[52917] faith
当時枚方市に旧制中学校がなかったことが、大阪市立の中学校を枚方市に設置した背景にあると思われます。
これに関して、「枚方市史 第四巻」をあたったところ、大阪市立中学校が枚方市に移転した事情は以下のようなものでした。
- 枚方町(当時)は、旧郡役所所在地でありながら、中等以上の公立諸学校を持たない府下唯一の市町村であった。
- そこで枚方町は府立第十六中学校の誘致を図ったが、成功しなかった。(豊能郡池田町に決定。現府立池田高等学校)
- このような状況下、此花区の市立酉島工業学校内の仮校舎にて開校した大阪市立中学校の移転新築が行われるに際し、上記第十六中学校の候補地であった同町中振の土地をもって枚方町が大阪市と懇談し、誘致を行った。
- これは成功し、1943年に同校は枚方町の上記の土地に移転した。これが現在の枚方市域では最初の旧制中学校となった。
- 大阪市立中学校は、5年制の中学校として発足したが、後に7年制高等学校に発展させる構想であった。しかし戦後の教育改革のため、結局実現しなかった。
[52978] faith にもあるように、帝塚山学院(学園)も奈良の地に7年制高等学校を作ろうと当初は考えたのですが、結局は「法令上の制約があり、文部省の指示で」(「帝塚山学園五十年史」)中学校を開校しています。「法令上の制約」というのが良く分からないのですが(私立の7年制高等学校は当時他に存在しました)、認可が下りそうになかったということは確実に読み取れるので、
[52978] のように書きました。
なお、1918年の高等学校令では公・私立の高等学校を認めましたが
第二条 高等学校ハ官立、公立又ハ私立トス
第三条 高等学校ヲ設立スルコトヲ得ル公共団体ハ北海道及府県トス
としていましたので、大阪市が高等学校を設立するには確かに法令上の障害があったことになります。
(同じく大阪市立の、大阪商科大学の設立(1928年)にあたっては、公立大学の設置者を同様に府県に限っていた大学令が先立って改正されています。)
いずれにしろ、1941年には、戦時体制下で、高等教育機関の修業年限の短縮が始まっていたわけで、戦争遂行に役立ちそうにない、「計画外の」高等学校の設立が認可されにくい状況であったことは想像に難くないです。
※大阪商科大学の設立に関するセンテンスを読みやすいように修正