませんが、明治合併期以降の自治体であれば、多少の誤差を大目に見れば十分に使えるものだと思います([60788]でIssie さんが作成されていた神奈川県地図の全国版、と考えれば分かりやすいかと)。
ただし、特に初期のファイルはバカでかいので(1889年データはLHZファイルで130Mbyte)、ダウンロードやGISソフトでの取り扱いに注意が必要です。kmlに加工する場合は、県別に切り分けないとファイルの立ち上げすらできないかもしれません。

とりあえず、興味のある方はご覧下さい。
[63434] 2008年 1月 16日(水)04:03:27oki さん
その後の共武政表、および外海浦など
ご無沙汰しております。okiです。前回の書き込み(去年の6月ですね)以降、落書き帳を見られない状況になっていたのですが、年末になって何とか閲覧を再開しました。十番勝負の最中ということで、逆立ちしても1問も分からない身としてはただ傍観していたのですが、共武政表がらみの話題がちらほらしているので、話題に加わらせてください。

1.共武政表について
[63431] hmt さん 共武政表の戸数は連担接続せしもの
で引用された「陸軍省達第19号」には、「反別人口物産等之増減年末毎ニ詳細取調可差出」とあります。近代デジタルライブラリーに収載された共武政表は第1回のもので、それ以降、1882年(明治15)までに3回(合わせて4回)編纂されています。さらに、「徴発物件一覧表」と改称し、1884年(明治17)から1911年(明治44)まで発行されているようです。

2.外海浦、あるいは近世の漁村について
このうち、第4回共武政表(明治14年1月1日調)によると、外海浦の人口は次のようになっています。
外海浦内の小地名人口備   考
外海浦ノ内字深浦 940東外海浦
同浦ノ内字岩水浦 287(旧城辺町)
同浦ノ内字垣内浦 179
同浦ノ内字久良浦 1018計2424人
同浦ノ内字船越浦 1029西外海浦
同浦ノ内字久家浦 516(旧西海町)
同浦ノ内字樽見浦 254
同浦ノ内字福浦  633
同浦ノ内字外泊浦 190
同浦ノ内字中泊浦 396
同浦ノ内字内泊浦 943計3961人
          総計6385人

第1回共武政表(明治8年)で6,280人ですが、第4回でもそれに近い数字です。これらは、東は高知県境の愛南町(旧城辺町)脇本から西は船越半島西端の高茂(旧西海町)に至る非常に広い範囲の海岸部を含む地域で、[63423]千本桜さんの仰るとおり、直線距離でも東西18キロメートル以上あります。ただし、
行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう
とは必ずしも言えないと思います。人口1,000人前後の字が4つもありますが、1,000人の人口を数える集落を小漁村とは言わないでしょうからね。
むしろ興味深いのは、現在では過疎地の最たる地域とも言うべき四国西南部の海岸部に、明治初期には、これだけの人口を抱える漁村が成立していたと言うことです。これは、前に白桃さんが言及されていたように、伊予国宇和郡だけでなく瀬戸内沿岸に共通してみられる現象です。そして、その多くが、
[63420]白桃さん 後に都市に成長していく事例はごく少数
であるのも事実です。
この背景には、明治前期までの漁村が、単なる漁労集落ではなく、当時の物流の主要手段であった水運と密接に結びついた存在だったことがあると考えられます。江戸時代には、米はもちろんのこと塩、酒、藍、紅花等々のさまざまな商品が、水運を通じて全国から天下の台所である大阪に集められ、さらに大消費地である江戸に送られていました。海岸部に位置する漁村、特に流通の大動脈であった瀬戸内海周辺地域の漁村は、離島も含め、それらの海運に、船や水夫の提供という形で関わっていたと考えられます。また、漁村自体が交易の小センターで、自村の保有する廻船を通じ、後背地の農山村と全国の市場とを結ぶ役割を担っていたことも想定されます。要するに、漁村というのはその地域の交通と商業の拠点であり、農村に比べ、狭い地域に多数の人口を養うことが可能な存在だったということです。
近代になってこれらの漁村の多くが衰退したのは、物流の主体が鉄道に取って代わられたため、広い後背地を持つ有力な港町以外は、以前の拠点性を発揮し得ず、単なる漁労集落に戻ってしまったからではないか、というのが私の考えです。

3.浜名港
浜名港についてはすでに決着がついていますが、補足的に第4回共武政表による人口データをご呈示します。
地 名 人口備考
新居宿 3837
浜名村 1622
中之郷村1107
内山村  329計6895人
上記が、現在の新居町を構成する4大字の、明治14年時点での人口です。第1回が6,438人であることを考えると、浜名港とは、新居宿のほか、町屋が連担していた浜名村、中之郷村を指す(上記では6,566人)ものだと思われます。内山村は浜名・中之郷村と同様に明治合併時に合併していますが、純農村の趣が強く、浜名港には含まれていないのではないか、と考えます。

4.真壁郡城廻村、田中村
城廻村は、現在の下妻市下妻乙である、と断言できます。田中村は筑西市(旧下館市)甲の東南部から丙にかけての地域だと思われますがが、正確な範囲は不明です。
幕末以降総覧によると、城廻村は明治15年に、東・西・南当郷村とともに下妻町に合併されています。このとき、もしくはそれ以降に、大字名として旧村ではなく甲乙丙丁戊が設定されたと考えられます。ちなみに、城廻村以外は、下妻甲が旧下妻陣屋の所在地で合併時の下妻町、以下、丙が西当郷村、丁が南当郷村、戊が東当郷村と見られます。それ以外に本城町、本宿町などの住居表示されたらしい地名があり、そのかなりの部分が旧城廻村と推定されますが詳細は不明です。
田中村は、同じく明治15年に西郷谷村とともに旧下館城下に合併されており、同様に旧村名が消えて甲、乙、丙の大字が設定されています。下館城は現在の下館小学校周辺ですが、城下町はごく狭くて大字甲の北側に留まると見られ、甲の南東部および大字丙が田中村、甲の南西部と乙が西郷谷村だろうと思います。このように判断する根拠は、大字甲のほぼ中央に田中稲荷神社が存在すること、丙の南端に当たる下館駅周辺地域が、統計GISの大字区分地図で田中町になっていることですが、確証はありません。

以上、共武政表がらみの簡単なご報告です。
[58957] 2007年 6月 10日(日)04:06:40oki さん
幕末の勝浦
幕末時に「勝浦」を名乗っていたところは次の通り(旧高旧領取調帳による)。

幕末時現在
上総国夷隅郡勝浦勝浦市
紀伊国牟婁郡勝浦村東牟婁郡那智勝浦町
讃岐国鵜足郡勝浦村仲多度郡琴南町
土佐国吾川郡勝浦浜村高知市
筑前国宗像郡勝浦村福津市
阿波国勝浦郡小松島市、徳島市、勝浦郡

以上のうち、高知市を除く地域は今でも勝浦があります。
区画として最も大きい阿波国勝浦郡が、知名度で最低に近いのは残念な限り。平家物語には、摂津から暴風雨をついて上陸した義経が、地元民にここはどこだと尋ねたところ「勝」浦と聞いて大いに喜び、勇躍屋島に乗り込んで平家に大勝した、という逸話もあるのですけどね。
旧横瀬町と生比奈村が合併して誕生した勝浦町はもちろん、徳島市勝占町も元来は勝浦郡に属します。

私の父は、「勝浦」を「かつら」と発音します。京都の桂女も、「勝浦女」と表記されたことがあるようです。高知市にあるはずの勝浦浜村は、旧高旧領では浦戸村と併称されており、「よさこい」にいう「月の名所は桂浜」は、この勝浦浜村と見て間違いないでしょう。
要するに、勝浦=桂ということで、日本語にはこの手の表記は珍しくないと思います。大隅=大隈などというのはかわいいもの、と言うべきでしょうか。
[58922] 2007年 6月 9日(土)04:20:14oki さん
「小倉町」についての情報
[55501] 88 さん 市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?

上記の件は私も疑問に思っていたのですが、真相究明につながる(かもしれない)資料を見つけたのでご報告しておきます。
資料名は1887(明治20)年付け内務省地理局編纂の「例規類纂(近代デジタルライブラリー所収)」で、その71ページを見てください。
福岡県が1886(明治19)年10月に、豊前国企救郡郡小倉旧25町の町名復活を求めて提出した「伺」と、それに対して87(明治20)年に内務省が発した「指令」が記載されています。引用すると長いので原文はデジタルライブラリーを見ていただくとして、要旨は以下の通りです(私の解釈が入っています)。
・小倉は本来25の町からなっていたが、1875(明治8)年の地租改正の際に、旧小倉県がこの25町の地番を「小倉町」の名で1町に編制したため、公式には25町が存在せず、小倉町のみが存在することになってしまった。
・しかし、小倉町は25町の総称で、実際には旧25町が存続しており、それぞれが「小倉○○町」として通用している。旧25町を一括して小倉町として扱うのはきわめて不便なので、旧来通り25の町名を使用できるようにして欲しい。
・これに対する内務省の指令は、現在のまま「小倉町」1町とすべし。ただし、室町、八百屋町のような旧町名を「字として加用」するのは構わない、というものです。

これから見ると、郡区町村編制法の時代、公式には、小倉は「小倉町」という一つの町として扱われたようで、その点では「総覧」の記述は正しいと考えることができます。

しかし、ここで新たな疑問が生じます。内務省地理局が同じく1887(明治20)年に編纂した「地方行政区画便覧」には、小倉室町、小倉八百屋町をはじめとする25町が記載されており、小倉町はどこにもありません。この扱いは、久留米、柳川など他の城下町とまったく同じです。小倉室町等の25町は、福岡県(豊前国)企救郡に直結する独立した町で、同県(筑後国)御井郡久留米両替町などと同等の存在と見ざるを得ません。この扱いは、1881(明治14)年の「郡区町村一覧」でも同じです(こちらは「小倉」の冠称がありませんが)。
上記「伺」の記述が正しいとすれば「地方行政区画便覧」の記載はそれと矛盾しますし、「便覧」が実態を反映しているなら、「伺」に記述されたような不都合が生じるとは思えません。
一体どちらが正しいのか、ひょっとして両方とも正しいのかもしれないが、それは当時の地方制度が非常に混乱していて、明治政府の担当部局である地理局でも実態を把握しきれていないということではないのか、色々考えるのですが、正直言って私には判断がつきません。

却って謎を深める結果になってしまったかもしれませんが、とりあえず、ご報告です。
[58920] 2007年 6月 9日(土)02:28:29oki さん
ぶどう餅とぶどう饅頭
[58882]  今川焼 さん ぶどう饅頭

[58879]般若堂そんぴんさんの
本来は「武道餅」だったそうですね.う~ん,「ぶどうパン」とは違うのか……
を見て「よもや…」と思ったのが、徳島県美馬市穴吹町の「ぶどう饅頭」。

「ぶどう饅頭」のご紹介をいただき、有り難うございます。

かつて、白桃大人の
[47639] かの有名な「巴堂」の武道モチです。色とカタチは葡萄そのものです。
を読んで、三本松にもぶどう饅頭と似たぶどう餅なるものがあったのか、と思ったのですが、ぶどう饅頭まで出てきて黙っているわけにはいきません。

ぶどう饅頭は、金長狸に由来する「金長饅頭」とならび、徳島を代表する銘菓です(単にメジャーなものがこの二つしかない、ということですけどね)。
色と形は葡萄そっくり。今川焼さんのリンクされたものより、色についてはこちらの徳島新聞のサイトが分かりやすいですが、葡萄そのものの藤色をしています。「武道の上達祈願のため多くの人が剣山を訪れていたことから、土産物として武道と同じ語呂でブドウの形をした菓子を開発した」ということですが、穴吹近辺は葡萄の産地でもあることから、ほとんどの人が葡萄饅頭と理解して買っていると思います。饅頭といっても普通の餡が皮に包まれたものではなく、言ってみれば粘りのない羊羹のような代物で、外側に薄皮があるので辛うじて饅頭と称してもいいのかな、というようなものです。
一方、ぶどう餅については、申し訳ないことに私はまったく知りませんでした。「糊状の米粒でさらし餡を包み込んだ一口サイズ」という記述があったので、餡を餅でくるんだものだと思っていたのですが、「いうなれば、薄皮饅頭の皮に包まれた乾燥した赤福の餡」とも表現されています。
その上、葡萄そっくりで武道が起源やったら、ぶどう饅頭とまるで一緒やないか。どっちかがパクったんかい。
ということで、少し調べたのですが、東かがわ市商工会によると、ぶどう餅の誕生は170年前、ぶどう饅頭のほうは先ほどの徳島新聞で90年以上の歴史ということですから、どうもぶどう餅の方に分があるようです。
ぶどう饅頭がぶどう餅を模倣したのか、はたまた独立に考案されたのか詳細は分かりませんが(どうも前者のような気もします)、阿讃山脈の両側で生産された和三盆糖の系譜を引くもので、乾燥して水に恵まれなかったこの地域の歴史を反映した銘菓と考えたい、と思います。
とりあえず、結構美味しいものですので、万一徳島に来られることがあれば、騙されたと思ってぶどう饅頭をお土産に買っていただくよう、お願いするものです(落書き帳のメンバーとして三本松のぶどう餅を差し置いてぶどう饅頭など買えないというのなら、それは仕方ありませんが)。
----------------------
ところで、先に言及した金長饅頭は、しつこい甘さが敬遠されてか現在は人気凋落し、代わりに同名のサツマイモを原料とした「なると金時」なる菓子が、ぶどう饅頭と並んで徳島の2大土産品になっています。本物のなると金時の段ボール出荷箱を模した外箱のデザインが、いかにも徳島らしい田舎風の味を出した銘品(?)ですので、来徳の折りにはこちらもよろしくお願いします(常連メンバーの「なると金時」さんとは特に関係がないと思いますが)。
[58864] 2007年 6月 6日(水)00:07:53oki さん
四国の渇水~徳島側からの視点
ご無沙汰しております。
四国の渇水状況について、香川用水の問題など、主に香川県のことについて議論が進んでいるようなので(もう過去の話題かもしれませんが渇水状況が解決したわけではないので)、地元出身者として、徳島側から見た考えを一つ。

[58781] hmt さん
せっかくできている早明浦ダムと香川用水が、県境の壁に阻まれて生かしきれないという姿には疑問を感じます。
「四国三郎」は、兄貴の坂東太郎に比べれば、もともと懐が小さいというハンデがありますが、それでも精一杯の力を発揮できるような仕組みを整えてゆく必要があると感じた次第です。

仰ることは誠にごもっともで、合理的に考えれば、05年渇水時における徳島側の対応はきわめて理不尽であり、香川県民から見れば惻隠の情のかけらもなく、第三者の目には地域エゴそのものと感じられると思います。
しかし、徳島側にも言い分はあります。端的に言えば、徳島の吉野川流域というのは、決して水に恵まれた地域ではないのです。より正確に言えば、「利用できる水に関して、非常に不自由してきた地域であった」ということでしょうか。

池田以東の吉野川は中央構造線の谷を通って紀伊水道に注いでいます。そのため、吉野川の河道は両岸の段丘面に比べて低く、通常の方法では吉野川本流の水を農業に使うことはできませんでした。
江戸時代、大河の中下流には用水が開削され、流域は水田化されて穀倉地帯になるのが一般的な姿でした。この場合、水量が増える中流域に堰をつくって取水し、等高線に沿って長大な用水を引き回し、流域を灌漑するのが通常の手法です。しかし、吉野川は河道が低いため、この手法がとれませんでした。本流から水が得られなければ支流から引水するほかないわけですが、吉野川流域の徳島平野は四国山地の北側に位置し、気候的には讃岐平野とさほど変わりません。それでも、四国山地に源流を持つ南岸側はまだしも、阿讃山脈を源流とする北岸は、用水確保という面では讃岐平野と条件は同じなわけです。そして、特に中流域においては、北岸平野の方が南岸よりよほど広いのですね。
このため、徳島平野の広い範囲が、江戸時代を通じて畑作地のまま留められました。以前にもご紹介した「町歩下町帳」によれば、江戸中期における四国の水田、畑地の反別(面積)は以下のようになっています(反別の単位は町)。

田反別畑反別反別計田%
阿波11818204393225737
讃岐2203670502908676
伊予29144221175126157
土佐21590114123300265

一見して明らかなように、阿波の水田率は他の3国に比べて極端に低い数値です。その理由が、県内第一の平野である徳島平野で水田化が進まなかったことにあるのは明らかでしょう。藩政期、阿波藩の穀倉地帯は徳島平野ではなく県南の那賀川流域と淡路だったのです。

以上のように、藩政期の吉野川流域は讃岐平野と同様に水に恵まれない地域だったのですが、状況はむしろ徳島の方が悪かったと言えるかも知れません。讃岐の場合は単に大きな川がないだけですが、徳島の場合は目の前を滔々と流れる大河がありながら、その水を利用できないわけです。しかも、この川は平常時には何の恵みももたらさない代わり、ひとたび大雨が降ったときはとんでもない暴れ川となって流域の村々を襲いました。「吉野川洪水史」によると、万治二年(1659)から慶応二年(1866)までの二百年間に、阿波国内で約百回の洪水(風水害)があった、とされています。
さらに悪いことがあります。江戸時代、吉野川流域が全国随一の藍作地帯だったことは周知ですが、その背景には、上で見たようにこの地域が水田化困難だったこともあります。藍という作物は多量の肥料を必要とするため連作不可能とされているらしいですが、藍を経済基盤としていた阿波藩は実に巧妙な策を案出しました。毎年のように氾濫する吉野川に堤防を築かず、上流から流下してくる豊かな土壌を、氾濫時に藍畑へ自然客土するという手法です。ナイル川の氾濫によって肥沃な土壌を補給していた古代エジプトと同じようなものですね。
これによって藍の連作が可能になり、阿波藩は四国随一の経済力を手にします(このほかに阿波藩は、斎田(鳴門)の塩、那賀川上流部の材木という商品を手中にしており、藩都である徳島城下は全国でも有数の都市でした。もっとも、それで領民が幸福だったか否かはまったく別の話ですが)。
吉野川に堤防を築かずに肥沃な土壌を客土するのは、藍の栽培に関しては合理的なやり方でしょうが、流域に住んでいる農民にとってはたまったものではありません。豪農層は高台に石垣を築いてその上に家を建て、洪水時に備えたようですが、一般の農民は溢水のたびに逃げまどわなければならなかったでしょう。
加えて悪いことがありました。徳島平野は四国山地の北側に位置しますが、吉野川の源流は山地南側の土佐にあります。そのため、徳島平野でたいした降雨でなくとも、土佐側は豪雨で、それが前触れもなく洪水になって流域平野に押し寄せることが少なからずあったのです。徳島側でも大雨が降って洪水になるのを「御国水」、土佐だけで降った水が押し寄せるのを「阿呆水」として区別する用語すらあったようです。

このような状況が最終的に解決されるのは、吉野川総合開発によって早明浦ダムと池田ダムが建設され、池田ダムから取水する全長69.2kmの吉野川北岸用水が完成する1990年になってからで、北岸地域が全面的に水田化したのは北岸用水の開通後であったようです(北岸用水の工事が始まったのは1971年です)。
一方、同じく池田ダムから取水する香川用水が、阿讃山脈を貫く阿讃トンネル(5032m)を通じて通水したのは1974年です。このときは上水道だけの通水で、農業用水、都市用水の本格通水は75年、東かがわ市までの全線通水は78年とのことです。

吉野川流域の住民から見れば、歴史を通じた水不足の状況は香川側と同じです。一方、香川の方は吉野川の洪水による被害をまったく受けておらず、徳島側だけが引き受けてきたわけです。ところが、流域開発による利益は香川の方が先に享受することになります。また、明治以降、徳島県民の香川県に対する感情は微妙なものがあります。有り体に言えば、江戸時代には徳島の方が先進地であったにもかかわらず、明治以降、宇高航路が開かれた香川の方が四国の玄関口になった結果、高松の方が徳島より都会になり、徳島県民は香川から田舎者と見下されてきた(と徳島県民は思っている)、という背景があります。
このような状況の中で、それが国土計画上合理的だから吉野川の水を香川県に分水します、といっても、徳島県民がはいそうですかと納得するわけはありません。
河川維持に必要な 13t は別として、 30t が1975年の早明浦ダム建設以前から徳島県内で取水利用されてきた実績値で、水利権として認定されることにより、徳島県の「財産」になっているわけなのでしょう。
ということですが、以上のような吉野川の水利用事情を考えれば、30tの方も、徳島県内で実際に利用されてきたかどうかには疑問符がつきます。しかしこの分を、徳島ではダム建設前は利用不可能だったのだから香川用水にも回す、などということを言い出せば、吉野川総合開発そのものが不可能になっていたでしょう。要するに、吉野川に関する徳島県の「不特定用水」(既得権)なるものは、過去千年以上の洪水被害を一手に引き受けてきた吉野川流域住民に対する配慮から設定されたもの、と私は考えます。この地域の住民は、吉野川に対して愛憎様々な感情を抱いており、それにはこの地域に耕地が開かれた、遅くとも2000年前からの歴史があると思われます(阿波のうち吉野川流域の古代名は粟国で、これは古代から水田化不可能で畑作地であったこの地域の特性を表しているのでしょう)。
現徳島県知事である飯泉嘉門氏は大阪府池田市出身の自治官僚ですから、このような徳島県民の思いを共有しているとは思えません。しかし、彼の支持基盤である県会議員は流域農民の意向を無視できませんから、「吉野川水系水利用連絡協議会」では、「他の出席者があっけにとられるような態度」しか取れないのでしょう。

私は、以上のような歴史的背景に照らしても、香川用水に対する徳島県民の対応が倫理的に正しいとは思いません(後で記すように、私が吉野川流域の出身者でないことが大きな理由でしょうね)。しかし、香川県民が、長年に亘って吉野川の洪水と闘ってきた流域住民に対し、その歴史的背景に敬意を表した上で、配水を要請する態度に出ているのかどうかについては、いささか疑問があります。
「この辺りは『阿波の北方』いうて、昔から水争いが絶えんかった。だから、香川に分水するなんて、昔は絶対、考えられない。不特定用水? 知事さんの発言が地元の感覚、流域の声を代表していると思う。ここでうんと言えば、『県は何やっとんぞ』と農家が黙ってはおらん」
この吉野川流域農民の発言に対し、愚かしい地域エゴと切って捨てるのは簡単ですが、それでは問題は一歩も前に進まないでしょう。これは論理ではなく感情や情念のレベルに属する事柄であり、その背景には、以上のような歴史を通じた吉野川との愛憎一体となった関係があります。情念に論理を対置するのは愚の骨頂でしょう。

ということで、香川県民の皆様には、どうして香川用水の配水に関して徳島県民が常軌を逸した対応をするのか、その歴史的背景にもご理解をいただき、徳島側の重苦しい情念を解きほぐす形での説得方法を考えていただきたい、と思う次第です。

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ところで、私自身は吉野川流域ではなく、那賀川流域である県南の阿南市出身です。客観的に見て、現時点では吉野川より那賀川の方が危機的状況です。吉野川水系では早明浦ダムの貯水率が55%で、徳島用水の取水制限が13.9%、香川用水20%節水に対し(6月1日現在)、那賀川水系では長安口・小見野々ダムの貯水率はわずか7.6%、第6次取水制限で農水、工水ともに60%節水(5月24日)という状況ですからね。ところが、この掲示板で流れるのは香川側の状況ばかりで、那賀川流域への言及が皆無だったので、事情を知って欲しいというのも、久々に書き込みをした理由です。
那賀川流域が危機的な状況になっても、吉野川流域からの分水は一切ありません。しかし、香川県に分水しているのに同じ県内に分水しないのは不合理ではないか、という意見は特に出ていないようです。物理的に考えて、四国山地の剣山山系をぶち抜く分水トンネルの建設は非常に困難でしょうが、それだけではありません。
先日、田舎で一人暮らしをしている父親に電話をして状況を聞いたのですが、農業・工業用水は別ですが、上水で供給される一般的な生活用水にはまったく問題がないとのことでした。ネットで事情を調べてみると、阿南市の上水道は那賀川下流部の井戸から取水しており、上流ダムの貯水状況とは無縁のようです。実のところ、この点は今回調べて初めて知ったことで、阿南市に住んでいたときは自宅に来ている水道の水源がどこにあるかも意識していなかったのですね。
那賀川水系の井戸から取水する以上、究極的には那賀川の水の有無に関係するわけですが、この川の源流部である木頭地域は全国でも屈指の多雨地域で、04年には年間6000㎜近い降水量を記録しています。これは少し極端ですが、年間3000~4000㎜の降雨はごく普通で、それが伏流水となって何年もかけて下流に流下し、それを上水源として取水しているのでしょうから、上流のダムが空同然になっても下流の上水道は特に問題ない、ということのようです。
この点は、ダムの水がなくなれば即座に飲み水に影響が出る吉野川流域や香川用水流域と異なるでしょうね。その分、阿南市を含む徳島県南部は台風の常襲地で、それによる被害は常に受けていますが。

同じ渇水といっても、四国山地の北側と南側では性質がまったく異なるということでした。
上水には影響がないといっても、農業・工業用水が現在のような状況では産業活動に大きな支障が生じることは確実ですから、梅雨時の降水や、あまり被害のない雨台風が四国南部に襲来してくれることを願って、今回の書き込みを終わります。


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