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eiji_tさんの記事が20件見つかりました

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[45098] 2005年 9月 23日(金)21:33:00eiji_t さん
舞茸
[45088]北の住人 さん
舞茸というのは、雅な時代にはどうだったのでしょうか。今昔物語に、食べると踊り出すキノコを舞茸と呼ぶようになったが、今の舞茸を食べても必ずしもそうならない、という話があるようですが、現代のとは別物でしょうか。

天然の舞茸は、現在の物でも非常に美味しいですよ。
商品名「ゆ※ぐ※まいたけ」など一般に出回っているのは、栽培物です。
味、香りなど比べ物になりません。栽培のおかげで何時でも安価に手に入れる様になりましたが、舞茸ってこんな物かと思われると…
[45091]じゃごたろ さん
「舞茸」も非常に風味があって、味噌汁にすると他にダシがいらないほどのおいしさですよ。
じゃごたろ さんが言っているのも天然物だと思われます。
舞茸は「束生」といって株になって生えています。時には1株,数kgにもなって、見付けると踊り出すほど嬉くなる理由の一つです。数年前、東京都心の青山墓地で舞茸の大きな株が見つかった、という記事を読んだことがあります。

スーパーなどで買える茸は、松茸を除いてほぼ栽培物です。
茸の天然物と栽培物の差は、魚の天然物vs,養殖物以上だと思います。

シメジに至っては栽培化が成功した別種を「※※シメジ」として流通させました。
先に栽培化が成功したヒラタケに対し後に栽培化された「ブナシメジ」が、先のヒラタケと区別する為に「本しめじ」「ホンシメジ」などという名で出回りました。消費者は混乱し、ついに公正取引委員会が排除勧告をして、本来のブナシメジという名に戻りましたが、混同する人が未だいます。

ヒラタケの天然物はこれから(晩秋から初冬にかけて)採れます。シメジと違った美味しさがあります。ところが栽培物は外観をシメジに似せる為に味を無視した特殊な栽培法で育てています。

話し出したら一晩中でも話し足りないほど、キノコ好きのeiji_tですが、ここはキノコのサイトではないので、以後キノコの話は自粛します。
[45093] 2005年 9月 23日(金)09:19:38eiji_t さん
ひたちなか市の中の水戸、那珂、東海工場
ひたちなか市の日立製作所の5工場の内、3工場が設立当初近隣の水戸市,那珂町(現在那珂市),東海村から名を借りています。残る2工場の内、佐和工場は勝田市(当時)大字佐和にはない。近くの常磐線佐和駅からか(佐和駅も大字佐和には無くややこしい。精細は略)
つまり5工場中4工場が地名と工場名がずれていたのです。

現在は水戸工場以外は地名に関係ない事業部名に変更していますが、バス停,交差点名などはそのままで、地元では今でも旧工場名で呼んでいます。
地図1那珂工場,水戸工場,勝田工場
地図2東海工場,佐和工場
マピオンの地図でも旧工場名で表示していますね。

ひたちなか市の日立製作所の工場名のリスト
・旧工場名(設立年)現在の名称/ひたちなか市の大字

・水戸工場(1940)水戸事業所/市毛
・那珂工場(1960)計測器事業部/市毛
・勝田工場(1961)火力・水力事業部素形材本部/堀口
・佐和工場(1968)自動車機器グループ/高場,稲田にまたがる
・東海工場(1968)デジタルメディア製品事業部/稲田,高場,田彦にまたがる

水戸工場の名の由来だけは判りましたが、戦争に絡んでいて少々重いので別にレスします。

他の工場は『日立製作所史.3』『那珂工場二十年の歩み』『勝田市史近代・現代編2』にも命名の由来が載っていません。
以下私の推理
水戸工場以外は、他工場の分工場として発足(現在は独立)。
那珂工場,佐和工場>多賀工場(日立市)
勝田工場>水戸工場
東海工場>横浜工場
つまり日立市、横浜市など他地域の日立製作所の関係者にも判り易い工場名にしたのか。
また那珂工場,水戸工場,勝田工場、東海工場,佐和工場はそれぞれ並んでおり区別をつけるためか。

中途半端ですが、鋭意調査中。情報があればお願いします。
[45087] 2005年 9月 22日(木)19:39:34eiji_t さん
キノコ
[45065]じゃごたろ さん
[45066]般若堂そんぴん さん
スギヒラタケ
全国に分布しているそうですが、主に食べるのは東北と新潟だそうで、私の地元茨城でも、キノコ狩りを経験した長野でも聞いた事はありませんでした。患者も青森,岩手を除く東北4県と新潟と北陸と岐阜などでした。食分布と重なっていると思われます。
2005.5.15の毎日新聞に患者の脳に特異な組織破壊が見つかったという記事が出ていました。
(5.31朝日新聞科学欄にも同様の記事)
しかし、いまだ原因物質が特定出来ていないのは不安ですね。

[45080]音無鈴鹿 さん
詳しい解説ありがとうございました。参考になりました。
ホテイシメジの成分であるコプリン
ヒトヨタケにもコプリンが含まれ、同様の症状を引き起こすそうですね。そこら辺に生えているヒトヨタケが食べられるとは知りませんでしたが、近縁のササクレヒトヨタケは美味しいそうです。
ベニテングタケですが、神経毒のムスカリンと、中枢神経系に作用するイボテン酸、シロシンが含まれています。
ベニテングタケの生食は二度としませんし、お勧めしません。
おそらく毒抜き法は非酸素条件で”還元”するのだと思います。わずかながら毒性があり肝障害を引き起こすとのことなので、やはり食べないほうがいいのでしょう。
毒抜きというより弱毒化ですね。だからキノコの本にも、毒抜き法を書いていないのですね。でもベニテングタケのダシのうどんは、一度は食べてみたい(話してくれた人があまりに美味しそうに言うもんで)。

ベニテングタケは主にシラカバ林に生えています。白い木肌のシラカバの間に赤い茸が点々と、運が良ければ「妖精の輪舞」とも呼ばれる菌輪も…

クマ、スズメバチ、遭難、キノコ中毒などの危険にもかかわらずキノコの妖しい魅力は輝いています。
信州の山里で美味しいキノコを味わった時には、何もかも捨てて此処に住み着きたいと考えたほどです。

余談ですが、表題の四コママンガを知ってる方いますか?
『キノコ・キノコ』聞いた事があるような…
で、ググってみました。絵はどこかで見た様な気がします。
最近復刻したそうですね。
[45062] 2005年 9月 21日(水)17:41:29【1】eiji_t さん
秋、キノコ狩りの季節
地理とは直接関係ないのですが、地方によって違いが大きいものなので書きます。

同じ茸が土地によっては珍重されたり、見向きもされない土地があったりと奥が深い。隣県同士でA県は中毒例有り、B県は中毒例なしという茸もあります。
去年はそれまで食用とされていた「スギヒラタケ」が東北中心に大量の中毒者を出しています。

私自身はキノコ狩りの経験は乏しいのでが、その体験談を。

子どもの頃、茸採りは遊びでした。知識が無かった為、採るだけで殆ど捨ててしまいました。その山々も開発されたり、放置されて荒れてしまったりで茸の姿も見られません。

仕事で松本に2年間いた時、2シーズンだけ松本中心に信州各地でキノコ狩りを堪能しました。
慣れてくると面白いように茸が見つかって、キノコ狩りも楽しいですが…
何といっても楽しいのは、自分達で採った茸で鍋を作り、それを囲んで地酒で一杯やることです。初めて会った人とも打解け、酔いも手伝って、夜間は無人になる公営の露天風呂に女の子達も一緒に忍込んで、一晩中騒いだ事もありました。

キノコ中毒にもなりました。ホテイシメジという食用茸ですが、酒と一緒に食べると悪酔いするいうものです。不思議な酔いで自分はハイになって酒を飲みすぎたかな思っただけでした。友人2人は一晩中洗面器を抱えて嘔吐し、救急車を呼ぶ寸前までいったそうです(新聞ネタになるのを恐れて我慢したらしい)。後でその事を聞き、あれはキノコ中毒だったのだと納得しました。

信州の佐久、上田地方では毒茸ベニテングダケを毒抜きして、うどん等のダシにするそうです。残念ながら時期が合わず食べられなかったのですが、非常に美味しいそうです。毒抜き法を聞きそびれました。文献にも載っていません。
詩人のナナオ・サカキ(知る人ぞ知る日本のヒッピーのカリスマ、欧米では有名、現在生きていれば80過ぎ)に会い、一緒にベニテングダケを生で齧ったりしました。今の私を知る者は信じられないそうですが、そっち方面に近づいた事もあったのです。
(ベニテングダケを食べるとどうなるか?2,3本なら死にません。うまくいくとハイになれますが…)

松本市の隣の四賀村(当時)に稲刈りの手伝いに行って、松茸をたらふくご馳走になった事もありました。後で知ったのですが四賀村の松茸は全国でも有名ブランドだそうです。
翌年も手伝いに行きましたが、その年は不作で去年物の塩漬を少しいただいただけでした。欲を掻くと駄目ですね。松茸山のその年の権利を三百万円で買って、2,3本しか採れず一本百万円の松茸を買ったと、笑われた人もいました。

皆さんの地方でも、その地方独特の茸があると思います。その茸や特別な調理法などがあったらお知らせください。

※リンクを1ヶ所挿入
[45050] 2005年 9月 21日(水)07:33:55eiji_t さん
「十番勝負」について
[45049]白桃 さん
貴重なご意見、有難うございます。

1.ここはグリグリさんの「お庭」であり、それはオーナーであるグリグリさんが自らのお考えでお決めになること。
もちろん、これが大前提です。自分のレスで書くべきでした(反省)。

「クイズ専用掲示板」ではなく、本舞台で名をあげることがクイズマニアの本望ではありませんか。例えがおかしいですが、別掲示板はいわばBSチャンネル、そうじゃなくて、全国放映、誰もが見るNHKこそ名誉の舞台なんです。
正直言ってよく解りませんが、情熱はヒシヒシと伝わってきました。

(クイズ専用の掲示板について)
このことにつきましては、以前から議論されていることでありますが、
議論されている記事の番号をお知らせ願えないでしょうか?

私は2年半のブランクの後「落書き帳」に戻ってきた時、「十番勝負」の存在を知りませんでした。第八回十番勝負が始まった時「嵐に見舞われた」と当時そう感じました。
今回、十番勝負に関連する記事をざっとですが読み返してみると、クイズ好きの皆さんの情熱を感じました。
第九回十番勝負に取組む皆さん、頑張ってください。

そこで、弱い提案。
「せめてクイズ関連の記事とその他の記事とを、分けて書込んでいただきたい」

※白桃 さん 一行目、お世辞だと思いますが、非常に恥ずかしいです。自分の文章にコンプレックスを持っています。「下手くそ!」という感じです。
[45041] 2005年 9月 20日(火)21:04:55eiji_t さん
消えた「浦」
[44949]eiji_t において、
池になってしまった「浦」、「阿漕ヶ浦」を取り上げましたが、今回は阿漕ヶ浦の近くに嘗て存在し、干拓で消滅した東海村村松の「真崎浦(正木浦)」を紹介します。

地図
地図では判り難いのですが、中央に水路の通っている水田が真崎浦の一部「広浦」を干拓したものです。
地図を上にスクロールするとやはり真崎浦の一部「細浦」を干拓した細長い水田が見えます。
その右上の池が前に紹介した「阿漕ヶ浦」です。

真崎浦は鎌倉時代までは、村松海岸から入り込んだ入江でした。
生活の場を水際に求めた原始時代から古代においては重要な生活の場であった証拠に貝塚や古墳が多く残されています。
読売新聞2005.9.2茨城版に「真崎古墳群」5号墳から全国で6例目、東日本初の「木椁(もっかく・
棺を納める外枠)」が見つかった、という記事が出ていました。有力な豪族が住んでいた証拠に
なるそうです。
鎌倉時代までは海上交通の要所であり、浦に突出した岬には「真崎城」始め幾つかの城址があり軍事上の拠点でもあったと思われます。

ところが、徐々に入江の口が海流や風によって運ばれた砂に埋もれ、湖沼化しました。砂の威
力はものすごく、近くには砂で埋もれたといわれる村の「千々乱風伝説」が残っているくらいです。
湖沼化した真崎浦は「村松沼」「素絹の沼」などとも呼ばれるようになり、水産資源(魚、鳥、蓮根)の重要な場になります。

しかし、この沼の水面はは海面より低く、大雨時には洪水で沿岸の村々を苦しめました。
そして安政3年(1856)に干拓が始まりました。難工事および開墾者同士の争い、指導者の死去
などで工事は度々中断され完成したのは昭和13年(1938)です。

現在「真崎」の名は小字に残っているだけです。しかし注意してみると、波で浸食された跡が露
出した崖に出くわしたり、内陸にに船場という地名が残っていたりします。

地図や現場に痕跡を探す事は興味が尽きません。、
[45033] 2005年 9月 20日(火)07:14:04eiji_t さん
クイズだらけにならない為に
[45020]いっちゃん さん
[45022]オーナー グリグリ さん
[45027]いっちゃん さん
[45029]愛比売命 さん

「十番勝負」を含めクイズ専用の掲示板を立ち上げたらいかがでしょうか?
そうすればクイズ好きの人は心置きなく、楽しめるでしょう。
私のようにクイズに興味が無い人も、その間に書込んだレスが埋没してしまう心配も無くなるでしょう。
「落書き帳」もすっきりすると思います。
一考をお願いします。


[45025]オーナー グリグリ さん
[45025]葵区さん、
とありますが、
[45024]の誤りではありませんか?
[44949] 2005年 9月 17日(土)15:10:11eiji_t さん
阿漕ヶ浦 阿漕浦
茨城県東海村村松の「阿漕ヶ浦」地図

これで「浦」?ただの池だろう、という感じの阿漕ヶ浦ですが、昔は太平洋の海水が流入する入り江だったのです。
[2956]せか さん
それではなぜ霞ヶ「浦」なのかというと、今から1000年以上前、霞ヶ浦一帯は海水がさかのぼる入り江となっていたからです。
つまり霞ヶ浦の超ミニ版です。

名前は、徳川光圀が伊勢神宮の分霊を祀って近くに「村松大神宮」を造営した時、三重県の阿漕浦(伊勢神宮に供する神饌の漁場)に因んで付けられたそうです。(真偽は定かでありませんが、茨城県には水戸黄門に因む地名が各所に残っています)
原子力関連施設が立ち並ぶ東海村に在って、このあたりは昔の東海村を偲ばせる佇まいです。

ところで、本家の阿漕浦はなぜ「浦」コレクションに登録されてないのでしょう?
「あこぎなやつ」などと使われる「あこぎ」の語源になったほど有名なのに…
「浦」コレクションの「浦」の定義に合わないのでしょうか?
[44914] 2005年 9月 16日(金)07:06:41eiji_t さん
大森貝塚は大森にはない?!
今日9月16日はモースが大森貝塚を発掘して128周年になります。
昨日のの朝日新聞の文化欄に『「大森貝塚」は大森にはない』という記事が出ていました。

記事によりますと、
考古学者でないモースは、発掘場所の精確な記録を残さず「大森停車場の近く」程度の理由で名づけたと思われる。後年、場所を巡って意見の食い違いが出て、記念碑も太井町(現在の品川区太井)と大森町(大田区山王)の2ヶ所に建てられた。
その後の調査で、発掘場所は品川区太井にほぼ確定された。しかし、「大森貝塚=大森を掘った」という思い込みは、考古学者たちも逃れがたいようだ。

[44072]eiji_t で
「1985 日航機墜落現場=御巣鷹山ではない」を取り上げましたが、

「地名は一人歩きする。最初が肝心」という事でしょうか。

参考:大森貝塚は2つある
[44902] 2005年 9月 15日(木)15:12:05eiji_t さん
久遠の仮名表記
[44896] 紅葉橋律乃介 さん
[44899] スナフキん さん
[44900] じゃごたろ さん
[44901] 烏川碧碧 さん

図書館で調べてきました。
『全国市町村要覧』は、平成元年版が図書館所蔵では一番古く「くどう」でした。

他に
『日本歴史地名大系1.北海道の地名』平凡社2003.10と
『角川日本地名大辞典1.北海道(上)』1991.10を調べました。(以下平凡社版、角川版と略)

久遠郡の表記は両者とも「くどお」でした。

平凡社版「クドウ」の説明に、
漢字表記地名「久遠」のもとになったアイヌ語に由来。
仮名表記は他に「クトウ」「クドフ」「クドヲ」など。
漢字表記は「久刀布」「久度布」「久登宇」など。
アイヌ語の語源は「グーウンツウ」弓を置く岬の意。

角川版は語源に、アイヌ語の「クンルー」危路の意、の異説も紹介。

どちらも久遠郡の「くどお」表記の説明なし。
他に久遠神社(くどおじんじゃ)の項あり。

詳しくは、現物に当たって下さい。
[44890] 2005年 9月 14日(水)18:39:09eiji_t さん
Re:合併後の市町村名と新事務所の位置
[44883]てへへ さん
早速、情報有難うございます。

寸評(面積km2/人口)
・古河市(123.58/146,714)
古河市(21.00/58,562)総和町(52.80/48,930)三和町(48.78/39,222)
地理的に中央役所を総和町に譲ったのは妥当か。
新市名は「こが市」も候補に、旧古河市の反対で落着く。

・笠間市(240.25/82,358)
笠間市(131.61/30,076)友部町(58.71/35,557)岩間町(49.93/16,725)
地理的には笠間市と岩間町の直接の道路なし。鉄道も友部駅乗換え。中央役所の位置妥当か。
新市名は笠間稲荷、笠間焼など「笠間」の知名度からか。

・日光市(1,449.87/98,143)
今市市(243.54/62,476)日光市(320.90/17,428)他町村・略
人口比から、今市市に中央役所は妥当か。
新市名はやはり「日光」の知名度からか。

・天草市(682.91/102,907)
本渡市(144.82/41090)天草町(85.46/4,676)他市町・略
人口、位置的に中央役所は本渡市で妥当か。
新市名は天草町に譲ったというより、新市は天草諸島の大部分を占め「天草」の知名度からか。

寸評は私の個人的主観、異論歓迎。
てへへ さん の挙げた他の市町の寸評は略。これから検討します。
[44869] 2005年 9月 13日(火)17:05:53【1】eiji_t さん
合併後の新事務所の位置
[44832]miki さん
[44843]夜鳴き寿司屋 さん
[44853]役チャン さん
[44854]Hiro(&TOKO) さん
合併後の新事務所の位置の決定も、大変ですね。過去の「落書き帳」にも新事務所の位置で揉めて、合併がご破算になった例がありましたね。

miki さんがリンクを張られた新・笠間市の「新市の事務所の位置にについて」
参考になりますね。そこから
1.本庁方式(潮来市、ひたちなか市)
2.分庁方式(つくば市、かがわ市)
3.総合支所方式(静岡市、周南市)
色々工夫してるんですね。2,3は妥協の産物ですね。

また、miki さんが挙げられていました古河市、笠間市の例
「1市と複数の町(村)が合併して、新市の名に旧市の名が受け継がれるのに、新本庁を合併する町に譲る」
やはり、珍しいと思います。過去の合併を含めて、知りたいですね!

ついでですが、
駅名由来の…

[44834]yamada さん
駅の所在する好地村が町制時に駅名の石鳥谷(いしどりや)をとって石鳥谷町となりました。
[44837]いっちゃん さん
「那須塩原市」も「那須塩原駅」が無かったら果たしてこのような市名となったかどうか・・・?
有難うございます。今後もよろしくお願いします。

※1ヶ所訂正
[44849] 2005年 9月 12日(月)18:10:51eiji_t さん
久慈川下流の沈下橋
沈下橋は工費、維持費が安く済むため中小河川には今でも現存しますが、最大の欠点は船が通過できない事です。一級河川の下流には殆ど無いでしょう。沈下橋で有名な四万十川の最下流の佐田沈下橋(今成橋)でも河口から16kmほどです。

[44775]eiji_t で取り上げた東海村亀下と久慈川の対岸の留(現・日立市留町)との間には「留橋」という沈下橋が105年間存在しました。河口から僅か2km余りの所です。

地図
上の地図の中心の印辺りです。常磐線の鉄橋の120m上流です。
昔の久慈川は亀下の南側を流れていて亀下・留 両地区は陸続きだった為、関係は緊密でした。新河道が開削され両地区が分断された後は渡し舟で交流していました。留橋は明治26年に架設されました。約1km下流に久慈大橋(愛称・赤い橋)が昭和38年に架かるまで久慈川最下流の幹線道路の役割を果たしました。
その後地域住民だけの橋に戻りました。老人や自転車の中学生が落下する等3件の死亡事故があり地獄橋という別名もありましたが、地元には存続の要望は強かったのです。
ところが1997年に母子4人の乗った自動車が転落する事故があり、暫くの通行止めの後、歩行者と自転車のみ通行が許され再開しました。
1998年7月23日梅雨末期の大雨増水の為一部破損。
同年8月30日の台風4号の豪雨で一部を残して流出。
同年9月16日の台風5号の増水により完全に無くなる。
これが留橋の最期です。
永久橋の計画は前々からありましたが、これにより新橋の着工が早まり2003年3月「留大橋」が完成しました。留橋跡から450m上流です。

現在の久慈川最下流の沈下橋は留大橋から上流500mほどの竹瓦地区にある「香取橋(通称・竹瓦橋)」です。河口から3kmほどです。上の地図の名前の書いてない橋です。明治31年に架設され1990年に鉄骨橋に改築されました。竹瓦地区も江戸時代の新河道が開削によって分断された地区です。橋の対岸の「原坪」は東海村竹瓦地区の飛地で「向こう竹瓦」と呼ばれています。

参考、久慈川の沈下橋

久慈川の下流に沈下橋が明治時代からあるのは明治中期には久慈川の舟運が衰えた事と、1級河川にしては下流の川幅が狭い為だと思われます。留橋、竹瓦橋とも長さ110m前後です。佐田沈下橋は約210mです。

他の1級河川の下流に沈下橋の例はあるのでしょうか?
[44833] 2005年 9月 11日(日)19:10:45【1】eiji_t さん
駅名から地名へ、再論
[44606]牛山牛太郎 さん
地名が駅名によって、変わっていく。
「美田園駅」は、「美しい田園」をイメージしてつけたということらしいですが、将来は、周辺が美田園という地名になってしまうのかと思うと、悲しいです。
こういう、歴史的な由来などを無視して無機質な駅名をつけるという行為に、失望しております。
新駅中心に新しい街が発展した後、地域に浸透し駅名が地名になって行く。たとえ変な駅名にしても、しかたが無いか…
ところが「つくばみらい市」はTXの「みらい平駅」が開業する前にそれに拠った新市名が決定。
[39171] 音無鈴鹿 さん
市名選定にはつくばエクスプレスの新駅「みらい平駅」が市内に設置されることの影響が効いて「みらい」の名を冠したのでしょうけど、ネーミングセンスとしては如何なものかと。
駅名はTX沿線地域全体の名称であった「みらい平・いちさと」から一部引用された名称(いちさとは茨城・千葉・埼玉・東京の頭文字から)。どこまで続く悪連鎖!
計画中の駅名の仮称は「伊奈谷和原駅」これも単純な合成名。

駅名由来の地名
「落書き帳」を検索したら、結構沢山あるのですね。
[16002]でるでる さん
「昭和6年、東武日光線に開設された駅で、JR両毛線に「大平下駅」があるため「新」の字が付きました。
名勝太平山が近くにあり、ぶどうの産地として名高いこの地は、昭和31年に3ヵ村が合併しましたが、先についてた2つの駅名と太平山からイメージし、天下太平の願いをこめて「大平村」と命名されました。」
[40051]ふぁいん さん
ちなみに、この「音威子府」という村名、実は駅名から取ったのです。
かつての(1963年まで)村名は「常盤村」でありました。
ARC 上福岡市は、なぜ「上」がつく市名なのか?
検索漏れがあると思うのでご指摘をお願いします。

私も[44673] で指摘した友部駅-友部町の他に
塩山市の例を
塩山しおのやま>向嶽寺の山号・塩山えんざん(1380年)>塩山駅(1903年)>塩山町(1928年)>塩山市(1954年)
塩山市HP>塩山の由来

上福岡市、友部町、塩山市は合併でまもなく消えますが…

※URLを訂正
[44819] 2005年 9月 10日(土)19:17:51【1】eiji_t さん
遅くなりましたが ローマ字表記について
[44372] かぱぷう さんの
“San-yo Line”のハイフンは、やはり表記法上は違法なのでしょうか?
に、[44376] eiji_t で、
私が小学生の頃、学校でローマ字を習ったとき「ん」の後に「や行」や母音が続く場合"-"または"'"を使うと習った覚えがあります。
と、古い記憶に基づく不正確なレスをした所、
[44382]Issie さん
日本語のローマ字表記について,政府が現在公式に定めているのは1954年12月の 内閣告示 です。
この「そえがき」の第2項に,上のような場合には“アポストロフィ”(←とは呼んでいないが)を用いることになっています。
のレスを頂いたのを、見落としていました。
思い出してみると、自分が習ったのは"'"であって、"-"は後によく見かけたので混同したのだと思います。
手元の広辞苑の付録に「ローマ字のつづり方(内閣告示による)」が在りました。
Issie さん に倣って私もこれからは"'"を使いたいと思います。

[44376] では"'"を入れても、入れなくても地名になる例を考えたのですが、思いつきませんでした。その後少し探したのですが、意外と見付からなくて諦めてしまいました。
根気よく探せばあると思うのですが…

※一ヶ所訂正
[44788] 2005年 9月 9日(金)10:00:35eiji_t さん
塩業と地名に関して
[44784]EMM さん
職業由来地名コレに関しては、自分としても興味のある話題であるからかより一歩踏み込んだ形でレスを付けてしまっているので、ちょっとやり過ぎかなぁ、と思うところもあります。
いえいえ、どんどん御指摘をお願いします。

まず私が塩地名に関心を持つに至った経緯を…
小学校高学年から中学生の頃、地図帳で遊んだりして、地理に親しんいた。その後離れましたが完全に関心を無くした訳ではなかった。最近地理に関心が戻ったのは、平成の大合併、そしてこのサイトに出会った事。子どもの頃疑問に思ったのにそのまま放置した事柄が、このサイトではほとんど解決されていました。凄い!

それと最近郷土史に(年齢のせいか)関心を持ち、関連する地理について調べ始めた事。

製塩業に関しては現日立市沿岸で江戸時代から明治の後期まで塩作りが行われていた。個人あるいは共同経営で農家の副業的なものだった様です。岩に穴を穿って作った鹹水溜の遺構が35ヶ所現残しているそうです。明治時代の県内の製塩業は日立地方が中心だったそうで、自分には意外でした。
県内では前にあげた「釜」地名が残っている鹿島地方で「塩焼き浜の長者伝説」が残っていて、ある程度史実である事が発掘などで実証されている事。
現ひたちなか市の海岸部の旧沢田村が75日間吹荒れた大風で砂に埋まってしまったと言う「千々乱風(ちぢらんぷう)伝説」。此処は最近発掘され、製塩の遺構が発見され、製塩を生業にしていた村だったと実証されつつあります。隣の東海村の照沼、村松地区にも同様の伝説があるそうです。

茨城の塩地名に関しては「塩浜」「塩竈(塩釜)」などが江戸時代の文献に残っているのみで殆どが現存していないようです。地域を挙げた産業にまで育たなかった為か?
宮城県塩竈市は自治体レベルで残っている稀有な例ではないかと市の公式HPを参照しただけで拙速なレスをしてしまいました。おかげでEMM さんの貴重な示唆を頂き、地元中心に地道に調査を続けるつもりです。

郷土史と地理との関係は、調べて行くうちに次々興味深い話題が浮かびそれに関心が移り、収拾が付かない状態になり兼ねません。資料だけが溜まってしまうー!。「落書き帳」にレスする事は、資料と頭の整理に役立っています。
[44775] 2005年 9月 8日(木)21:33:11eiji_t さん
東海村亀下について
[44636]eiji_t で予告し、
[44679]KK さん に
東海村にはかつて住んでいたこともあるので、とても気になります。ぜひ、まとめをお願いし
ます!
と期待された亀下の件ですが、その形から亀の甲羅に地名が由来すると直感的に判断し、調べ始めたのですが…
現在も判らないのです。
あまり間を置くのも、と思い途中経過を。

亀下は久慈川の下流南側にあり
マピオン
古くは太閤検地にその名が残され、太閤直轄領となっていることから、久慈川の氾濫の危機に晒されながら、氾濫によってもたらされた土砂にって肥沃な土地であったと推測されます。
久慈川は江戸初期までは亀下の南を迂回して流れていました。集落を守るために長良川などで有名な「輪中堤」が在りました。久慈川は寛文年間(1661-72)に亀下の北側に新河道が開削され、その後新堤が建設されたり圃場整理がなされ、現在輪中堤は失われてしまいました。

調査は川の流れのように蛇行し、関連した気になることが出て来てしまいました。
[44749] 2005年 9月 7日(水)09:52:52【1】eiji_t さん
Re:ある意味職場地名?
[44732]EMM さん
国土地理院の地図を目的地を中心として表示する件
よく解りました。自分で調べれば良かったのですが、甘えてしまいました。感謝。

製塩業と地名の関係の件
微妙な事は知っていました。「職業由来町名コレクション」は[44733]般若堂そんぴん さん
他が指摘している通り難しいですよね。他の地名コレクションとは性格が違う。
だから[44728]では敢て「コレクション」という言葉は使わなかったのです。
塩竈の場合は製塩業とは全く無関係とは言えないので、話題に上っても良いのではないかと提案してみました。
「コレクション」に入れなくていいのです。
「釜」だけでは、塩釜なのか、釜を作っていた職人たちが集まっていたのか、地形(火山のカルデラを「お釜」と呼ぶように)に拠るのか、判然としませんしね。コレクションにはなじまないでしょう。

製塩業というのは神道と物凄く縁深いんですよね。
神社は神事に大量の塩を必要とした。日吉社(大津市)や石清水八幡宮(八幡市)が製塩地や塩田を持つ荘園を支配していた。
鹿島社も常陸の各地に塩田を保持していた。[44728]で取上げた「釜」の付いた地も鹿島社との関係が云々されています。ただ此処らは遺構も発見されており、通称ですが「塩つけ坂」(文字通り)「木つけ坂」(塩を焼く薪を運んだ)などの地名が現在も残っています。実際に製塩が行われていた事は確かなようです。
神事に重要だったから名が残ったのか、生業の場所だったから残ったのか…何とも言えません。
神社は神事に使う以外にも、塩の流通経済に関わっていた?
宿題です。

※1箇所訂正
[44748] 2005年 9月 7日(水)07:23:32eiji_t さん
茨城県の県域テレビ局
[44731]いっちゃん さん。
全国で唯一県域テレビ局の無い茨城県なのではないでしょうか。
[44746]牛山牛太郎 さん
その代わり、たしかNHKは、茨城県域は独自の放送ではなかったでしょうか?違うかな。ちょっと自信ありません。
NHK水戸局は2004年10月に地上波デジタル放送を開始した際、県域放送を始めました。したがってデジタルチューナーの無い家庭(我が家も)では県域放送を見られません。
UHFのチャンネルを変えさせられただけでした(デジタル放送もUHF波を使うのでアナログ波のチャンネルが割を食った)。
県北地域ではまだデジタル放送画見られない地域が沢山あります。
城理町、常陸大宮市の西部。大子町の大部分。常陸太田市の旧水府村、里美村地区。日立市、高萩市、北茨城市の山間部。
茨城県の南北格差がこんなところにも…
[44728] 2005年 9月 6日(火)19:07:39eiji_t さん
塩竃 職業由来
職業由来に塩竃は入らないでしょうか。
塩竃市HP>市の概要>塩竈学のすすめ>塩竈の地名の由来
塩竃(塩釜)とは、製塩の為に海水、正確には鹹水(かんすい、濃い塩水)を煮詰める竈のことです。かつて製塩業は全国の海岸で営まれていました。製塩の鍵は如何に効率よく鹹水を作るかと言う事です。江戸初期に瀬戸内海で産業革命が興りました。「入浜式」が開発され、安価な塩が大量に出回るようになって、全国の製塩業が衰退していったのです。製塩に纏わる地名もほとんど消えてしまったようです。塩竃市の場合、塩竃神社が有名だった為地名として残ったようです。

茨城県の鹿島地方も嘗て製塩が盛んで、塩釜に因む「釜」の付く地名が残っています。
南から 武井釜、境釜、京知釜、高釜、武与釜、別所釜。
地図
上の「武井」地図で右のほうに武井釜、境釜の地名が見えます。
そのまま海岸伝いに上にスクロールして、上の「鉾田」の地図に移れば残りの地名も見られます(その気があればですが)
「塩釜」神社も残っています(地図上に名前なし)

追記、国土地理院の地図にリンクする場合、目的の場所を中央にするには、どうすればよいのでしょうか?


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