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eiji_tさんの記事が20件見つかりました

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[45400] 2005年 10月 4日(火)16:24:10eiji_t さん
纏めレスなど
[45368]千本桜 さん
遜って書かれたのでしょうが、関心を広げる方法に「邪道」「正道」の区別があるのでしょうか。
「自分の身近な所から関心を広げる」方法は、「自分の主観に陥って重要な事を見落とす」、「対立する2説があると身贔屓になりやすい」「広げすぎて収拾がつかなくなる」などの欠点があると思います。それで「邪道」と書いたのです。
一方、「縁遠いと思っていた事柄が身近な事に関連があると知ると、その事柄がリアルに浮ぶび上がる」「意外な結びつきを発見する」といった長所もあると思うので、あえて「邪道」で行こうと思っています。
千本桜 さん、どしどし「絡んで」下さい。励みになります。

[45304]紫魔法師 さん
[45169]Issieさん
「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
[45173]eiji_t で「全くの偶然です」と書きましたが、書き落とした事があるので…
日立市の鮎川の命名者は徳川光圀だという説があるのです。(黄門様由来説を書くのは何回目か)
昔、川の上流部の地名から「諏訪川」という名だった。そこに光圀が鮎を大量に放流して鮎川と名付けたというものです。
ともかく「鮎川」の名は江戸時代までは遡れるのは確かなようです。

[45392]笠津前浜 さん
忘れかけていました。言及ありがとうございます。
「職業名由来地名」コレクションに関係なく、「塩」地名の探求を続けたいのですが、なかなか手が回らなくて中断しています。
[45394] 2005年 10月 4日(火)07:36:42eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(2)
[45357]eiji_t の続きです。

2)日立市の誕生
昭和14年9月に日立町、助川町が合併して「日立市」誕生。まずはそこに至る経緯から。
日立村に日立鉱山(明治38)日立製作所(明治43)発足。両社の発展とともに人口も増え、大正13年町制施行「日立町」。
助川町の経緯は、明治22年の町村制施行で助川村,会瀬村が合併して「高鈴村」。村名は地区の西部にある山から取る。助川駅開設(明治30)、鉱工業の貨物が増大。また助川地区には鉱工業の従事者が住み、人口が増えて大正14年に町制施行「助川町」。町名は旧2村の内、助川地区の発展が進み、奈良時代からの歴史のある名である助川に戻したもの。
昭和5年には助川町に日立製作所海岸工場(現日立事業所)が完成。日立,助川両町は地理的にも産業的に密接な関係になり、この頃から日立町,助川町に合併の話が出る。
何度か合併問題は不調に終わるが、昭和14年ようやく同意にこぎ着ける。
しかし新自治体の名称でこじれる。助川町は「日立助川市」を提案、日立町が拒否。妥協案の「茨城市」も両者に不満。ついに県に一任となって、県は歴史のある「助川」より知名度の「日立」を選ぶ。

その後、助川地区に工場が拡充、商店街が発展し市の中心となる。助川町が企業誘致で日立市に名称変更したという、誤った説が拡がる。
[45165]に「地名学の専門家も誤解していた」と書きましたが、こんな例を見つけました。、
企業名由来の自治体名を持つ唯一の市である豊田市の改名運動に、日立市の名が利用されたそうです。
『豊田市史』(第4巻第2章)
挙母市(豊田市の旧市名)商工会議所の有志が、昭和33年に市名変更の「請願書」を市議会に提出しましたが、そこに企業名由来の自治体名の例として「日立市」が挙げられていたのです。
豊田市の場合も強い市名変更反対があり、名古屋裁判所へ行政訴訟まで起こされたそうです。
[45357] 2005年 10月 3日(月)15:36:00eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(1)
合併による新自治体の名称で揉めるのは、平成の大合併に限らず、明治,昭和と続いてきました。それを一つの市に沿って辿ってみるのも意味があるかと思います。

日立市は明治22年の町村制による合併から始まって、編入以外の3回の合併で、その都度名称で揉めました。揉めた相手も理由もその都度違います。以下その経緯を。

1)日立村の誕生
[2369]たけもと さん
元禄年間:徳川光圀が神峰山に登り「日の立ち昇ること領内一」の言葉を残す。
明治22年(1889):宮田村と滑川村が合併。日立村と名づけられる。
しかし事はそう単純じゃないらしいのです。
このとき名称で揉めた相手は、県でした。当時の県官の威力は大きく、例えば現日立市の当時「中里村」は古来縁の「撫子村」を県に拒否され、里川が中心を流れているからと中里村にされたそうです。やはり現日立市の「坂本村」「東小沢村」は名称だけではなく、合併の相手先まで地元の意向を無視されたそうです。
宮田村と滑川村の場合、県は両村から1字づつ取って合成名「宮川村」を指定しました。地元有志は3日以内に新村名を選定して報告するるといって、県指定を拒否したそうです。
地元有志が考え出したのが上記の黄門様に由来する名称だったのです。
黄門様の御威光は明治の県官を納得させるだけの力を保っていたらしいです。(明治6年には光圀を祭神とする常盤神社が水戸に創建され、後に別格官弊社になっています)。
地元の作戦勝ちでしょうか。以後黄門由来説が定着します。

光圀よりも前の江戸期の古文書に「常陸国」を「日立国」と表記する例が2つ現存しています(どちらも個人蔵)。
茨城県の東の外れの一寒村にすぎない村の有志たちに「日の出を早く望むことが出来る常陸の東方=日立という心象」が先にあって、それを光圀の伝承に結びつけたというのが真実に近いらしいです。
[45354] 2005年 10月 3日(月)07:59:56eiji_t さん
レス&アーカイブズ提案
[45335]inakanomozart さん
[45341]かすみ さん
[45342]miki さん
情報提供ありがとうございます。
かすみ さん、miki さん は 以前にもマンホールの話題がありまたね。
かすみ さんのHP拝見しました。写真のアップ期待しています。

というわけで、「マンホールの蓋」アーカイブズに提案してみました。
古い市章のマンホール発見というのと、素敵な(面白い)マンホールを見つけたという2系統に分かれますね。
前にも書きましたが、他の話題の中でマンホールに少しだけ触れた記事が多いので、アーカイブズの趣旨になじむかどうか?

マンホールの蓋
[45339] 2005年 10月 2日(日)21:08:14eiji_t さん
廃線から半年、日立電鉄雑感
先月末で日立電鉄が廃線になって6ヶ月になりました。私は「鉄系」ではないのですが、子どもの頃に乗って見た窓外の風景を思い出しながら、この書き込みをしています。

廃線の1ヶ月後には、山際の線路を雉がのんびり歩いていて「雉も廃線を知っているのかな?」と思ったりしました。
線路の撤去も進んでいます。こんなに早く撤去するとは思いませんでした。
10月末までには「橋」以外は枕木も含め取り払われるそうです。この「橋」が今回の廃線の決定打でした。わずか18.5kmの路線にに橋梁が39ヶ所あるそうです。設備の老朽化の中でも特に橋は著しく、補修しながら騙し騙し使っていましたが、耐用年数が尽きかけているそうです(資材不足の時代に作られた橋は、中古品の転用だったという話もあります)。
始めは、万年赤字線を親会社の日立製作所や地元日立市・常陸太田市が見放したのかと思っていました。廃線やむなしだったのでしょうか。

資料を見ていると、昭和22年に廃止になった駅が在った事が分かりました。廃線のずっと前の廃駅、痕跡が残っているでしょうか。今度行って確かめてみようと思います(痕跡を探すのが好きなのです)。
日立港へ延びる枝線の計画が有ったことも分かりました。用地も確保していて、それが今でも残っています。こちらは現地に行ってみました。道路に沿って細長く草地が延びていました。事情を知らなかったらこの草地の意味も分からなかったでしょう。

茨城県では「鹿島鉄道」が、2006年度で沿線自治体の支援が打ち切りになるそうです。(地元の鉄道の存続に力になれなかった身でなんなんですが)がんばって欲しいです。
[45333] 2005年 10月 2日(日)17:19:43【1】eiji_t さん
四国+マンホール
[45326]YSK さん
レスありがとうございます。YSK さんのページ拝見しました。
写真じゃ判りませんね。実際に行かないと。あ-むずむずしてきた。
ここのところ四国づいていますね。
[45157]88 さんのお遍路の結願
[45321]オーナー グリグリ さん オフ会後の琴平&高知の旅
[45096][45313]かすみ さん 愛媛への旅

[45272]eiji_t のマンホールの件で
「路上観察派」は少ないかな?
と書きましたが、後で落書き帳を検索してみると19件ありました(先に検索しないといけませんね)。
特に[42261]かぱぷう さん
さりげなくマンホールの絵柄チェック
旅行貯金、旅行献血だけでなかったんですね。
[41931]かぱぷう さん
門司区内には旧門司市章のマンホールがありますし、小倉北区内には旧小倉市章がデザインされた橋の欄干がまだ生き残っていますから。合併してから40年以上の歳月が経ってるにもかかわらず、です。
他にも、「沖縄市内、旧コザ市の市章」「仙台の旧宮城町の町章、旧泉市の蓋」などなど…
旧自治体の古いマンホールが残っていて、それを発見する注意深い人も結構いるものですね。

「マンホールの蓋の絵柄」をアーカイブへ推薦したい所ですが、各記事のマンホールに関する部分は短いのでアーカイブになるかどうか?
[45320] 2005年 10月 2日(日)05:35:58eiji_t さん
レスなど
[45312]yamada さん
合成地名に登録ありがとうございました。 せっかちでなもので、すみませんでした。
[45119]eiji_t で参考にした『茨城県町村沿革誌』は、明治30年当時23歳だった細谷益見が私費を投じて著したもので、彼は36歳の若さで亡くなっています。出版社の倒産もあり僅小部数しか出版されず幻の本となってました。自宅にも残されていなかったのを、御子息が捜し出し80年振りに復刻されました。
約720頁、明治の版をそのまま使用し読み難いですが、内容は面白く、当時の県内の町村の様子が窺われます。
[45315]うるう さん
出典は「秋田県町村合併誌」(1960年発行)です。1,400頁弱もあり、県内全市町村の合併までの経緯や、新市町村の紹介などが詳しく収められていてなかなか読み応えある本です。図書館から借りてきてじっくり読み深めてます。
偶然ですが私も図書館から借りて、ぼちぼちと読んでいます。

[45313]かすみ さん
旅の話面白く拝見しました。
私が20年前「お遍路もどきの四国の旅」をしたときは、愛媛県の西南部が最も印象に残っています。名前を忘れましたが、私の感性にしっくり行く町を通り過ぎました。
現在の西予市、大洲市、内子町のどれかに合併した町じゃないかな。再び行けば思い出せる気がします(20年経ってもそんなに町並みは変わってないと想像します)。
[45307] 2005年 10月 1日(土)20:58:02eiji_t さん
Re:長久保赤水
[45242]hmt さん
長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(安永8年、1779)は、経緯線を入れた日本最初の地図であると言われていますが、これより早い森幸安の「日本分野図」(宝暦4年、1754)に既に経緯線が引かれているそうです。
ご指摘ありがとうございます。地元では「日本で最初の」で通っているので、鵜呑みしていました。一寸調べれば分かることでした。
赤水が最も参照した地図は森幸安の「日本分野図」らしいですね。
「刊行された地図では」を前文に付け加えるとより正解に近いかも知れませんね。

私は自分の身近な所から関心を広げる方向で(邪道だとは思いますが)調べています。
赤水の生母は助川村(現日立市)出身で、赤水も水戸へ通う時に日立を通ったであろうと思うと親しみを感じていました。また直系ではありませんが、一族の子孫の長久保光明氏は日立市に住んでいて、やはり地理学を学び『陸前浜街道地誌』などを著しています。

「シーボルト事件」も面白そうですね。中心人物は高橋至時の長男影保ですが、間宮林蔵も絡んでいて…

hmt さんの「地球を測った人々」シリーズ、興味深く読ませていただいています。そちらの感想は、いずれ書かせていただきたいと思います。
[45272] 2005年 10月 1日(土)07:35:00【1】eiji_t さん
マンホールにも合併の影響が
2005.9.27の朝日新聞に、合併によって下水道のマンホールのデザインを一新する自治体が13市町村あると出ていました。
東かがわ市、さいたま市、宮城県加美町、西東京市、富山県砺波市、鳥取県湯梨浜町、熊本県あさぎり町 など
東かがわ市は下水道普及率2.1%だそうで、旧町のマンホールは「路上観察派」にとって貴重な物になりそう。
このサイトを訪れる人は「路上観察派」は少ないかな?
他の合併自治体は、しばらくは旧市町村名のマンホールが残りそうです。

[45265]EMM さん
地名コレクションの件了解しました。
[45010]は見落としていました。申し訳ありません。
皆さん忙しいでしょうに、催促してすみませんでした。

※最後の行、訂正。
[45264] 2005年 9月 30日(金)23:32:39eiji_t さん
地名コレクションの事など
[45244]牛山牛太郎 さん
出典は、たしか会瀬小学校だと思います。
HP上で読みが載っていなくても、アドレスにローマ字で載っていることが多いです。
「会瀬」も「oose」となっていたので、読みを「おおせ」にしました。
早速のレスありがとうございました。出典は、我が母校会瀬小でしたか。
ただ、長音表記「おお/おう」や「じ/ぢ」「ず/づ」などの微妙な表記の区別をローマ字で確かめるのは、少々危険かと思います。「落書き帳」でも以前話題になりましたが、ローマ字表記では元々区別しないのが基本で、実際には表現が揺らいでいると思います。
会瀬の場合は公式には「おうせ」、地元では「おおせ」で、私は地元派です。

あと、催促するようでなんなんですが…
[44949]eiji_t
本家の阿漕浦はなぜ「浦」コレクションに登録されてないのでしょう?
[45119]eiji_t
「合成地名」コレクションに入っていない、一応合成地名を見つけました
茨城県那珂郡・上檜沢,下檜沢の「檜」+氷ノ沢の「沢」=「檜沢村」
のコレクションへの採否の結果をお知らせ願えないでしょうか?
「浦」コレクションの編集者の讃岐の民 さんは最近書き込みをしていないので、見ていない可能性もあると思いますが。
ここは編集長のEMM さんにお願いするしかないですかね。
[45248] 2005年 9月 30日(金)07:24:14eiji_t さん
十番勝負 他
[45238]グリグリさん
了解しました。
[42272][44320]グリグリさん
の記事や、
[45056]愛比売命 さん が指摘された
[31483]グリグリさん
の記事を先に読んでいたら、別掲示板の提案をしなかったと思います。
ただ私の提案に、沢山の方のご意見が聞けて参考になりました。ありがとうございました。
十番勝負に挑む方、がんばってください。

[45239]グリグリさん
実は心配していたのですよ。
[45022]グリグリさん
オフ会ツァーの後遺症でちょっと疲れています。
の後、短い記事一つ書いて、その後沈黙を守っていたので、病気になられたのかと…
忙しかったのですね。安心しました。
[45033]eiji_t
の※印以下の訂正の要求の記事、削除出来ないでしょうか?
30時間以内に訂正されていれば自分で削除するつもりでした。
[45237] 2005年 9月 29日(木)22:09:31eiji_t さん
江戸時代の地図と茨城
江戸時代に何故か茨城ゆかりの地理学者や地図製作者や探検家が輩出しました。
今月17,18日水戸で開かれた日本地理学会に因み、県内の博物館や資料館が連携して茨城出身の地理学者たちが紹介されています。
大洗の幕末と明治の博物館など。
 
高萩出身の長久保赤水は、「伊能図」より約50年早く縮尺と経緯線を導入した最初の地図、いわゆる「赤水図」を作りました。ただ赤水は伊能忠敬と違い測量は殆どせず、情報を収集して赤水図を作り上げました。赤水図は江戸時代に多くの人々に利用されました。
土浦の沼尻墨僊は日本で始めて折り畳み式の地球儀を作りました。
その他「間宮海峡」の間宮林蔵(伊奈町)、鷹見泉石(古河)など。

[45234][45236] hmt さん
が詳しく説明してくれた伊能忠敬も13歳の頃から、土浦の寺や医家で算術や医術を学び、後の地図製作の基礎を培った言われています。

水戸学を基礎に、蘭学を取り入れて先進的面を見せた水戸藩士も、幕末には「桜田門外の変」の水戸浪士や「天狗党」など破壊的役割を果たしただけでした。
[45218] 2005年 9月 29日(木)07:47:49【1】eiji_t さん
かな表記 公式では「おう」地元では「おお」
茨城県日立市に残る町名「会瀬」、明治22年の町村制施行まで村、その後高鈴村、助川町、日立市の大字。
『常陸風土記』に拠りますと、奈良時代まではこの辺りは広く「遇鹿郷あいがのさと」と呼んでいた。
その後海岸辺りだけ遇鹿の遺称「相賀あいが」の地名が残ります。
徳川光圀が元禄11年に「相賀」を「会瀬」と名付けたそうです。
前にも書きましたが、茨城県には黄門様が名付けた、あるいは黄門様由来とされる地名が沢山残っています。真偽は「?」。

識者は「会瀬」は「逢瀬」に通じ、「おうせ」が正しい、と言います。
地名辞典、地図、郵便番号簿などでは「おうせ」、日立市の見解も「おうせ」。
でも地元では「おおせ」に馴染がある。
公的機関では、会瀬に在る保育園の正式名称は「日立市立おおせ保育園」。
茨城大学工学部の留学生の為の寮の名は「おおせ国際寮」。
仮名で「おおせ」の名称を付ける店舗の数3。「おうせ」は無し。
地元の祭りの名称は「おおせ夏祭り」「おおせ秋祭り」

おおせ保育園中退、会瀬小学校卒業の私も「おおせ」派。
牛山牛太郎さん編集の「海岸」コレクションでも「会瀬海岸」の読みは「おおせ」、
出典は何処でしょうか?

全国でも「会瀬」の地名は他に無し。「会」を使った地名の読みも「かい」「え」「あい」の3種類だけ。
例外は兵庫県美方郡村岡町川会(かわい)。これは「かわ・あい」の音便で「あい」に入るでしょう。

※追記
「会」を使った地名を調べていたら「会社町」という地名を発見。
福岡県田川市大字奈良 会社町
参考HP:・・デジカメ持ちある記・・>地名!?>会社
由来は不明とのこと。炭鉱と関係あるらしいのですが、どなたかご存知の方は?

※2字追加
[45200] 2005年 9月 28日(水)18:30:47eiji_t さん
地名の読みが昔に戻った小さな例
現在の茨城県日立市中成沢町2丁目の小字に「上の内うえのうち」という地名がありました。
戦前にそこに日立製作所の社宅が出来ると、社宅の新住民たちは「かみのうち」と呼ぶようになりました。旧住民たちは始めは「うえのうち」と訂正していましたが、いつしか「かみのうち」が定着するようになりました。
住居表示変更で「上の内」の地名も無くなり、社宅も取り壊され「上の内」の名はバス停の名だけになりました。しかしバス停には「かみのうち」とルビが振ってあって、バスの車内放送のアナウンスも「かみのうち」でした。
そこで地元の有志が立ち上がってバス会社に掛合い、ついに読みを訂正させる事に成功しました。バス会社にしても、バス停の文字を塗り直す、車内放送の録音テープを一部変更するだけで費用も大してかからずに済んだ事が受け入れた理由でしょう。
日立市も『市報』に経緯を含めバス停呼称変更の予告記事を掲載しました。異例とも言うべきでしょう。平成2年の事です。

現在同地区には「上の内」という名を使った建物がアパートと会社の寮の二つ。どちらも読みは「かみのうち」らしいです。誤った読み方が一度定着すると訂正は難しいということでしょうか。
でもバス停だけでも昔の読みに戻させた有志たちの努力は無駄ではなかったと思います。
[45179] 2005年 9月 27日(火)08:38:07eiji_t さん
お遍路+シメジ
[45157]88 さん
結願おめでとうございます。

私は20年前の夏、お遍路まがいの四国放浪をしました。白衣、納め札、納経などをせず(何故か恥ずかしかったのです)船で入った高松から順路で1ヶ月余り、途中をはしょり(24^26,38^40,山の札所など)寄り道をしながら、約1ヶ月殆ど野宿でした。まがいものでも「お接待」を受け、四国の方々の暖かさを感じました。いつか本物のお遍路をしようと思いつつ、20年が過ぎてしまいました。

[45176]EMM さん
長野県でも「イッポンシメジ」でしたか。
私が長野で聞いた時は、イッポンシメジは毒だという人と食べられるという人がいて混乱した記憶があります。県内でも地域差があるのでしょうか。
「クサウラベニタケ」(ウラベニホテイシメジとは生える林が違う)
最近の本(2003年刊)によると、最近のキノコ図鑑にはイッポンシメジを載せないそうです。専門家でも見分けがつき難いからだそうです。
もしかしたら「生える林」によって、同じ茸でも毒性が出たり出なかったり?
キノコだったら、その可能性も…
[45173] 2005年 9月 27日(火)00:13:07eiji_t さん
Re:鮎川さん
[45169]Issie さん
「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
はい、全くの偶然です。
日立鉱山を興したのは鮎川義介の義弟の久原房之助です。やはり山口県萩出身です。最初の名称は「久原鉱業所日立鉱山」です。日立鉱山で成功した久原は各地の鉱山を開発し、久原財閥を作り上げますが、義兄の鮎川に経営を譲り政界に進出します。鮎川はこれを三井三菱を凌ぐ戦前最大の財閥「日産コンツェルン」に育て上げます。鮎川も後に政界入りします。
日立製作所を興したのは栃木県出身の小平浪平です。電源開発のため技師として日立鉱山に入社した小平はそれが一段落すると、日立鉱山の敷地に建てた30坪の掘立小屋で輸入機械の修理を始めます。
1910年電気機械の国産化に成功し翌年独立します。
[2369]たけもと さん
大正9年(1920):株式会社日立製作所発足。
とありますが、それは上記の名称を名乗った年で、実際の独立は1911年です。明治の男小平は恩義ある久原家に義理立てし、久原が久原鉱業所を引退するまでは、会社を久原鉱業所日立製作所としていました。日立製作所は鮎川義介の「日産コンツェルン」の傘下に入りますが、完全に支配されたわけではありませんでした。
今回のレスの為、google検索をしてみたら、日立製作所の創業者=久原房之介というのが多数ありました。明らかな誤りです。インターネットの危うさを感じます。

鮎川村の名の由来はそこを流れる「鮎川」です。全長わずか11kmですが深い渓谷を作って流れています。よって鮎川村と鮎川義介は完全に無関係です。
ちなみに私が今住んでいる所は、昔の鮎川村です。日頃はそんな事全然意識しませんが。

今年3月31日で廃線になった日立電鉄の「鮎川駅」は終着駅です。JR線との接続も無く「何で此処が終着駅?」という感じでしたが、それは日立市の中心部への線路の延長の計画が鮎川の渓谷を越える鉄橋の費用の点で、頓挫したからです。線路が市の中心部へと延びていたら、廃線もどうなっていたか。

日立市民にとって、上記3名のうち最も知名度が高いのは、圧倒的に小平浪平です。
尤も日立鉱山に関係の深い地区では久原房之介かもしれませんが、私はそちらは詳しくありません。鮎川義介は最も遠い存在です。
[45168] 2005年 9月 26日(月)19:03:09eiji_t さん
Re:水系が気になる今日この頃 矢部川
[45144]らるふさん
[45156]いっちゃんさん
[45167]らるふさん
「一級水系の流域が10ある県」「熊本県」
やはり水系が気になる私も「一級水系の多い順に一覧を作れば便利だな」と思い、検索すると有りました。部分的ですが(上位4位までと、下位3位まで)。
[42686]futsunoおじさん
しかしここでは、熊本県は水系が8で、長野県と並んで2位対でした。
futsunoおじさん は、ご自身が紹介した「週間 にっぽん川紀行」1~3巻に付録としてついてる"分水嶺がわかる日本河川全図"を参照したのでしょう。
この図の裏面の河川毎の一般的データの表には、「矢部川水系」「川内川水系」は熊本県が入っていないのです。ご自身も、
(記載事項に疑問が全くないわけではないのですが。)
と記しています。そこで熊本県HPで調べてみると…
やはり、「矢部川水系」「川内川水系」が抜けています。
2つの水系の熊本県内部分は、どこが管理しているのでしょうか?国ですかね。

また熊本県内の矢部川水系をウォッちず
で見てみると、2戸の民家らしい記号があります。また周りに水田の記号もあります。もし此処に現在も人が住んでいるとなると、以前話題になった長野県内の利根川水系「田口峠を隔てた馬坂・広川原地区」に住む39人より少ないでしょう。
ARC分水界、川の流れに関する雑学集
もし住民が住んでいたら、その人達は熊本県と福岡県の間でどのような生活をしているのでしょうか。想像が膨らみます。

水系に関しては、まだまだWonderが隠れていると思います。
らるふさん、いっちゃんさんにそのことを再認識させていただきました。
[45165] 2005年 9月 26日(月)11:25:20【1】eiji_t さん
日立市 日立製作所 日製
[45158]ゆう さん
工場設立の少し前までは那珂郡勝田町でしたから、那珂工場の場合は隣町の名前を借りたとまでは言い切れないように思います。
貴重なご指摘有難うございます。
私の考えでは、那珂郡の名を採用した可能性は少ないと思いますが、あらゆる可能性を考慮に入れたいと思います。
直接尋ねるのが早道でしょうが、何故か億劫です。
私の場合は問題の周辺をウロウロしているうちに、ヒントを見つけると云う遣り方をしています。

ところで、そもそも「日立」が地名由来の企業名なのですが、今となってはその地位は逆転してるようです。
その通り!それどころか、企業名が先だと誤解される場合が非常に多いのです。
「落書き帳」でも昔話題になったことがありますが、
[2363],[2364]Issie さん
[2369]たけもと さん など
纏めますと、 日立村<日立鉱山<日立製作所<日立町<日立市。

専門家でも誤解している例があります。
地名学の大御所、谷川健一氏は『現代「地名」考』(1979)の
第3章「病める現代地名」で企業由来の地名を戦後の豊田市と共に戦前派として日立市を挙げ ています。
都市社会学の権威、磯村英一氏も共著『都市と文化』(1980)所収の「地名を守る」で、
「企業の名称が地名にとって代わる」として光市、豊田市、日立市を挙げています。
※光市は海軍工廠が名称の由来 光市の沿革

ところで、
地元では日立製作所を「日製(にっせい)」、日立市を「日立」と呼び区別しています。
全国的には「日立」と聞けば日立製作所を、「にっせい」なら生命保険会社を連想するでしょうか。
地域によって、「にっせい」と略称する企業は他に沢山ありそうですね。「日成」「日精」…

このところ大学の略称が話題になりましたが、企業もその地元だけで通っている略称が存在する事でしょう。

※1ヶ所訂正
[45142] 2005年 9月 25日(日)10:43:08eiji_t さん
キノコ 4
[45137]YSK さん
新規アーカイブに「秋、キノコを楽しもう」を加えて頂きまして有難うございます。

「キノコの話は自粛します」と宣言しましたが、その後も書込みがあり、といって「落書き帳」がキノコ一色になる程では無い様なので、コメントします。

[45101]般若堂そんぴん さん
ベニテングダケの毒抜き法、有難うございました。手に入ったら試したいと思います。

[45108]EMM さん
・イッポンシメジ(ウラベニホテイシメジ。毒キノコの「イッポンシメジ」のことを指すのではない)
ウラベニホテイシメジ(食)をイッポンシメジと言う地方があることは聞いてました。石川県でしたか。

イッポンシメジ(毒)をそちらではどう呼んでいるのでしょう?区別していると思われますが。
クサウラベニタケ(毒)(イッポンシメジ(毒)を含む)はウラベニホテイシメジ(食)と似ている為、誤食が多く全国のキノコ中毒の3割を占めているそうです(東京都衛生局調生活環境保健課)

[45113]北の住人 さん
「舞茸」、私の辞書では、その形が「舞っているような観を呈する」とあります。
『広辞苑』にも
1).全体の姿が舞っているように見えるから
2).見つけると思わず舞うほど珍重するから
と有り、この二説は前から知っていました。ただ、
[45088]北の住人 さんの、
今昔物語に、食べると踊り出すキノコを舞茸と呼ぶようになったが、今の舞茸を食べても必ずしもそうならない、という話があるようですが、現代のとは別物でしょうか。
の文面を「食べると踊り出す程美味しいから」と読み間違えて、この説は初めてだったので、
[45091]じゃごたろ さん
と同じく「見つけると踊り出す」説だけ紹介したのでした。
そして「昔は美味しかったのに現代のは不味くなった」解釈して
天然の舞茸は、現在の物でも非常に美味しいですよ。
と、頓珍漢な返事をしてしまったのです。

改めてgoogleで「今昔物語 舞茸」で検索してみました。
どうも「今昔物語」の話は、神経毒性のキノコを食べて踊り出してしまったのですね。
オオワライタケではないかと出ているサイトもありました(真偽不明)。
どうやら「今昔物語」の舞茸と、現代の舞茸は別物の様です。
「きのこ観察会」は事故に遭う危険が少なく良い方法ですね、ただ観察だけだと…

[45134]みやこ♂ さん
「キノコと地域性」と言えば,「チタケと栃木県」に勝るものは無いのではないでしょうか。
(チタケ:チチダケ,チダケとも)
先日テレビで栃木県のチタケの事を放送していました。最後まで見ていなかったので調理法までは…
「そうか、ダシにすると良いのか」参考になりました。
こちらではチチタケと呼んでいたと思います。

つい長文になってしまいました。やはり自粛は必要か…
[45119] 2005年 9月 24日(土)16:50:35eiji_t さん
合成地名から、外された村々+コレクションから漏れた1件
茨城県那珂郡の明治時代からの合併事情を調べていましたら、以下の例を見つけました。
佐野村は合併した旧5村の内、人口上位の2村から名を取った合成地名です。残り3村は地名から外されてしまったのです。那珂郡には同じ例が他にありました。

・合成村名/名を使われた村/外された村

・佐野村/佐和村,高野村/高場村,田彦村,稲田村
・川田村/枝川,津田/堀口,市毛
・中野村/中根,部田野/東石川,柳沢
・前渡村/前浜,馬渡/長砂,足崎
・上野村/上岩瀬,宇留野/下岩瀬,根本,泉
・塩田村/北塩子,西塩子,照田,長田/長沢
・勝田村/勝倉,武田,三反田/金上
(※勝田村は勝田町<勝田市となり1994年まで残る)

他に過去ログを検索したところ下の1例だけ見つかりました。
[39232]地名好き さん
1955/04/15に「金砂村」+「金郷村」+他2村=「金砂郷村」
現在の常陸太田市です。
他2村とは郡戸村,久米村です。金砂郷村の場合は昭和の合併です。

4村以上から合成地名を考え出すのは難しかったのかなあ。合成名から外された村々は「味噌っかす」扱いにされた気持にならなかった?

他にも有りそうな気がします。情報をお願いします。

※「合成地名」コレクションに入っていない、一応合成地名を見つけました

茨城県那珂郡・上檜沢,下檜沢の「檜」+氷ノ沢の「沢」=「檜沢村」
56.9.29美和村、現在の常陸大宮市

両檜沢から「檜沢村」じゃ無いの、という感じですが、
『茨城県町村沿革誌』(明治30年刊,1976年の復刻版を参照)
『茨城県市町村合併史』(1958年刊,茨城県総務部地方課編)
には、上記のように合成名と出ていました。氷ノ沢村を納得させる為にこじつけたのか?
判定をコレクション編集者にお任せします。


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