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矢作川太郎さんの記事が9件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[51514]2006年5月27日
矢作川太郎
[51430]2006年5月22日
矢作川太郎
[51331]2006年5月14日
矢作川太郎
[51315]2006年5月13日
矢作川太郎
[51312]2006年5月13日
矢作川太郎
[51114]2006年5月2日
矢作川太郎
[51024]2006年4月26日
矢作川太郎
[51002]2006年4月25日
矢作川太郎
[50286]2006年4月2日
矢作川太郎

[51514] 2006年 5月 27日(土)21:51:07矢作川太郎 さん
大字・字・小字→~町・~○丁目
[51473]千本桜さん
[51480]88さん
[51483]YSKさん

こういうのを見てしまうと思わず飯能シテしまいます。

私の住んでいる市(皆さんもうお判りですよね、一応ぼかしてみます。)では、ご多分に漏れず合併に伴い住所変更が有りまして、二つの事例をご紹介します。(例外的な取り扱いが為されたのはその二つだけです。)

1:東河原町の場合
合併前わが市には河原町という町がありました。ところが合併する隣町には「大字河原」(多分)と言う所がありました。この場合、機械的に「大字河原」→「河原町」とすると、二つ「河原町」が存在してしまいます。もちろん、対策はとられまして、わが市の「河原町」はそのままで、隣町の「大字河原」は冠称を付けて「東河原町」とされました。この場合、町と大字間の問題ですので、(元々両者が離れているので)あまり問題にはならないと思いますが、YSKさんが言われたような、ある大字と隣の大字との統合の際にとられる対策(双方の小字の衝突)としては、地名保存の観点から言えば有効だと思いますが、住民から言わせれば混乱の元と成り得るかもしれません。(元からそのような冠称が付いていたものと誤解される可能性も有り得る、しかし大字の範囲を固定するためには必要な妥協か。)

2:中伊町・中伊西町の場合
隣町には「大字中伊」という所が存在しました。しかし、今はわが市の「中伊町」の範囲とは異なります。実は合併を期に「大字中伊」が「中伊町・中伊西町」に分割されたのです。実態はどうだったかは存じませんが、少し前の地図を見てみると(大字)中伊の近くに「中伊西」という記載があります。中伊地区では地区は少し広すぎると言う意見が合併を期に実現されたのでしょう。しかし、一筋縄ではいかない事実があります。昔、「大字中伊」は明治11年に中保久村と伊賀谷村が合併したものだったのです。「中伊町・中伊西町」のそれぞれの範囲が中保久村と伊賀谷村の範囲が合致するとは限らないので妥当な処理だったと思いますが、(それぞれの村の小字が正確に記録された資料が無かったのかもしれない。)少し複雑な気分です。

※おまけ
1.隣町には「大字千万町(ぜまんぢょう)」が有りましたが、合併前に一時期「千万町(ぜまんちょう?)」にする事が検討されていました。結局「千万町町(ぜまんぢょうちょう)」となりましたとさ。
2.わが市内の事を少々、最終処分場がある「才栗町」は才熊村と栗木村の合成だったなんて、何人が知っているんだろう・・・
3.これもわが市の事ですが、「美合町」が衝撃的です。(生田・馬頭・平地村が明治11年に合併した)和合村の範囲が現在の美合町です。明治の大合併期に岡・保母両村と合併して美合村となりました。その後いつか解らないですが「美合村大字和合」→「美合町」となったらしいです。(岡・保母両村は岡町・保母町となっているのに・・・)この事実は最近になって解ったのでさらに驚きです。しかし、生田・馬頭・平地の名前はバス停名・街道名等に辛うじて残っています。

*最後に
地名(自治体内の特定の地域を指す名前)は人為的に加工(改変・改竄と言っても良いですが、あまり良いイメージが無いので。)されていますが。公的な住所表記から完全に消滅する事はあっても、ローカルな名称(バス停名・交差点名等)には比較的残っている事もあるようです。
何より、この事に関連して(もちろん伝統的な名前にするに越したことは有りませんが、少々乱暴な言い方になりますが)合併後の自治体名が盛んに議論されています。しかし、それよりも自治体内の地名(前述の通り)の加工への議論までは及ばない場合が多いのを少し危惧しています。(自治体内に組み込まれた大字・町名の合併・分割・改称、要は内なる町村合併の進行の方が私は気になります。)この事に関して皆様のご意見をお聞かせ下されば幸いです。

#私も88さんの様にギラギラした文になってしまいました(笑)
[51430] 2006年 5月 22日(月)00:29:21矢作川太郎 さん
奥州街道→陸羽街道
[51425]にまんさん
鹿角と三戸って「同じ国」になりませんか?
実は違う国だと今さっきまで思い込んでた矢作です。(笑)
Wikipediaのページに有るように鹿角郡は陸中、三戸郡は陸奥とそれぞれなっています。しかし
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国を分割して設けられた。
とあります。ですので、明治元年以前には同じ国であると言えるのです。昔話の類のものが明治時代に発祥したとは考えにくく、やはり前述の通りであるといえます。

では何故、鹿角郡が陸中とされたのかについて、一つ仮説を立ててみます。多分今でも有ると思いますが、青森県(陸奥国)内において南部地方と津軽地方とは藩政期から別個の物であるという意識があるようです。当然、それぞれの主要都市である弘前、八戸への交通路は途中で分岐していたのでしょう。(東北・八戸両自動車道が分岐しているように。)八戸へ向かう際には奥州街道を道なりに行けば辿り着けます。(その延長に竜飛崎始め、東津軽郡の宿が有ることから東津軽郡も他の津軽郡からすれば違う地域だと認識されたのでは無いでしょうか。)一方、弘前へは奥州街道から大釈迦峠を越えるルートは遠回りになります。ですから、奥州街道とは別の鹿角街道(津軽街道)が利用されたのでは無いでしょうか。(そのルートは東北自動車道のルートにもなっています。)ですから、後の陸中国(盛岡を中心とする地域)にしてみれば、鹿角は弘前に向かう際の道沿いの奥の方となるので、陸中の延長と見なされたのでしょう。そして明治元年の陸奥国分割に際して陸中国と位置付けられたのでしょう。(まあ、山向こうの他の水系の最上流部がこちら側の郡或いは国に属するのは良くある事例です。)しかし、二戸郡の区域は鹿角街道(津軽街道)沿いとは認識されず、(端っこをかすめているだけだからか?)奥州街道沿い、もしくは(安比川→馬淵川)沿いと認識されたのではないでしょうか?

*タイトルの奥州街道→陸羽街道への変更は1873年(明治6年)行われたそうです。(陸奥・陸
 中・陸前だけではなく羽後・羽前にも通じている事を表したかったのか?それとも、日本海
 経由が一般的では無かったからか?悩ましい・・・)
[51331] 2006年 5月 14日(日)12:40:50矢作川太郎 さん
市町村章などなど
[49665]右左府さん

亀レスですが、飯能してみます。
ですが、憶測を多分に含んでいますので、参考にはあまりしないで下さい。(笑)

一般的に役所・役場においては市町村章、花、木、鳥、市民憲章、各種宣言等と言うのは、慣行と呼ばれています。ですが、右左府さんも言われている通り、
他町村のシンボル制定時期を見ると、大半が戦後の制定となっています。
となっているので、多分無かったとみるしか有りません。多分、それは市町村の位置づけの変化が関わって来るのでしょう。明治の大合併では、大規模な合併と言っても、ある程度一体感のある地域が合併していたと思います。その時点では、一個の町村の人口は今にしてみれば、ずっと少数なものであったでしょう。ですから、現在の慣行のような物を制定する経済的な余裕は余りなく、また一体感を慣行のような物で醸し出す必要も無かったのかもしれません。

ただ都市部の大都市に限って言えば、人口も多数であったため、慣行を制定する経済的な余裕があり、なおかつ一体感を醸し出す必要があったのでしょう。

その後、昭和の大合併期に出来た新たな町村では、個々に一体感のある別の町村が多数合併したので、一体感を創出する為に慣行が制定されたのかもしれません。

抽象論で済みませんが、終戦間際に日本人が居なくなった6村に関して、状況証拠でしかなく確定的な事は言えません。しかし、時期を考えれば無かったとするのが一応妥当でしょう。しかしもしかしたら、制定しようとしていたのかも知れません。


この件に関連してご報告します。私は大学生なのですが、先日図書館で調べ物をしていた際、各県章並びに都道府県庁所在地の市章に併せて、外国の著名な都市の市章と言う項目を見つけました。私はやはり海外でもそのような物を制定しているのだと関心しました。
ただ日本の市章に多く見られる文字(ひらがな、カタカナ、漢字)を組み合わせた物は無く。(日本じゃ無いんだから当たり前か。)その都市にちなんだ動植物や領主の家紋?がモチーフになっていました。ただし市章全体の形は何故か国が違っても統一されていました。

一応ご参考までに。
[51315] 2006年 5月 13日(土)16:54:51矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より その2
拙稿[51312]
に関連してですが、町と村のイメージの違いについて述べたいと思います。

どちらも日本の自治体の区分で郡の下部に位置するものですが、率直に言うと町(大きい、都市に近い、商業が主な産業)で村(小さい、都市から遠い、農・漁・林業が主な産業)であると言うイメージが一般的にあると思います。では実態としてはどうだったのでしょう?

現在、制度の面から言えば、
町となるためには、当該都道府県の条例で定める「町」としての要件を具備する必要がある
村の法的な要件は特段定めはない。
以上Wikipediaの該当ページには書いてあります。過去に宮城県の加美町が合併して成立する際に、条例によって村になる所だったと聞いています。結局、条例の改正によって事無きを得ましたが。また熊本県の南阿蘇村では(南阿蘇)のイメージを変えない為に、敢えて「南阿蘇町」にならなかったとも聞きました。このように条例の解釈と町村の意図によって「町」と「村」が決まってくるようです。では歴史的にはどうだったのでしょう。

明治時代の初期には町と言うのは、純粋に市街地を指す言葉でした。(この落書き帳でも何度も言及されています。)また村はそれ以外の農・漁村を指していました。(一部の例外的な市街地を含む)それが郡区町村編制法・市制・町村制といわゆる明治の大合併により大規模な市街地は全体を総括して「市」となり、一部の市街化された村が「町」となりました。(中規模な市街地が「町」を総括して全体を「町」とした所もある。)この時点では現在のイメージとほぼ合致すると同時に町・村の違いは市街地・周辺部と言うことになってもまだまだ流動的なものがありました。(愛知県幡豆郡一色町、横須賀町の例がある。)

大正から昭和初期にかけては、順次市街化された「村」が「町」となり町が増加しました。小規模な合併もあり、町から切り離されて合併して成立した周辺部の村(極端に言うと愛知県愛西市のような感じ)も町に編入されました。

昭和の大合併では、小規模な「町」を核として「市」がいくつも誕生しました。町村部でも「村」がいくつも合併してできた従来よりは大きい「町」「村」ができました。その結果町:村の比率が1950年当時において約1:4だったのが、1960年には約2:1に逆転してしまいました。

その後、1960年から2000年にかけて500ほどの村が人口増加などによって町制していきました。ただし、その間は概ね町・村の全体数はあまり変わりませんでした。

そして平成の大合併を終えた今では町:村の比率は約4:1で推移しています。昔では考えられないような所さえ「市」になっていることは言うまでもありません。

このように町村部は激しく変化を繰り返していました。いや、これからも劇的な変化を余儀なくされるでしょう。そんな中で「町」「村」のイメージはあまり変わらないのは日本人の「ふるさと」へのイメージがあまり変わらないのと共通しているように思います。

*思いっきり硬い文章になってしまいました、すいません(汗)
 タイトルは本文の内容と関係してるようで、していません(笑)
[51312] 2006年 5月 13日(土)15:20:38矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より
呼ばれてもいないのに出てきてみました。
少し亀レスですが。

[51244]じょにーさん
[51246]花笠カセ鳥さん
[51261]Issieさん
[51273]千本桜さん
[51277]88さん

同じような例が静岡県にもあります。浜松市に編入された引佐町ですが、1953.4.1に金指町が井伊谷村に編入されて、同日に井伊谷村が改称・町制されて引佐町となって成立しています。もっとも1955.5.1には周辺3村と新設合併して新・引佐町となっていますが。
1889.4.1時点(明治の大合併時)では金指町は三和村から分離して成立しています。(三和村は明治9年に石岡、五日市場、金指の3村により成立)一方その頃の井伊谷村は井伊谷、横尾、白岩、花平、三岳村『兎荷村の一部が入っている資料もあり。』の合併により成立しています。(もっとも井伊谷村は明治9年に北神宮寺、東牧、南神宮寺の3村により成立)

この事から少し推測してみます。1889.4.1当時郡役所のある気賀村に程近かった三和村の金指地区で市街地が形成され始めたので三和村から分離しようという動きが起こったとします。それによって金指町が成立します。(よく言われている事ですが、明治の大合併は従来の村落を合併して財政的に安定した形態にしたと言います。産業形態の違いから分離されたと言うこともあったのではないでしょうか。)その後昭和の大合併期になって、丘陵によって隔てられている?井伊谷川沿いの井伊谷村との合併が打診されます。面積の点で言えば井伊谷村の方が合併によって成立していて大きいので(昔は耕地面積の広さが行政における重要度の指標となったのではないでしょうか?)井伊谷村への編入と言う実態で合併が行われます。しかし、建前としては、新規の名称を採用すると決められたのでしょう。(この場合は郡名ですね。)この名称が2年後の合併にも受け継がれたのではないでしょうか。

*町と村のイメージの違いの変遷については稿を改めます。
 長文済みませんでした。
[51114] 2006年 5月 2日(火)03:47:47矢作川太郎 さん
第11回十番勝負・感想
私は初参戦したクチですが、感想を書きたいと思います。
順番は番号順です。

・問1 美東(未答)
コレにはしてやられました。岡山市が一番市制が早いのまでは解ったんですが。第四ヒントで市制施行日関連だと見当はつきました。が、穿ちきれず断念。

・問2 美東(未答)
第一ヒントで「男と女」コレ以外からの問題だと思って探りを入れましたが解らず。スポーツ関連が久々に来るとは・・・

・問3 ○気仙沼市
第三ヒントの「名前変わらず」と問題・解答の市を見回して閃きました。国土地理協会のページを見て目に止まった所を解答。

・問4 美東(未答)
最初は過疎地域指定が新自治体の一部に指定されている所かと思いましたが、指宿市が当てはまらずそのまま放置(汗)案の定時間切れと・・・

・問5 ○府中市(広島)
ホームページを見れば解ると思って各ページを巡回。すると定形URLが最初のページ(転送される前のページ及びトップページ)に割り当てられた市と思うも越前市が当てはまらず出直し、アナグラム「全く同じ」で広島県の府中町と被る府中市を解答。(東京都の府中市を意識して解答したものの余計なお世話となりましたとさ。)

・問6 美東(未答)
大小と聞いてサイコロと思うもすぐに撤回。ヒント「気になる崖」→「何が聞ける」と取ってコミュニティーラジオ関連をあたるもいかんせん当てはまる所が少な過ぎました。

・問7 美東(未答)
「山口百枝の歌(1978)」から「いい日旅立ち」は導き出せました。が、駅スタンプか?と思ったり、「○○能代」というように(方位・新・中)+市名という駅が複数有るのかと迷走し絞りきれないまま終了。「(いい日)旅立ち」でしたか。

・問8 美東(未答)
「伊・佐」の多さが目につくも何の事だか解りませんでした。ギリギリになって解るも、すんでの所で売り切れになっており涙を飲む結果に・・・
[50618]紫魔法師さんよろしく私も保谷市・伊予三島市・松任市・佐原市と探してみても空しいばかり・・・(苦笑)

・問9 美東(未答)
最初の段階では面積が広い市が多かったのでその関係かと思うも、深く考えないまま時間切れ。ココで正統派な問題が来るとは・・・

・問10 ○沖縄市
唯一ノーヒントで答えられた問題です。最初に問題をザッと見て解答ラッシュが起こっていたのはコレだけでした。問題・解答の市を見れば言わずもがなだったので捻った解答をと思い、コザ市→沖縄市で解答。後で不安になり調べた所、1972年5月15日に沖縄返還が行われており、1974年4月1日の合併が後に行われたので確信が持てました。

総括
前々から十番勝負には興味があり何度も熱戦の様子を見ていましたが、やってみないと解らない事もあるだろうと思い切って参加しました。結果はそれ見たことか(汗)という具合でしたが、とても解き応えのある物でした。グリグリさんどうもありがとうございました。また機会があれば参加したいと思っております。では。
[51024] 2006年 4月 26日(水)21:59:37矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
ココまで来てコレが解らないなんて・・・
問5 府中市(広島県)
こうなったら特殊解で(笑)
[51002] 2006年 4月 25日(火)02:04:30矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
そう言うことだったのか。
問3 気仙沼市
[50286] 2006年 4月 2日(日)03:02:53矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
皆様お初です。
早速ですが、
問10 沖縄市
でどうでしょうか。


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