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MIさんの記事が20件見つかりました

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[102098] 2021年 6月 14日(月)15:21:56【1】MI さん
日宇村から佐世保市への境界変更などの詳細
[102094] ekinenpyou さんから戴いたヒントを手掛かりに、明治36年11月24日長崎県告示第583号を確認することが出来ました。どうも有難うございました。
長崎縣告示第五百八十三號
東彼杵郡日宇村福石免字下拼ノ本、鹽濱、羅漢、上羅漢、カシケ浦、吉原、川ヶ浦、下川ヶ浦、乘越、上大野、長ノ谷、戸井ノ谷、白拼、馬ノ内、三ヶ浦ヲ割キ佐世保市ニ編入ス
佐世保市庵ノ浦免字高崎、立石、雨ノ浦、後ノ谷、黒岩、東野崎、透山、西ノ久保、野崎ノ中、西野崎、古屋敷ヲ割キ北松浦郡山口村ニ編入ス
(中略)
右市制第四條町村制第四條ニ依リ縣參事會ノ議決ヲ經明治三十七年四月一日ヨリ施行ス
 明治三十六年十一月二十四日 長崎縣知事 荒川義太郎

 なお、上記に2つある「拼」の漢字は、県公報ではいずれも「手偏に亠廾」と印刷されていますが、前者について朱書きで「拼」に訂正してあるものです。後者に訂正はないのですが、「昭和時代の佐世保」中の三浦町に「字白拼」が記載されていることから同様であると判断しました。
 それぞれの「小字」の位置については【させぼ街ナビ情報】インターネット版「佐世保市小字地図」で確認できます。利用条件に同意して御覧ください。ただこの小字地図には「拼」ではなくどちらも「椪」の漢字が用いられています。
 また、[102092]で示したように『佐世保郷土誌』では佐世保市から北松浦郡山口村への境界変更は3月31日としていましたが、告示によると4月1日施行が正しいことになります。3月31日まで佐世保市に所属し、翌日から山口村へ変更されたという解釈だったのかもしれませんが、施行日としては4月1日正当になると思います。

#「字(アザ)」と「字(ジ)」を混乱しないように一部修正しました。
[102092] 2021年 6月 12日(土)16:01:50【2】MI さん
日宇村から佐世保市への境界変更
[102084] ekinenpyou さん
※なお日宇村はS2.4.1に佐世保市へ編入消滅しておりますが
(駅が佐世保市と日宇村の境界付近にあった影響か?)それ以前に所在地表記の変更があったようで
鐵道停車場一覽. 大正6年3月31日現在(左上)では既に佐世保市白南風町となっております。
 今昔マップで1901(明治34)年測図と1924(大正13)年測図(この時点で日宇村は存続)のものを並べてみますと、佐世保駅は開業当初たしかに日宇村に位置していたのが佐世保市に変わっており、駅を含む一帯で境界変更が行われたことが分かります。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=33.163213&lng=129.728144&zoom=16&dataset=sasebo&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=kjmap[1]&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
(※urlに "[" や "]" が含まれており、うまくリンクできないときは https: から =2 までをコピー(ctrl+C)し、新規タブ(ctrl+T)のアドレスバー(ctrl+L)に貼付け(ctrl+V)、Enter を行って下さい)
 しかしこの境界変更については、変遷情報はもちろん当方のデータベースにも収録されていないことが分かりましたので、ちょっと調べたところウィキペディアの日宇村に、
・1904年(明治37年)4月1日 - 福石免の一部を佐世保市に編入
とあり、その典拠として『長崎県東彼杵郡誌』(1917)p650が挙げられていました。
明治三十七年四月福石川に沿ひ福石山の上部を境界として福石免の内鹽濱外十四字を割きて佐世保市に編入のことあり今の福石町・潮見町・白南風町・三浦町即ち是なり
 さらに検索すると『佐世保郷土誌』(1919)p36で日付が明記されており、
明治三十七年四月一日日宇村福石免の内十五箇字を割きて本市に編入す
またその前日には、佐世保市から北松浦郡山口村への境界変更もあることが分かりました。
明治三十七年三月三十一日本市庵の浦免の内十一箇字を北松浦郡山口村に分讓す

 なお、上記ウィキペディアにはこの境界変更が明治36年11月24日付「長崎県公報」に掲載の県告示第583号であると記され、その画像データへのリンクも記されているのですが、現在使用できなくなっており、当方も確認できないでおります。以前、長崎県立長崎図書館は明治23年~昭和10年の県公報を jpg 画像化しネット上で公開していたのですが、一昨年ミライON図書館へ移転すると同時にHPリニューアルが行われた際、「作業容量および予算の兼ね合いもあり」公開をとりやめたということです。以前不思議に思って問い合わせたところ、そのような返答を戴きました。現在は目次のみ Excel ファイルで公開されています。

※「広報」を「公報」に訂正しました。
[101512] 2021年 4月 9日(金)23:48:56MI さん
千葉県夷隅郡旭町
[101511] ekinenpyou さん
 ご指名に応じてコメントします。町村制施行時の県令を含む県報は千葉県立図書館の菜の花ライブラリーで公開されておりまして、
○千葉縣令第十八號
本縣町村ノ儀別冊之通リ分合改稱シ本月三十一日ヨリ施行ス
  (別冊ハ別ニ之ヲ頒ツ)
 明治廿ニ年三月廿七日  千葉縣知事石田英吉
○千葉縣令第十九號
明治二十一年法律第一號中町村制ノ儀同制第百三十七條ニ依リ内務大臣ノ指揮ヲ經テ本年四月一日ヨリ施行ス
 明治廿ニ年三月廿七日  千葉縣知事石田英吉
○千葉縣令第二十號
縣令第十九號ヲ以テ本年四月一日ヨリ町村制施行ノ儀及布令候ニ付テハ町村役塲位置別冊之通相定ム
 明治廿ニ年三月廿七日  千葉縣知事石田英吉
  (別冊ハ別ニ之ヲ頒ツ)

 別冊は上記pdfの4コマから始まり、夷隅郡は次のpdfの4コマから掲載されているのですが、なんと「旭村」となっております。
旭村(アサヒ) 長者町、江塲土村、三門村(東中瀧村ヘノ飛地ヲ除ク)、井澤村(東中瀧村ヘノ交換地ヲ除ク)、東小高村、東中瀧村飛地
 これは恐らく誤植でありまして、同年4月6日縣報p20正誤で次のように訂正されているのです。(pdfの11コマ)
○正誤 縣令第十八號別冊八ページ土村區域根本内新田ハ根木内新田同四十三ページ新町村旭村ハ旭町(中略)の誤
 ということで「旭町」が正当だったのです。しかしながら一度県令として公になってしまったために、ekinenpyou さんが調べられた文献などでは「旭村」がそのまま使われてしまったということなのだろうと思います。
 その後、明治三十三年に改称するときは、
○千葉縣告示第百七十號
夷隅郡旭町ヲ長者町ト改稱ス
 明治三十三年七月二十五日 千葉縣知事阿部 浩

当然「旭町」からとなっています。(pdfの8コマ)
[101394] 2021年 2月 9日(火)20:10:12MI さん
Re: 旧国名のつく駅
[101384] ekinenpyou さん
武蔵大和駅のように旧国名が複数連続する鉄道駅をお答えください
[101393] 駿河の民 さん
伊勢鉄道の「伊勢上野」が未出ですね。

 伊勢上野は新旧ありましたね。今昔マップでどうぞ。
また廃線ですが、北恵那鉄道に美濃下野がありました。こちらは米スタンフォード大所蔵の地形図でどうぞ。
[101383] 2021年 2月 7日(日)10:40:41【1】MI さん
蘇原町?蘓原町?
[101381] ekinenpyou さん
目を凝らしてよーく見ますと、ある字の字体が違うことがおわかりになりますでしょうか?
 なにやらご指名のようにも感じましたのでコメントします。引用されたとおり各務原市設置時の自治省告示が「蘓原町」であったことは以前から承知しておりましたが、これは誤植であろうと判断していたものです。その理由は、以下の史料がいずれも「蘇原」であったことによります。

1897(明治30)年0331 岐阜県告示第58号(明治30年『岐阜県令達全書』)
町村制第四條ニ依リ各郡町村中明治三十年四月一日ヨリ左ノ通廃置分合ス
  明治三十年三月三十一日 岐阜縣知事 樺山資雄
各務郡伊飛島村大宮村和合村古市塲村持田村及三柿野村ヲ合シ其ノ區域ヲ以テ蘇原村(ソハラ)ヲ置ク
 これについては、岐阜県立図書館所蔵の岐阜県公報(号外)でも確認済、

1943(昭和18)年0402 官報広告p171
◎町村變更
稻葉郡蘇原村ヲ町ト爲シ本月一日ヨリ施行セリ
 昭和十八年四月 岐阜縣

さらに 1942(昭和17)年0519 鉄道省告示第103号 でも蘇原ですし、
昭和十七年六月一日ヨリ高山本線那加各務ヶ原間ニ左ノ停車場ヲ設置シ定期乘車券所持ノ旅客ニ限リ取扱ヲ爲ス
 昭和十七年五月十九日 鐵道大臣 八田 嘉明
蘇原(そはら) 岐阜縣稻葉郡蘇原村大字三柿野
古い地形図(今昔マップ) も蘇原町なのです。

 しかし ekinenpyou さんの [101381] を拝見し、あらためて各務原市例規集を確かめますと、

1963(昭和38)年0212 岐阜県告示第67号
地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条第1項の規定に基づき、昭和38年4月1日から稲葉郡那加町、稲羽町、鵜沼町及び蘓原町を廃し、その区域をもって 各務原市(かかみがはらし)を置く。
ばかりか、町制施行についても
1943(昭和18)年0430 岐阜県告示第198号
稲葉郡蘓原村を町となし、昭和18年4月1日より施行する。
とあることから、単純な誤植では片付けられないことが分かってきました。ただこの例規集は稻を稲、漢数字をアラビア数字に改めており、原文通りかどうか疑わしくもあります。県立図書館で昭和18年や38年の県告示を確かめなかったのが悔やまれるところです。

 そこで、官報情報検索サービス(有料)で1947(昭和22)年0503以降を検索したところ、大部分は「蘇原町」としている一方で、以下の告示では「蘓原町」と表記していることが分かりました。
1947(昭和22)年1226 総理庁告示第 60号「都道府県郡市区町村別人口」
1951(昭和26)年1002 総理府告示第342号「町村警察の廃止」
1958(昭和33)年0927 自治省告示第 61号「自転車競走を行うことができる町」
1959(昭和34)年0130 郵政省告示第 51号「無線局免許」
1961(昭和36)年0425 総理府告示第 11号「郡市町村別人口」

 どうやら「蘇原」と「蘓原」両方の表記があったということのように思いますが、それ以上については分かりませんでした。ご教示いただければ幸いです。

#誤字を訂正しました。
[100193] 2020年 8月 25日(火)18:34:51MI さん
Re: 1956年9月30日、日和佐町を編入したのは赤河内村?
[100190] 白桃 さん
官報で調べらることが出来ればよいのですが
 はい。調べてあります。総理府告示では以下の通りになっています。

◎総理府告示第七百五十七号 村を町とする処分
 地方自治法第八条第三項の規定により、徳島県海部郡赤河内村を赤河内町とする旨、徳島県知事から届出があつた。
 右の処分は、昭和三十一年九月三十日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十一年九月三十日 内閣総理大臣 鳩山 一郎

◎総理府告示第七百五十八号 町の廃置分合
 地方自治法第七条第一項の規定により、徳島県海部郡日和佐町を廃し、その区域を赤河内町に編入する旨、徳島県知事から届出があつた。
 右の廃置分合は、昭和三十一年九月三十日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十一年九月三十日 内閣総理大臣 鳩山 一郎

◎総理府告示第七百五十九号 町の名称変更
 地方自治法第三条第四項の規定により、昭知三十一年九月三十日から、徳島県海部郡赤河内町の名称を日和佐町(ひわさ)に変更することを許可した旨、徳島県知事から報告があつた。
 昭和三十一年九月三十日 内閣総理大臣 鳩山 一郎

 ということで、市区町村変遷情報はこれら告示のとおりに記述されていることが分かります。町史が異なる順序で記載されているのは何か深い訳でもあるのでしょうか?

 一方、福島県の伊達町と伏黒村に関するものは二段階に分かれており、第一段階は奇しくも上記と同じ日の告示にありました。
◎総理府告示第七百十五号 町村の廃置分合
 地方自治法第七条第一項の規定により、福島県伊達郡伊達町を廃し、その区域を伏黒村に編入する旨、福島県知事から届出があつた。
 右の廃置分合は、昭和三十一年九月三十日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十一年九月三十日 内閣総理大臣 鳩山 一郎

 そして三ヶ月後、首相も交代していますが
◎総理府告示第九百二十二号 村を町とする処分
 地方自治法第八条第三項の規定により、福島県伊達郡伏黒村を伏黒町とする旨、福島県知事から届出があつた。
 右の処分は、昭和三十ニ年一月一日からその効力を生ずるものとする。
 昭和三十一年十二月二十九日 内閣総理大臣 石橋 湛山

◎総理府告示第九百二十三号 町の名称変更
 地方自治法第三条第四項の規定により、昭知三十ニ年一月一日から、福島県伊達郡伏黒町の名称を伊達町(だて)に変更することを許可した旨、福島県知事から報告があつた。
 昭和三十一年十二月二十九日 内閣総理大臣 石橋 湛山

という経緯を辿っており、変遷情報は第一段階第二段階でそのとおりに記載されております。
[100107] 2020年 8月 16日(日)21:22:46MI さん
Re: 熊本県八代郡郡築村の発足日
[100106] hmt さん
[76230] 88さん
■八代郡 郡築村 の発足年月日について M42(1909).7.4 or M42(1909).4.7

 [100104]では官報のみご紹介しましたが、数年前に熊本県立図書館で県公報を確認しております。
明治四十二年四月七日 熊本縣令第二十一號
本縣八代郡ニ於テ築造シタル同郡八代町、松高村及八千把村(ママ)地先海面埋立地ヲ以テ新ニ八代郡々築村ヲ置キ役場位置ヲ仝村七番割ニ相定ム
 八千杷村が誤植されていますが、上記の通りであり、特に日付の記載がないため M42(1909).7.4 が施行日になると思います。

 なお、この郡築村は S18(1943).4.1 に八代市に編入されます(昭180405官報広告p203)が、昭和25(1950).7.1 に改めて分村(昭250720総理府告示235号)し、そして昭和29(1954).7.1 に再度八代市に編入される(昭290701総理府告示603号)という経緯を辿っています。
[100104] 2020年 8月 15日(土)14:29:59MI さん
Re: 新潟市、長岡市は百超え
[100097] 白桃 さん
MIさんが挙げて戴いた中で以下は、まるまる別の市を構成しているようです。
 ご指摘有難うございます。#10095 で使用した awk スクリプトは、以下のような仕様になっております。
「○年○月○日」(日付1)に「○県○郡○村」(市町村1)であった区域が、過去の「○年○月○日」(日付2)にはどのような市町村であったかを検索する場合、

1. 各都道府県ごとの市町村変遷データを、時系列の並びを変えずに1つのファイルに統合する(「統合データ」)。
2. その「統合データ」を逆順に並べ替えて、現在から過去に遡るようにして作成する(「逆順データ」)。
3. 市町村1をまず「市町村リスト」に登録する。
3. 「逆順データ」を、日付1から始めて日付2になるまで読み進めながら、以下のことを繰り返し行う。
4. 廃置分合の結果が「市町村リスト」に含まれているとき、その内容に応じて「市町村リスト」の追加・削除を行う。
 つまり、前身となる市町村をリストに追加し、また当該の廃置分合によって新設された市町村はリストから削除する。

 これを行うことで「市町村リスト」には日付2における市町村が得られるのですが、しかし廃置分合には市町村の全域でなく一部に関わるものも含まれるために、実際には前身とはならない市町村も紛れ込んでしまうのはご指摘のとおりです。正確に調べるには[100098] k_ito さんもされたように直接数えるしかないように思います。

 しかし、
また、[100094]でも書きましたように藤田村は町村制施行時に存在しておりません。
 は上記スクリプトのミスですね。失礼いたしました。間違った原因は次のとおりです。
市町村の廃置分合には埋立地を編入したものも数多くあり、上記スクリプトではそのような埋立地も「市町村リスト」に追加されてしまいます。そこで仕様4. を行う際に、埋立地からの編入は読み飛ばすようにしていました。そのため児島郡藤田村に関しては1912(明治45)年4月1日に「兒島灣開墾既成地第二區ノ區域ヲ以テ兒島郡藤田村ヲ置」くデータが反映されず、藤田村が「市町村リスト」から削除されないで残ってしまったというわけです。
 既存の市町村に編入するのでなく、埋立地だけで新たな市町村を設置したというデータは仕様4. で読ませるようにスクリプトを修正いたしました。同様の例は熊本県八代郡郡築村秋田県南秋田郡大潟村だろうと思います。
[100095] 2020年 8月 13日(木)16:54:55MI さん
Re: 市制・町村制成立時の市町村数が最多
[100000] オーナー グリグリ さん
 大変遅くなりましたが、記事番号6桁どうもおめでとうございます。
いつも楽しませて戴いております。今後とも宜しくお願いします。

[100092] 未開人 さん
[100094] 白桃 さん
 直接の回答にはならないのですが、当方では市町村変遷データベースに付随して、
○年○月○日に○県○郡○村であった区域が、○年○月○日にどうなっているかを検索するスクリプト
なるものは自作してあります。過去に遡るのと、過去から後年に辿る、どちらにも対応しています。
年表データを順に読み込んでカウントしていき、一部が構成したものも数えているために正しくない町村が紛れ込んでいる可能性はありますことを、予めお断りしておきます(後段で簡単に説明します)。
 これを用いてまず白桃 さんの調べられたものをまず、本日(20200813)岡山市であった区域が岡山県の市制町村制施行日(18890601)にはどうであったかと調べましたら丁度100市町村と出ました。

岡山市
賀陽郡岩田村高松村真金村生石村足守村大井村庭瀬村日近村福谷村
久米南条郡福渡村
久米北条郡鶴田村
御野郡伊島村古鹿田村御野村今村鹿田村石井村大野村福浜村芳田村牧石村
児島郡甲浦村西興除村大門村東興除村藤田村灘村彦崎村福岡村木見村
上道郡宇野村沖田村可知村角山村玉井村金岡村金田村九蟠村古都村御休村
光政村高島村財田村三櫂村三蟠村西大寺村操陽村津田村幡多村富山村
浮田村平井村平島村芳野村雄神村
赤阪郡葛城村五城村西高月村竹枝村布都美村
津高郡一宮村宇垣村宇甘西村宇甘東村横井村金川村建部村上建部村馬屋下村馬屋上村
白石村平津村牧山村野谷村
都宇郡加茂村山田村大福村撫川村妹尾村箕島村可真村潟瀬村吉岡村小野田村
太田村物理村豊田村
邑久郡笠加村幸島村今城村太伯村大宮村朝日村福田村豊原村豊村本庄村
邑久村
和気郡熊山村

 同様にして、本日新潟市であった区域を新潟県施行日(18890401)で調べてみると、158市町村です。
新潟市
三島郡間瀬村
西蒲原郡井随村稲島村越前浜村燕町横戸村下坂井輪村加奈居村河西村鎧郷村角海浜村
角田浜村潟前村潟南村巻村岩室村共和村曲通村金巻村五ケ浜村五十嵐浜村
五之上村鴻巣村黒鳥村佐渡山村三針村三方崎村七穂村漆山村秋津村升潟村
小吉村小高村小池村小中川郷村松長村松野尾村上坂井輪村新貝村新通村仁ヶ村
西川村石瀬村赤塚村川前村船越村曽根村太花野村打越村大関村竹野町村
中合村中野小屋村鳥原村島方村東太田村道上村内野村馬堀村白根村板井村
福木岡村米納津村味方村木山村木場村和納村杣木村
中蒲原郡阿賀浦村茨曽根村臼井村横越村横水村荻野村嘉瀬村割野村茅ノ城村亀田町
吉沢村橋田村五泉町江口村根岸村三興野村山岡村山潟村山通村七谷村
酒屋村女池村小吉村小鹿村小須戸町小杉村小梅村庄瀬村松島村沼垂町
浄楽寺村新関村新津町新飯田村新保村須田村菅名村石山村川結村川東村
曽野木村早通村巣本村村松町太川村袋津村大郷村大淵村沢海村鳥屋王村
津島村二本木村日本岡村白根町菱潟村満日村木戸村木津村矢代田村林村
和舞村鷲巻村
東蒲原郡下条村綱木村三川村揚川村
南蒲原郡下条村加新村加茂町狭口村
北蒲原郡安田村越岡村嘉山村葛塚村亀浦村佐々木村笹山村三森村小浮村松ケ崎浜村
赤坂村太田古屋村大久保村濁川村長場村鳥屋村島崎村藤井村南浜村
#上記データのうち東蒲原郡は恐らく誤りですが、例えば東蒲原郡三川村の一部が北蒲原郡安田村に編入、安田村の一部が五泉市に編入、五泉市の一部が新津市に編入、新津市は新潟市に編入、という経過を辿っているためにスクリプトでは拾い出されているわけです。

 浜松市は63市町村、北九州市は思いのほか少なくて28市町村でした。
どうも新潟県が多そうに思えたので調べたところ、長岡市116、上越市115となりました。
[99894] 2020年 6月 9日(火)07:58:24MI さん
Re: 慣用されていた 巌手県 から 正式の 岩手県 に統一する手続
[99889] ekinenpyou さん
[99890] hmt さん

 岩手県では県報に掲載するだけではなく、各府県知事宛に次のような通報を1924(大13).2.1付で送っていました。
 大正十三年二月一日 岩手縣知事
○○縣知事殿
  縣名ノ文字ニ關スル件照會
本縣名ノ文字ハ明治五年一月改稱ノ際太政官ヨリ岩手縣ト達相成其ノ後改訂サレタルコトナキニ拘ラス今日ニ於テハ「巖」「岩」二樣ノ文字使用セラレ官記辭令其ノ他公文書ノ多クハ巖手縣ト記サルルニ至リ候之一見些末ノ事ニ屬スルカ如キモ此ノ如キハ事務簡捷ノ本旨ニ反シ各方面ニ影響ヲ及ホスコト尠カラサルノミナラス一般人ヲシテ其ノ孰カ眞ナルヤ疑惑ヲ抱カシムル所以ナルヲ以テ昨年九月内閣書記官長ノ諒解ヲ得テ官記法令其ノ他一切ノ公文書ニ改稱當初ノ太政官達通「岩」ノ文字ヲ使用スルコトト致候條御含ミ置相成度

 明治以降の県報がネット公開されている三重県の場合、1924(大13).2.8三重県告示第六十五号(2コマ目)で、
岩手縣ヨリ縣名の文字使用ニ關シ左記ノ通通報アリタリ
と三重県知事名で述べた後、上記の文面を掲載しております。

 hmt さんご紹介の岩手県報彙報欄の文面と内容的にはまず同じです。太政官布告当初の表記に統一した(戻した)のだから、「正式に変更」したわけではないということだと思われます。

#別件ですが、
[99893] サヌカイト さん
 ホントだ。確かに似ているようですが、だからといって全然問題があるわけではないですよね。お気になさらず、宜しくお願いします。
[99887] 2020年 6月 7日(日)14:03:40MI さん
高知県長岡郡西本山村から本山村への改称
[99886] ekinenpyou さん

 ええと、ご指名のようですね。これまでにも参考文献として挙げられているもので確かめてみました。

高知県長岡郡西本山村から本山村への改称日
『全国市町村名変遷総覧』p1083 1890(M23).6.1
『市町村名変遷辞典』p602,796 1890(M23).6.1 (1891(M24).5.9 )括弧書きで併記
『市町村名変遷系統図総覧』2-p1525 1890(M23).6.1
『新版旧市町村名総覧』p437,577 1890(M23).6.1
 また、ご紹介の明治24年5月13日付官報は「改稱セリ」と過去形で記述してあるのみです。

 これについて、高知県立図書館は昭和20年7月の空襲で焼失してしまったため、古い県政資料は「池川町役場所蔵資料」を撮影したものを所蔵しており、それを閲覧することが出来ました。
高知縣告示第七十三号
本縣長岡郡西本山村ヲ本山村ト改稱ス
 明治廿四年五月九日 高知縣知事調所廣丈
 なぜか明治23年が幅を利かせてしまったようですが、改称日は 1891(M24).5.9 が正しいと判明しております。詳細情報は修正をしていただければ幸いです。

#全国の各図書館に出向くためには、それまでに分かっていることと分からないこととの整理が出来ていなければなりません。上掲の類書や官報史料を一通り確かめてあるからこそ、ある程度の効率性をもって「図書館巡り」ができると自負しております。
[99876] 2020年 6月 3日(水)05:39:59MI さん
Re: 岐阜県の変遷情報更新
[99873] オーナー グリグリ さん
以下の通り修正しました
 修正していただいた変遷情報を手許のデータと照合しました。どうも有難うございました。
[99874] 2020年 6月 2日(火)06:27:57MI さん
法令の公布日
[99872] _ さん
[99189] むっくん さん
今後はぜひこのような表現方法を採用されるよう期待いたします。

 ご指摘ありがとうございます。また、むっくん さんには折角ご教示戴きながらそれを活かせず申し訳ありませんでした。
 法令を説明や引用する際、各種文献では「明治○○年法律第○○号」のように記されていることが多いと思います。法令全書など種類毎に分類・整列されていれば探しやすいですが、官報を直接探そうとすると日付も記したほうがよいだろうと考えました。ところが上諭に記された日付と官報の日付は概ね一致しないのですね。そこで両者を併記する形で記しておりました。
 「官報掲載日が公布日」であるというルールがあることを認識いたしましたので、これ以降はそれに従った形で記すことと致します。さしあたり当方のデータベースで上記のような記載方法を採っていたものを訂正することとします。
 皆様にはご迷惑をおかけいたしました。


 
[99867] 2020年 5月 30日(土)20:26:46【1】MI さん
岐阜県「明治大合併」と「郡の再編成」
[99866] hmt さん
1897/4/1に 岐阜県特有の「郡の再編成と同時の明治大合併」を迎えました。
 「郡の再編成」と「明治大合併」の順序を入れ替えました。順を追って説明します。

 まず「明治大合併」ですが、これは明治30.3.31岐阜県告示第58号に拠るものであり、『明治三十年 岐阜県令達全書』p.167や、明治30.6.2官報附録p.1で全文を確認することができます。
町村制第四條ニ依リ各郡町村中明治三十年四月一日ヨリ左ノ通廢置分合ス
 明治三十年三月三十一日 岐阜縣知事 樺山資雄
 ご指摘の八神村に関するものは以下の2項目に記載されております。
・中島郡大須村ノ一部(字平太島)ノ區域ヲ八神村ニ合併ス
・中島郡小藪村及午南新田ヲ合シ其ノ區域ト大須村ノ一部(字平太島ヲ除キタル部分)ト八神村ノ一部(字前野、字法六、字尾崎、字外ニ、其他字圦六堤塘藪以南)トノ區域トヲ以テ小藪村(コヤブ)ヲ置ク
 従って八神村は存続しており、hmtさんの書かれたとおり詳細情報の「八神村を廃し」の部分は誤りですね。
 そして注意しなければならないのは、この告示による廃置分合は「従前の郡」で行われているということなのです。羽栗郡と中島郡とあって、羽島郡は全く出てきません。郡の再編成の前に町村合併が行われたのです。

 つぎに「郡の再編成」ですが、これはなんと明治29.4.18法律第86号(4.20官報p.300)です。
朕帝國議會ノ協贊ヲ經タル岐阜縣下郡廢置及郡界變更法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  明治二十九年四月十八日
   内閣總理大臣 侯爵伊藤博文
   内務大臣   伯爵板垣退助
(略)
岐阜縣美濃國羽栗郡及中島郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ羽島郡ヲ置ク
(略)
附則 此ノ法律ハ明治三十年四月一日ヨリ施行ス
 この法律により成立した羽島郡の内訳は次のとおりです。
旧郡名従来からの町村         当日新設の町村
羽栗郡笠松町、川島村、竹ケ鼻町、柳津村中屋村、下羽栗村、上羽栗村、八剣村、
                   松枝村、足近村、福寿村、小熊村
中島郡堀津村、八神村         正木村、駒塚村、江吉良村、
                   上中島村、下中島村、小藪村
 したがって、詳細情報#192は、
羽栗郡, 中島郡 の区域をもって 羽島郡 を設置することに伴い 羽栗郡 川島村, 笠松町, 竹ヶ鼻町, 柳津村, 中島郡 堀津村、八神村 と 新設された 14村を 羽島郡 所属とする
が正当であると思います。

#上葉栗村と誤っていたものを訂正しました。
[99832] 2020年 5月 23日(土)17:03:25MI さん
Re: 岐阜県加茂郡大平賀村
[99831] hmt さん
ところが、大正2年(1913/7/1)になってから、「大平賀村の一部」の 境界変更記録 がありました。

 ご指摘を拝見し、詳細情報や、さらに「大平賀村」の記事検索で見つかった過去の記事なども確認して状況が分かってきました。混乱なきよう整理しておこうと思います。

[66845] むっくん さんが紹介されていた「岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)」は現在リンクが生きておりません。少々探したところ、ウェイバックマシンによるアーカイブで閲覧やダウンロードができます。
 その64コマに「明治28.1.1 (加治田村のうち)旧川小牧村の区域は、大平賀村へ編入」とありますが、[65942] むっくん さんより示された明28.1.9岐阜県告示第1号
本縣加茂郡加治田村ノ内左記ノ地籍ヲ同郡大平賀村ニ編入シ両村ノ境界ヲ變更シタリ
 一字坂本 字南大水 字北大水 字川平 字川ノ上 字山下 字南坂 字下南坂 字小竹原 字黒ヶ谷
と併せて考えると、上記十ヶ字が「旧川小牧村」で間違いないでしょう。ただ詳細情報の「変更年月日」は告示日である1895(M28).1.9が宜しいように思います。

・大正2年の境界変更については、上記で変更した旧川小牧村の区域を再び加治田村に戻すものであったために、詳細情報は「大平賀村」と記載してしまったのだと思われます。実際には明治30.3.31岐阜県告示第58号
町村制第四條ニ依リ各郡町村中明治三十年四月一日ヨリ左ノ通廃置分合ス
加茂郡肥田瀬村鋳物師屋村市平賀村及大平村(ママ)ヲ合シ其ノ區域ヲ以テ富岡村(トミオカ)ヲ置ク
により、大平賀村は富岡村に変わっておりますので、上記詳細情報の「加茂郡大平賀村」の部分を「加茂郡富岡村」に修正が必要だということになります。

#最後に、[99831] hmt さん
膨大な NDL官報からの検索がうまくできていません。
広告欄は検索対象になっていないようだ。
適切な手段をご存知の方があれば、ぜひご教示をお願いします。
 まったくその通りであります。そんな訳で当方は長年にわたって官報全文をなめるように探しては市町村変遷情報をデータベースに取り込んできました。それだけの苦労をかけても官報公告欄に未掲載の情報が多々あることも分かってきて、結局は全国の都道府県立図書館や文書館巡りをすることとなってしまいました。
[99416] 2020年 5月 2日(土)14:08:07MI さん
Re: 「下ノ関市」は存在しなかったらしい
[99415] hmt さん

 この件については、山口県立山口図書館で『山口県報』を閲覧・撮影しております。
○告示
山口縣告示第百七號
明治三十三年法律第七十七號ニ依リ縣下赤間關市ヲ本年六月一日ヨリ下關市(シモノセキ)ト改稱ス
 明治三十五年四月十一日 山口縣知事 武田千代三郎

であって、下ノ関市は存在しなかったことが確かめられました。
[99391] 2020年 4月 26日(日)17:43:09【1】MI さん
鳥取県八頭郡智頭町
[99387] オーナー グリグリ さん
#72 1935(S10).2.20 編入 八頭郡智頭町 八頭郡 智頭町, 山形村, 那岐村, 土師村
鳥取県告示第八十号
昭和十年二月二十日より八頭郡智頭町、山形村、那岐村、土師村を廃し其の区域を以て智頭町(ちづちょう)を置く
廃置の際に於ける其の町村の財産は左記により処分す
昭和十年二月十四日 鳥取縣知事 中谷秀
(略)
とあるので、正しくは編入→新設である。
こちらも一旦保留とさせてください。
変遷辞典は編入、角川は単に合併とあります。この件を検証するために、約1年後の
1936(S11).2.26 編入 八頭郡 智頭町 八頭郡 智頭町, 富沢村
この編入事例の鳥取県告示の表現を確認できればと思います。編入という言葉が使われているのであれば上記は新設と判断できると思います。
1954(S29).7.1 編入 八頭郡 智頭町 八頭郡 智頭町, 山郷村
戦前と戦後なので比較検証には弱いですが、こちらも確認できればと思います。

 鳥取県公報は昭和4年の創刊以来すべてが pdf で公開されております。昭和10年県告示80号も見られますし、昭和11年の編入は以下のとおりです。
◇鳥取縣告示第七十二號
昭和十一年二月二十六日ヨリ八頭郡富澤村ヲ廢シ其ノ區域ヲ智頭町ニ編入ス
編入ノ際ニ於ケル富澤村ノ財産ハ左記ニヨリ處分ス
 昭和十一年二月一日 鳥取縣知事 中谷秀

 また昭和29年の編入は県告示と総理府告示双方で分かります。
鳥取県告示第二百六十四号
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第七条第一項の規定に基き、八頭郡山郷村を廃しその区域を智頭町(ちづ)に編入し、昭和二十九年七月一日から施行する。
(中略)
 昭和二十九年五月二十八日 鳥取県知事 西尾愛治

●総理府告示 第五百三十六号
   町村の廃置分合
 地方自治法第七条第一項の規定により、昭和二十九年七月一日から、鳥取県八頭郡山郷村を廃し、その区域を智頭町に編入する旨、鳥取県知事から届出があつた。
 昭和二十九年六月十一日 内閣総理大臣 吉田  茂

 違いは明確です。昭和10年は新設、11年と29年は編入で間違いありません。

#昭和29年鳥取県告示の url が誤っていたのを訂正しました。
[99390] 2020年 4月 26日(日)17:14:06MI さん
鳥取県八橋郡豊定村
[99387] オーナー グリグリ さん
鳥取県
#3 1894(M27).3.30 改称 八橋郡勝田村 八橋郡 豊定村
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 勝田村, 保永村
とあるが、正しくはM31鳥取県告示第183号(豊定村保永村合併ノ件)より
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 豊定村, 保永村
である。
この件については保留とします。
(中略)
角川は当初から勝田村で豊定村は別称との説明。現在の変遷情報は変遷辞典の通り。1894(M27).3.30の改称という記述から何らかの動きがあったと思われますので、検証が必要と考えます。新たな資料など見つかると良いのですが。

 これに関しては鳥取県立図書館で「鳥取縣令」を調査済でした。
●鳥取縣令第九十四號
市制町村制施行ニ付市町村及組合區域名稱並市役所町村役塲位置別冊之通相定メ明治二十二年十月一日ヨリ施行ス
但合併ニ係ル舊町村名ハ大字トシテ之ヲ存ス
 明治二十二年九月二十一日 鳥取縣知事 武井守正
(別紙)(中略)
 伯耆國 (中略)
郡名  新町村名     區域              役塲位置(字名)
八橋郡 勝田村(カツタ)  西宮村 勝田村 出上村 | 
    保永村(ヤスナガ) 太一垣村 中村 佐崎村 |組合 出上村
とあるのですが、後日になって
 正誤
本年九月鳥取縣令第九拾四號市町村及町村組合名稱幷市役所町村役塲位置別冊中左ノ通正誤ス
 明治二十二年十一月十八日 鳥取縣
八橋郡 勝田村(カツタ)ハ豐定村(トヨサダ)
と訂正されていました。その後明治二十九年に法律第五十二號
朕帝國議會ノ協贊ヲ經タル鳥取縣下郡廢置法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  明治二十九年三月二十九日
   内閣總理大臣臨時代理 樞密院議長 伯爵黒田清隆
              内務大臣    芳川顯正
法律第五十二號
(中略)
鳥取縣伯耆國河村郡、久米郡及八橋郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ東伯郡ヲ置ク
(中略)
 附則
此ノ法律ハ明治二十九年四月一日ヨリ施行ス
をもって八橋郡豊定村から東伯郡豊定村となり、さらに
鳥取縣告示第百八拾三號
町村制第四條ニ依リ明治三十一年八月一日ヲ以テ東伯郡豐定村同郡保永村ヲ合併シ其區域ヲ以テ成美村ヲ置キ豐定村保永村ノ財産ハ成美村ノ所有トス
 明治三十一年七月十七日 鳥取縣知事 荒川義太郎
となっております。
 つまり町村制としての勝田村は存在せず、明治27年の改称もなく、そして明治31年の合併日は8月1日だったのです。以上より鳥取県の市区町村変遷情報については
# 3 1894(M27).3.30 改称 八橋郡 勝田村 八橋郡 豊定村
を削除し、
#14 1898(M31).7.22 新設 東伯郡 成美村 東伯郡 勝田村, 保永村
を以下のように改めてはどうでしょうか(市区町村数の推移はこの日付になっています)。
#14 1898(M31).8.1  新設 東伯郡 成美村 東伯郡 豊定村, 保永村
[99389] 2020年 4月 26日(日)15:31:05MI さん
高畑と高畠
[99371] オーナー グリグリ さん
[99341]高畠町史下巻引用部分の「(イ)期間」の混用の実相に関する記述が気になります(略されている部分)
[99387] オーナー グリグリ さん
「(イ)期間」の混用の実相に関する記述はどのようなものかお分かりでしたら教えてください。

 [99341] MI で省略した部分を引用します。
(『高畠町史』下巻, p.699~703 高畠町史編集委員会編, 高畠町, 1972)
混用の実相 (イ)期間(明治二年以降、明治二二年四月一日の町村制施行直前までの期間……MI註)
  (高畑と高畠それぞれが用いられた文書3点ずつを紹介……MI註)
 明治二年、三年、七年と同年のものにつき対照的に「高畑」「高畠」の混用をみてきたのであるが、このような事例は右以外に所載することも可能である。ただ、この明治七年前後に高畑村に火災さわぎがあった。すなわち、明治三年五月二九日夜(注 横町三四戸焼失)、とりわけ明治六年五月二七日夜は大火となった(注 大町より出火、横町、荒町五か所より燃え立ち一〇七戸焼失・貞泉寺も焼失)。流言があり、「高畑」の畑は火事に関係するとか。そのような流言からか、個人的に「畑」を用いず。「畠」を用いることをしたという。しかし、「高畑」という伝統の村名は当時といえども変更されることはなかった。
  (明治17年の文書で「高畑」「高畠」それぞれ表記の文書1点ずつ……MI註)
 右二つの原本でみるとおり、町村監督の責任をもっていた郡役所でも混用している実相があった。この年、七月に東置賜郡下の組合村の編成替えがあった。その一覧表は、本巻の三五七ページに所載している。
 高畑村外七ヶ村(注 安久津村・小郡山村・高安村・泉岡村・塩森村・金原村・二井宿村)の組合は、役場を高畑村においた。その役場の新築関係については、本巻四七九・四八〇ページに所載しているで参照のこと。高畑村外七ヶ村の組合役場名は、「高畑村外七ヶ村戸長役場」であって、「高畠村外七ヶ村戸長役場」ではない。注目すべきは、以降両者の混用度は激減し「高畑村」が大きく浮上する。流言は影をひそめたのである。
 前ページの関係資料(明治17~20年の文書3点はいずれも「高畑」となっている……MI註)
 そして次の704ページからは、[99341] で引用した「混用の実相 (ロ)期間」となっております。

 [99353] ekinenpyou さんから示していただいた史料を拝見して驚くと同時に納得したのですが、この混乱の原因は、[99371] オーナー グリグリ さんのおっしゃるように、
・町側は「本来は「畑」が主流であるにも係わらず誤って「畠」が使われてしまった」
・県側は「「畑」は誤用で本来は「畠」である」
という認識や立場の違いにあったということなのでしょうね。

 なお、この『高畠町史』は国会図書館のデジタルコレクションに収められてはおりますが、「インターネット公開」ではなく「図書館送信資料」ですから、送信サービス参加館で閲覧可能となっております。しかし全国の図書館は臨時休館を余儀なくされているでしょうし、国会図書館の遠隔複写サービスも受付休止になってしまいました。

 
[99372] 2020年 4月 17日(金)20:22:26MI さん
明治22年長野県令 第18号(3月19日)
[99370] hmt さん
[76874] むっくんさん に引用された『長野県現行令達類聚』に掲載された 明治22年長野県令 第18号(3月19日)には、「新町村名:大町」が明記されているのですが、明治25年12月迄の改正が盛り込まれており、「明治22年の原文そのままではない」という問題点がありました。

 この件に関して、数年前に県立長野図書館で確認をしておりますのでご説明いたします。
明治22年の県令第18号を、その別冊も含めて閲覧したいと伝えたところ、2冊出納していただきました。

・『明治貳拾貳年一月ヨリ 縣令綴』,河南村役場
・『明治二拾二年自一月至十二月 長野縣々令綴』,上水内郡七二會村役塲

 どちらにも県令そのものに加えて正誤もあって、県令本文を朱書で訂正してあるものでしたが、
縣令第拾八號
從來ノ町村ヲ分合シ其區域別册之通來ル四月一日ヨリ編制ス
 但舊町村名ハ大字トス
 明治廿二年三月十九日 長野縣知事木梨精一郎

 そして別冊は以下の書式で構成されており、大町の項は
 新町村區域
郡名   新町村名 舊町村名
北安曇郡 大町   大町

となっているのみであって朱書などは一切ありませんでしたし、さらに
【同年】4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
を示すような記載もなかったことをご報告いたします。Wikipedia の記載が何に拠るものなのでしょうか?


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