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[79484] 2011年 10月 11日(火)20:06:35【1】Issie さん
国道の踏切追加?
[79477] 今川焼 さん
ところで、せっかく集めたデータなのでと、Googleマップにしてみたのがこれ→国道の踏切-Googleマップ

これ,面白いですね。
京急が品川を出ていきなり微妙な形で国道15号(第一京浜)と平面交差するのは,さすが元路面電車であった名残ですね。ここは元々,国道の上を走っていたのでした。
京急蒲田の空港線との平面交差は,今は半分だけ。立体化工事が完了すれば,ここの平面交差は解消します。あと何年でしょうか。

さて,八ツ山橋際の微妙な平面交差がありなら,こちらもご検討ください。

*国道16号・JR横浜線 相模原市緑区橋本

ここは“本線”はやや南の国道413号との分岐交差点ともども立体交差化されて陸橋で横浜線を乗り越していますが,側道の踏切が残されています。
16号は踏切の北側で御殿峠を越える“旧道”と八王子バイパスに分かれるのですが,この旧道につながっているのは側道の方です(ただし,内回り:横浜方面のみ)。先の交差点の状況から,16号で八王子方面から津久井方面へ国道413号線に入るためには,陸橋を通らず旧道から側道の踏切を通らなければなりません。実際,橋本駅北口から津久井方面に向かうバスはこのルートで413号線に入っています。
要は側道も立派な国道,ということで,こちらの踏切も仲間に加えていただければ,というお願いです。

※もう1つ追加。
その16号の旧道が御殿峠を越えて八王子市内に入った後,片倉の横浜線と京王高尾線との交差は国道の方がアンダーパスしているのですが,その先の中央線との交差は,こちらは正真正銘,橋本の踏切のような微妙なものではなく100%完全な混じり気なしの踏切です。
是非,こちらは追加を。
[79454] 2011年 10月 9日(日)12:02:30Issie さん
十鉄
…と呼ばれているそうですね,十和田観光電鉄。“正書法”(かなづかい)的には「とおてつ」であるはずですが,「とうてつ」とカナをふるらしい。

[79425] 山野 さん
東北新幹線・「七戸十和田駅」が開業し、利用者が減少、東北大震災で観光客が激減が原因らしいですが。

[79428] hmt さん
確かに十和田市を走っていますが、十和田湖の観光客は利用しているのでしょうか?

[79450] まかいの さん
ルートをあれこれ検討しましたが、十和田観光電鉄ルートはまったく上ってきませんでした。

もうだいぶ前,東北線の交流区間にまだ客車普通列車が走っていた頃,その列車で三沢を通りかかった時にここから分かれていく十鉄の様子を見て,何でこんなところにこんな路線が生き残っているのだろうと不思議に思った記憶があります。南部縦貫鉄道もまだ残っていたっけ。
要は,十和田湖観光のアクセス路線として盛況であるとはとても思えない状態。
恐らくは新幹線の開業を待つまでもなく,まかいの さんの感覚が普通の感覚なのではないかと思います。
たとえば,現在とは違って自家用車での観光などあまり考えられなかったであろう1968年10月の時刻表(いわゆる,国鉄“ヨンサン・トオ”白紙ダイヤ改正号)を見てみると,十和田湖へのアクセスのメインとなっているのは青森駅からの国鉄バスで,1~2時間に1本という実に頻繁な回数のバスが運行されています。
もう1つのメインは,国鉄バスと秋北バスが共同運行する花輪線の 十和田南駅 から(一部は大館駅から)の路線。
だから,観光客の多くは青森駅と十和田湖の間の往復,もしくは 青森駅~十和田湖~十和田南駅~盛岡または大館 というルートをとっていたのではないかと思われます。
もちろん,十鉄を利用した 三沢~三本木(現十和田市)~十和田湖 というルートもあって,三本木乗り換えのバスも午前中は1時間に1本と,青森ルートに引けを取らない回数が運行されているのですが,マイナーな感じは否めません。もっとも,それはこの時刻表(交通公社版)が「国鉄監修」であるせいかもしれませんが。

たぶん,十鉄は「十和田観光」を社名として謳っているし,事実それも少なくない比重を占めてはいたのだろうけれども,基本的にこの鉄道は十和田市内(三本木周辺)と東北線とを結ぶ“フィーダー”(培養線)としての役割を担ってきたのだろうと思います。
これが弘前のようにある程度の都市圏を形成していれば弘南鉄道のように生き残る余地もあり得るでしょうが(ここも,もとは2社競合であったものが一方(弘前電鉄:大鰐線)が維持できずに弘南鉄道(弘南線)に吸収されたものです),十和田市がそれだけの都市圏を持っているようには思えません。さらに三沢との間に「鉄道」を維持できるような流動があるかどうか。
だから十鉄が鉄道として存続していることの方が不思議,という最初の感想に至るわけです。
やはり新幹線の開業が“最後の打撃”になったのは確かでしょうが,それは「観光客の減少」というよりももっと日常的であった 三沢~三本木 間の数少ない乗客流動も奪ってしまった,ということだろうと思います。
そういうわけで,十鉄の廃止は惜しむべきことではあるかもしれませんが,結局は“必然”あるいは“当然”のことだと私は考えています。
[79433] 2011年 10月 7日(金)20:02:21Issie さん
実に失礼
[79431] いろずー さん
とりま失礼

「とりま」ではなく,本当に失礼です。
ここが“上品な言葉遣い”で“高尚な”お話をするサロンである言うつもりは全くありません。
でもその場にはその場に相応しい言葉遣いというものがあるだろうと思います。そして,それは普通の人ならば普通にできるはずのことです。実際に,小学生(当時)もそのようにしてこの場所に加わってきました。
いろずー さんは,ここにどんな話題を提供したいのですか。どんな情報が欲しいのですか。
いろずー さんの書き込みを読んで,残念ながらそれが全く伝わってきません。
「説明不足」以前の問題です。

説明不足で申し訳ない!

その後に「説明」らしきものが書いてあるけれど,ますます意味不明です。その前の N-H さん([79430])の指摘に全く答えていません。
さらに言うに事欠いて「テロ朝」とは何事か。ここは 2ちゃんねる でも ヤフコメ でもありません。この放送局をそのような名前で呼ぶなら,それに足るだけの十分な根拠を挙げてください。

そして本題。

[79429]
十番勝負のネタ

設問の前提条件が極めて不正確です。
N-H さんが指摘されているように,

NHKと朝日新聞社が主催する合唱コンクール

というものが存在しない以上,これは問題として成立していません。
問題を作成するときには,その前提となる事実確認はきちんとしなければなりません。答える側も当てずっぽうに言っているのではなくて,事実に基づいて考えているのです。
だから,いろずー さんの“十番勝負らしきもの”には誰も答えることができません。
もし,真面目な気持ちで「十番勝負のネタ」を提供したのであれば,きちんと事実確認をしたうえで,“本物の十番勝負”の「メダリスト」たちから細々としたツッコミが入れられることのないような,完璧な問題を作って提供してください。
[79418] 2011年 10月 1日(土)21:32:18【1】Issie さん
がっかり門
[79384] hmt さん
「日本三大がっかり名所」として列挙されていたのは、札幌時計台・はりまや橋・名古屋テレビ塔・京都タワー・守禮の門・長崎オランダ坂 でした。

週明けから3泊4日で沖縄へ行きます。残念ながらお仕事で。
最終日は定番の「首里・那覇班別自主行動」なのですが,時間が許せば首里城門前の広場で記念撮影をする予定。昔だったら,その「がっかり門」が撮影スポットだったんですけどね。
班別自主行動の間,私たちは“お客様たち”の様子をそれとなく見守るため,首里と那覇の町を手分けして歩き回ります。今回,残念なことに私は記念撮影の後,首里城内に入らずに那覇の町へ下りて国際通り辺りを回るグループに当てられてしまいました。
実は前回(6年前)にお仕事で行ったとき,是非,復元なった首里城を見に行こうと那覇のホテルでの打ち合わせ終了後速攻で首里に向かったのですが,時間切れで有料ゾーンへは入れず,残念な思いをしたのですが,今回もまた無理そう。
私にとって,首里城内への壁はかなり高いようで。

さて,その守礼門。
私が初めて沖縄を訪れたのは学生だった1981年の夏休みなのですが,その頃は城内がまだ琉球大学のキャンパスに使われていて,とりあえずお城の石垣の復元は進んでいたけれど後は住宅街の中に守礼門がポツンと建っているような雰囲気で,「がっかり」と言われるのもムベなるかな,というものではありました。
でもまあ,あの場所の歴史を考えればしかたないよなあ,と思わずにはいられません。
むしろ,戦争で灰燼に帰する前の戦前には旧王宮は一応“神社”にはされていたけれど荒れ放題だったそうで,だからその頃訪れた方がガッカリ度は高かったかもしれません。
門が再建されたのは1958年。奇しくも東京タワーと同じ年ですが,米軍統治下で高度経済成長の蚊帳の外にあった沖縄でこれを復元するのは多くの困難があったのではないかと推察します。とりあえず,これを復元できたことだけでも大きな成果であり,だから長年,首里城が復元されるまで沖縄のシンボルであり続けたのだろう。
そう思うと,やっぱり「がっかり」は酷だよな。

…でね,ほかの「ガッカリ地点」も多かれ少なかれそうなのではないかと思うのですよ。
[79395] 2011年 9月 27日(火)21:57:59Issie さん
岐阜駅は動く
[79386]
手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。

と書いたのですが,某所を見るとどうも岐阜駅はこの後1913(大正2)年にもう一度移転して現在位置に来たらしいということがわかりました。
そこで地図を見比べてみると,なるほど,1891年当時の東海道線は岐阜駅付近で現在よりもやや北に膨らんだ経路を通っていて,現在の名鉄岐阜駅(←新岐阜だと思っていたら,いつの間に…)あたりのラインを通っていたのですね。
その某所では,当初の「加納駅」が現在の名鉄岐阜駅付近にあって,1889(明治22)年に「西に移動した」とあり,それが1891年当時の岐阜駅なのですが,どうもこの時の移転はそれほど大きなものではなかったらしい。踏切をはさんで反対側に移動した京成高砂駅や京王調布駅程度のものでしょうか。
いずれにしろ,1891年当時の東海道線ラインは今よりも北の長住町の通りの南側にあったようで,長住町と問屋町の境辺りが当時の岐阜市と上加納村の境界に当たるようです。
1913年に岐阜駅がやや南の現在位置に移転することで岐阜旧市街から伸びる駅前市街地がさらに南に広がったことになるのですね。
そんなわけで,今の岐阜駅はますます“岐阜ではなくて本来は加納”と言える場所にあるわけです。
[79394] 2011年 9月 27日(火)20:49:56【1】Issie さん
年中サマータイム
[79390] 水魚 さん
時差は4時間まき戻し。

[79393] hmt さん
訪問地は「マー・ワランナフル」ですね。

なるほど,どうも時差の計算が合わないと思ったら,この国はサマータイムを実施していないのですね。
もっとも,この国がもっと大きな国の一部だった時代から年中サマータイムを実施しているようなものでしたが。その“大きな国”では夏にはさらにサマータイムを実施していたので日本からすぐ近くのところに行くだけでも時差がすごいことになっていました。その大きな国から分かれた最も大きな国では今年から冬の時刻も“夏のサマータイム”に合わせる形でサマータイムを廃止してしまったらしいですね。
これは知らなかった。何か,“あのお方”がまた大統領になるらしい国っぽい話です。

で,肝心のこちらの国ですが…,久保田早紀が歌ったカラーテレビのCMソングが聞こえてきます(←本人はそんなイメージで作ったわけではないそうですが)。
[79386] 2011年 9月 26日(月)22:40:30Issie さん
「日本橋」とは首都高の高架橋のこと?
[79382] ペーロケ さん
お江戸日本橋に播磨屋橋以上のガッカリを覚えました。

[79383] N-H さん
日本橋については、川を埋め立てまくった都心の中で暗渠にならなかっただけでもまだましだと思うことにしています。

まあ,評判悪いですよね,日本橋。
私も,頭の上を高速道路に押さえつけられている日本橋がかわいそうに思えてきます。
さらには「日本橋」のネームプレートが首都高の高架橋についていてこれが目立つので,ちょっと見,高速道路の方が日本橋に思えてしまいます。
確かに日本橋の惨状はその通りなのですが,一方で首都高の高架橋自体は捨てたものではないという見方もないのではないかとも思います。いや,建設以来半世紀近くも経って高架橋の塗装も色あせてしまった今ではなくて,首都高が建設された1960年代半ばには。
子供の頃,親に買ってもらった学習百科事典。買ってもらったのは70年代に入ってからですが,「上越線」の項目で“清水トンネルの湯檜曽ループに差し掛かる「下り」特急とき”の写真が掲載されているので,編集されたのは60年代半ばなのでしょう。
その美術特集巻の中に“現実世界の中に見られる美”の一つとして,日本橋のお隣の江戸橋JCTで首都高の高架橋が幾重にも重なる曲線美が紹介されています。私は幼すぎてこの当時の空気をリアルタイムでは全く記憶していないのですが(私の記憶の中には渋谷の道玄坂上を走る玉電がぎりぎり含まれています),「高速道路」はオリンピックを控え,本格的なモータリゼーションが始まる直前の東京では東京タワーとともに「現代化」の象徴の一つだったのではないかと想像しています。
それが日本橋の上を覆いかぶさるように建設されても,必ずしも否定的な受け取り方ばかりではなかったのではないかと思います。
その辺り,高度経済成長真っ只中の半世紀前と20年にわたり景気の良さを実感できない現代とでは感覚が違うのではないか,そんな気がします。
だからもう一度言うと,日本橋の上に覆いかぶさる首都高というのも必ずしも悪い評価ばかりではないのではないか,と。

[79385] むっくん さん
#上記の内、岐阜駅及び浜松駅は、当時はそれぞれ岐阜市内及び浜松町内にない可能性が有ります。

手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。東海道線の北側も含めて周りが 上加納村 の領域である中,北の岐阜市街から駅前に伸びる街路ともう一本東の街道(←当時は大きな街道でしたが,大正以降拡張されることもなく現在は周囲の市街地に埋没しています)に沿った区域だけ 岐阜市 に編入されたのは明らかですね。
1889(明治22)年7月1日の市制施行の際,“岐阜51町”に隣接4村と“上加納村の一部”で「岐阜市」が発足していますが,その“上加納村の一部”というのがこの部分なのでしょう。
1891年の段階で既に岐阜市街から駅前へ続く市街地が形成されつつあります。やがて「岐阜」が「加納」を完全に飲み込んでしまうのですが,最初の位置から移転してきたという現在位置でも,岐阜駅は“本来の岐阜”ではなく,“本来は加納”にあるということになるのでしょう。
[79374] 2011年 9月 25日(日)12:02:59【4】Issie さん
かかみがはら
[79369] デスクトップ鉄 さん
駅名も由来の一つである自治体名

これを見て最初に思ったのは「拡大解釈」なんじゃないかなあということだったのですが,それは後に回して…。

各務原市があるなら,これも入れてよ,と言ってみましょう。

市名市名誕生日旧市町村名駅名駅名誕生日開業日開業時駅名
相模原町1941/04/29高座郡上溝町,座間町ほか相模原1938/03/01-相模原→小田急相模原

「現・相模原市」ということで…。
一番右の欄にあるように,この「相模原駅」は現在の「小田急相模原駅」。1941年4月29日の「相模原町」発足直前の4月5日に省線(国鉄)横浜線上に開設された「“軍都”の中心駅」に召し上げられ,民間の小田急は駅名の改称を余儀なくされた,というのはここで何度か触れたお話です。何しろ,「お上」には逆らえない時代ですから。
これも何度か触れられた話ですが,この「(小田急)相模原駅」は同じ頃に近くに開設された 臨時東京第三陸軍病院(戦後,国立相模原病院を経て,現・独立行政法人国立病院機構相模原病院) の最寄駅として開業しました。この頃,多くの陸海軍施設が相模原周辺に移転・開設されているのですが,それらは「原町田」とか「高座」「相模」という地名を冠していました。その中で「相模原」を最初にメジャーな呼称として用いた最初の例が,小田急のこの駅だったようです。
だから,その論法で言えば,「相模原市(←相模原町)」も小田急の駅名に由来する自治体名,と言えなくもない。でも,たぶんそれは違う。
「軍都」を中心とした高座郡北部9町村での合併交渉の過程(途中で大和村=現大和市北部が脱落)で新市名として「相模市」「相武台市」などの候補の中から「相模原市」が選ばれました(ロクな市街地もないくせに「市」を名乗るとは…,と内務省に呆れられて「相模原町」となったのはご愛嬌)が,その過程で小田急の駅名の存在は話題にはなっていないようです。すでに軍都の呼称として「相模原」は広く定着していたようで,何も小田急の駅名が始まりという意識はどこにもないのでしょう。少なくとも「相模原」が小田急の造語でないことは確かで,そうすると「小田急の駅名由来」と考えるのは難しい。

「各務原市」の場合,高山線の「各務ヶ原駅」開業(1920年)よりも前の1917年に陸軍が「各務原飛行場」(現・航空自衛隊岐阜飛行場)を開設しています。
「各務原」(←高山線の駅は「かがみがはら」なんですね。よくある“揺れ”というやつで,地名自体としてどちらが「正しい」か詮索するのはナンセンス。国鉄はたまたま“濁っている”方を使い,自治体名としては“濁っていない”方を採用している,それだけのことです。あるいは「ヶ」の有無も同様)という地名がいつ頃から行われていたのかわからないのですが,少なくともそれをメジャーな形で用いたのは鉄道省(高山線)よりも陸軍の方が先。で,「習志野」がそうであるように,地名を広めるうえで陸軍の宣伝力は圧倒的です。あえて言えば,「各務原」は“陸軍由来”とした方がいいかもしれない。
むしろ,JR・名鉄の両「各務(ヶ)原駅」前の町名「鵜沼各務原町」こそ駅名由来かもしれません(←「大字鵜沼」から分立?)。

町名・字名という狭い区画の呼称であれば,そこに駅があってその駅名が町名字名の由来である蓋然性が高そうだ,という共通理解は成り立ちやすいのですが,自治体名レベルの広域の呼称になると,駅というピンポイントな施設がじかにその名前の由来となった,というのは,たとえば神奈川県の 山北町 のなどの「鉄道の町」のような例を除けば,「そうは言えるかもしれないけれど,確証はできないよね」となるのではないかと思います。
「会津若松市」や「富士吉田市」,「近江八幡市」,「大和高田市」などの場合は,ほかの市との同名回避の手段として,おそらくはその名前の鉄道駅名がなくても自然に出てくるものでしょう。
だから,リストの中の多くの市名は拡大解釈なんじゃないかなあ,と思った次第です。
[79324] 2011年 9月 9日(金)01:23:50Issie さん
でこしな
[79322]般若堂そんぴん さん
福岡県民の多くが真っ当な人たちであることを願いつつ.

[79323] 有明つばめ さん
できれば、そこは福岡市民(もしくは福岡都市圏民)と書いて欲しかった‥‥。

気持ちはわからないでもないが,ちょっと違うような気が…。
「福岡県民」が戸惑いを感じるように,「福岡市民」だって同じことを言いたくなるのではないかなあ。

元々この話題に限らず,どんな時でも,どんな所にも,どんな話題でもそういうことをする輩はいるのではないかと思います。だからと言って,別にそれが「○○の住民」「○○の県民」「○○国人」の大多数の属性ではないでしょう。
某大型ポータルサイトのコメント欄は好んでそういうレッテルを貼る意見ばっかりですけどね。そしてそれが反射を繰り返しながら“傾き”の大きな声ばかりが席巻する。悪貨が良貨を駆逐する典型例(このたとえ,本当は意味が違うのだが)。

話を元に戻して,
ここにあがった2つの反応のどちらもどうもピンと来ない。“そういう輩”の行為にその都度反応することも,「うちは違う」的な反応をすることも…,と反射的に思ったのでした。

※何かいいタイトルが浮かばなかったので,さきほど見たNHKの番組以降,頭を離れないフレーズを流用。
[79280] 2011年 8月 29日(月)21:47:22【3】Issie さん
津田沼駅は船橋市
[79277] k-ace さん
微妙なのが山県市(山縣)

私的には全然オッケー。だって,もともと「山縣郡」でしょ。
歴史上の人名・地名は基本的に常用漢字体に書き換えて構わないと思います。ちなみに,“あの育鵬社”の中学校歴史教科書でさえ「山県有朋」の表記です(←“文部科学省の圧力”というのかも知れない)。

で,その「野田市」。このままいけば,きっと総理大臣になるのでしょう。
初の「千葉県選出」の総理大臣。
いや,“千葉県出身”の総理大臣と言えば 鈴木貫太郎 がいるじゃないか,という意見もありますが,少なくともこの人は“国民から選ばれた”総理大臣ではない。帝国議会の議員として総理大臣になったわけではないですからね。
それに関宿藩士の家の出身で,だから千葉県出身と言うのだけど,この人の家は下総の関宿本藩ではなくて,泉州の飛地領勤務。その赴任地で生まれたこの人が関宿にいたのは,まだ幼かった廃藩後の数年間だけだったようです。だから「千葉県出身」と言っても,かなり微妙。
その点,今度の人は船橋市の出身で,選挙区も船橋市(=千葉4区)。今度こそ“本当の千葉県出身”と言えましょう。

NHKのニュースを見ていたら,この人の「原点」としてJRの津田沼駅前が出てきました。
もっぱら“南口”を利用していた私には少し縁の薄い“北口”。
そう,私にとって津田沼駅は「習志野市の代表駅」なのですが,北口は“船橋市の第2の玄関”なのでした。野田さん,お父さんが自衛隊の空挺団の方だったというので,地盤は船橋市でも“習志野地区”の方なんでしょうね。だから船橋駅ではなくて津田沼駅(ちなみに習志野市は旧千葉郡つながりで八千代市や千葉市花見川区と一緒の千葉2区だから,選挙区が違う)。
…いや,ローカルな話でごめんなさい。

※追加
[79279] BANDALGOM さん
房総各線や、かつては総武線快速でも活躍した紺色とクリーム色の電車

まあ,そうですねえ…。
でも私にはどちらかというと,“途中参加”の総武快速よりもやっぱり,その前から走っていた「黄色い電車」(101系)。もう1つ前の「茶色い電車」はおぼろげに覚えているだけ(千葉以東ではかなり遅くまで走ってましたが)。後は,ステンレス車になる前の京成電車の「青電」と「赤電」かな。
[79251] 2011年 8月 27日(土)13:52:30【2】Issie さん
日田に行ってきた
うちの職場にはこの季節,「夏休み」というイベントがあるのですが,それは“お客様方”のこと。私たちは原則,通常勤務です(実は昔はそのあたりかなりルーズでした。“うるさく”なったのは10年ほど前から)。というわけで,規定通りの夏休み(夏季休暇)が8月の末になってやっととれたので,かねて予定の九州新幹線に乗りに行ってきました。
ともかく,まずは鹿児島まで直行するとして,どうやって帰ってこようか。
そこで,
・肥薩線の矢岳越え(これは17年前に一度乗車済み)
・西鉄電車に乗る(5年前,選挙で選ばれる“偉い人”のお供で太宰府に行ったときに乗りそびれた)
・日田彦山線にでも乗ってみよう(筑豊線は13年前に乗車済み)
というサブイベントを考えました。

で,九州新幹線。わざわざ新大阪乗り換えで「さくら」に全区間乗車。
感想は,「まあ,こんなものか」と。
在来線時代の「つばめ」にビュッフェをつけていたJR九州のことだから「さくら」にも何か工夫が,と期待したのですが,新幹線は「西」や「東海」に合わせる必要があるのでしょうかね。“普通”の設備でした。
乗ってみれば,新しい新幹線の常でトンネルばかり。高架区間は高い防音壁で景色はほとんど見えず。やっぱり新幹線は「旅行」の手段ではなく,飛行機と同じく2地点間を短時間で移動するためだけの手段と割り切るべきなのでしょうね。

矢岳越え。17年前は八代側から越えて,吉松からは吉都線経由で宮崎へ流れたのですが,今回は鹿児島側から。隼人-吉松間が初乗車(国分までは学生だった25年前に乗車済み。このときは国分から今は亡き大隅線と志布志線(これは現存)で宮崎へ行った)。地図も視ずに乗ったのですが,霧島の西側をスルスルと吉松まで行くのかと思ったら,狭い谷間を通って何度も山越えをするのですね。矢岳越えとともに,日露戦争中の艦砲射撃対策と言われてはいるけれども,よくもわざわざこんなに地形の険しい区間を選んで「鹿児島本線」を通したものです。
矢岳越えそのものは……,あちらこちらに乗車体験記があるので割愛。一つだけ,「観光列車」というのも馬鹿にはできないな。車内が(ある意味)ケバくて居心地悪かったが。

西鉄電車。大牟田から久留米まで乗車。
「久留米」なのは,出発前日に宿の予約をしようと思ったら(ほとんど思い付きに近い今回の旅行なので),博多(福岡)がどこも一杯で予約が取れず,やむなく久留米にしたら一発でとれた,という次第。ま,でも結果的に久留米の町を歩くことにもなって,これは怪我の功名。
大牟田から料金不要の特急に乗ったが,これが速い。30分前に大牟田を発車した各駅停車を柳川で追い抜いたが,これは各停が遅いのか?
柳川付近では筑後平野特有の「クリーク」の断片が車窓からもよく確認できる。こういうものは前政権党以来の農業+土建政策で“きれいな田んぼ”に整備されてしまったと思っていたが,後で地図を見てみると柳川周辺には意外にも昔(白秋の時代?)のまま残っているのですね。この場合,水路を丁寧に拾って“濃い青”で表示している「ウォッちず」がおすすめ。
やはり,柳川駅のあたりで自転車を借りて走り回るのがよさそうです。平坦だしね。

で,日田彦山線に乗るために日田へ。
いや,汽車に乗るためだけじゃなくて,日田自体にも興味があったので。
お昼の日田彦山線列車の発車時刻まで,3時間という駆け足だけど日田の町を歩く。
だって不思議ですよね。何でこんな所に天領があって,西国郡代がいたのか。そして,たとえば江戸時代後期には「咸宜園」という“近代的”な私塾があって,近場の周防の村田蔵六(大村益次郎。塾には違う名前で入門願を出しています)はともかく,奥州出身の高野長英がシーボルト事件の余波とは言え“こんなところ”にいたという。不思議で,魅力的な町です。
日田駅の北西方にある 豆田町 というところが西国郡代の“陣屋前町”で,古い街並みがとてもきれいに残っているのですが,実はこれは何度か大火を経験していて今あるのは明治・大正以降のものだとか。飛騨郡代の高山には陣屋がきれいに復元されているのですが,こちらは敷地が分割されて普通の民家になってしまっているので,復元は難しそうです。
やっぱり3時間では足らなかった。でもこの季節,それ以上歩く気はしなかったな。

日田彦山線に乗って最初に驚いたのは,大分県(豊後)から福岡県に入って直に豊前に入るのかと思ったら「宝珠山」。……??? これって,筑前朝倉郡最奥部の(旧)宝珠山村だよね。何と日田彦山線が通っていたのか…。
これは地形抜きで行政界だけの地図を眺めていては気づかないことでした。
で,筑豊線で「筑豊の“筑”」の方を通った13年前に対して,今回は日田彦山線で「筑豊の“豊”」の方。当たり前ですが,40年以上も経てば“炭鉱の町”の影はだいぶ薄れますね。ボタ山を探してみても,車窓からすぐにそれとわかるものはありませんでした。
そうこうするうちに小倉に着いて。また新幹線。
新横浜に着いたら関東は大雨で,少し前には横浜線が停まっていたとか。家に着いたら今度は新幹線が運転見合わせとかで,私自身は遅れに遭うことなくダイヤ通りの電車で帰ってこれたのですが,運のいいことでした。
[79105] 2011年 8月 15日(月)21:08:36【3】Issie さん
「国中」の縄張り
[79097] k-ace さん
一之瀬地区近くを国道411号で通ったことがありますが、柳沢峠ではなく妙なところに甲州市・丹波山村境があったので不思議でしたが、一之瀬地区だと峠越えしても奥多摩方面より塩山方面のほうが近いから? ただいくらか改良されているとはいえきつい峠道ですが…。

この境界(一之瀬川)は単に現代の甲州市(旧塩山市)と丹波山村の境であるだけでなくて,少なくとも近世の山梨郡(現甲州市)と都留郡(現丹波山村)にまでさかのぼる境界であるようですね。それはもっと言えば,甲州を二分する「国中」(山梨・八代・巨摩郡)と「郡内」(都留郡)との境界でもあるということです。
つまり,多摩川流域の最上流部にあたる一之瀬川以西の区域は「郡内」ではなくて,甲府盆地側の「国中」の縄張りだということを意味します。

私もずいぶん前に国道411号線を通ったことがあります。確か,塩山側から。
柳沢峠を越えてもちろん山ばかりの場所なのですが,面白いことに峠を越えたばかりの一之瀬地区よりも下流に行くほど谷が深く険しくなっていく印象がありました。
実は,これは南に並行する笹子川・桂川(相模川)の谷を下る中央東線も同じで,笹子峠はもちろん険しく長いトンネルをくぐらなければならないけど,大月辺りまでは谷底にそれなりの広がりがあって中央東線も谷底に近いところを通っている。ところが,大月を過ぎると小仏トンネルを抜けて高尾(浅川)の駅に到着するまで実に険しく深い谷をたくさんのトンネルを連ねて行くことになります。塩尻以東の中央東線でトンネルが連続する“難所”は最高地点の富士見高原区間ではなくて,東京に最も近い大月-高尾間なのですね。中央東線の甲府以東が,丹那トンネルを控えた東海道線の東京口や上越線の清水越え区間とともに,昭和最初期という非常に早い時期に電化された理由の一つです。
これはさらに南に並行する秋山川や道志川の谷でも同じです。桂川(相模川),秋山川,道志川のそれぞれの谷が一番深く険しくなる辺りに甲州(山梨県)と相州(神奈川県)の境界があります。これが丹波川(多摩川)の谷では甲州(山梨県)と武州(東京都),そして国中(山梨郡)と郡内(都留郡)の境界となるわけです。

「国」という区画が成立する以前の“国造”の時代には,後に都留郡あるいは郡内と呼ばれることになる相模川(桂川)の上流域は「相武(さがむ)国造」の領域だったという説もあるようで,その後の甲相国境も移動しているようですが,少なくとも「甲斐国」が編成された時には都留郡は甲斐国4郡の1つに数えられていたわけで,甲府盆地側からの支配が及んでいたことになるのでしょう。この時,桂川流域に対しては笹子峠や御坂峠といった険しい峠が境界となったけど,多摩川最上流域については後に柳沢峠と呼ばれることになる峠の隔絶性よりも一之瀬川合流点よりも下流の谷の険しさによる隔絶性の方が大きかったのかもしれませんね。
ただし,地形が険しく関係各国・各郡にとっては山間僻地の辺境にあたるこの辺りの境界線が実際にどうなっていたかは古い時代であればあるほどよくわからないようです。具体的に境界が確定するのは中世後期,国中の武田氏と郡内の小山田氏の縄張りが確定する辺りまで下るのかもしれません。
いずれにしろ,無理に一般化してまとめれば,たとえばいつも分水嶺が境界線であればわかりやすいのだけど,現実にはそうならないこともとても多い,ということになるのでしょう。
[79085] 2011年 8月 14日(日)00:29:40Issie さん
大多摩
[79084] k-ace さん
さて、「大多摩」とはどこのことなのか?

実は初めて聞きました,「大多摩」。
件の観光連盟のHPを見ると,その前身の「社団法人大多摩施設協会」が設立されたのが1946年とずいぶん古いのですね。その割にはあまり一般的に知られた地域概念ではないように思います。
「大」がつくのは,基本的に「多摩」が“東京都限定”という暗黙の了解が前提になっているのかもしれません(川崎市に「多摩区」がありますが)。多摩川の上流も山梨県内では「丹波(たば)川」ですしね。

山梨県北都留郡2村があるのはやはり多摩川の源流があり、奥多摩町と密接な関係があるからでしょうか。

昔は丹波山村から(というより,奥多摩町の氷川駅から?)塩山方面に向かうバスがあったらしいし,小菅村にはシーズン中の土日限定だけど上野原からのバスが10年ほど前から入るようになったけど,今ではこの2村へのアクセスはもっぱら奥多摩町からで,山梨県本体とのつながりはかなり弱いのではないかと思います。
その意味では,この2村が奥多摩,ないしは西多摩地方と一つの塊をつくるのはごく自然なことではあるでしょう。むしろ北都留地方の大月市や上野原市,あるいは甲州市と一体のまとまりを作ることの方が無理に思われます(ただし,甲州市のうち旧塩山市北部の一之瀬地区は丹波山村とともに多摩川水系に属します)。

ところで「丹波山(たばやま)村」や「丹波(たば)川」の「たば」は「たま(多摩)」との関連が想定されています。で,丹波山村と小菅村の間に「大丹波峠」という峠があります。これと「大多摩」が関係あるかどうか。
ちなみに,奥多摩町の東部にも「大丹波(おおたば)」「小丹波(こたば)」のペアーがあって,「大丹波川」も流れていますね。
[79069] 2011年 8月 13日(土)13:28:30【1】Issie さん
大阪都制
[79065] グリグリ さん
とここまで書いていて、大阪府が大阪都になった場合も「呼称変更」でよいのかどうか疑問が生まれました。

やはり,単なる「呼称変更」では済まないケースであろうと思います。
“二重行政”の弊害を解決するということを主眼に置く「大阪都」構想であるなら,その核心となる内容は「大阪府による大阪市の吸収」ということになるのでしょう。この場合,「村→町→市」あるいは「府→都」という“横”の異動だけでなく,(建前上,上下関係があるわけではないものの)「市→都」という“縦”の異動が起こるわけで,かなり大きな制度変更になり,したがって単なる「呼称変更」の範囲内には収まらない,と考えます。

「東京都」の場合は,東京市の区域について“府県階層”と“市町村階層”の2階層にまたがって行政を担当する“新しい制度”の創設であったわけで,そこで法律であるところの「東京都制」が新たに定められるとともに,「府」ないし「都」は“国の地方官庁”で,その改廃や知事・長官以下の官吏の任免は「天皇大権」の1つ(大日本帝国憲法第10条)でありましたから,この部分については法律ではなく勅令「地方官制」も改正されて実現したものです。
「都制」とは,これら一連の手続きを経て導入された「(東京)都という制度」という意味だと思われます。単に「東京都制」という法律が施行されたという意味ではないだろう。
その後の「地方自治法」では,“既にある制度”として他の道府県と同列に扱われることになるわけですが。

「大阪都」の場合はどうなるか。
知事は国会に足場を持っておらず,国会の二大政党等とも全く無関係に,他の都道府県との連携もなく,あくまでも“大阪府単独”で動いているように見えますから,恐らくは「地方自治法」を変えてということはなく,この法律の範囲内で,ということにならざるを得ないのでしょうが,その中でどうやって「市」を吸収し「都」となるのか。
そう言えば,この人は元々弁護士さんですから“法律の専門家”であるのでしょうが,地方行政法という分野についてはどうなのか。

一連の市制・町制・村制の話題については,みなさんの詳細な考察があるのでそちらに譲るとして,とりあえず私はこう考えます。

・かつて存在し,現行憲法・地方自治法下では効力を持たない「市制」「町村制」という法律があった(←この2つ,最初に1888(明治21)年には“1つの法律”(法律第1号)として公布されていますが,1911(明治44)年の改正で別個の法律(市制:第68号,町村制:第69号)に分離しています)。
・この体制の下では「市」になることは法律「市制」を施行することであり,その意味で「市制施行」という表現は正当である。
・しかし,「村」が「町」になる際に新たに「町制」という名前の法律(←実際には存在しない)を施行するわけではない。その意味では「町制施行」という表現は正当ではない。
・ところで,当時の6大市には「区」が設置され,これを「区制」と呼ぶことがあるが,そのような法律は存在しない。
・一般的に1889(明治22)年に導入された基礎レベルの地方制度を「市町村制」と呼ぶ。しかし,「市制・町村制」とは通常呼ばない。なぜなら,これは法律名による呼称ではなく,全国を「市・町・村」に区分して自治を行う制度,というほどの意味で用いられていると思われる。
・「町制」「村制」「区制」も同様の意味で用いられていると考えられる。「市制」,あるいは「郡制」「府県制」は同名の法律が存在し,その区分が曖昧だが,同様に「市という制度」と捉えることも可能だろう(ただし,単独で「府制」「県制」と呼ぶ例はあまりないような気がする)。
・「~という制度」という意味での呼称であれば,法律である「市制」「町村制」「郡制」「道府県制」(←1946(昭和21)年に「府県制」から改称)「東京都制」が廃止され効力を失っても成り立ち得るものと思われる。
・現行地方自治法下において,それらの呼称は法律上の根拠を持つものではないかもしれないが,慣習的な呼称としては(自治体自身も含めて)広く行われているものであり,「正当でない」わけでは必ずしもない。
・だから,場合に応じては「市制」「町制」「村制」その他の呼称を用いることもあり得るだろう。

……何だか,書いていてさらによくわからなくなりました。
ただ,話の最初の方の「宿」「駅」「浦」等については,少なくとも近代の地方制度(たとえば「郡区町村編制法」以降)としては“そのような制度”があったわけではなく,末尾がどのような呼称であれ,「村という制度(村制)」や「町という制度(町制)」の中に含まれるものだと考えています。
[78878] 2011年 8月 7日(日)10:45:11【1】Issie さん
相模原中央
昨年も同じことを書いた記憶があるのですが,
基本,甲子園からは距離を置いて眺めたいと思いながら,そのたびに自分が,現住地で自分の雇い主である神奈川県よりも千葉県の方に強く帰属意識を持っていることを確認してしまいます。特に今年は「習志野」という文字があるのが素直にうれしい。「横浜」だとか,「東海大相模」には,そういう感情が湧かないなぁ(でも,頑張ってね)。
久しぶりに校歌を聴いて,そう言えば現在リーグ・トップのヤクルト・スワローズの小川監督が前回優勝時(1975年)の投手だったことを思い出しました。

[78876] グリグリ さん
「常陸大宮、日立、鉾田、柏、松戸」という表示があり

気象警報は“市町村どまり”で,区のある政令指定都市も「横浜(市)」や「大阪(市)」(←「市」はあったか,なかったか?)までしか出て来ないのですが(ただし,大阪市は市全域が単独でかつての“二次細分区域”,現在の呼称は“市町村をまとめた地域”で「大阪市」という呼称です),地震の震度を発表する際は政令指定都市でないところも含めて,市町村以下の区分の地名がまま現れますね。
その時は確か,たとえば「相模原中央」のような表記であるように思います。
「市」と「区」が省略されている?
いや,「区」だけ省略して「相模原市中央」だったかな?

NHKのニュースなどでは,基本的にそれぞれの区域の最大震度が発表されますね。第一報は,都道府県をいくつかの区域に分けた単位(基本は気象警報で用いられる“一次細分区域”だけど,以前に hmt さんが指摘されたように,いくつかの県ではやや違った区分になっています)内で一番震度が大きかった“どこか”の震度で代表し,次いで詳細がわかると各市町村単位の最大震度が報じられる。
「相模原中央」と言えば(あるいは「相模原市中央」でも),とりあえずは「相模原市中央区」と捉えることになるでしょうね。恐らくは地震計が置かれている市役所の位置。ここが幸か不幸か「中央区中央2丁目」。だから,これは区名を飛ばして「相模原市(中央区)中央」と読んでも正しい。
でも「中央区」内にはほかにいくつか地震計の置かれている地点があって,そこの震度かも知れない。実際,「中央区中央」よりも「中央区田名」の方が大きく揺れたこともよくあります。このとき,「相模原(市)中央」の震度としてテロップに表示されるのは,中央区中央=市役所ではなく 田名 の震度なのでしょう。「相模原市中央区」と読むのならそれでもいいのですが,「相模原市(中央区)中央」だと不適当。
…ま,こんなことを気にする人はあまりいないとは思いますが。

画面のテロップ表示は「簡潔」を旨としますから,必要に応じて 市区町村 などの“接尾辞”が省略されるのはありだと思うのですが,そこからくる曖昧さが場合によっては混乱を生み出すもとになりかねないことは事実でしょうね。
[78836] 2011年 7月 28日(木)21:10:10Issie さん
1077年,ハインリヒ4世 対 グレゴリウス7世 のできごととは?
1か月ぶりの東京12チャンネル「空から日本を見てみよう」,今回は清里高原。
以前の天竜川では,かなり「自然地理(地形学)」していましたが,……
なるほど,「人文地理」もできるんですねえ。まあ,「観光地理」。
ただ,語り口にしばしば,昔フジテレビで深夜に放送していた「カノッサの屈辱」を思い浮かべてしまったのですが,それはたぶんネタがまさしくあの番組向きだったから。
考えてみれば,あの番組はバブル絶頂期のものだったんですね。
清里の雰囲気もだいぶ変わってしまったけど,今「カノッサの屈辱」を作ったらどんな番組になるんでしょうね。
[78822] 2011年 7月 24日(日)18:36:45【3】Issie さん
吉野駅は「町」
図書館に行く用事があったので,ついでに一連の話題について少しだけ眺めてみました。
見たのは,「吉野駅」が数次の合併の末,最終的に所属することになった 旧・藤野町(現・相模原市緑区)の『藤野町史 資料編・下』藤野町,1994年。

この資料集の p.28 に「明治一八年三月 吉野駅外四ヶ村町村費収支表調整進達」というのが収録されています。

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客年十二月庶第千三百十九号ヲ以テ御照会相成候町村費収支表別紙之通調整進達仕候也
 但 明治十七年度ハ各科目ニ依リ各町村費ヲ区分スルヲ得ザルニ付単ニ連合町村費ノ負担額ヲ掲ケ別ニ連合町村費支出予算ノ科目ヲ添テ参考トナス
     津久井郡吉野駅外四ヶ村
 明治十八年三月七日 戸長 和智保章
  津久井郡長 吉野十郎殿
-------------------------------------------------------------------------------------

以下,各“駅”村の収入・支出の表が掲載されています。各表の題目は,
・吉野駅町費 収入
・吉野駅町費 支出
・日連村々費 収入
・日連村々費 支出
(以下は,町史に収録されていません。)

これは郡区町村編制法下の1885(明治18)年ものですが,固有の自治体呼称としての「吉野駅」に対して(恐らくは全国一律の)会計上の呼称は「町費」であることがわかります。ついでに,“駅”の長の呼称(職名?)は「戸長」。(←※【追加】:これは「連合戸長」ですが,恐らくは“駅”単独の長も「戸長」ではないかと思います。)

※蛇足ながら,「首長」という呼称は,現行地方自治法下において議会とは独立して住民から直接選挙され,相互に牽制しあう(二元代表制)“一方の代表”としての知事・市町村長について,「大統領制」的な性格を踏まえて行われる呼称ではないか,と解釈しています。だから,旧憲法・市制町村制下において議会(市町村会)から独立していない市長・町村長(市町村長は市町村会が選挙する)に「首長」という呼称を適用するのはどうだろうか,という気がします(私の解釈が正しいかどうかは,専門外のこととてわからないのですが)。ちなみに,“官の末端”である 府県知事 および東京都・北海道庁・樺太庁の各長官の呼称は「地方長官」です。

次に p.37 に,1889(明治22)年の町村制施行にともない町村会議員の選挙が行われましたが,それに際して開かれた「吉野駅議員撰挙会」の報告。

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四月十九日吉野駅議員撰挙会ニ於テ左記ノ通当撰相成候条此段及報告候也
     元吉野駅外四ヶ村
  明治廿二年四月十九日 戸長 和智保章
 津久井郡長 吉野十郎殿

(当選議員省略)

   吉野駅町会議員一級定期選挙
本駅町会定期選挙ニ方リ議員四名選挙ノ為メ本月十九日元吉野駅外四ヶ村戸長役場ニ於テ一級ノ選挙会ヲ開キ元戸長ニ於テ大房清左衛門、船橋四郎兵衛、大房平吉,大房伊之助四名選挙掛ニ選任シ、元戸長和智保章選挙掛長トナル、同日午後第一時選挙掛長着席開会ス
午後第三時ヲ以テ投票ヲ閉鎖ス、其投票ヲ開キ之ヲ検スルニ投票総数ノ内有効投票十八票悉皆有効ニシテ其投票ヲ受ケタル人名及投票点数左ノ如シ

(以下略)
-------------------------------------------------------------------------------------

以下,開票結果の後,さらにどのような手順で当選者が決定されたか,非常に具体的に報告されていて,当時の選挙風景が目に浮かぶようでとても面白いのですが,ここに長々引用するのもふさわしくないので,以下省略。
ただ,もう一つつけくわえると,上の文章では“郡区町村編制法”下の旧自治体である「吉野駅」と,“町村制”下の新自治体である「吉野駅」を明確に区別していますね。

この「一級定期選挙」の段の冒頭にある「本駅町会」というのが,この話題の答えを一言で表しているように思います。
すなわち,「町村制」下においても,自治体固有の呼称は「吉野駅」と呼ぶのに対して,議会は「町会」と称しています。ここには登場しませんが,“駅”の長の呼称もまた「町長」であることが推測されます。

まとめると,郡区町村編制法下でも,町村制下でも,自治体の固有名としては「旧ニ依」り(郡区町村編制法)従来の「吉野駅」をそのまま称しているけれども,全国一律の制度としての呼称は「町費」であり「町会」であり,つまりは「町」か「村」かと言われれば「町」として扱われていた,と解釈できるように思います。

吉野駅が「町」として扱われていたとするなら,より繁華な 日野駅 や 府中駅 は当然に「町」であったと思うのですが,どうでしょう。

※せっかくなので追加:吉野駅,「大房さん」が多いですね。
[78817] 2011年 7月 24日(日)12:36:39【2】Issie さん
Re:ちでじ
お昼になったらどうなるかと,ワクワクしながらアナログ放送を視ていたのですが,何も起きずに「お昼のNHKニュース」が…。「なぁ~んだ!」
というのは,我が家が集合住宅で,建物自体が地元の有線放送局から電波の再送信を受けているから。有線放送局が気を利かせて当分の間はデジアナ変換をしてくれているみたいですね。
ただ,有線チャンネルの方でタダで流してくれていた TOKYO MXテレビ の再送信は終わってしまったようです。

さて,県境域の当地ではアンテナを立てれば(上記のように我が家ではアンテナを立てる必要がないのですが)東京“都”ローカルのMXテレビだけでなく,テレビ埼玉なんかも入ってきたようです。位置的には,“県都”の横浜よりも東京都の八王子の方が近いですから。
なので何年か前,最初に地デジも受信できるHDレコーダーを買ったとき,はじめのチャンネル設定で「東京(八王子)」でやってみたら,どうも調子がおかしい。どんなに遠くても,神奈川県のここでは「神奈川(横浜)」に合わせて設定しなけれなならないのですね。自前のアンテナではなく,有線放送局からの再送信なのだから当然です。
「県域単位の地デジ」というものを,これで体感しました。

ところで,我が家に地デジ電波(BS電波も)を再送信してくれている有線放送局は,県境を越えてのサービスはやっていないようで,県境を越えた町田市では系列の別放送局がサービスを提供しているようです。ここでは当然,東京都のチャンネルで再送信をしていて,MXテレビが視られる代わりにTVK(テレビ神奈川)はダメなんでしょうね。
でも有線放送局によっては,県境を越えてサービスを提供しているところもあるんじゃないでしょうか。その場合は,その人の視ているテレビがある(建物がある)県のチャンネル・放送局ではなく,有線放送局のある県のチャンネル・放送局になるような気がするのですが,どうなんでしょう。

※この書き込みのために何度かアクセスしたのですが,なぜかものすごく重いぞ,J:COM…。
[78786] 2011年 7月 17日(日)10:31:15Issie さん
信州松本!
[78780] じゃごたろ さん
東北六魂祭

…というのは,今朝の新聞記事で初めて知りました。残念なことに,あまり名誉あるできごとの記事ではなかったのですが。
いずれにしろ,すでに各県で十分に“商業化”されたイベントをさらに集めようとした商業イベントですね。
「祇園祭」のそもそもを考えれば別に否定することではないのですが,この「6つ」を選んだ根拠は何か,と考えるとやっぱり少なからず“客観性”に疑問が。青森はなぜ「ねぷた」じゃないの? なぜ,わざわざ「わらじ祭り」を選んだの?

[78783] じゃごたろ さん
地域密着のサッカーではというと、確かにチーム名は「AC長野パルセイロ」と「松本山雅FC」と都市名が入っていますが、この両者が対戦する場合は「信州ダービー」と呼ばれ、決して「長野」という単語がつかわれることはありません。

私はプロ・サッカーにはほとんど全く関心を持っていないので(自分でサッカーをすることは嫌いではないが)詳しいことは知らないのですが,何となく「ようつべ」を眺めていたら,たまたまサッカーの試合の開始前に「信濃の国」を歌っている場面に出くわしました。
どうも,この“長野のチーム”と“松本のチーム”の試合前らしい。で,こちらは松本のチームのスタンドで,そこで応援団が「信濃の国」の1番を歌っている。そして,歌った後のコールが「信州・松本!」というもの…。
相手の“長野側”がどうしているのかわからなかったのですが,「信濃の国」がこんな形で使われているのが面白く感じました。「松本山雅FC](←“サンガ”じゃなくて“やまが”と読むのですね)のファンに対する(あるいは,ファンの間の)キャッチフレーズに「スタジアムに行って『信濃の国』を歌おう!」という意味のものがあるようですね。
神宮球場の「東京音頭」みたいなものでしょうか。
別の動画では,よその県のチームとの試合でしょうか,その開始前に歌手(?)が「信濃の国」をアカペラで歌う場面があって,これには失笑してしまいました。(私はスポーツイベントの開始前に“「国歌」なるもの”をアカペラで歌う最近の風潮に良い感情を持っていません。)

「信濃」と「信州」の微妙な違いとかに関してはここでも過去に話題になっていたような気もしますが,何かあまり若者受けしそうもないような「県歌・信濃の国」がこんな形で使われていることが大変興味深く感じた次第。
あるいは,“全体”を「信州」と呼んでも,その中の個々の地点を「信州○○」と呼ぶのはそれほど一般的ではないような気がする(「信州中野」という“駅名”や,「信州新町」という“合併で創作された新自治体名”はあるが)中で,「信州松本!」というコールも意外に新鮮に感じたのでした。
[78781] 2011年 7月 16日(土)22:05:21【2】Issie さん
松本ぼんぼん
[78780] じゃごたろ さん
長野県の場合「諏訪湖祭」は全く知名度がない祭りでしょうが、「諏訪湖祭湖上花火大会」となると第一等のイベントになるのではないかと思います。

「諏訪の祭り」といえば,“7年に一度”(寅と申の年)の「御柱」を措いてこれを凌駕するものはあり得ないと思いますが。
この「御柱祭り」,“総本山”の諏訪大社だけではなくて,その後に順次,諏訪や松本など周辺の関連神社で行われるわけで,長野県県央部(←という呼び方を長野県ではしないけど)ではポピュラーな祭りですね。
ただ,これが「全信州」を代表するかどうか。
松本平では穂高神社の「御船祭り」が地域を代表する格式高い祭りだし,下伊那の遠山郷には「霜月祭り」という伝統のある祭りが受け継がれています。
善光寺平では,諏訪の御柱の前年に同じく“7年に一度”(丑と未の年)めぐってくる善光寺の「御開帳」こそ,一般の「お祭り」のイメージとはずれるかもしれないけれど,神社とお寺の違いだけで,その本質は全く同じ「お祭り」。
そういうお祭りが県内には大小無数にあります。
※私個人は,県内にキャンパスが分散する某大学の学生だったときにたまたま遭遇した松本市郊外神林地区の二子神社のお祭りや,これは学生寮単位でアルバイト参加していた長野市内の妻科神社や新諏訪(しんずわ)神社のお祭りに格別な印象を持っています。

「諏訪湖祭」とおそらく“対等”の位置にあるのが,長野市の「びんずる」や丸子町の「丸子どどんご」,松本市の「松本ぼんぼん」などで,同じようなイベントが県内各地で7月末から8月初めにかけて行われます。
長野の「びんずる」とは,善光寺本堂内に安置されている「おびんずる様」(賓頭盧(びんずる)尊者,ビンドラ・バラダージャ)に由来し,「松本ぼんぼん」は元は松本市内で子どもたちによって行われていたお盆の行事にヒントを得たものですが,今行われているそれはそうした由来とは別の,すぐれて商業的なイベントですね。

先ほど,NHKで京都の祇園祭の中継をやっていました。このお祭りも千年の間に“伝統”を保ちつつも,当然ながら“性格”を変えてきながら続いてきたものですよね。
それに対して,雪捨て場に溜まった雪の“有効利用”から始まった「さっぽろ雪まつり」や,各地で模倣が相次いだ「YOSAKOI」系のお祭りなど,宗教的な背景を持たずに主に商業的なイベントとして最近になって“創作”されたものも少なくない。
それらを同列に扱うのは相当に難しいことだと思います。

つまり,

ところで最近はやりの「都道府県を代表する○○」ですが、「祭り」もどなかた選定したりして。

これは無理だろう,もっと正直に「やめてくれ」と言いたい気持ちがあります。
念のために言えば,私は「商業的“松本ぼんぼん”」や「YOSAKOIソーラン祭り」のような“商業イベント”を否定するつもりはありません。
けれども,それぞれの地域の歴史やお祭りの来歴を,さらに言えばその祭りの存在自体を知らない余所者が,その「無知」の上に何の根拠もない,非常に恣意的な「独断と偏見」で選んだリストに何の価値があるのか,その意義を全く見出せません。
リストアップされるべき「祭り」とは,どのようなものを対象とするのでしょうか。このことは,すでに「山」や「川」でも問題になっていますね。どう定義づけて選択の対象としますか?

少し前に同様の意見があったのでそれに便乗するのですが,私がこの話題にどちらかというと否定的なのは,そのような気持ちがあるからです。

※蛇足
そう言えば「松本ぼんぼん」の歌で思い出したのですが,この歌の1番の歌詞の初めの方に「安曇野」って言葉が出てきます。正確には松本があるのは 安曇野(安曇郡) ではなく,「筑摩野(つかまの)」(筑摩(ちくま)郡)なんですけどね。
[78773] 2011年 7月 16日(土)11:24:37Issie さん
美ヶ原
[78772] 千本桜 さん
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。

「美ヶ原」というのは元々,山上の放牧地の名前だったようですが(それほど古い名前ではない),現在の松本では“山全体”の名前として理解されているようです。
個別の峰の呼称としては「王ヶ鼻」,「王ヶ頭」などといった名前があるのですが,それはあくまでも“全体の中の部分”の名前であって,別に“全体”の名前が必要。
で,「美ヶ原」という名前が定着するまでは漠然と「東山」と呼んでいたようです。
「西山」,つまり乗鞍などの北アルプス主稜線やその前に連なる常念などの“前山”の総称に対する呼び名ですね。ただし,松本市街は松本盆地の東縁を限る糸・静線ライン(その一部は最近注目の「牛伏寺(ごふくじ)断層」)よりも東に引き込んだ女鳥羽(めとば)川と薄(すすき)川の扇状地にあるので,「西山」というと西側に見える山並み全部,つまり北アルプスとなるのに対して,「東山」というとほぼ美ヶ原に限定されるようです。
[78753] 2011年 7月 10日(日)21:47:44【3】Issie さん
新・坊っちゃん
私が小学生の頃,NHKで「新・坊っちゃん」というドラマが放送されました。
井上ひさしはある本の前書きで「『坊つちゃん』の映像化はことごとく失敗している」と書いているのですが,小学校6年生の私にはとても面白く思いました。この人がムーミンパパ(の声の人)か,ってね。“正露丸のラッパ”とか…。
これを機会に夏目漱石を読んでみようと思ったのですが,「坊つちゃん」はともかく,ほかの作品は小学生にはあまりにも難しくて,すぐに挫折しました。
で,何の話かというと,このドラマの冒頭の場面が松山に赴任した坊っちゃん(柴俊夫)が“はしけ”で三津浜の港に上陸することろでした。“はしけ”で上陸するのですね。大型船が接岸できる港湾施設が当時の三津浜になかったからです。

[78747] ペーロケ さん
「港にとって河川は害である」

昭和の初めに自動車の普及が始まるまで「車」(人力,馬力を問わず)による長距離輸送が発達しなかった日本において,鉄道網が整備されまで内陸における唯一の大量輸送手段は河川の舟運でした(次に来るのが背中に荷物をくくりつけた駄馬,その次は人間が背負う歩荷(ぼっか)。で,あとはもうない…)。もちろん,水系を越えた全国的な流通についても船による海運が唯一の手段。越前・三国港の繁栄もそれによるものです。
ところが十分な水深を確保するのが困難な河川と外洋とではそれに適当な船の構造が違いますから,必然的にその接点で河川用の船と外洋用の船との荷物の積み替えが起こります。だから,内陸水運の発達した大河川の河口には港(港町)が発達する基本条件があるのです。新潟や酒田などはその典型です。

江戸の場合,徳川入府以前の元の市街は現在の大手町のあたりに形成されていたと考えられています。よく“家康は何もない江戸に飛ばされた”という言い方がされますが,中世以降の江戸は南関東の物流拠点としてそれなりに繁栄していたようです。基礎的な立地条件は荒川(隅田川)の河口ということにあるのですが,実際に市街が形成されたのは隅田川本流ではなくこれに合流する平川(現在の日本橋川)沿いであったのですね。後に,家康の“江戸大改造”で大手町付近は武家町となり,物流の拠点はやや下流の日本橋に移ります。
巨大城下町・江戸のもう1つの港として栄えたのが品川でした。こちらは目黒川の河口に立地しています。目黒川は舟運に利用できるはずもない小さな川ですが,河口の地形が船の発着に利用できたのでしょうね。
近世の城下町はほとんどの場合,このような舟運を意識して都市計画がなされています。大坂(大阪)や広島のようにそのような河川に直接面して建設されているものもあれば,その支流や運河(掘割)を介しているものもあります。たとえば,信州の松本は女鳥羽(めとば)川がお城の外堀の役目を果たすとともに,奈良井川・犀川の舟運を引き込む役割もしています。ただし,千曲川/信濃川は信濃(長野県)と越後(新潟県)の境界付近に急流があって,両者の舟運は断絶していました。ここが両国の国境である所以でしょう。

神戸にとって「河川が毒」だったのは,そこを流れるのが「川」というよりは,すぐ背後にそびえ立つ六甲・麻耶から流れ落ちる「滝」に等しいものであり(「垂水区」とはよく言ったものです),内陸交通路としての機能を全く期待できないばかりか,大量の土砂を運び込むだけの厄介な存在であることによると思います。
つまり,神戸は河川交通との接点として発達した港町ではない。平清盛の日宋貿易がその始まりであったように,主に“海の交通”の拠点として発達した。長崎や平戸,あるいは那覇もこのグループに属するように思います。対外交易の拠点としてなら,後背市場とはほかの交通手段で結ばれていればいいので,港そのものに地形的な後背地は必要ない。だから必ずしも大河川の河口である必要もなく,長崎のようにリアス海岸の入り江深くでも立地し得る。現在の姿からは想像しにくいのですが,那覇は元はベネチアのようにラグーン(潟湖)の出口に形成された砂州の上に立地したようです。
神戸(大輪田)の場合,大きな船が入るのに適した地形には恵まれませんでした。だから,平清盛は大規模な築港事業を行ったのですね。そこは同時代の鎌倉も同じで,ここでも大規模な築港が行われましたが,これはその後放棄されて現在ではごくわずかな痕跡しか残っていません。結局,山を越えた六浦(むつら)・金沢(かねさわ)というラグーン(平潟湾)に面した港がその後も機能し続けました。こちらも中世後期以降,鎌倉とともに衰退し,江戸・品川に主役を奪われることになります。
河川自体は舟運に堪えないような小さなものであっても,その谷を重要な陸上交通路が通っていれば,その河口には海陸接点型の港町が発達します。鉄道から自動車に主役が移った現在においても特に日本海貿易の拠点として重要な敦賀は,遥かな昔,「角鹿」(つぬか)と呼ばれて高句麗や新羅・渤海などとの交易拠点であった時代からの典型例です。
四国の中では比較的に広い平野である松山平野でも重信川にどれだけ交通路としての機能を期待できたか,おそらくは平野全体の陸上交通の集約点,そして海上交通への接点として「熟田津」以来の三津浜の役割があったのだろうと思います。
で,坊っちゃんはここで上陸して,「マッチ箱のような」伊予鉄の汽車に乗って松山市街に向かった…。

[78736] hmt さん
その他に小樽

これは迂闊でした。
確かに道内経済の中枢としての地位は失っても,日本海海運の拠点としての小樽の重要性は今でも大きなものがありますね。「脱落組」とするのは,小樽に失礼でした。
[78735] 2011年 7月 9日(土)10:19:20【4】Issie さん
稚泊航路,浦塩航路
[78730] 白桃 さん
室蘭と稚内

ものすごく意地の悪い言い方をしたら,「“大”から脱落した2大港町」。
水産業が衰退した現在では,稚内は利尻・礼文航路が主体のローカル港だけど,元は“日本領南樺太”への玄関口ですよね。当然ながら,それなりのにぎわいはあったのでは。
室蘭港は石炭の積み出し港。私は世代的に石狩炭田の最末期しかリアルタイムで知らないけれど,“複線”(!)の室蘭本線を往来する石炭列車の姿は写真や映像で見ていた覚えがあります。
どちらも港の役割の大半が消えて,室蘭に至っては新参者の苫小牧にその地位を完全に奪われて,脱落しちゃった…,という感じでしょうか。
もっとも,“脱落”組には 小樽 という大物がいるし,ウカウカしていると函館もこちらに仲間入りしてしまうかも。

[78733] ペーロケ さん
福井 三国港 九頭竜川の河口に開けた漁港。

元は北前船で栄えた商港ですね。言うまでもなく,越前随一の港町。
でも,稚内つながりで言うと,「浦塩航路」の拠点である 敦賀港 も捨てがたいのでは,と。
北前船の残照に思いをはせるか,それとも日魯交渉の拠点として育まれた異国情緒に重きを置くか。
どちらも甲乙つけがたい。

島根 浜田港 県内に、浜田以外の大きな港が出てこない。

むしろ,鳥取県の境港の方がその位置と“水木マンガ”からの連想で島根県と思っちゃうんですよね。
島根県としては,境港の対岸の島根半島にある 美保関 というのが歴史的には著名な港町ではあります。あるいは,隠岐航路のフェリーが出ている七類港というのもありますが,これはかなりにマイナー。

なんとなく、大河川の河口を利用した港が多いですね。。。

ま,これは“江”戸がそうであるように,ある意味当然の結果ではないかと。
ただし,この中には「東京港」がそうであるように,明治以降,大型外航船の時代になって一旦「港」から滑り落ちたけれど,その後の大規模な港湾(再)整備によって再び浮上したものもありますね。


[78734] デスクトップ鉄 さん
他の内陸県も探してみました。

やっぱり相当無理があるような。
舟運が内陸の交通手段として完全に壊滅した今,ここに「港」というべきものはもはや存在しない。 あるのは,単なる観光遊覧船の船着き場。
唯一,例外としてノミネートされる琵琶湖の大津港も現状では観光船の船着き場に過ぎないけれど,ここは過去の歴史,たとえば鉄道黎明期に琵琶湖水運を介した水陸連絡拠点として機能していたことを踏まえてのことだろうと思います。
たとえば埼玉県には荒川・新河岸川や古利根川沿いにそんな“港町”が少なからず存在するけど,今は「港」はありませんからね。
[78724] 2011年 7月 7日(木)19:44:43【2】Issie さん
皆さんお毛がなくておめでたい
[78723] ぺとぺと さん
妻 : 「箱根かぁ・・・でも、箱根は山に登るって感じじゃないよね」

あっ,これはわかる気がする。
つまるところ,箱根は「登る山」ではなくて「越える山」なのですよ。
“登山電車”なるものが走っているし,地元では“登山バス”と呼ばれているものもあるけれど,登るのは乗り物。たいてい,自分の足で登るわけではない。
だから,「山に登る」という感覚が希薄なのでは?

今も丹沢山系を眺めていますが、前衛にある大山はハッキリわかりますが、東西にのびる稜線のどこが丹沢山のピークなのかは全くわかりません

これは別の角度から眺めても同じです。
当地,相模原からは富士山が見えませんから,どこより目立つ山は大山です。
“単独峰”としての「丹沢山」はボーッとした塊である“丹沢山塊”の中の“有象無象”の峰の1つに過ぎない。「百名山」なんて,山に登らない一般ピープルには関係ない話ですから。
その存在感の大きさゆえ,信仰の対象となって,南関東各地から“何本もの大山街道”が走り(一番有名なのが“246”),「大山詣で」なんて落語の題材にもなる。
これは“県内最高峰”の蛭ヶ岳にもない存在感です。

全国的な知名度なら箱根山の方が勝るかもしれません。けれども,箱根はやっぱり「県西」の山。“神奈川県”として見ると,西に偏りすぎなのは否めません。これが「足柄県の山」というなら,間違いないのですが(いや,「足柄県」なら「足柄山」という声も聞こえそうです。この場合,「足柄山」とは単独の峰を指すのではなく“足柄峠”を中心とする山塊の総称ととらえるべきでしょう)。
もっとも,大山および丹沢山塊も,元は 神奈川県 ではなく 足柄県 に属していました。

そんなわけで,私は 大山 に一票を投じます。
で,単独峰としての丹沢山には古代ギリシアの「オストラキスモス(陶片追放)」よろしく“排除票”を投じたい。

※そうそう,言い忘れていました。
単独峰としての 丹沢山 は,千葉県の鹿野山,そして東京・麻布の 日本経緯度原点 と並ぶ“超一等三角点”の1つ([78608])で,「地理」の立場からはとっても重要な山です。
でも,その世界でも存在感は鹿野山に数段劣る,という気がします。
[78687] 2011年 7月 2日(土)20:52:25【1】Issie さん
むかし丹波の大江山 鬼ども多く集まりて
[78685] 伊豆之国 さん
京都 比叡山 大文字山 鞍馬山

やっぱり京都“市”に偏ってしまいますねぇ。
ここは,丹後の大江山,なんてのはどうですか。京都“府”北部では,かなり存在感のある山だと思いますよ。
一説によれば,「酒呑童子」をはじめ数々の鬼退治伝説の舞台,とも言われていますが,一方ではこの「大江山」とは,京都の西,丹波との境の「大枝山」(西京区に「大枝」という地名があるが,具体的な位置は甚だ曖昧)だという説もあって,私はこちらの説に賛成。
でも,両丹地域から挙げるとすれば,丹後大江山は外せないだろうと思います。

箱根はどの山を代表にするか?

外輪山を含めた「全体」でしょうね。
[78683] 2011年 7月 2日(土)12:59:23【2】Issie さん
槍や穂高は隠れて見えぬ
[78680] グリグリ さん
浅間山や八ヶ岳を推す理由として、首都圏から見た目線もあると思います。

そうですねえ。これはやはり関東平野からの視点ではないかと。
松本平に住んでみると,浅間や八ッの存在はそれほど感じられません。何よりも目の前にある「西山」の存在が大きくて。ただし,県境の北アルプス主稜線ではなく,梓川と高瀬川で切り離された“前山”の方。まさしく,「槍や穂高は隠れて見えぬ」(…わけでは,必ずしもないけれど)。
松本であれば常念岳,“安曇野”であれば,今NHKの朝のドラマで主人公が勤務している国民学校(←間もなく学制改革で「小学校」に戻るはずですが)の名前にもなっている有明山。大町以北に行けば,また違う山が挙がるでしょう。
松本平も属する「中信」でも木曽に行けば,そこではやはり御嶽と駒ヶ岳。
「中信」だけでも1つに絞ることは難しい。

八ヶ岳は御柱を伐り出してくる山ですから,諏訪での存在は大きいでしょう。同じ「南信」でも伊庭谷に行けば,上伊那では駒ヶ岳,下伊那では赤石岳や恵那山なんかが浮上してくる。

浅間山の存在感は「東信」では絶大。
現在は佐久市になっている旧望月町のご当地ソングに「望月小唄」というのがあります。一連の中山晋平・新民謡シリーズの1つですね。その中に出てくるのが,「南蓼科,北には浅間」。望月を初めとした,佐久・小県の中山道沿いでは蓼科山の存在も大きいでしょう。しかし,やっぱり浅間山にはかなわない。藤村の「千曲川旅情の歌」にも印象的に登場するしね。

けれども,「北信」の善光寺平に入ると浅間の影は薄れます。
ここでは「北信五岳」と呼ばれる 飯縄・戸隠・黒姫・妙高・斑尾 が地域を代表する。中で抜きんでているのは飯縄山でしょうかね。妙高山は新潟県に属します。
ただしこれは飯縄山の足元の長野市というよりは,千曲川右岸の須坂・小布施・中野あたりからの視線です。
長野市内からは背後の飯縄山よりも前に広がる草津白根,四阿(あずまや)などの山の方が印象は強烈。
さらに,北信の中で豪雪地域と少雪地域とを分ける「高井富士」=高社山の存在も無視できません。

ことほどさように,長野県内で“どれか1つだけに絞る”というのはほぼ絶望的に不可能。だから,“あの投票結果”は十分に納得できるものです。
県外の視点から無理やり1つに絞って絞れないことはないでしょうが,それはおそらく地元の人の感覚からは大いにずれてしまいそう。
だから,

都道府県プロフィールのメニューとして、「都道府県を代表する山(落書き帳選定)」「都道府県を代表する川(落書き帳選定)」を作ってみようかなと思っています。ついでに「都道府県を代表する作家(落書き帳選定)」も。

これは面白そうな企画だけど,「1つに絞る」というのは避けた方がいいかなと思います。
これは努めて“主観的”な世界の話で,いかなる「客観性」も入り込む余地のないもの(流域面積とか人口とかの数字を持ち込んでどんなに「客観性」をよそおってみても,その数字の選択や扱い方に既に“恣意”が入り込んでいます)ですから,結局は自分の感覚に合うか合わないか,という話に行きついてしまう。
よほど圧倒的,絶対的な存在感を持つものでなければ,“万人が納得する”ものにはまずならない。
だからに,無理に1つに絞るのはよしましょう,というのが私の意見です。

なお,県歌「信濃の国」に登場する山は,“国の鎮め”の御嶽・乗鞍・駒ヶ岳,そして浅間。…地域的に偏りがありますね。別のところでは“月の名に立つ”姨捨山(冠着山)が登場します。「碓氷山」というのも登場しますが,これは「峠」。しかも歌われているの(穿つ隧道二十六)は,この歌には珍しく“県境の向こう”の群馬県部分ですね。
[78675] 2011年 7月 2日(土)02:34:29Issie さん
混声合唱組曲「筑後川」
当該記事の該当部分はすでに削除されているので引用はしませんが,

もうかなり昔のことですね,国鉄総武線の津田沼以遠がまだ複線で,地べたを走っていた稲毛駅では貨物扱いをやっていて,駅の近くのアルコール工場や専売公社のたばこ倉庫から,アルコールになりかけのサツマイモの甘い匂いや倉庫に集積されたたばこの匂いが風に乗って流れてくる,某中学校に通っていたころ,音楽の時間に合唱で「筑後川」の最終曲を習いました。
後で高校生になってからこの組曲の全曲を通して聴いたとき,中学校で教わったときはただのピアノ前奏部だと思っていた旋律が最初の曲の歌いだしに対応しているのに気付いて,なるほど「組曲」とはこうした綿密な計算の上に構成されるものなのか,と初めて納得しました。
…というのは,その書き込みを読んで改めてこの合唱組曲のCDを聞いて思い出したことです。
もともとこの合唱組曲は地元のタイヤメーカーの肝煎りで作られた曲ですが,やはりローカル色の強いものですね。
その筑後川,上流は熊本県だったり大分県だったりするし,下流は県境で佐賀県も十分に潤しているのだけど,やはり名前のせいか,福岡県の印象が強いですね。とは言え,それでは福岡・博多地域や筑豊・北九州が抜け落ちるのですが。

で,言いたかったことは,よそ者の私には「クリーク」というと,どちらかと言うと福岡県側の方がイメージが強いかな,ということ。
何よりも,高校の授業が終わった後に通った予備校の帰り,「全国の地形図が見られる(←買うのではない)」というので寄り道をした改装直後の神田・三省堂書店の地図コーナーで見た5万分の1「羽犬塚」図幅の強烈なイメージがあるからです。画面いっぱいに広がる不規則なようで規則的な,規則的なようで不規則な水色のクリーク網にびっくりしたものでした。
もちろん佐賀県側にもクリークはあるわけで,福岡県側の独占物でないことは十分に承知していますが,北原白秋の詩で刷り込まれている柳川(柳河)の風情もあわせて,私には福岡県側のイメージの方が強い,
という,そんな話…。

と言いつつ,実はこちらの方が本題に近かったりするのですが,

[78674] 実那川蒼 さん
市区町村変遷情報の誤り指摘だけを長々と書き込んだ、読んでいて退屈な記事よりもよほど価値あるものだと思っていたからです。(中略)メールでも済むのではないか?

私は逆に,これは個人的なメールではなく公開の場で交換されるべき情報だと思っています。正直なところ,私は読み飛ばしていますが(ごめんなさいね),これは開かれた場で蓄積されていくことにこそ意義がある情報だと考えます。
見えないところで,いつの間にか“直っている”というのは,こういう情報には不適切かな。どのように訂正(修正)されてきたかを跡付けることも重要な情報だと思います。
[78661] 2011年 6月 29日(水)20:24:41Issie さん
ときはいま あめのしたしる 五月かな
[78658] 白桃 さん
実は私も、亀岡市と亀山市を混同することがあります。

もともと「亀山」ですからね。
明智光秀といえば,「丹波亀山」。
今の「亀岡」を知らずに歴史の方から入っていけば,「亀山」なのもむべなるかな。
「亀山藩」が明治2(1869)年の版籍奉還後の知藩事任命に前後して「亀岡藩」に改称して今に至るものですが,これは伊勢の「亀山藩」に対する同名回避によるものと思われます。
類似例は全国に多数。
中には,安房の 勝山藩 → 加知山藩 → 加知山村 → 勝山村(→鋸南町)と,元の名前に戻っちゃった所もありますけどね。

でも何で伊勢が残って丹波の方が改称させられたかというと,やっぱり地元以外では不人気の明智光秀のせい…,だったりするんでしょうかね。
[78608] 2011年 6月 21日(火)21:51:31Issie さん
防鴨河使
[78597] futsunoおじ さん
都道府県を代表する山と川

[78604] N-H さん
ここは香川県の屋島よろしく、鋸山を提案させていただきます。

「地理」的には“超一等三角点”の鹿野山を推したいところですが,南関東における一般的な知名度から言えば N-H さんの御意見に賛成です。
川は難しいですね。養老川は小櫃川や小糸川,外房の夷隅川などと並ぶ“房総の大河”ですが,せいぜい(郡制施行のための郡統合以前の)郡単位のローカルな川です。やはり“外来河川”の利根川・江戸川に頼らざるを得ない。でも,江戸川は「寅さんの柴又」に取られてしまった感も無きにしも非ず。本当は 矢切の渡し は「野菊の墓」のこちら=千葉県側のもの,と言いたいところですが。

東京都を代表する川としては隅田川をあげたくなるのは人情ですね。

「水系」にこだわることをやめれば,都市・東京の川は,やはり隅田川以外にあり得ません。「荒川」と呼ばれている川の東京都区間は,そもそも人工の放水路ですから,どんなに規模が大きくても,それは“家の裏側をひっそり流れる川”。顔,ではないと思います。
ところが,これが「三多摩」を加えた東京“都”となると,話が変わる。多摩にとっての川は多摩川以外にあり得ず,隅田川・荒川なんて“東京都”の端っこをながれるだけの川です。
多摩川なら,田園調布や六郷・羽田の景観に欠かせない川だし,そもそも江戸・東京自体が玉川上水の水に潤されてきたのだから,多摩川の方に軍配が上がるかも。

似た構図は,京都“市”対京都“府”にも言えます。そして,こちらの方がもっと複雑。
平安時代の“令外官”に「防鴨河使」という役所がありました。「防河使」とも書いて,どちらも「ぼうかし」と読むのが古来の習わし。字のとおり,京都を鴨川の洪水から守る防災官庁ですが,「河」一字だけで「鴨川」を表してしまうあたり,本家の中国で「河」一字で「黄河」を意味するのと同じく,京都にとっては良くも悪くも鴨川なしにはあり得ない。
だから,「“京都”の川」と言えば,当然に鴨川を挙げなければならないでしょう。
けれども,京都“府”の川となると,話が違う。さらに東京都以上に難しいのは,三多摩を貫流する多摩川のような存在が京都府にはないこと。
“山城”だけ,というなら宇治川もいいですが,盆地全体を貫流する木津川の方が上に来る。
でも丹波・丹後の両丹地域は別世界。「桂川」はそれを慮っての選択かもしれないけれど,如何せん,この名前は京都盆地での名前。「保津川」と言ってみても,この名前の区間も短いですね。この川を何とお呼びするのが適当か。
そうするとやっぱり 由良川 が浮上するけれど,結局はこの川が“京都府全体”においてどれほどの存在感を持っているかにかかります。

その点,やはり構図の似ている大阪府では淀川の存在感が圧倒的だし,兵庫県に場合は摂津地方は神奈川県の鶴見川同様,あまり気にしなくてもよさそう(武庫川があるけど)。でも,私は 加古川 よりも“そうめんのブランド” 揖保川 を推したいな。

山梨県の富士川,奈良県の大和川は,水系としてはそうだけど,この名前で流れているのは盆地を出て,もう隣りの県(府)に入るころですね。肝心の(どちらも)「国中」ではその名前では流れていない。山梨県の場合は,笛吹川と釜無川のどちらに軍配を上げるか。
もっと難しいのは奈良盆地で,個々の川は決して大きくない。竜田川とか初瀬川とか飛鳥川,佐保川,とそれぞれに名のある川はあるのだけど,“代表”というにはやはり小さい。どうあっても吉野川や十津川,北山川には逃げたくないところですが。

五木ひろし(千曲川)と三橋美智也(石狩川)には異論ありません。「北上夜曲」は歌っている人が多くて。
さとう宗幸(広瀬川)も挙げたいところですが,やはりこれは仙台市の川。宮城県全体では“宮城郡ローカル”なんでしょうね。
[78595] 2011年 6月 19日(日)21:34:41Issie さん
みとる
「たぎる」と関係ある話かもしれません。

もう四半世紀前になりますが,教育学部の学生であった私は長野県内の中学校と小学校で6週間の教育自習をしていました。
実習では自分の授業をするたびに前もって指導案(教案)を書かされます。そこに 学習内容・教師の動き・子どもたちの動き などを45分の授業の流れに沿って書くわけですが,そこでは決まり事のように「子どもたちの動きを“みとる”」という表現をよく使いました。
これは長野県内の教育関係者の間ではごく普通に使われる表現で,私たちもあまり疑問に思わずに使っていたのですが,どうもこれはよその地方の人が聞くとかなり違和感を感じる表現らしい。
なぜなら,「みとる」というのは多くの地方で(“標準語”ないし“共通語”でも)「死者を看取る」という意味で使うのが普通であって,元気に生きている子どもたちに対して使う言葉ではない,という意識が働くからのようです。
上ではわざと“ひらがな”で書いたのですが,長野県の学校で使われる「みとる」は漢字で「見取る」。言われてみれば,現代の“標準語”にない見慣れぬ単語では決してないけれど,確かにあまり使わない表現かもしれません。珠算検定の「見取り算」くらいかも。

結果として,「みとる」というごくありふれた単語なのだけども,実際には微妙な意味のズレがある。もしかしたら,その地方では当たり前と思われている意味が,ほかの地方では全く通じない。
こういうことって結構あるのではないかと,今回の「たぎる」を見てふと思ったのでした。
[78594] 2011年 6月 19日(日)21:08:54Issie さん
小田切さん
[78590] 伊豆之国 さん
「田切」の付く苗字に「小田切」さんがあります。

そう言えば,長野市に「小田切」という地名があるのを失念していました。
国道19号を犀川に沿って下り長野盆地に出る直前に「小田切ダム」というダムがあります。このダムのすぐ下流で「両郡橋」(←更級郡と上水内郡にまたがるので)を渡ると急に視界が開けて善光寺平に入ります。
「小田切ダム」の名前は,ダムサイトの北岸(左岸)が長野市編入前の上水内郡小田切村に属するからですが,谷底の国道沿いにはめぼしい集落がありません。別にダム湖に沈んでしまったからではなくて,元からない。旧小田切村の中心集落は山のずっと上,北側を流れる裾花川の谷との間の尾根の辺りにあります。
で,「小田切」というのですが,どうもここの地形は伊那谷の典型的な「田切」とはだいぶ違う地形です。何よりここには地すべりによる緩斜面が散在してそこに集落があるのですが,伊那谷のような広い平坦面は存在しない。“若い谷”が発達している,という点は共通するのですが,その谷が侵食するのはここでは平坦面ではなく山なのですね。
もしかしたら,「小田切」の“小”の字に秘密があるのかもしれません。

[78589] hmt さん
自然災害に直面し、逆巻く急流により侵蝕され、耕地が分断される姿を目撃した人々が、これに「田切り」という字を当て、

[78582] で私は「若い」という表現を使いましたが,この“若さ”は言うまでもなく“地形形成史”の中での若さであって,これに比べたら人類全体の歴史など“一瞬”にならないほど若いものです。
30年ほど前の台風の集中豪雨で釜無川上流の河床が侵食されて一夜にして グランドキャニオンのような景観 が生まれたことがありました。1984年の長野県西部地震では,王滝村で一瞬のうちに山が抜けて集落が分断される災害が起きました。2004年の中越地震でもよく見られた光景ですね。
とは言え,これで伊那谷の「田切」のような地形が生まれるわけではありません。どんなに集中豪雨が繰り返されても,せいぜい120年の私たちの一生の間に「田切」のような深い谷に成長するはずもありません。
本家アメリカ・コロラド高原のグランドキャニオンは壮大な「田切地形」と言えなくもないのですが,これは何億年もかけて作られたものです。
信州の「田切」はもちろんそれよりも遥かに“若い”ものですが,それでも人類がそこに来たときには既にあったものだと思います。恐らくは目の前で「田が切られる」光景を見てついた地名ではない。もし現実の災害を目の当たりにして生まれた地名であるならば,それはもっと別のところに分布したのではないか。
たぶん「田切」というのは,既にそのような形になっている地形を人々が利用し始めてから,「田が分断されているように見える」様を見て生まれた地名なのだろうと考えています。
[78582] 2011年 6月 18日(土)19:26:33Issie さん
田切り落つ異郷の涙 by 藤村
[78581] k-ace さん
私なんぞは「田切」って地形名だったのかレベルですが。由来をいわれてみれはなるほど。

必ずしも「用語」としてきちんとした定義はされていないだろうと思うのですが,イメージ的には河岸段丘や火山山麓の平坦面を新たに侵食した川が作る若くて細長い谷,という程度のものでしょうか。「田切」地名が特に伊那谷に集中し,さらに隣接する八ヶ岳,蓼科,浅間の各火山の山麓緩斜面にも多く見られるので,この辺りをフィールドとする地元信州の郷土地理家が「田切地形」という語を多用しています。
同じ信州でもこのような地形があまり見られない中信や北信では,あまり使われません。たとえば,犀川丘陵は河岸段丘自体は多く分布するのですが,平坦面が断片的に散在しているために「田切地形」はあまり見られないのですね。
同様の地形はほかの地方にも見られます。たとえば鹿児島県のシラス台地などもそうですが,ここでは別の名前で呼んでいるのではないでしょうか。南関東にも似た地形がありますが,ここでは「ヤツ(谷津)」とか「ヤト(谷戸)」と呼んでいますね。
目黒区の「田切(たぎれ)」は,やや孤立した例ではないかなあ。

#後、東京「12チャンネル」(アナログ)か「7チャンネル」(デジタル)かという話もあるようですが…。

私的には,あの放送局は東京タワーの下にあった頃から「東京12チャンネル」ですから,今さら「7チャンネル」には…。7月以降も,私は「12チャンネル」と呼んでいますよ,きっと。
[78575] 2011年 6月 17日(金)21:51:57【1】Issie さん
なにもたべないほうが ましでした
[78572] hmt さん
これは、絵本作者の偏見に基づく記述ではないかと想像します。

元々の原文で「あぶらむし」が何を指しているかわからないところで議論してもあまり意味のないことかもしれませんが,ゴキブリは世界の中では非常にポピュラーな食材であるそうですね。何を食べるか,ということは文化の根源にかかわることで,自分たちの感覚に反するからという理由でその地域の食文化を貶めることは極めて不遜な行為です。
私も信州に住んでいた頃,カイコのさなぎや,天竜川つながりで ざざ虫 なんかも度々食べました。残念なことに蜂の子を食べる機会には恵まれませんでしたが。まあ,それなりに美味しいものではありますが,独特の臭みがあって,その辺りで好みが分かれるかな。

もっとも,この絵本のこの表現,作者が本気でそのように思っているなら,それは「偏見」かもしれないけれど,そこまで目くじらを立てることか。子ども心には,「なにもたべないよりは ましでした」が2回続いた後,3度めに「なにもたべないほうが ましでした」と来るところが,とても面白かったのでした。
絵本や童話に限らず,同じ展開を3度繰り返して,3度めは違うところに“落とす”というのは,ドリフのコントもそうであったように,お話づくりの最も基本的なお約束の1つです。ここでも,まずはそのお約束に則っているのだろうと思います。
とは言え,この絵本には別のところで,お話後半で登場する「黄色い目の猫たち」が,ただ1匹特徴の違う「あおい目のこねこ」に対して極めて「差別的」な発言と行動をとる場面があります。あおい目のこねこは,それにメゲない,というのがこのお話の大事な部分の1つなのですが,その部分はやはり結構エゲツない。

そんなことより,「空から日本を見てみよう」。
今回は,「天竜川」という素材がもたらしたものか,いつになく「地形」が話題に上る場面が多く,興味深いものでした。河口西側の砂丘地形から始まって(本当は砂丘としては河口の東側の方が有名なのですが,今のこの御時勢,話題にするには微妙すぎますね),蛇行や中央構造線,河岸段丘から,「田切地形」などという“信州ローカル”な地形用語まで飛び出して来たのには驚きました。実際のところ,伊那谷の地形を語るのに「田切地形」は外せないのですが,それが所詮は関東ローカル局の「12チャンネル」の電波に乗るとはね…。
以前にも一度ここでボヤいたことがあるのですが,NHKが特にそうなんだけど(民放はそもそも,あまりこういう番組をつくらない),どうも日本のテレビはせっかく自然番組を作っても“生き物”の方に流れてしまって,「地理」に留まって“地形”や“気候”をじっくり視せてくれる番組が極めて少ない。
その点では,地形にこだわる「ブラタモリ」が出色なのですが,如何せん,視点がマニアックすぎるのと,何より対象が東京の中でさえ極めてローカルで…。日本地理学会から表彰されたとは言っても,やっぱりねえ。
だから,今回の「空から日本を見てみよう」は私的には“大当たり”でした。
ここの地形の説明には,それぞれ一言二言もの足りなさを感じないでもないけれど,これだけいろいろな地形の実例を視せてくれた辺り,地理教材として十分使えるものに思いました。
もっとも,この番組の特性で,すぐに 下山ダッシュ みたいな鉄道ネタに走っちゃうんですけどね。
そこし恨めし。
[78569] 2011年 6月 16日(木)21:27:32Issie さん
あおい目のこねこ
今日の東京12チャンネル「空から日本を見てみよう」は天竜川。
河口から源流までさかのぼる,と言っていましたから,諏訪湖よりも上の八ヶ岳か霧ヶ峰まで行くのかと思ったら,諏訪湖出口の釜口水門まで。ま,確かにここが“天竜川の始まり”ですから,これが最も正しい「源流」ですね。

[78568] 白桃 さん
ゴキブリのことを「アブラムシ」って言うことについて、それが地域性の問題なのか、世代間の違いなのか・・・。

ここのところで思い出したのが,子どもの頃に読んだ 「あおい目のこねこ」 という絵本。
もうストーリーは忘れていて,検索してみて,そう言えばそういう話だった,と思い出したのですが,1つとっても強烈に覚えていたこと。
旅に出た子猫(飢えた子猫は餌のネズミがたくさんいる「ねずみのくに」を探しに出たのですね)が途中,空腹のために虫を捕まえて食べる。それが小さいハエや蚊だったりして,腹の足しにもならないのだけど「たべないよりは ましでした」。ところが最後に捕まえて食べた「あぶらむし」。これはマズくて「たべないほうが ましでした」。
子ども心に,「食べない方がまし」なくらい不味い「あぶらむし」ってどんな虫なのか,と思っていました。だって,アリマキのことじゃないよね。
それが“ゴキブリの別名”だと知ったのは,だいぶ成長してから。

これは外国の絵本を翻訳したもので,ここで「あぶらむし」という語に翻訳した せた ていじ さんという人が,どこの出身でどういう「方言」話者なのかも興味深いのですが,「“あぶらむし”は,食べない方がましだった」というのは,原作からのものですね。この作品の原作者は エゴン・マチーセン という人で,名前の“響き”から推測すると北欧の人ではないかと思うのですが,だとすると,北欧では「あぶらむし」はハエよりも蚊よりも「食べない方がまし」な虫なのですね。
問題は,その「あぶらむし」が元々はどういう虫だったか,ということです。やっぱりゴキブリなのかしら。

ひるがえって,再び日本のゴキブリの話。
「ゴキブリ」と言ってもいくつか種類があるようで,どうも北日本と東日本,西日本ではメジャーな種が違うらしい。基本体型は同じようなものでも,色や大きさなどが違っていて,もしかしたら同じ「ゴキブリ」という語で,違う虫を連想しているかもしれません。
そして最近の気候変動の影響か,各地でメジャーな種の交代が進んでいる,なんて話を漏れ聞いたような記憶も…。

名古屋の「御器所(ごきそ)」という地名を初めて聞いてすぐに「ゴキブリ」を連想してしまった私ですが(どちらも「御器」という語に由来するのですよね),ゴキブリの話題も結構奥の深いものです。
[78546] 2011年 6月 12日(日)12:24:11Issie さん
黒部の太陽
[78541] スナフキん さん
「ひかり号」も九州から急きょ召し上げられた名前ですね。

そうですね。とってもローカルなジーゼル急行でした。まさか,「こだま」を飛び越えて「夢の超特急」になるとはね。
でも,その前は「のぞみ」と一緒に満州を走っていました。
“名前の使い回し”の歴史も結構奥が深いものです。
超特急に名前が“召し上げ”られた後継の列車名が「にちりん」(日輪)。日豊線,日向国,そして九州を連想させる名前で,私はこちらの方が好きです。最近,(文字通り)“影”が薄くなっている気がしないでもないけど。

山名などはピンポイントで使える範囲が限定的であるのに対し

“ピンポイント”であるが故に,そのピンからどちらの方向にも向かえる,という面もありますね。
信越線を走っていた「妙高」や「とがくし」は“ピン”の長野地区から,ある時は上野方面へ,ある時は新潟方面へ,と真逆に向かっていました。

子どもの頃,時刻表を眺めているのが好きで,特急や急行(準急はもう国鉄には走っていなかった。京成には走っていたけど)の名前を見て喜んでいたものです。その中には意味の分からないものもチラホラ。
「にちりん」も子どもには難しい名前でしたが,これは何だろうと本当に疑問に思ったのが,中央西線から大糸線に乗り入れていた急行「くろよん」。語彙のない子どものことだから,クレヨンの変種か,などと思いました。
由来はもちろん,1960年代の国家プロジェクト,黒部ダムと「黒部第四発電所」。ダムの完成後は,急行「くろよん」が関西方面から“くろよんダム”への観光客を送り込むことが期待されたのでした。
今でも立山・黒部アルペンルートは人気の観光地で,多くの観光客でにぎわっていますが,昔ほど突出したものではなくなったような印象が。「くろよん」という言葉もあまり耳にしなくなったような気がします。
今,列車名や夜行バスの名前として「くろよん」が選ばれることはあるのでしょうか。この名前も,高度経済成長時代を懐かしむアイテムになっているのかもしれない。

昔,満洲を走っていた「ひかり」や「のぞみ」,そして「あじあ」もそうですが,列車名というのも結構,「時代」を映す鏡なのかもしれません。今,やたらとカタカナが多いのも。
でも,「サンダーバード」という名前は二重,三重の“誤用”を犯しているように思うのですが。
[78537] 2011年 6月 11日(土)20:47:28Issie さん
話題の逗子市長
[78532] hmt さん
澤 光代さん
神奈川県 逗子市長で、任期は1992年(平成4年)11月11日から1994年(平成6年)11月30日まで。
女性であることは間違いないと思うのですが、参考頁 では、澤さん【右下?】を確認することができませんでした。

そうでしたね。
池子弾薬庫問題が原因の対立で市議会や市長のリコール投票が相次いだ 富野暉一郎市長 の次に市長に当選したのが女性の 澤さん だったので話題になったのを思い出しました。
で,少し間をおいて“若い市長”の 長島さん の登場。

逗子市の場合,米軍施設という争点になりやすい施設が存在することと,「住民性」というものか,この四半世紀ほど,何かと話題になることが多い印象があります。
…正しくは,そういう場面しか記憶していないだけですが。
 
[78533] 2011年 6月 11日(土)17:28:24Issie さん
しんかんせんでゴー! ゴ・ゴー!
今,NHKの教育テレビを“聴き”ながらここを見ています。
で,歌声が流れてきました。「おかあさんといっしょ」の今月の歌らしい。耳に入ったのは,こんなフレーズ。

 のぞみにさくら はやぶさ こまち…

「さくら」「はやぶさ」で即座に連想したのは寝台特急だったのですが,何かおかしい…。
これは新幹線の歌でした。
これからの子どもたちには「さくら」も「はやぶさ」も新幹線の列車なんですね。
「さくら」は南へ,「はやぶさ」は北へ。
頭を切り替えなければならないな。
[78527] 2011年 6月 10日(金)21:26:19Issie さん
単なる情報
[78516] 白桃 さん
首長の年齢や性別については、単なる「情報」であって、それらをどう組み立てたって「地理」はおろか、「地理雑学」にはならないと思います。

まあ,そうですね。単なる「情報」であることはその通りです。
そしてたとえば,人口統計の数字もそのままでは単なる「情報」ですね。
でも,その単なる「情報」が大切です。「正確な情報」抜きに,自分のごく狭い経験と思い込みとで何事かを語ったって,何のお話にもならないじゃないですか。

たとえば「地理コレクション」。これを「地理」だと思っていました?
単にあるテーマに該当する(という“事実に反するかもしれないただの思い込み”も含めて)地名を列挙しただけのこのデータベースだって,ただの「情報」以上の何物でもないですよ。「地理 geography」には遥かに及ばない。
これを「地理」たらしめているのは,その「情報」をもとにこの「落書き帳」で交わされる会話(“議論”未満であっても)の積み重ねです。
そして,その会話を実のあるものにするのは,個人の勝手な思い込みではなく,きちんとした根拠のある「情報」以外にないのです。
だから,“単なる情報”上等!
大事なことは,その“単なる情報”からどれだけの情報を読み解いて「地理」を語れるか,という“読解力(リテラシー)”です。

[78518] ニジェガロージェッツ さん
私も白桃様と同じ意見です。私の「地理雑学」の領域にも入りません

[78525] hmt さん
ところで、異論の出た女性村長や 若い首長。
地方自治法施行に先立って行なわれた 1947年の統一地方選挙とのからみもあり、地方自治を語る“材料”の1つであることは、間違いないと思い、[78453]で「4人の女性村長」を紹介しました。

私も hmt さんと同じ認識を持っています。
この「情報」が,この「落書き帳」の中でどれだけ活かされるかはわかりません。けれども,この「情報」が利用されて,どのように“化ける”かもわからない。今必要なことは,この先どのように利用されるかはわからないが,その必要性を感じるならば,できるだけその情報を集めることです。

[78498] グリグリ さん
それにしても、女性首長もそうですが、首長の就任日や生年月日など、まとまったデータが無いことを痛感しています。たかだか60年ちょっと前の戦後の情報です。歴史データとして、変遷情報などと同じく、整備されていて然るべき情報のひとつだと思います。

という認識があるのなら。
もしかしたら,誰かがこの情報を上手く読み解いてくれるかもしれない。

[78521] 88 さん
#「『女性』首長」として抽出して(強調して)まとめること自体が、現在の男女共同参画社会において適正かどうかは、再検討する必要があると思います。

この点についても,私は hmt さんと同意見です。
「男女共同参画社会」の“実現”に向けて,わが国の地方自治がこれまでどのような歴史を踏んできたのかを検討する上で,これは最も基礎的で不可欠な情報だと思います。むしろ,これは積極的に“強調”して集めるべき。それほど,わが国では“女性首長”がいまだに珍しい存在なのですから。
これは「若い首長」についても同じ。
“専門家”の世界には「政治地理学」という分野があります。昔は「地政学」と同じような意味でとらえられていたようですが,今はもっとユルく,さまざまな地域の政治現象を地理的な視点から読み解く,という程度の意味でとらえられているようです。あるいは逆に,「政治」という視点から,“その地域の特徴”つまり「地理」を読み解いてみよう,というもの。
それらを語る上では,たぶんこのようなデータは最も基本的な「情報」として求められるものだと思います。この「落書き帳」のメンバーの関心がそちらに向かうかどうかは,わかりませんが。

繰り返しですが,「情報」なくして「地理」も「地理雑学」もあり得ません。
大事なことは,私たちはその「情報」の中からどれだけの物事を読み解いて,「地理」を語ることができるだろうか,というところにあるのだろうと,私は思います。
[78514] 2011年 6月 8日(水)01:09:12Issie さん
ブラタモリ on 東京タワー
遅い時間ですが,NHKで「ブラタモリ」の再放送をやっていました。
芝・東京タワーの回。今回,単発の再放送のようです。
今となっては,地震でテッペンが曲がってしまう前の東京タワーですね。

ところでNHKのHP内にある「ブラタモリ」のページを見てみたら,

 「ブラタモリ」が日本地理学会賞を受賞!

というニュースが。
“プロのみなさん”も視ているんですね。
第3シリーズは…,どうかなあ。

ま,こういう「地理」もある,ということで。
[78512] 2011年 6月 8日(水)00:24:28Issie さん
「地理」とは何か
…という問いがあったら,それに対する答えは人それぞれなんじゃないでしょうかね。
たとえば統計データの数字だけ取り出して並べてみて,それで「地理」と言えるか。
市町村の変遷をひたすら列挙してみて,それで「地理」と言えるか。
地名がどのように表記されるのか,「ケ」の大小を検討することが「地理」と言えるのか。
自治体はどのような名前を名乗るべきなのか,カタカナ地名はありかなしかを論ずることが「地理」と言えるのか。
何かのテーマを設定してそれに該当すると思われる地名を(それが本当にそれに相当するか否かにかかわりなく)並べあげることが「地理」と言えるのか。
…などなど。

たぶん,これらは「地理」を語る際の材料ではあっても,それだけでは「地理」ではない。
それらを総合して“その地域がどのような場所であるのか”ということを語って初めて「地理」あるいは "geography" (ge=土地 の graphy=記録)となる。
だから,ここにあるのは「地理」ではなくて「地理雑学」。
で,それを語る“材料”は,いろいろな側面からさまざまな切り口のものがあった方がその組み立ても豊かになる。

まあ,いろんなものがあっていいんじゃないですか。
私はむしろ,「イベント」の時だけ賑わって,ほかは閑散としている最近の状況が心配でした。だから最近,話題の幅が広がって良い傾向ではないかと思っていますよ。
[78502] 2011年 6月 7日(火)01:25:23Issie さん
唯一人の公選北海道庁長官
[78500] にまん さん
次に知事。おそらく知事はこれで網羅できていると思います。

[78489] では適当なことを言っちゃいましたね。3人もいましたか。

北海道知事 田中敏文 たなかとしぶみ 35歳6ヶ月 1947(S22).5.? 3 1911(M44).11.9

田中さんが「北海道知事」になったのは現行憲法と地方自治法が施行された 1947年5月3日 であると思います。
でも,この人はその2週間前の 4月21日 からその職務に当たっています。恐らくは,旧憲法・道府県制下の「北海道庁長官」として。
地方自治法が貴族院で修正可決されて成立したのが 1947年3月28日,公布は 4月17日 ですから,田中さんが就任した4月21日時点では既に「北海道知事」となることはわかっているのですが,4月に投票が行われた選挙が始まったのはこの法律の施行はもちろん,恐らく成立よりも前でしょうから,この人は「最初の公選北海道庁長官」として選挙されたものと思われます。
これは「最初の東京都知事」である 安井誠一郎 さんが「東京都長官」として選挙されたのと同じです。で2人とも,「最後の公選長官」となった。
だから田中さんも,最初は「北海道庁長官」として就任して,5月3日に自動的に「北海道知事」に移行した,と考えていいのではないかと思うのですが,肝心の 北海道公式ページ には歴代長官・知事の一覧がないのですね(少なくとも,すぐ見つかる場所には)。北海道(庁)自身が,この辺りをどう処理しているか,知りたいところです。
[78499] 2011年 6月 6日(月)19:39:04【1】Issie さん
若い市長 in 逗子
[78485] グリグリ さん
40歳未満で就任した首長の一覧

元・神奈川県逗子市の市長の 長島一由 さんも,当選・就任当時は「全国最年少の市長」と言われていました。

 1967(昭和42)年1月18日生まれ
 市長在任:1998(平成10)年12月25日~2006(平成18)年12月24日

就任時点で満31歳ですね。在任は8年ですが,2期目途中の2003(平成5)年8月に米軍池子住宅問題で一度辞任をして9月の出直し選挙でみたび当選しています。だから,当選は3回だけど,期数はどう数えるのかな。
「住民の意思を直接問う」として首長が任期途中で一度辞任して直後の選挙にまた立候補する,というのが何だか最近流行していますが,長島さんはその手法が流行りはじめた最初の方の例ではなかったでしたかね。
結局,この人は8年目の任期満了したところで退任しました。立候補しなかったんだっけ? もう忘れちゃいました。
[78489] 2011年 6月 5日(日)22:08:13Issie さん
Re:40歳未満で就任した首長の一覧
私が知っている例に,福田(父)内閣から鈴木内閣にかけて官房長官や外務大臣などを歴任した 園田直 さんがいます。
1913(大正2)年生まれで復員後の1946(昭和21)年に故郷の 熊本県天草郡一町田村(現天草市の一部)で村長に就任した,という例。33歳(または32歳)で就任ということになるでしょうかね。もっとも,翌1947(昭和22)年の衆議院議員総選挙に立候補して当選していますから,在任は1年足らずですね。
それ以上に,現行憲法施行のために行われたのがこの総選挙ですから,園田さんが村長をやっていたのは旧憲法・町村制下での話ですね。したがって,現行地方自治法(あるいは公職選挙法)のように住民による直接投票ではなく,(村議会ではなく)村会で選挙された村長さんです。だから 伊藤兵庫県知事 ともども対象外かな。

というわけで園田さんは微妙ですが,この1947年に実施された第1回統一地方選挙では女性首長と同様に,若い首長も生まれているような気がします。でも確か,知事(および東京都長官,北海道庁長官)にはいませんね。市長も無理かなあ。町村長なら,いるかも。
と言っても,昭和の大合併以前の小規模町村の時代。調べるのは大変そうですね。
[78476] 2011年 6月 4日(土)19:48:13【3】Issie さん
2つの桐ヶ谷村
[78471] hmt さん
問題の「馬込領桐ヶ谷村」は 大田区でしょうが、地名がすっかり変っています。馬込や雪谷という地名から類推するのみ。

たとえば,1922(大正11)年部分修正の5万図を見ると該当すると思われる位置に「桐ヶ谷」の地名はありません。もう1つの「桐ヶ谷」(こちらは「品川領」)は,「大崎町」内の地名として記載されています。
そこで,[68352] でも話題に上がった『新編武蔵風土記稿』(江戸時代後期,化政年間に幕府機関によって編纂された準公式地理書)に当たってみました。関連部分をそのまま引用します。

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○桐ヶ谷村(馬込領・巻46)
桐ヶ谷村は当郡品川宿より西南の方一里半余にあり、家数十五軒、東より南へは市ノ倉村に界ひ、正南は堤方村に接し、西は池上村に隣り、北は馬込村に及ふ、東西十五町南北八町余、水田少なく陸田多し、土性は赤土野土錯(まじ)りに耕作に宜(よろしか)らす、元禄八年織田越前守検地す、御入国の後山本藤右衛門知行となり、それより今の又十郎に至るまで子孫世々襲領す
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現在の町名としては「桐ヶ谷」だけでなく,隣接する「市ノ倉」「堤方」も消滅していますが,「堤方」は呑川に架かる橋とバス停に名前が残ります。文章中の記述と“明治の大合併”で「池上村」に合併されたという事実から,池上本門寺の東側,大田区中央五~六丁目のあたりに相当するものと思われます。
地図をよく見ると,本門寺の東側のヤト(池上一丁目)に「桐里保育園」というのがあるのですが,もしかしたら「桐ヶ谷」と関係があるのかもしれません。

現在も斎場にその名を残す品川区の「桐ヶ谷」については,こう書かれています。

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○桐ヶ谷村(品川領・巻53)
桐ヶ谷村は郡の東境にあり、江戸日本橋より二里半の行程なり、家数六十軒、東は居木橋(いるぎばし)下大崎谷山の三村に隣り、南は谷山戸越の二村に接し、西は下目黒村に及び、北は上大崎村に交(まじわ)る、東西二十町南北八町余、南の方はすべて丘なり、北に及びては地低くして谷合多し、村の東の方に相州街道係れり、下大崎村より入て戸越村に達す、此間五町許(ばかり)、当村開墾の年代詳(つまびらか)ならず、御入国の後御料所にて元禄八年織田越前守検地す、又同じ頃村西の溜井を開墾して水田とせしもの五段、伊奈半左衛門検地して新田となる、今は一円に大貫治右衛門光豊が支配所なり
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というわけで,「桐ヶ谷村」の重複については特に記載がありません。位置が離れていることと,所属する領が違うことで別の村であることが明らかであるからなのかもしれません。

「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分には,桐ヶ谷村のほかに「小山村」と「久ヶ原村」が2つずつ記載されています。
「小山村」は 馬込領 と 世田ヶ谷領 の2つ。このうち,「世田ヶ谷領小山村」については“古くは「尾山村」とも書いた”という記述があり,これは現在の世田谷区尾山台付近のことと思われます。「馬込領小山」は商店街で有名な品川区の「武蔵小山」ですね。
こちらの重複についても特に記述はありませんが,考えてみれば表記は同じでも 世田ヶ谷領(世田谷区) の方は「おやま」,馬込領(品川区) の方は「こやま」と読みが違いますね。

一方,六郷領 と 馬込領 で重複する「久ヶ原村」については記述があります。

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○久ヶ原村(六郷領・巻44)
久ヶ原村は、郡の中ほどにあり、正保及元禄年中改定の国図共に村名の字を久原としるせり、今の字にかきかへしは何の頃よりにや定かならず、又同じ図をみるに、其頃すでに馬込領久河原、六郷領久河原と二村に分ちて記したれど、古(いにしえ)は一村たりしなど土人の伝へあり、もとより地形も接したれば、さもありしならん
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-------------------------------------------------------------------------------------
○久ヶ原村(馬込領・巻45)
久ヶ原村は、六郷領久ヶ原村に弁せし如く、その地あひ接したれば、昔は一村なりしやとおもはる、されど正保の頃改定の国図及び田園簿には、はや各村別ち記せり、土人の伝へには古は当村を今里村と号せしといへり、もし然(しか)らんには一旦故ありて六郷領の久ヶ原村とあはせて一村となせしならん、されど領名の異なるはもとより別村なれば、古は属する所の郷庄ともに同じからず、後の世はその郷庄の唱へも失ひしかど、領名をもてわかつにおよび猶(なお)その属する所を異にせるなるべし、土地の六郷領久ヶ原村につゞきたるは西の方にて、南の方は徳持村にとなり、東は池上村を限とし、北は道々橋村に接せり
-------------------------------------------------------------------------------------

現在は大田区の「久が原」と表記する地名ですね。文章中の記述から,「久河原」という表記もあったことがわかります。
編者は,元々は「久原村」という1つの村であったものが江戸時代初めの正保年間以前に東西に分割され,西側が 六郷領,東側が 馬込領 に属したと推測するとともに,地元の人の言い伝えでは,馬込領に属する東側の部分がさらに古くは「今里村」と呼ばれていた,と記述しています。
明治の大合併前の村では「久ヶ原村」が1つしかありませんから,明治期には再び1つの村にまとめられたのでしょうかね。

参考までに,以下,「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分に記載されている村を列挙します。

【六郷領】
八幡塚村,雑色村,萩中村,羽田村,羽田猟師町,麹屋村,下袋村,東大森村・西大森村・北大森村,北蒲田村,新宿村,浜竹村,高畑村,古川村,道塚村,町屋村,御薗村,小林村,女塚村,新井宿村,不入斗村,堤方村,徳持村,蓮沼村,市ノ倉村,安方村,原村,古市場村,今泉村,矢口村,下丸子村,鵜ノ木村,嶺村,久ヶ原村

【馬込領】
久ヶ原村,道々橋村,雪ヶ谷村,池上村,馬込村,桐ヶ谷村,中延村,碑文谷村,小山村,谷山村,上目黒村,中目黒村,下目黒村

【世田ヶ谷領】
世田ヶ谷村,弦巻村,経堂在家村,用賀村,瀬田村,上野毛村,下野毛村,野良田村,等等力村,小山村,上沼部村,下沼部村,石川村,奥沢村,奥沢新田村,衾村,深沢村,野沢村,馬引沢村,池尻村,池沢村,三宿村,太子堂村,若林村,代田村,上北沢村,下北沢村,松原村,赤堤村

【品川領】
大井村,上蛇窪村,下蛇窪村,戸越村,桐ヶ谷村,居木橋村,上大崎村,下大崎村,二日五日村,品川宿(南品川宿,南品川宿猟師町,南品川宿新開場,北品川宿,品川宿歩行新宿)

【麻布領】
白金村,今里村,上高輪町在方分,下高輪村,三田村

以前,[68370] のあたりで「領」について触れたとき,多摩川以南の 橘樹郡 や 都筑郡(現川崎市および横浜市北部)では郡内各村の「領」への帰属が錯綜していて(「神奈川宿」は「神奈川領」には属しない,など),「領」の領域自体がモザイク状になっている,という旨の報告をしたことがあるのですが,荏原郡内ではそれぞれの領の領域が一円的にまとまっているようですね。
そうした中で,「久ヶ原村」が 六郷領 と 馬込領 とに分割されて所属していたわけです。

長文御免。
[78430] 2011年 5月 24日(火)23:58:54Issie さん
富士Q、抜け駆け
「富士山駅」が誕生するそうです。
富士急の発表(pdfファイル)によれば,現在の 富士吉田駅 を7月1日に「富士山駅」に改称して,今後,富士山観光の拠点として整備していくとのこと。
富士吉田市や地元商業関係者とも連携して,というわけで,「富士吉田」の駅名が消えることについては一応地元も納得しているのでしょうね。その上で「富士山」を積極的にアピールして行こうというのが,地元・富士急双方の今後の戦略であるようです。
少し前に話題になった“南=富士山が上になっている富士吉田の地図”にもつながる話でありましょう。

で,問題は静岡県側の反応。
「富士山」をとられて黙っているのかどうか。
もっとも,富士急グループにとっては山梨県側だけでなく,静岡県側も縄張りの中だから,企業としてはアピールできればどちらでもよいのかも。

ああ,でも「富士吉田」の駅名が消えるのは,それはそれでもったいない。
[78341] 2011年 5月 17日(火)19:50:53Issie さん
デカンショ節
[78340] k-ace さん
篠山市が丹波篠山市に?

最近はあまり歌われないのかもしれませんが,元々は篠山地方の踊り唄だった(らしい)「デカンショ節」にも「丹波篠山」と出てきて,言ってみれば一続きの名前のようなものでしたからね。で,後に「山家(やまが)の猿が…」と続いて,“山奥”の代名詞のようなものだった。実際には,さほど山奥ではないのですが。

さて,こうして兵庫県側で「丹波」ブランドを強調すると,“京都府領丹波”の方も黙っていないのでは。「丹波の本家」はこちら,なんて…。
ちなみに,国府があったのは桑田郡(推定:亀岡市),元々「丹波」という地名があったのは後に分離した丹後国の中郡で旧称が「丹波郡」(現在の京丹後市)。
やっぱり“本家”は京都側かなぁ。
[78335] 2011年 5月 16日(月)23:30:18【1】Issie さん
アイヌ神謡集 と おもろさうし
[78333] デスクトップ鉄 さん
47都道府県の顔

たとえば北海道は,地域史のどこに重点を置くかで人選が変わってくるかもしれませんね。
開拓史に重点を置くなら,やはり クラーク博士 を推したくなります。外国人ですけどね。
私としては,アイヌの口承文学に初めて(?)文字を与えた『アイヌ神謡集』の編者である 知里幸恵 を推したいと思います。

沖縄県は 屋良先生(←政治家への敬称ではなく“本来の意味”で) でもいいのだけど,文学者とするなら「沖縄学の父」と呼ばれる 伊波普猷 は,どうでしょう。あるいは,若干政治がかるのですが「沖縄自由民権運動の父」とされる 謝花昇 という人もいます。

信州と言えば藤村,で間違いないのですが,田中康夫元知事じゃないが,馬篭を岐阜県に取られたのはやはり痛い。そこで“次点”として,文部省唱歌「故郷」の作詞者である 高野辰之(豊田村…じゃなくて,現・中野市出身) は,いかが? そう言えば,中野市なら 中山晋平 という選択肢もありました。
東アジア共通の愛唱歌「北国の春」の作詞者 いではく(南牧村出身) なんて人もいますが,この方は存命でしたね。
※ちなみに,「井出姓」は,自民党三木派の番頭であった 一太郎氏 を代表に,佐久地方南部を代表する姓の1つです。

※追加
そうそう,長野県と言えば,県歌「信濃の国」の作曲者 北村季晴 もいいかもしれない。ただし,この人は県外出身で,たまたま師範学校の教員として赴任していた時に,この曲を作ったのでした。
[78305] 2011年 5月 15日(日)12:24:14【1】Issie さん
現代仮名づかいでは「安曇野」は「あずみの」でなければならないのだが
[78296] futsunoおじ さん
そういえば近頃は「越後平野」の言い方が増えてきた印象があるので調べてみました。

私自身は,「新潟平野」で教わった記憶があります。

つまり国土地理院では、1960年,1977年,1989年,1990年(及び現在)は「越後平野」であることから、一貫して「越後平野」を使用している可能性があります。

そこは,お役所。文部省と建設省という縦割りの世界ですから。以前にも触れたように,公文書の表記法(特に横書き文書での読点の扱い)で自治省が文部省とは違った指針を出して今に至るのと同様。もしかして,これは旧内務省と文部省間のライバル意識の表れ?

越後平野と新潟平野の呼称によると、「越後平野→新潟平野」に変わった時期は昭和34~35年(1959-1960年)頃。「新潟平野→越後平野」になった時期は平成1年(1989年)前後という推測が成り立ちます。

具体的な事例を基にした考察でなく私の「印象」に過ぎませんが,上の「推測」に同意します。1960年代以降に「地名の標準化」が進んだ後,1980年代後半以降にその「揺り戻し」が来ているという印象。
上の推測で「1959(昭和34)年」という年が興味深いですね。その前年の1958年は,戦後の初等・中等教育における重大な転換点であるからです。この1958年,小中高校の教育内容を示した「学習指導要領」の全面改定が行われたのですが,この際にそれまで学習指導要領のタイトルについていた「(試案)」という語が削除されました。
それまでは,「試案」の字が象徴するように学習指導要領は授業計画をするにあたっての“参考資料”であって,具体的に何をどのように教えるかは学校現場の創意工夫に期待する,というのが“建前”でした。敗戦後の教育改革で導入(強制?)された“アメリカ式教育”の発想ですね。
それがこの改定で「試案」という字が取れるとともに,現場に対する強制力を持つものであるという捉え方を文部省は前面に打ち出し,以後,文部行政はその立場を強めていきます。「55年体制」が確立した1950年代後半は,戦後教育行政にとって大きな転換点でした。
「揺り戻し」の時期も興味深い。これは,いわゆる「ゆとり教育」の導入時期とほぼ重なるからです。その前提にあるのは「戦後政治の総決算」を唱えた政権が推進した「臨教審路線」。2度目の「戦後教育の転換点」です。

もう1つ興味深いのは,学校教育とは全く別のステージで進められたものですが,国語政策の動きとも符合するところがある点です。
「地名の標準化」の進んだ1950~60年代は,強制力の強い「当用漢字」と「現代仮名づかい」の定着が進められた時代ですね。当初は印刷物に多く入り混じっていた旧字体の活字も,やがて姿を消しました。
「揺り戻し」の時期は,より強制力の弱い「常用漢字」への切り替えが行われた時期ですね。これも一面では“自由化”の流れに沿うものだけど,見方を変えると「戦後政策の転換」。

学校教科書からもう少し視野を広くすると,並行して次のようなことも起きているように思います。
つまり,「地名の標準化」の時代,一般地名の表記も当然のように「新字体・新かな」に変わり,それが定着していきました。地元関係者は頑なに旧字体あるいは旧仮名遣いに基づく表記を続けていた例もあるけれど,国レベルの公文書や一般マスコミでは「新字・新かな」で表記するのが普通。
ところが1980年代頃から,あえて旧字体や旧仮名に基づくふりがな表記をする例が目立つようになってきた印象があります。四条畷→四條畷 とか,安曇野(あずみの→あづみの)とか…。
背景には「地方からの情報発信」とか「地域のアイデンティティ」の主張などもあるのでしょうが,大きな目で見ると上のような流れと一致するように見えます。

ま,あれこれ言っても地名とは,何が「正しい」かではなく,結局はみんなが使っていれば「そうなっちゃう」ものなんだ,というのが私の基本的なスタンスです。
[78266] 2011年 5月 14日(土)08:06:13【1】Issie さん
Re:神奈川県の顔
[78263] N-H さん
ペリーとか。

いいですね。
肖像画は,教科書なんかに載っている写真じゃなくて,“鬼のような風貌”の当時の浮世絵。

“文化人しばり”,結構難しいですね。
横浜市だったら,森 林太郎 さんってのもあるんですが,これはこの人自身が「石州津和野人」であることにアイデンティティを持っていますから。
歴史上の人物では 坂田金時 という人も思い浮かびました。もちろん成人後の姿ではなく,童形でね。もっとも,「金太郎の故地」は足柄峠の両側に伝えられていて,金時神社は静岡県側にあるのですが。

ところで,伊能忠敬。
忠敬ネタではなく地震関係のニュースとして画面に映っていましたが,佐原市…ぢゃなくて,香取市の小野川沿いの状況もかなりひどいですね。
[78261] 2011年 5月 14日(土)01:25:38【1】Issie さん
県の顔
[78254] グリグリ さん
歴史上の人物でなければ、私は文化人を選びたい。

ああ,これは私も同感。政治家や経済人なんかは生臭いですからねぇ。
「神様」尾崎行雄も,むしろ政治家としてはあまり成功していない(特に国政の場で)から,それで“毒気”が抜けているようにも感じます。
そう言えば,尾崎は歴代東京市長の中で最も在任期間の長い市長でした。ワシントンでは桜を贈った「東京市長」として知られているでしょうし。だから,東京都に持ってかれちゃうかも。
そうすると,ついでに歴史上の人物の頼朝を除いたら,神奈川県は誰になるんだろう。

蛇足
「これで決まり」で,まあ誰も異存はなかろう高知県の坂本竜馬。
私は,ちょっと保留にしたいんですね。
世の中には竜馬にあやかりたがっている人が一杯いるんだけど,私たちが知っている(と思い込んでいる)竜馬というのは,多分に“創作されたもの”なのじゃないか,という疑念が離れません。若くして亡くなってしまったし,ナマの“坂本直柔さん”から離れて,かなり理想化されているのではないか,と。
ま,現実の姿から離れて“創られた虚像”が尊敬や崇拝の対象になっている歴史上の人物は多数いますから,それはそれで構わないんですけどね。
[78258] 2011年 5月 13日(金)23:32:44Issie さん
越後平野または新潟平野
[78256] なると金時 さん
手元の二宮書店の高等地図帳(H20)では「越後平野」なので

あまり確認しないで書いてしまいましたねえ。
私の手許にある 二宮書店『基本高等地図』(1999年度用)でも「越後平野」となっています。今年度(2011年度用)のものは職場においてあるので,今は確認できません。
以前に紹介したことのある帝国書院の復刻版(中学校用)地図帳『地図で見る昭和の動き』(2004年)では,1934年,1950年,1973年の各年版のうち前2者が「越後平野」,最後の1973年版が「新潟平野」となっています。これに関連して付録の「解説書」には,越後/新潟平野ではありませんが以下のような記述があります(引用長め)。

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山地や平野の図上での呼称の変化がめだつ。たとえば岩手県の北上川以東の山並みは昭和9年・25年版には「北上山脈」だったが昭和48年版では「北上山地」,現在はさらに「北上高地」と変化しているし,出羽丘陵も昭和48年版から出羽山地と「改称」され,阿武隈平野は同年版から福島盆地と郡山盆地に分けて表示するようになった。地名の「標準化」の流れを受けたものだろう。(p.89)

平野関係の呼称にも現行とだいぶ異なるものがある。昭和9年・25年版に共通しているが,たとえば長野県内。現行版では長野盆地,松本盆地,佐久盆地,伊那盆地などを使うのだが,旧版ではそれぞれ善光寺平,松本平,佐久平,伊那谷となっている。地元の住民はその呼び名の方が今もなじみ深く,マスコミでもそちらを使うことが多いようだ。(中略)そんな地元感覚とは別に,国土地理院や文部省が昭和30年前後に相次いで「全国に通りがよい統一表記」という方向でガイドラインを決めたので,それに従う地図が増えた。(p.92)

※筆者はいずれも 地図エッセイスト 今尾恵介
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確認はしていないのですが,むしろ最近は「越後平野」の方が“復活”してきているのかもしれません。
いずれにしろ,たびたび触れているように,小中高校で使用する地図帳は教科書検定を通過した“教科書”ですから,少なからず文部(科学)省の“指導”を受けていそうなことは想像できます。それがどの程度のものか,部外者には(執筆者にさえ)不透明なもののようですが。
もっとも最近は検定手順の「簡略化」もあって,以前よりはウルサくないらしい,という声も仄かに聞こえてきます。ただしテーマによって,たとえば“わが国の国境線”の扱いについては今の方が厳しく神経質であるように思いますけどね。
[78255] 2011年 5月 13日(金)22:41:43【2】Issie さん
半島
[78248] 星野彼方 さん
「弓ヶ浜半島」は半島なのか?

みんなが「半島」と呼んでいるなら,「半島」なんじゃないですかね。
地形としては,弓ヶ浜は“半島”全体で「砂州」の,しかも“典型例”の一つです。

そもそも「半島」という言葉(←あえて「用語」という言葉は使わない)が意味するものは極めて曖昧です。
手許に『オックスフォード地理学辞典』田辺 裕 監訳,2003年,朝倉書店 がありますが,これの「半島」の項には,

------------------------------------------------------------------------
海に向かって突き出ており,まわりをほとんど海に囲まれている,大地の一部.
------------------------------------------------------------------------

と書いてあるだけです。これは英語の辞典を翻訳したものですから,これも原文の peninsula の項を翻訳したものなのでしょう。日本語の「半島」という言葉自体,少なくとも今私たちが使っているような意味では英語の peninsula の訳語として使われているだけで,上の定義文以上の意味はないのだろうと思います。
だからたとえば,東京大学出版会の『日本の地形』シリーズ(2001年~2006年)でも「半島」という言葉については特に定義せず,“すでにある呼称”として用いられています。
ちなみに弓ヶ浜の“半島”について,第6巻『近畿・中国・四国』(2004年)で「弓ヶ浜半島」という呼称を用いながら,砂州地形について述べる部分では「弓ヶ浜砂州」と呼んでいます(p.194~198)。

以前にも話題になったことだと思いますが,“法人名”として定められている自治体の呼称や法令・例規に根拠を持つ行政上の地名とは違って,この種類の呼称には学術上の議論の場においても“唯一絶対”のものとして公式に定められたものはないのではないかと思います。
学校教育の場では,たとえば「越後平野 → 新潟平野」のように“一斉に”用語が変わったものがあって,そこに(かつての)文部省の“指導”が匂ってくることもないわけではないのですが,私自身はまだこの指導文書を確認したことがありません。仮にあるとしても,それは“教科書検定”のある中等教育段階までであって,専門家の世界,あるいは民間の経済活動に影響を及ぼすものではないでしょう。
むしろ一般社会に影響力を持つのはマスコミが採用している(かもしれない)“申し合わせ事項”のようなものかもしれませんが,そこで個々の地形について取り決めがあるかどうか。

結局はお説のとおり,“言っちゃった者勝ち”だと思いますよ。
あとは周りのみんなが追随してくるかどうか。みんなが受け入れてくれれば定着するし,無視されれば廃れていくだけ…,なのでしょう。
[78247] 2011年 5月 13日(金)20:10:10Issie さん
Re:弓ヶ浜
[78243] しんちゃん さん
駅名が「弓ヶ浜」に決まってから、半島名の「夜見ヶ浜」が「弓ヶ浜」になったことは事実ですから。

それが「事実」かどうか,疑問を提示したくて毛利元就なんぞを引っ張り出してみたんですけどね。
境線の「弓ヶ浜駅」の開業は1917(大正6)年のことであるようですが,本当にそれ以前に「弓ヶ浜」という呼称は全く行われていなかったのでしょうか。
その「なにかの本」の当該記事を提示していただければと思います。
ちなみに,(本当に呼ばれていたのなら)呼ばれていたことの証明は簡単ですが,呼ばれていなかったことの証明は,「そう呼ばれるようになった経緯」が明示された証拠がない限り,とても難しいと思います。
もともと“対象外”であるようですが,たとえ対象範囲内に入っていたとしても,それがなければ採用は無理ではないかと。
[78235] 2011年 5月 12日(木)20:32:13Issie さん
よみ/ゆみ
[78231] しんちゃん さん
ですから、(弓ヶ浜)は駅名由来の地名と言えます。

たぶん,言えません。
広く知られた話であればいいのですが,「なにかの本」では論拠が薄弱であるように思います。
ちなみに,別の「なにかの本」には戦国時代末期の毛利元就の感状に「弓浜」で合戦があったと記されている,とあります。ネットで「弓浜合戦」で検索をかけてみると,結構ヒットします。
そのうちの少なくない分は Wikipedia のコピーですからこれを省いても,複数のサイトで永禄6年(1563年)に「弓浜合戦」があったということが記載されています。大元のソースは同じかもしれませんが,たぶん複数の違ったルートをたどってきた情報に思われますから,一応 Wikipedia の情報も信用してよいだろうと思います(…それくらいしないと,Wikipedia は信用できない)。
千葉県市原市の「姉崎/姉ヶ崎」の例をだすまでもなく,「ヶ」の有無は表記上においても実際の呼称においても十分に“揺れ”の範囲内に収まります。すくなくとも,戦国時代末期には「弓(ヶ)浜」という呼称は行われてたとみて良いでしょう。
さらに「夜見」と「弓」,つまり「よ」と「ゆ」の揺れについても,よくある振幅の範囲内です。方言によっては音として「ゆ」と「よ」の区別がなく,実際にカナで表記する際にも両者を混同して区別できない(「ゆ」と「よ」が任意に入れ替わる)地方もあるのですが,音として区別のある地方でも両者はしばしば入れ替わります。
おそらくは「よみがはま」と「ゆみがはま」の両方が同時に行われていて,ある場合には「夜見ヶ浜」の方が,別の場合には「弓ヶ浜」のほうが“正式”とされているのだろうと思います。

この辺り,「弓ヶ浜駅」の名前の由来について「なにかの本」が明確に論証してくれなければ,お説は成り立たなかろうと思います。
[78163] 2011年 5月 7日(土)10:54:26【1】Issie さん
「安曇野」は木曽
[77913] の続きでNHKの朝のドラマの話。
主人公は師範学校を受験するとかで,結果は来週早々に判明する模様。私の遥かな先輩ということになるようです。“史実”では長野にあった男子の師範学校に対して女子の師範学校は松本にありました。現在の信大病院の隣り,附属松本小・中学校の敷地。師範学校の官立移管,国立大学への統合など紆余曲折を経て,教育学部は最終的に1960年代半ばに長野に統合されます(逆に入学1年目の「教養課程」は他学部とともに松本に統合されて,教養部廃止後の現在にまで至ります)。きっと,主人公は松本へ通学するんでしょうね。国有化されたばかりの大糸(南)線を使って。
※高等女学校卒業の彼女が入学するのは,後期課程2年分の「本科二部」という課程のはずですが,全寮制だったかな? 答えは,来週…。

今日の放送回では,主人公の友人が電話をかける場面がありました。昔懐かしい(“チャーザァ村”では1970年代半ばまでそうだった)電話機についているハンドルをまわして交換手を呼び出す方式の電話。「穂高の○○番」と電話番号を告げていました。
…そう,ここで“実在の地名”が登場しました。時代考証上,やはり実在しない「安曇野」は使えなかったのでしょうね。今週前半に彼女たちが初詣をした神社は穂高神社だと思われます。

オープニングのタイトルロールを見ていると,「塩尻市奈良井地区」というのが出てきます。どうも,「安曇野の町」として出てくる木造家屋の街並みが奈良井宿であるようですね。「安曇野」は木曽にあるわけだ。
オリンピックの頃以降でしょうか,最近の長野や松本の市内には私が住んでいたころには見たことがなかったような「古い街並み」が“新設”されています。小布施町も古い街並みの保存に熱心ですが,豊科にしろ,穂高にしろ,“川向う”で本来は(東)筑摩郡の明科にしろ,安曇野市には古い街並みはあまりありませんからね。
(旧制)松本高校はそのまま使える施設が残っているけど,あの「高等女学校」の建物はどこだろう。
[78140] 2011年 5月 4日(水)19:14:24【1】Issie さん
富士山が上
あの地震がきっかけで「上」からのお達しがあったのか,職場でも災害時の職員の緊急呼集体制づくりをするとかで,“公共交通機関が利用できない場合”の通勤手段と所要時間を申告するように言われました。何か泥縄的ですね。さすがに「本社」はそのあたりはきちんと体制づくりができているのですが(…でないと,困るよね),「出先」はその辺,結構曖昧で。
そうは言われても,そのような場合を考えたことがなく(以前に報告した通り,当日は“最寄りの私鉄駅”まで同僚の車に乗せてもらい,そこから歩いて帰ったわけですが),手段も所要時間も全く分からず,「(その場合には)来られません」と答えたのですが,それではあまりにツレない返事なので,3連休の中日を利用して試しに職場まで自転車で行ってみました。「本社」とは違って“暦通り”に“お客様”が来て“サービス”を提供しなければならない職場。どうせ今年は連休の並びが悪くて遠出ができないし,一度はやってみようと思っていたことでもあるから,まあいいかな,と。

基本的な予定ルートは極めて単純。
(原)町田に出て,そこから恩田川の谷に下り,あとはひたすら恩田川・鶴見川沿いに下って,綱島の新幹線のガード少しを過ぎたところで右折してヤトを上り,最後は台地の尾根道をちょっと進んでゴール。おおよそ30km弱。7里ほどということは,歩いたら昔の人なら一日行程にやや足りない,という程度でしょうか。…とても,歩く気にはならない。
で,実際に自転車で走ってみたところ,往路は“できるだけ早く着く”ことを目的にあまり休憩を入れずに走って所要2時間15分。最後のヤトの登り坂がキツかった。
復路は,そもそも川を遡るわけで基本上り坂であること,それに往路で十分疲れているので(“休憩”がてら,職場で1時間ほど仕事をしましたが…。1時間では出勤扱いにはなりませんね),あまり無理をせずゆっくり走り,途中,鴨居駅北側の工業地帯に出現した ららぽーと で食事をしながら1時間ほど休んだので,この休憩分(1時間)も含めて3時間50分。
往路では新横浜以東の台地とヤトの登り下りを避けて綱島まで大きく迂回したのですが,復路はとりあえず新横浜までショートカットしようと,尾根道を探しつつ菊名東方(鶴見区馬場)へ。けれども,やはりここで一度ヤトに下りなければならなかった。さらに菊名側の下り坂が急かつ高低差が大きくて…。往路に使うのは無理ですね。
復路の最大の難所は,恩田川の谷(町田市高ヶ坂)から台地の上の原町田への登り坂。そもそも横浜線はこの高低差を克服するために中山駅から延々と坂を登っているのです(最終的には相模原台地上の古淵駅西方まで,さらに隆起扇状地である相模原台地自体がゆるやかに傾斜しているので橋本駅西方,県立橋本高校裏の路線最高点までずっと上り勾配)。道路の場合はこれを一気に駆け上がるのだけど,どうせ自転車に乗ったままでは登れないので,自転車を押してできるだけ短い距離で登れる道を探して…。そんなこんなで,所要3時間50分。
やっぱり現実的でないことが,確認できました。
…疲れた。

[78139] k-ace さん
独特なんです。富士吉田の地図の見方、「南」が上になっているわけですが、市民にとっては、「富士山」が上にあってその下に街が広がっているというイメージです。

昔の江戸の地図も西,つまり富士山が上になっているものが多かったので,本当は「独特」というわけでもないし,「北が上でなければならない」というのは単なる“思い込み”に過ぎないのだけど,富士吉田の場合,富士山を正面に見てその手前に町が広がっている様子を考えれば,南が上である方が合理的ですね。
[78066] 2011年 5月 1日(日)12:24:01Issie さん
百々目鬼(どどめき または どうめき)
[78063] k-ace さん
他のラッピング電車も含め、西脇市出身の画家、横尾忠則氏のデザインなのですが、「目玉電車」だけは見るたびに“?”でした。

「怖い目玉電車」なんて,一瞬 水木しげる系(“鬼太郎のおやじ”ではなく,百々目鬼)を連想したんですが,“写実的な目”というのが水木さんと横尾さんの活動エリアの違いなんでしょうね。でも,やっぱり怖い。

それよりも私,迂闊なことに加古川線が電化されていたことを知りませんでした。
…ここも関電が計画停電をしたら停まっちゃうのかなあ。相模線みたいに。
[77931] 2011年 4月 25日(月)23:47:03Issie さん
赤い花なら曼珠沙華
季節外れで失礼。

[77928] 地球人 さん
むしろ、お瀧さんの方が良いかもですね。

私はお父さんより前に娘の おイネさん を考えました。
女性だと じゃがたらお春 なんて人もいますが,たぶん画像がありませんね。

神奈川県で考え付くのは

歴史上の人物なら,これはやっぱり 源頼朝 でしょう。元々は京都の人ですが。
ちなみに,誰もが知っているこの人の肖像画,実は他人らしいという説が最近では専らですよね。
[77919] 2011年 4月 23日(土)20:57:32【1】Issie さん
長崎の顔
[77917] 地球人 さん
2千円札長崎県版には、果たして誰が良いのかなと

真っ先に浮かんだのは フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト。「山岳オランダ出身」(←幕府役人の尋問に,とっさにこう答えたらしい)の,いわゆる シーボルト さん。
国際人としては平戸出身の 田川福松 という人もいますが(中国名:鄭成功),これはマニアック過ぎますね。
日本人で順当なところというと,「長崎の鐘」の 永井隆博士 ですかねぇ。

※追加
ちなみに神奈川県なら,「相模原市生まれ」(←大笑)の憲政の神様,尾崎行雄 と行きたいところですが,“神様”は第1回衆議院議員選挙以来,三重県から選出されていますから,あちらに持っていかれそうですね。でも,三重県には神様中の神様である「天照大神」がいますから,憲政の神様は譲ってくれないかな。
[77913] 2011年 4月 23日(土)09:10:06【2】Issie さん
安曇野
もう,ダークダックスもキャンディーズも見られなくなってしまったのですね。いつか来ることとは言え,やはり「まだ早い」という気が…(もっとも,ダークダックスはみなさん,“アラエイティー”なのですが)。ドリフが5人揃わなくなったときと同じ,寂寥感です。

さて,NHKの朝のドラマ。地震の影響で1週間遅れて始まった新作の舞台は大竹しのぶ以来,36年ぶりの松本平。
私は土曜日しか視られないのだけど,(放送用の人工的な)安曇野言葉が聞けるかな,と期待しているのですが,今のところ控え目なようで。主人公一家が“移住者”で,家族内では東京言葉をしゃべっているせいでしょうかね。この後,「松本のそば屋」に舞台が移ったら,松本弁が炸裂するのでしょうか。
※ちなみに,かなり以前に触れたことがあるように,“谷”ごとに言葉の違う信州に“統一された”「信州弁」はありません。何しろ,信州人の集まりの場で「伊那弁講座」が開かれるほどですから。その伊那谷でも,上伊那と下伊那(飯伊)では言葉が全く違います(…というより,基本的に東日本系の信州諸方言(“糸静線”沿いに特徴的な「~ずら」という語法がありますが)のうちで,下伊那と木曽だけは名古屋圏の影響を濃厚に受けています)。

ところで,主人公は今,「安曇野の女学校」に通っています。
…「安曇野」なんですね。
“史実”としては,豊科に高等女学校がありました。現在の 長野県豊科高等学校。
ドラマの中ではフィクションとして,あえて実在のものとは違う「安曇野」を称しているということで別に不自然ではないのですが,そう言えば具体的な地名として,たとえば「豊科」という地名が出てきていない気がします。「穂高」(山の名前ではなく,松本平の中の町の名前として)は登場しているでしょうか。
番組冒頭のタイトルロールではロケ地として「長野県安曇野市」が出てきます。もしかしたら,「豊科」が登場しないのは,合併で発足した「安曇野市」への配慮なのかしら。
もっとも,ここでも紹介されたように,「豊科」も明治初期の合併の際に創作された“合成による新地名”なのですが。

ただ,ここで見られるような「安曇野」の用法,つまり“面”ではなく“点”の地名として「安曇野」を用いるようになったのは,やはり「安曇野市」の発足ならではのことではないかと思います。
いや,“面”の地名としての「安曇野」も,その呼称自体はずいぶん古くからあったのかもしれないけれども,一般に広く用いられるようになったのは,それこそ大竹しのぶの「水色の時」以降なのではないか,という気がします。
それより10年ほど早い「愛と死をみつめて」で,「儚い命」のミコがマコと2人での旅行を夢見たのは「安曇野」ではなく「信濃路」ですね(…もっとも,想定された行き先は松本平ではなく,塩田平だったかもしれません。善光寺(長野)なんて辛気臭いところは想定外だったかも)。

※追加
そうそう,“ゴーサン・トオ”(1978年10月の国鉄ダイヤ改正)直前に,まだ新宿駅から発車していた「8時ちょうどのあずさ2号」で“私”が旅立ったのも,「春まだ浅い信濃路」でしたね。方向は間違いなく「安曇野」なのですが。
[77890] 2011年 4月 11日(月)23:21:25【1】Issie さん
桜まつり in 相模原
今日の夕方にも大きめの余震がありましたね。まだかなりの期間,余震が続くようです。大きいのも,まだまだ。まだ全く手が付けられない場所の中には,もはや「自然災害」ではなく完全な「人災」であるところもあって,まずは一日も早く手を付けることのできる状態になることを願っています。

[77888] k-ace さん
ひばり放送・防災相模原

いつもは「お年寄りを探している」というのでかかることが多いのですが,最近は所期の目的の防災関係でかかっていることが多くて,ドキッとします。
ただ残念なことに,家の中だとほとんど全く聞こえないんですよね。「あっ,何か言っている」と思って窓を開けると,もう放送が終わっている。結局,ほとんどの場合,聞きそびれていることの方が多くて。

大正橋、昭和橋、平成橋とめぐり、その後、淵野辺から国道16号

実は私は淵野辺地区での投票後,国道16号線を橋本方面へ,相模原市相原付近で境川に出て,後は川の近くに沿ってさかのぼっていました。自転車で。もしかしたら,どこかですれ違っているかもしれません。
目的地は2つ。1つは市役所付近の桜並木と,城山の「かたくりの里」。
今年は3月が去年にもまして寒かったので,桜もカタクリも例年よりも遅めで,先の土日がちょうど見頃,というところでした。
例年,相模原市ではこの桜の盛りを狙って市役所前の桜並木で「桜まつり」を開催しているのですが,今年は延期。…いや,地震のせいではなく,もともと選挙があるので4年に1度は「桜まつり」ではなく,連休時に「青葉まつり」をやることになっているのですが,今年はこちらも中止のようです。
で,ずっと規模を縮小した形で,16号の交差点から米軍相摸補給廠までの区間で地元の商店街が出店を出してちょっとした「まつり」をノンビリとやっていました。別に大々的なイベントでなくても,こんな程度でいいよね。淵野辺の鹿沼公園でも家族連れがノンビリ花見をしていましたけど,これでいいんですよ。
「かたくりの里」も,ちょうど見頃で(カタクリは,そろそろお終い),こちらでも年齢層の高めの方々が多くノンビリ眺めていました。
残念なのは天気が今一つだったこと。もう1週間は…,もたないかなぁ。

途中,境川を渡って,町田市相原の堺市民センターで都知事選の選挙公報をもらってきました。…今回のは,あんまり面白くないなあ。“常連のあの方”は,あいかわらずですが。
[77887] 2011年 4月 10日(日)20:58:06Issie さん
投票4連発
知事選挙,もうほとんど終わってるじゃん。
投票する前から結果がわかっていたようなもんだもんねえ。
うちんとこの市長も予想通りに決まっちゃったようですよ。

それにしても,政令指定都市なんぞになってしまうもんだから,いっぺんに4つの選挙(知事・県議・市長・市議)をやるハメになってしまいました。投票会場は4つの壁を全部使ったりして…。
政令指定都市になって1年経ちますが,良かったこと,悪かったこと,全くわからない。市民にとってはどうでも良いこと,それ以上でも以下でもありません。何が嬉しいんだか…。
とりあえず,政令市移行を進めてきた現職市長が当選しちゃうようですけどね。

「900万県民」と威張っている神奈川県だけど,そこから政令指定3市の人口を除くと300万余り。それでも人口面では巨大県であるのは変わらないのだけど,政令市のフィルターを通らないのは県人口の3分の1だけ。やっぱり,何とかした方がいいですよねえ。
…もっとも,これは私自身の身分に直接かかわることですが。
[77858] 2011年 4月 2日(土)10:35:00Issie さん
元町・中町・新町
一連の浦安からの報道で「あれっ?」と思ったこと。“新住民”と思しき人が「元町」「新町」という表現を用いていることでした。
[77854] で私は「旧漁師町」という表現をしたのは,「元町」という表現に今一つ自信が持てなかったからなのですが,調べてみると行政レベルでも使う区域わけであるらしい。
曰く,元から陸地であった 堀江(富士見を含む)・猫実(ねこざね。北栄を含む)・当代島 の区域が「元町」。第1次埋立区域(多少の出入りがあるが,おおよそ京葉線のラインまで)が「中町」,その外側が「新町」。
たとえば,“ねずみの国”があるのが「新町」で,25年ほど前にあるテレビ番組で有名になった「フラワー通り商店街」があるのが「元町」。
実は我が一家は,まだ「浦安町」であった頃に「中町」に住もうとしたことがありました,…なんて使い方もできるわけですね。

でも,我が一家が浦安“町”に住もうとした頃に「中町」という表現はなかったろうと思います。この埋立地自体が「新町」ですから。フラワー通り商店街が有名になった頃も,古くから住んでいる旧住民が埋立地を指して「新町」と呼ぶことはあっても,新住民が自分たちの住む地区を「新町」と呼ぶことがどれくらい浸透していたか。
新旧の埋立地同士を「新町」「中町」と呼び分けることも合わせて考えると,この3区分法は比較的に新しいものではないか,と考えます。そして,それが行政での公的な呼称にもなっているという点が,私としては興味深く感じるのでした。
[77854] 2011年 4月 1日(金)22:48:27Issie さん
液状化
[77853] むじながいり さん
海老名市でも海老名~社家~門沢橋で代替バスが実施されています。

ああ,それはよかった。

[77852] にまん さん
概ね一致しているのは、偶然なのか必然なのか。

私は,かなりの程度まで「必然」だと思っています。
一般的な話として,古くからの集落の立地の背景には過去からの経験の蓄積があることでしょう。できるだけ自然に逆らわずに,なおかつ長期的に安定して住み,暮らしていくために,そのような経験の共有がなされていただろうと思います。
ただ一方では,そのような自然の制約を克服して耕地を広げ,居住地を拡大してきたことも確かで,あるいは繰り返し同じような災害に遭いながらも,あえてそこに暮らしの場を置いてきた人々も多いことでしょう。
だから,個別の事例を見ればさまざまなことがあるのでしょうが,やはり一般論として,古い集落とそれを結ぶ古い街道の立地と,今回の浸水範囲との間には必然的なものがあると思います。

けれども,たとえば現在の東京近郊のように土地のすべてが市街化せざるを得ない地域ではそのような「過去からの知恵」に配慮する余裕さえないわけで,昔なら住宅を建てることをまずは避けていたはずの低湿地の多くで今回,液状化現象が起きています。それはある意味,やむを得ないことかもしれない。
やっと少しばかりニュースで伝えられるようになったとおり,たとえば浦安市の埋立地では液状化現象の被害が甚大で,事実上,県議選なんかやっていられる状況ではないとか。ところが,昔から陸地であった旧漁師町の区域ではそれほどでもないといいます。
で,私の記憶では浦安の埋立地で大規模な液状化現象が起きたのは,実は今回が初めてではなかったように思います。

「液状化現象」が専門家の間で注目されるようになったのは1964年の新潟地震のときだったそうなのですが,一般に知られるようになったのは1980年代後半以降だと思います。
確か1985年だったろうと思って,気象庁のHPで検索してみたら,ありました。
1985年10月4日,茨城県南部を震源とするM6.0の地震が発生して,東京(大手町)で「震度5」を観測しました。当時,私は長野市に住んでいたのですが,たまたま所用があって東京の実家に戻ってきていて,そこで初めて「震度5」を経験した,ということで記憶しているのですが,これかなぁ?… 
確かこのときに浦安の埋立地で液状化現象が起きて話題になり,これを機会にこの用語が一般でも使われるようになった,と記憶しています。そして,1995年の阪神・淡路大震災でも埋立地を中心に多くの場所で液状化現象が発生しました。
だから,液状化って,今回が初めてではないんですよね。
もうずっと前からその被害の様子が知られているのに,この25年間,あるいは阪神・淡路以降でも15年間,たとえば浦安市はいったい何をしてきたんだろう,…という気が気持ちの一方ではします。
もう一方では,じゃあ,液状化現象に対して「何」をして来ればよかったの?と問われて,それに対する答えを私も見つけだすことができないのですが。
それにしても,あれだけ言われてきたにもかかわらず,液状化現象に対してあまりにも無防備であったことは,認めざるを得ないことだろうとは思います。
[77850] 2011年 4月 1日(金)20:03:28Issie さん
今日の相模線
相模線の寒川以北は今週明けの28日にようやく動き出しました。週の後半にはおおよそ“100%運転”を回復しているようです。
けれども,八高北線のうち 高麗川-寄居 間がまだ運転を再開していないのですね。地震と津波の被害を直接受けた東北方面や茨城県内各線,こちらも地震の直接被害を受けている飯山線などはともかく,ここまで延びるのはどうしたものか。

幸いなことに相模線は動き出したわけですが,それでも「計画停電」関連の長時間運休の可能性はあるようです。そこで相模原市は神奈中バスに依頼して,相模線運休時に並行する道路を利用して 橋本-相武台下 駅間で代替バスを運行してもらう算段を立てた,というニュースが今朝の新聞に掲載されていました。1時間に1回の運行で,運賃はタダ。
…10年前には同じルートを営業バスが走っていたんですけどね。ただし,上溝で乗り継ぎ。運行回数は,ほぼ同じ1時間に1本くらいだったかな。
もっとも,本当に切実に代替バスが必要なのは海老名市区間のような気もしますけれど。ここは,神奈中エリア? それとも相鉄バス?

蛇足ながら,私に“四月馬鹿”の習慣はありません。ただし上の記事を載せた新聞は,数年前にこの風習に関連した記事を掲載した“前科”があります。
この時期に,まさかとは思いますけどね。
[77831] 2011年 3月 26日(土)12:02:17【1】Issie さん
弾丸列車
相模線の寒川以北は今日も動いていません。
戦時中,現在の新幹線の祖先である「弾丸列車」が計画されたとき,一部の区間を除いて非電化(未電化ではない)の蒸機牽引列車とされていましたが,それは電力施設への攻撃を恐れた軍部の要求によるものと言われています。そして今回,違った意味で軍部の「杞憂」が現実になった,とも言えそうです。
同僚との冗談で「昔みたいに電化していなかったら相模線も最強だったのに」なんて言っていたのですが,それが正しくないのは八高北線や烏山線,小海線などを見れば一目瞭然。列車自体は電気を必要としなくても(実はディーゼルでも燃料供給が逼迫していて,これも運休の原因の1つなのでしょう),自動化された信号設備その他で思い切り電気を使っていますから,やっぱり難しいのでしょう。昔のようなタブレット(通票)閉塞なら,とも思いますが,駅間の連絡に電気(電信・電話)を使っているから,やっぱり無理?

ちなみにものすごく早い段階で「運転率100%」になった鶴見線。もともと昼間はほとんど列車が走っていません。有名な大川支線(8時半から17時まで列車なし)だけでなく,本線の 浜川崎-扇町間 も昼間は2時間に1本です。
もっとも,工業地帯である沿線は計画停電の対象地域外であるようですが。

[77825] hmt さん
停電グループを 25に細分化し、26日から実施予定 とか。

東電のページ を覗いてみたら,告知の状況と内容がだいぶ改善されています。地図化は,あいかわらずしてくれていませんが。
事故現場の極めて困難な状況は続いていますが,少なくとも広報に関しては2週間の時間を経て,当初の混乱状態からある程度は落ち着いて対応できるようにはなった,というところでしょうか。
[77823] 2011年 3月 21日(月)22:50:16Issie さん
相模線が動かない
今さらのことですが,横浜線が止まっていた先週の週明け2日,とりあえずは動いていた鉄道の最寄駅まで自転車で行ったらよかったことに気がつきました。月曜日は東急田園都市線,火曜日は小田急線。少なくとも長い列に並んでバスを乗り継ぐよりは早く着いたはず。
けれども,「飛び込み」で自転車を駐める場所を確保できたかどうか考えると,やはり現実的ではなかったかも。結局,地震当日の帰路も含めた2往復半は,すべて違うルートで,月曜・火曜は通勤に要した往復時間の合計の方が,職場滞在時間よりも長いものでした。
こうしたとき,「鉄道」と「バス」の輸送力の余りに大きな違いを再認識させられます。逆に言えば,バスの輸送力で間にあってしまうところに鉄道を維持することの是非を論じることもできそうですが,これはもっと落ち着いたときに。

[77820] 伊豆之国 さん
これを見ると同じ「丁目」の中でも、配電ルートの違いによって番地(街区)によって区域が違うなど、非常に込み入ってわかりづらい状況であることが読み取れます。

そもそもよほど広範囲な都市計画に基づいて造成されたところでない限り,個々の利用者宅への配電は必ずしも計画的なものではないだろうし,ましてや町丁字の区画に合わせて電線が引かれたものでもないでしょうから(古い住宅地であれば,住居表示による区画の方が後からできたのだから),やむを得ないところではあろうと思います。私の住む「丁目」もよく見ると2つのグループにまたがっていて,結局は実際に停電してみて初めてどちらのグループなのかがわかるようなもので。

ともかく,明日の運行予定を確認するために JR東日本のお知らせページ を見に行くのが日課になっています。
幸いなことに横浜線は週明け3日目(水曜日)から50%とは言え動くようになったのですが,被災地から離れた神奈川県内で,いまだに動いていない路線があります。それが相模線。茅ヶ崎-寒川間は,ようやく今日(21日)から動き出したけど,寒川以北の区間は明日も動きません。地震の翌日・翌々日,計画停電が始まる前の土日がどうだったか覚えていないのですが,少なくとももう1週間以上動いていないことになります。
横浜線や小田急,湘南電車に比べればずっと地味な路線だけど,この地域を南北に縦貫する唯一の鉄道路線であり,しかもこの20年ほどの間に並行するバス路線がほとんどすべて廃止されてしまった今,これの代替となるルートを探すのはかなり難しい(相模川の向こうにないわけではないが)。
意外な場所ではあるけれども,ここでも「(喜ばしくない)非日常」が当分続くようです。
[77807] 2011年 3月 18日(金)22:38:16【2】Issie さん
Re:計画停電エリア
先週の今頃の時間は,歩いていました。同僚の車に途中まで乗せてもらって,途中から歩き始め,おかげで1時間半歩いただけで済みました。道路の上には反対車線を1時間歩いても全く動かない車のヘッドライトが煌々と点灯していて暗闇ではなかったのですが,あたりは真っ暗。こんな光景を見るのは初めてでした。幸いないことに,鶴見川上流部の坂を登って都県境の辺りまで来ると電気は来ていたようで,我が家は停電していなかったようです。
それでも通勤手段は週明け2日は全面運休,3日目からは動いたけれど50%運行で極端に混雑していて,通勤時間が大幅に伸びて帰宅してからの“夜が短い”日々が続いています。
うちの職場は年度末ということでメイン業務については半日営業であったことが幸いしました。何とか“お客様たち”を自宅に帰す算段がついて,私たちもその日のうちに帰る手筈を整えることができました。これが午前中あったなら…。

[77806] まかいの さん
Yahoo!地図に計画停電エリアが図示されるようになりましたね。

この間,一番もどかしく思っていたのがこれでした。
こういう状況です。「計画停電」(←当初「輪番停電」と言っていたものが,なぜか途中から一斉に呼称が変わりましたね)は,もちろん甘んじて受け入れます。節電にも最大限協力しましょう。そして,実際には停電にはならなかったことも,停電をできるだけ避けようという現場の最大限の努力,と肯定的に受け止めましょう。
しかし,どうしても我慢できないこと。
「第×グループ」で計画停電が実施される,ということは繰り返し報道されるのに,そもそも我が家がどのグループに属するのか,一向にわからない。テレビでは市区町村レベルまでしか報知されない。新聞でも…。たとえば,我が家が属する「相模原市中央区」は,いくつものグループに属するのだけど,じゃあ,いったいうちはどのグループなの?
その点,Yahoo!の地図は大幅な前進です。ただ惜しむらくは,それが「町・大字」レベルにとどまっていること。たとえば,我が家は目の前の道をはさんで向こう側は同じ“町”でも「違う“丁目”です。そして我が家の属する丁目と道向こうの丁目ではグループが違うらしい。残念なことに,町・大字レベルまでしか示さないYahoo!地図では,一番肝心な“そこ”がわからないのですね。
実は,丁目レベルまでのグループ分けをまとめた資料,火曜日の朝に電車が停まって動かない駅頭で次期衆院選候補者(=前回総選挙での落選議員)が配っていました。これは落選議員ではなくて東電がすべき仕事だろうと思っていたのですが,Yahoo地図!で実際の区分けを見るとあまりに複雑で,東電にそこまで要求するのは無理かもしれない,と思い直しました。
それでも,東電は配電経路の地図を電子情報化していないのかしら。今時そんなことはないだろうと思いつつ,東電のような独占企業にはあり得ることかも,あるいはセキュリティ上,わざと公開しないのかも…,とも思うのですが,

やはりこの場合,地図の情報提供力はとても大きいはずだ,と思ったのでした。
[77751] 2011年 3月 11日(金)00:50:32Issie さん
満開の梅
[77749] 白桃 さん
水戸の偕楽園に3/6に行ってきました

同じ日,私は群馬の万座温泉に行ってきました。うちの“業界”には,3年間の“お仕事”を満了して“お客様”をお送りすると,その仕事集団で旅行に行く,という習慣があるのですが,うちはまだ1年しかお仕事が終わっていない(あと2年ある)のに旅行に行った,というので若干顰蹙ものではあったけど…。私は諸般の事情があって途中参加。現地での滞在時間も短かろうと,夜お酒を(たくさん)飲むまで全くそのつもりがなかったのに,翌朝には何となく実に17年ぶりにスキー板に乗るはめになって,スキーよりもひどい二日酔いで散々な目に。
そんなことはともかく,
6日,単独行動で現地に向かうに当たって,新幹線で軽井沢に出て,そこから“Pホテル”の送迎バスに乗ったのですが,…遠いですねえ。
もちろん,地図で見れば当たり前なのですが,“最寄駅からの送迎バス”なんて感覚で乗ると実に実に遠く感じます。有料道路をノンストップで突っ走るバスですらそうなのだから,若干ルートは違うけれどもほぼ同じ行程をとって草津に向かっていた 草軽電鉄 の電車,どんなにか時間がかかったことでしょう。やっぱり,1970年を迎えるのは無理だったと思いますよ。
面白かったのは,送迎バスを運行しているホテルと有料道路の経営主体が同じグループであるせいか,料金所がほぼ「顔パス」だったところ。
“腐っても西武”?

同じ職場の上司が1週間前に行ったということで、その話によりますと、「満開」だったそうな。

偕楽園自身のHP によれば,たとえば2月末の段階では「5分咲き」というのが自らの見立てであるようですが,“新着情報”にある「5分咲の偕楽園」からリンクをたどって写真を見ると「満開」に見えなくもないかも。
梅の場合は「満開」とは言っても,桜(とくにソメイヨシノ)とは違って「霞か雲か」と咲くのではなくてパラパラと咲く,というイメージがありますから,それなりに枝を覆っていれば「満開」に感じるのかもしれませんね。

水郡線で、水戸から郡山まで乗るヒト、どれ位いるのでしょうか???

1回だけ乗りましたよ。もちろん,乗って全区間をスルーすること自体が目的。
[77721] 2011年 2月 26日(土)10:48:21【3】Issie さん
境界変更
[77719] 白桃 さん
2007年12月1日に境界変更があった関係でしょうか?

境川の改修による新流路に合わせた両市の境界変更=都県境の変更,「着々と」とはとても言えないけれど,ようやく少しずつは進んでいるようです。

この両市の境界変更は2010年12月にも行ったようですね。

これについては,こちらでもどなたか既報だったような。
詳しい中身が 市のHP に掲載されています。中央区の淵野辺本町付近での相互の“領地交換”と,南区の上鶴間本町から町田市金森への“一方的割譲”。前者の場合は,基本的に(新)境川の河川敷内ないし周りの住宅のない部分の交換で,「中央区の面積の変更はありません」(市HP)というもの。でも,後者は10軒の住宅が関わるもので,当然に人口の“移動”が生じます。次回,2015年国勢調査報告における組替人口の変更は「予約済み」ですね。
そして,相模原市/町田市だけでなく,神奈川県/東京都の面積も変更になります。

つまるところ,この10軒の皆さんは 相模原市→町田市,イコール 神奈川県→東京都 という住所変更に承諾されたのですね。
けれども,このまま都県境がきれいに整理されるかというと,やっぱり不透明。
何度か話題にしている境川左岸(町田市側)の 相模原市上鶴間1番地(上鶴間本町八丁目56街区)周辺は相変わらずそうなのですが,旧流路が南側に大きく湾曲しているせいで新流路の右岸(相模原市側)になってしまった 町田市木曽西一丁目39~43街区。以前は“町外れ型喫茶店”らしき建物が1軒あるだけで周りは荒地だったのですが,最近宅地造成されてたくさんの新住民が入居してきました。荒地のうちに境界変更しておけばいいものを,これだけ多くの世帯が相手となると大変ですよね。「東京都町田市」だと思って引っ越してきた途端,今日から「神奈川県相模原市」になりますよ,なんて言われたら。
境川の流路の通りの「きれいな都県境」になるのは,いつのことやら。

ところで,国勢調査の速報値が全国分出そろったところで,衆議院議員の小選挙区区割りについて2002年の公職選挙法改正の際の以下の付帯決議

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市町村合併の進展などにより小選挙区の区域が地域の実情にそぐわないような状況になるなど衆議院議員選挙区画定審議会設置法第四条第二項に定める「各選挙区の人口の著しい不均衡その他特別の事情」が生じたときには、審議会は、十年ごとに行われる国勢調査の結果を待つことなく、小選挙区の改定の勧告を行うよう考慮すること。
また、審議会が小選挙区の区割りの改定方針及び改定案の調査審議を行うに当たっては、都道府県知事や市町村長から意見を聴くことなどにより、地域の実情を反映した勧告となるよう努めること。
--------------------------------------------------------------------------------------

が,ようやく日の目を見ることになります。…というか,結局この決議は実行されなかったのですよね。政府あるいは議員たちの怠慢。この間に3回も総選挙が行われてしまったもので,近々また総選挙があるとか,ないとか…。ここで区割り変更をやってしまって,当分選挙ができないようにしてしまおう,なんて話があるようですが,「1票の公平」をできるだけ実現するために,真面目にやってほしいものです。
人口を小選挙区定数の300で割るとそれより人口の多い市区があるから,2つの選挙区に分割される市区があるのもやむを得ないのですが,今のように3つや4つに分かれているのは,どう考えても異常。合わせて,ゲリマンダーの創設はやめてほしいものです。総理大臣が「鳩山2世」(政治家一族としては「鳩山4世」)から変わって「新ハトマンダー」とは呼ばれずに済みそうですが。
議員1人あたりの人口を増やすために小選挙区を減らす=議員定数を減らす,という議論もありますが,実際は比例代表の方を減らすという話になってしまうようで,私はこれには反対。そもそも,日本の国会議員の数は,ほかの国に比べて決して多くはありません。日々の国会を見ていてロクでもない議員がとても多いのは事実だけど,それは定数の問題ではなく,それを選んだ選挙民の問題です。特に,少数意見を代表する機会を保障するには,一定数の議員は必要。そして,本当は小選挙区制よりも比例代表制の方が望ましい。だから,総定数はそのまま,小選挙区を減らして比例代表の数を増やすというなら,私は賛成するのですけどね。
[77718] 2011年 2月 26日(土)01:30:28【1】Issie さん
1万人に1人
[77716] 白桃 さん
本日、総務省より発表されました。

というわけで,25日付の「官報」号外 に各都道府県市区町村ごとの人口総数(平成23年総務省告示第66号)が掲載されています。
いつの間にか,2月も終わりなのですね。

相模原市(717,561)は静岡市(716,328)を超えました。

名ばかり政令市。
増える要素よりは減る要素の方が多い気がするんですけどねえ。高齢化の進む南区と,過疎の緑区(旧津久井郡)とで。中央区だって,どんなもんだか。県会議員の定数は南区で1人減らされるそうです。せっかく抜いた県庁所在地に抜き返されることは,…あるのかしら。
ともかく,世界の総人口は現在 約70億人と見積もられている そうなので,世界中の人の1万人に1人強が相模原市民なわけで…(静岡市民,とも言えるのだが)。

で,町丁別の細かいデータはどうなっているのかと,相模原市の人口統計のページ に行ってみたら,昨年(2010年)の9月1日現在で更新が止まっています。
最初に

-------------------------------------------------
平成17年国勢調査確定数を基礎とし推計しています。
-------------------------------------------------

なんてことが書いてあるから,11月分以降の“推計”の基礎となる今回(2010年=平成22年国勢調査)の確定値が出るまで更新はお休みなんでしょうかね。

25日,関東では春一番が吹きました。つい,キャンディーズを思い出してしまうのですが,彼女たちは暑中お見舞いの歌も歌っているのですよね。あれも佳作なんだけど,やっぱり「春一番」の印象の方が強い。“総集編”である「微笑み返し」の出だしも「春一番」ですからね。
しかし,75年前の今頃の時間,首都(←「帝都」と言った方がいいかも)では大雪(東京にとっては…)の中,歴史的大事件が進行中なのでした。
日付が変わった今日は,ニー・ニーロク。
[77708] 2011年 2月 21日(月)23:31:45Issie さん
レトロスペクティブ
[77707] 伊豆之国 さん
1927(昭和2)年の地下鉄開業当時から約40年間にわたり親しまれた旧1000形をモチーフとし,当時の車体色を再現するなどレトロ調の外観となっている

最近設置されたホームドアに隠されて確認できていないのですが,丸ノ内線の「サインカーブ」の“復活”も進んでいるんでしたっけ。
銀座線といい,何か昔を向いていますねえ,東京地下鉄。そういえば,「メトロ」という言葉も「昭和モダン」を連想させます(←ついこないだの「昭和末期」じゃないよ。昭和ヒトケタ…)。「電灯が消える」銀座線の“黄色い電車”も,戦後間もなく登場した丸ノ内線の“赤い電車”も,当時の“最先端”だったんですけどね。

[77705] k-ace さん
神戸市が和田岬線の廃止を要望。自治体から廃止を要望するのも珍しいような。

まちづくりに邪魔だから廃止しちゃえ,という理屈は,1970年前後に自治体(と警察)が率先して路面電車を次々と廃止していったのと同じトーンを感じます。地下鉄へ誘導したいというのは穿ちすぎた見方かなとも思うのですが,それが「本音」だとしても,三菱系事業所への通勤輸送がほぼ全部を占め,地域交通としては恐らくほとんど機能していないであろう現状からみれば,当然の施策だろうと私は思います。
JRとしても,昔のように「特別な車両」を「特別な形態」で運用することがなくなったにしても(今は普通の電車が走っている),本来の役割であった貨物輸送から撤退した今,あえて短小な盲腸線を維持する必要もないと判断するのも自然だと思います。輸送需要が集中するラッシュのピーク時,バスには荷が重いとしても,今では地下鉄という代替手段があるのだから。
ファンとしては「遺構」として何らかの形で保存されたらいいな,とは思うけど,「生きた鉄道」として存続させるのは経済的,あるいは政治的に難しいのではないかと思います。
[77697] 2011年 2月 19日(土)12:02:25Issie さん
ベーリング
[77695] のつづき。

Bering の方も見てみました。
ロシア語表記は Витус Ионассен Беринг ,デンマーク語の Vitus Jonassen Bering をそのままキリル文字に転写しただけのようですね。ミドルネームの Jonassen(ヨナセン)はノルマン系の人々に見られる「~の息子」という名前だと思われるけど,これをロシア人と同様の“父称”と見なすものなのかどうか。少なくとも Петрович と,完全にロシア式の父称を名乗っている Spanberg の方が,より「ロシア化」の度合いが強いのかもしれません。

「ベーリング」は,日本では人名よりも地名としてとてもよく知られているけれど,日本で最もよく知られているデンマーク人の姓は恐らく Andersen でしょう。hmt さんご紹介のページでも言及されているように,「アナーセン」ないし「アナスン」とするのが本来の発音に近いと言われていますが,有名な童話作家も含めて日本語ではもっぱら「アンデルセン」と表記し,読んでいます。
その伝で言えば,Spanberg をデンマーク人として呼ぶならば(実際にどのように発音しているかは関係なく)「スパンベルグ」で,とりあえずはいいのかもしれません。

ところで,ゲーテが「俺の名前」かと驚いた o-ウムラウト のカタカナ表記ですが,トルコ語をカタカナに翻字するときは「ギョエテ」式で表記する習慣です。たとえば日本で徳川幕府が成立し,ロシアでロマノフ朝,中国では清朝が成立した17世紀前半に父子2代にわたってオスマン朝の大宰相として政治をリードした キョプリュリュ・パシャ の「キョ」がそれに当たります。
これはトルコ語の「母音調和」という現象に関連する母音で,ドイツ語の「ウムラウト」とは性格の違うものですが,似たような音ではあるようで,だからオスマン帝国解体後のトルコ共和国の指導者アタチュルク(ムスタファ・ケマル)の文字改革(アラビア文字の廃止,ラテン文字の導入)でウムラウトによる表記を採用したのでしょう。でも,日本語のカナに転写する際にはドイツ語とトルコ語で違う形に定着した。

というわけで,結論はまた同じなのでした。
[77695] 2011年 2月 19日(土)03:05:55【1】Issie さん
虹色のトロツキー
本題への反応ではないのですが…

[77693] hmt さん
Bering も Spanberg も デンマーク生まれのロシア海軍大尉でした。

外国の人名や地名をカタカナで表記するのは実に難しいですね。ずっと以前に書いたことがあるように,ラテン文字(ローマ字)を共有している言語同士なら,元の言語での綴りをそのまま持ち込んで実際にどのように読むかは頬かむりをして知らん顔をしてしまう,という手も通用しないではないですが(日本語でいうなら,共有する漢字で「欧陽菲菲」と書いて無理やり中国語風に「オーヤン・フィフィ」と読ませるようなものかしら),残念なことにローマ字を“通常の表記手段”としない日本語ではカタカナに翻字しなくてはなりません。だから,「ギョエテ」などという無理な表記も現れてくるわけで。

“近代少し前”のロシアは,その成り立ちの過程から多くのドイツ系あるいはスカンジナビア系の貴族を抱えていました。また,“ユダヤ訛りのドイツ語”(イディッシュ語)を話すたくさんのユダヤ人も。彼らの名前は基本的にドイツ語を含むゲルマン語系のものです。
たとえば,ユダヤ系の出身であるトロツキーの本姓は Bronstein 。ドイツ語式に読めば,「ブロンシュタイン」なのでしょうが,通常はロシア語綴りの Бронштейн に合わせて「ブロンシュテイン」と読む習慣です。同じく,ソ連初期の代表的な映画監督である Eisenstein も,ドイツ語式の「アイゼンシュタイン」ではなく,ロシア語表記の Эйзенштейн により「エイゼンシュテイン」と呼ばれていますね。
この流れでいけば,Spanberg も“ロシア海軍大尉”としてなら,たぶんロシア語では Спанберг となって「スパンベルグ」または「スパンベルク」,いや,もしかしたら Шпанберг と翻字して「シュパンベルク」が正しいのかもしれませんが,実際これは“日本語の問題”であって,「正しさ」の基準はどこにもないように思われます。その前に,キリル文字(ロシア文字)で表記するロシア語の場合も,ラテン文字からどのように翻字するか,という問題を抱えているのでした。ただし,ロシア語の場合は日本語の場合よりはカッチリとした規則ができていそうな気もしますが。

結局のところ,外国語の固有名詞をカタカナで表記するのはいろいろ面倒だよね,という始めの話に戻ってしまうのですよね。

※追記
ネット上の百科事典(ロシア語版)によれば Шпанберг, Мартын Петрович と表記するようです。人名についてこういう場合,ロシアでは 姓,個人名・父称 の順番で記載する習慣のようですが,日本で「西洋式」と理解されている 個人名・父称・姓 の順番でカタカナ化すれば マルティン・ペトロヴィッチ・シュパンベルク となるのでしょうね。Мартын(マルティン)という名前が,ロシア…というよりスラブっぽくありません。
[77685] 2011年 2月 17日(木)19:41:08【1】Issie さん
コンニャクの花
…なんて書いたら,チューリップ(←バンド名)の歌みたいですが…

[77684] 山野 さん
そんなに臭いのでしょうか。蒟蒻の花って。

私も植物の状態のコンニャクを見たことはないので(たぶん),花がどんな匂い(臭い?)がするのか知らないのですが,確か以前にNHKが「ダーウィンが来た!」という自然番組で紹介していた「世界一臭い花」というのがコンニャクの仲間ではなかったかな,と思って検索してみました。名前は,スマトラオオコンニャク(スマトラ大蒟蒻)。ただ,番組のHPには“決定的なこと”が書いてなかったので,それはこちらのページで。

お互いにとても近い仲間であるようですから,わが国のコンニャクも推して知るべし,なのかもしれませんね。
サトイモ…,というより“世界的視点”からは「タロイモ」の仲間ですが,いろいろなものがあるものです。とはいえ,同じサトイモ(タロイモ)の仲間のミズバショウがそのような臭いでなくて良かったですね。もし,その臭いだったら,“尾瀬のあの歌”の2番はひどいことになっていたでしょう。
[77674] 2011年 2月 15日(火)19:57:04【1】Issie さん
カタカナ字名
[77657] グリグリ さん
字名ができた当初からカタカナ表記だったのでしょうか

個別具体的な例ではなく一般論としてですが,これは,あったろうと思います。
もともと,(小)字レベルの地名は村落共同体内で用いられてきたもので,そもそも必ずしも文字で表記されるものではなかったのではないか。だとすると,これらの地名の中には,近世初期の検地や,明治初期の地租改正に伴う地券の発行と台帳の作成で初めて文字化されたものも少なくないのではないかと思います。その際に何らかの漢字が宛てられてごく自然に漢字表記が行われるものもあったろうし(本来の語源を正しく表しているとは限らないが),逆に初めからカタカナ表記で済まされてしまったものもあるでしょう。中には「暫定的なカタカナ表記」もあるけれど,カタカナ表記が“プロパー”なものもあるかもしれない。

参考までに,国立国会図書館の 近代デジタルライブラリー でも画像の形で見ることができる 『新編武蔵風土記稿』 (ここに収録されているのは 1884(明治17)年の内務省地理局版ですが,この書物自体は江戸時代後期の化政年間に幕府の昌平坂学問所地理局で編纂されたものです)にある江戸時代後期の各村それぞれの項目内に記載されている「小名」(←厳密には「小字」とは違うものでもあるらしいですが)には,漢字表記のものと一緒にカタカナ表記のものも多く収録されています。

だから,「初めからカタカナ表記」の(小)字名があっても,私は特別なこととは思っていないし,十分にあり得ることであろうと思っています。
[77669] 2011年 2月 15日(火)00:35:19Issie さん
旧軍用地跡
[77665] 白桃 さん
明日が心配

雪,降ってますねえ。先日の連休の時の雪がある意味「肩すかし」だったので,今晩こんなに「大雪」になるとは意外。気象庁としても予想外だったのではないでしょうかね。この季節の南関東,雪になるか否か,積もるか否かは,実に紙一重。まあ,予想は難しいのは確かなことなのでしょう。テレビが騒ぎすぎのような気もしないではないけれど,雪国ではない人口密集地にたまに降る雪,大目に見てください。
※とうとう,NHKは台風の時と同じ終夜放送を始めちゃったよ…。

[77667] ぺとぺと さん
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会地理分科会の記事

ご利用,ありがとうございます。

東海道本線から通じる引込線の跡(不自然に弧を描いている道がそうです)

国土地理院HPの 国土変遷アーカイブ に掲載されている空中写真。平塚駅周辺の1946年撮影のものを検索して眺めてみると,敗戦直後だけあって,駅から火薬廠までの引き込み線がとてもきれいに写っているのが見て取れます。
このアーカイブに掲載されている空中写真,画像の品質が写真によってかなりバラつきがあるのですが,平塚付近の1946年の写真はかなり状態のいいものが掲載されています。

そんなわけで,ここで空中写真の検索を始めてしまうと,ついつい時間を忘れて眺め入ってしまいます。こないだも,津田沼駅から幕張周辺の写真を眺めて,そうそう,俺らが小学生だった頃はあんな風景だったよなあ,と見入ったりして…。
横須賀や平塚が「海軍の町」であるなら,習志野や津田沼は言わずと知れた「陸軍の町」。
小学校に上がる前,私は国鉄津田沼駅近くの市立幼稚園に通っていました。そこは,戦前の鉄道第二聯隊の敷地の中。主要部分が千葉工業大学に転用されたことはよく知られているのですが,その西隣の敷地は市立中学校や幼稚園に転用されたのでした。で,その幼稚園,年少組の教室が入っていた園舎はかなり年季の入った木造平屋の建物でしたが,これって昔の鉄道聯隊の建物の一つだったんじゃないか,と今は思っています。
その幼稚園と中学校の敷地は70年代後半,駅南口の再開発で大型商業施設と文化施設に変わってしまいました。中学校は移転したけど,幼稚園は廃園。この間に習志野市は市内の各小学校に幼稚園を併設する政策をとったので,単独の市立幼稚園は役割を終えたのですね。もちろん,旧軍施設転用の園舎も跡形もなく,一部が京成電鉄の車両工場に転用されていた総武線北側の関連施設もすべてなくなって,今かつての鉄道聯隊の記憶をとどめるのは千葉工大の正門と,むかし総武線の両側の敷地を結ぶ構内鉄道が利用していた新京成線の架道橋だけです。
※ちなみに,このあたりの変遷も,「国土変遷アーカイブ」の空中写真で追うことができます。
[77666] 2011年 2月 14日(月)23:01:37Issie さん
駅ができる,市役所がやって来る
[77664] ぺとぺと さん
南陽市役所と南陽市役所駅

既報ですが,一昨年の“9月の大型連休”で米沢に行ったとき,ついでに山形鉄道にも乗ってみました。確かに,市役所の目の前に駅がありましたね。言うまでもなく,地平駅ですからホームから地面までの段差もわずかしかなく,市役所に入れたはず。
国鉄長井線だった時代にはもちろんこんな駅はなく,3セク移行時の1988年に開設されたそうですが,当然これは“市役所の脇”というロケーションを選んでわざわざ設置したものですね。ま,その前提として,長井線が“たまたま”市役所の脇を通過していたからこそできたことですが。

市役所の移転に伴い、結果として駅から遠くなった

逆に市役所が駅の近くにやって来た例もあります。
たとえば新潟市役所。
元は,郡区町村編制法による「新潟区」の時代から旧市街地の中心に近い 西堀通6番町 にありました。現在の NEXT21 のある位置。
けれど,信濃川の左岸(旧市街側)にあった県庁が右岸に移転したので,1989年にその跡地に移転。旧市街の中心からは遠くなったけど,かえって町外れにあった越後線の 白山駅 に近くなりました。
ちなみに,白山駅は元々国有化以前は私鉄の越後鉄道のターミナル駅で現在の鏡淵小学校の辺りにあったので,そこからだともっと現在の市役所(元の県庁)に近いのですが,それより何より,新潟交通の“路面電車”が健在であれば「県庁前」という駅があったのでした。県庁移転後の最末期には「白山前」と改称しましたが,名前の通り県庁のすぐそば。だから,県庁跡地に市役所が移転してきた1989年から,東関屋 までの軌道区間が廃止された1992年までの間は,まさに 白山前駅 のすぐそばに市役所があったのでした。
惜しいなあ…。
[77640] 2011年 2月 12日(土)20:50:59Issie さん
鉄鉱石は錆びた鉄
[77637] ソーナンス さん
忘却の彼方

今となっては鉄道が走っていたなんて記憶が消え去っているところもあるでしょうしね。
こうして並べてみると,やはり地方ローカル私鉄が消えた1960年代後半,そして国鉄→JR移行がらみで多くのローカル線が切り捨てられた1987年前後に集中しているのがわかります。

[77632] ソーナンス さん
小美玉市を追加したランキングに訂正

ちなみに 小美玉市 の場合は,「小」(旧小川町)と「玉」(旧玉里村)をこないだまで 鹿島鉄道 が走っていたのだけど(2007年廃止),市役所は「美」(旧美野里町)にあって,ここからだと元から常磐線の羽鳥駅が一番近いみたいですね。

蛇足
「全く以て」と書いた方がいいと思いますよ。
[77635] 2011年 2月 12日(土)12:14:38Issie さん
Re:駅から遠い市役所2
[77633] のつづき。
[77632] ソーナンス さんのリストには,たとえば 南さつま市 がありません。市内に(現在)鉄道の駅のない市は初めから省いているものと思われます。けれども,皆様ご案内の通り,南さつま市役所のある 加世田 には昔は鹿児島交通の 加世田駅 がありました。
そこで,
・現在の市役所の近くにむかし鉄道の駅があったけど,現在は市域内に駅がない市

紋別市紋別駅JR名寄本線1989年廃止
三笠市三笠駅JR幌内線1987年廃止
歌志内市歌志内駅JR歌志内線1988年廃止
神栖市神之池駅鹿島臨海鉄道鹿島臨港線1976年駅廃止
(神栖駅)同上1983年旅客営業廃止現在は貨物線・貨物駅として営業
富里市富里駅成田鉄道八街線1940年廃止
輪島市輪島駅のと鉄道七尾線2001年廃止旧国鉄・JR
珠洲市飯田駅のと鉄道能登線2005年廃止旧国鉄・JR,のと鉄道移管前は「珠洲飯田駅」
南アルプス市小笠原駅山梨交通電車線1962年廃止
御前崎市浜岡町駅静岡鉄道駿遠線1964年廃止
牧之原市榛原町駅静岡鉄道駿遠線1968年廃止
山県市高富駅名古屋鉄道高富線1960年廃止
洲本市洲本駅淡路交通鉄道線1966年廃止
八女市筑後福島駅国鉄矢部線1985年廃止
大川市筑後大川駅国鉄佐賀線1987年廃止
宮若市筑前宮田駅JR宮田線1989年廃止
南島原市西有家駅島原鉄道2008年廃止
山鹿市山鹿駅山鹿温泉鉄道1960年休止,1965年廃止
菊池市菊池駅熊本電気鉄道菊池線1986年廃止
豊後高田市豊後高田駅大分交通宇佐参宮線1965年廃止
国東市国東駅大分交通国東線1966年廃止
西都市妻駅国鉄妻線1984年廃止
鹿屋市鹿屋駅国鉄大隅線1987年廃止
垂水市垂水駅国鉄大隅線1987年廃止
南さつま市加世田駅鹿児島交通枕崎線1984年廃止
伊佐市薩摩大口駅JR山野線1988年廃止
浦添市城間駅沖縄県営鉄道嘉手納線1945年消滅戦災による破壊
南城市大里駅沖縄県営鉄道与那原線1945年消滅戦災による破壊
糸満市糸満駅沖縄県営鉄道糸満線1945年消滅戦災による破壊

こんなものですかねぇ。
ほかに,現在の豊見城市役所の近くにも馬車軌道の駅があったのですが。

要するに,全国津々浦々,鉄道が入り込んでいたんですねえ。鉄道と縁のない市,ってのがとても少ないことが改めてわかります。
ま,だんだん当初の趣旨から外れ始めているので,この辺で。
[77633] 2011年 2月 12日(土)02:01:08【1】Issie さん
Re:駅から遠い市役所
[77632] ソーナンス さん
こういった市役所から駅が遠い市のパターン

5.もっと近くに駅のあった鉄道が廃止された

というものもあるように思われます。
リストに挙がっているものの中では

1位南九州市知覧駅鹿児島交通知覧線1965年廃止
2位曽於市末吉駅国鉄志布志線1987年廃止
3位登米市佐沼駅仙北鉄道登米線1968年廃止
4位志布志市安楽駅国鉄志布志線1987年廃止
5位嘉麻市臼井駅JR上山田線1988年廃止
6位栗原市築館駅仙北鉄道築館線1950年廃止
8位篠山市篠山駅国鉄篠山線1972年廃止
11位杵築市杵築町駅大分交通国東線1966年廃止廃止時は「杵築市駅」かも
14位倉吉市打吹駅国鉄倉吉線1985年廃止開業時~1972年の駅名は「倉吉駅」
16位能美市本寺井駅北陸鉄道能美線1980年廃止
20位大田原市大田原駅東野鉄道1968年廃止
25位尾花沢市尾花沢駅山形交通尾花沢線1970年廃止
26位桜川市雨引駅筑波鉄道筑波線1987年廃止
31位藤枝市藤枝本町駅静岡鉄道駿遠線1964年廃止
34位下関市唐戸停留所山陽電気軌道1971年廃止軌道(路面電車)

…あたりが,これに当たるのではないかと。
もちろん,これらの中には市になるずっと前に鉄道が廃止されたものも多いのですが,ま,鉄道が健在だったら今頃は…,ということで。

 
[77622] 2011年 2月 9日(水)21:06:25【1】Issie さん
Re:多摩丘陵
[77621] k-ace さん
「多摩丘陵」交差点・バス停

バス停の名前は,しばしばとても大雑把ですからねぇ。
なぜこんな名前がついているのか,もちろん私も知りません。なので,周辺情報を。

私がここを通る路線バスに初めて乗ったのは,(家族が)多摩ニュータウンに越してきた30年近く前のことでした。当時は,多摩センター駅から八王子駅までバス路線が通じていて,それに乗ってみたのですね(ちなみに,当時は京王相模原線も小田急多摩線も多摩センターが終点でした)。当時,すでに絹ヶ丘・北野台の大規模な宅地造成は完了していましたが,丘陵上の造成地から浅川沿いの旧市街へ下りる幹線道路はまだ整備が完了しておらず,北野駅方面へは「多摩丘陵」バス停のある野猿街道の古く細く曲がりくねった道しかありませんでした。

このバス路線,今は終点が南大沢駅に付け替わっていたかと思いますが,元々は合併前の旧由木村中心部と八王子駅を結ぶ路線で,かなり早い時期から運行されていたものです。絹ヶ丘の宅地造成は1970年代のことではないかと思うのですが,それ以前は近くの都立長沼公園や町田市との境の御殿峠周辺のような丘陵地帯でした。
1960年代末頃の景観を想像するに,たぶん,北野駅の近くに形成された古いタイプの住宅地が終わり,未開発の丘陵地帯に入っていく境目に当たるのが多摩丘陵バス停の辺りではなかったのか。で,バス停を設置するのはいいけれど,名前を付けるのに都合のいい目ぼしい目標物がないので,まあ「多摩丘陵」でいいや,なんて風に決まったんじゃないか…。そんな光景を想像してしまいます。
いや,もっとちゃんとした理由があるかも知れませんよ。

交差点の方は,バス停が先にあって,そのあとから信号機付きの交差点になったんじゃないかなぁ。そもそも,信号のある交差点に一々名前を付けるようになったのは,そんなに古い話ではありませんよね。
たった40年前には,まだ信号のある交差点の方が珍しかったんだから。
[77617] 2011年 2月 7日(月)23:38:09Issie さん
関内駅南口前
[77611] k-ace さん
駅に一番近い市役所・町村役場・特別区の区役所

横浜の市役所(←横浜市は「市庁」と呼んでいる)が,かなりの線いってると思いますよ。
何しろ,根岸線の関内駅南口の海側出口を出たら,線路(高架橋)に並行する歩行者専用街路を横断して,確か十数歩で市役所の中に入れたはずです。
もっとも,市役所の「正面玄関」は,少し離れたところにありますが。

千葉市役所も,モノレールの「市役所前」駅のそばですね。ただし,モノレールという性格上,地平面へのアプローチが長く,また市役所の敷地にはいってから庁舎内に入るまでの距離も少しあります。

ついでに市区町村ではありませんが,地下鉄大江戸線の「都庁前」駅は,名前の通り“都庁前”です。
[77601] 2011年 2月 5日(土)10:48:38Issie さん
上から読んでも,下から読んでも
[77598] oki さん
ここの海苔屋さん

山本山。そう言えば最近,あまりCMを見かけないような。

でもやっぱり,「中巻き」というのがイメージわきません。
細巻きの方に近いのか,太巻きの方に近いのか。

[77599] グリグリ さん
とろろ昆布やおぼろ昆布を巻いたおにぎり

我が家には,おにぎりを昆布で巻く習慣はありません。ただ,私の住んでいた埋立地の団地は,全国から移り住んだ余所者の集合体ですから(もちろん,大部分は関東甲信越+東北。むしろ,地元の千葉県は少数派),小学校の同級生がそういうおにぎりを持ってきた記憶があるような,ないような。
目の前の海で海苔を養殖して,国道沿いの漁家の庭先で海苔を干していた,まさに海苔の産地だったわけですが,別に産地だから,というわけではありませんよね。もともと,昆布を薄く削ったもの,というものがマイナーな食べ物だったのだろうと思います。
私,とろろ昆布とおぼろ昆布の違いがわかりません。

[77597] 桜トンネル さん
おにぎりを買うと「温めますか?」と聞かれる

できたその場で食べるとき以外,おにぎりや弁当というものは本来,冷めているものだと思うのですけどね。冷めて食べてもおいしくなきゃ。
おにぎりの海苔も,湿気を十分吸ってしっとりとしているもの。
コンビニで売っている,海苔を別パックにして食べる直前にご飯に巻いてパリッとした状態で食べる,というのも,それはそれで悪かないけど,やっぱり海苔がしっとりして,表面がきちんと塩辛くないと,おにぎりらしく思えません。ついでに,梅干しも甘くなんかなくていいから,余計な味のついていない,ちゃんと塩っぱい梅干しが食べたいです。
[77596] 2011年 2月 5日(土)00:08:11Issie さん
one hundred peanuts
[77595] 右左府 さん
節分に落花生をまく

私,落花生の産地の近くに住んでいたわけですが,産地にはそういう習慣はないんじゃないかなぁ。
「信」のお寺の前の町に住んでいた頃,学生寮の豆まきで落花生を蒔いていたけど,当時も今も私には「大豆の代用品」という感覚しかありません。

[77591] 千本桜 さん
この辺りでは栃木と違ってかんぴょう栽培している家はあまりないはず

たびたび表明している通り,私の母方の田舎が越後のチャーザァ村(の少し奥)というわけで,何でも新潟県は栃木県と並ぶユウガオの栽培地域だそうで,田舎に行くたびにユウガオの入った味噌汁を出してもらいました。そういう意味で私には“干していないユウガオ”の方が,“干したかんぴょう”よりもなじみの深い食材なのですが,東京近辺ではマイナーな食べ物のようですね。
[77590] 2011年 2月 4日(金)20:06:23Issie さん
海苔巻き
[77589] oki さん
東京に出てきた頃は、お店に太巻と細巻しか並んでいないのを見て、通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻と呼ぶのだと思いこんでいました。

あっ,これ,よくわかんない。
河童巻きや鉄火巻きのような細巻きと,でんぶや卵焼きを巻いた太巻きとの間の「中間の巻き寿司」ってのがあるのかしら。

そういえば,久しく かんぴょう というものを見ていません。
子どもの頃は,「海苔巻き」(←「巻き寿司」とは言わない)と言えば「かんぴょう巻き」がデフォルトで,アラカルトというか,“変わり寿司”として「河童巻き」や「鉄火巻き」なんかがあるんだと思っていました。「ネギとろ」なんて,昔は聞いたこともなかった海苔巻きが出てくる一方で,いつの間にか かんぴょう巻き を見ることが減ってしまいました。お寿司屋さんの出前にも入ってないですよね。

いや,かんぴょう もさることながら,その原料である夕顔の実もあまり見ないなあ。

ところで,昨日2月3日は旧暦の1月1日,旧正月。
惜しいなあ。立春の今日が旧正月だったら美しかったのに。
月の暦(旧暦)のサイクルと,太陽の暦(立春,春分など)のサイクルが,たまたま一致して(…と言っても,このサイクルは決まっていて,別段「たまたま」ではないのだけど)「月の暦の正月」≒「太陽の暦の新春」となったわけだけど,立春=旧正月 となるのは何年おきなんでしょうね。…計算が面倒。
[77587] 2011年 2月 4日(金)00:01:43Issie さん
転用に次ぐ転用
今晩の「ブラタモリ」は,いつになく鉄分が多めでした。ま,今シリーズは昨年度のシリーズに比べて鉄ネタが多いのですが。
なるほど,「牛込駅」の駅舎はあそこにああいうふうに建っていたのか…。

[77586] スナフキん さん
どこまでを「復活」とするか

私としてはやはり,保存鉄道やアトラクション的なものではなく,「完全な鉄道」として「本来の役割」で営業している路線,としたいところです。その点では,一旦廃止した路線の形態を転換(軽便鉄道→新交通システム)した上で“復活”した西武山口線も,(法律上の扱いに関わらず,実態として)西武の遊園地群を結ぶアトラクション的な存在で,私的には「アウト」かな。
逆に旧土電安芸線は,まさに「ストライク」。

北丹鉄道や頸城鉄道

北丹鉄道は由良川沿い,というよりも,ほとんど河川敷内と変わりないような,かなり条件の悪い所を走っていましたよね。そのままでは「国鉄」の完全な路線とするには無理だったのでは…。
頸城鉄道は信越線の黒井駅から浦川原に向かってほぼ東に進んでいましたが,ほくほく線は一旦ずっと北の犀潟まで進んでそこで信越線と分かれ,わざと北の丘陵に突っ込んで豪雪地帯をトンネルでやり過ごしています。どちらも以前に走っていた鉄道ルートとは違ったところを走っています。

湖西線が江若鉄道のルートの大部分をなぞっていることは,よく知られていますね。
最近,むかし鉄道雑誌の“P誌”に掲載された記事を復刻編集したものを読んで知ったのですが,湖西線への転用がらみで江若鉄道には「国有化」への期待があったようなことが書かれています。けれども,戦前の「鉄道省」ではなく,“公共企業体”である国鉄の時代,しかも1960年代後半となれば,それはやはり時代錯誤ではないか,と今から見れば思えます。

路線の転用と言えば,これも知られていることだろうと思いますが,京都・伏見間での二重転用の例があります。
京都の東山を突き抜けるトンネルを掘ることなどとてもできなかった明治時代,東海道線は当初,逢坂山を越えたあと山科の谷の南の方を迂回して伏見稲荷の前を通って北上し,何とか「七条ステーション」に到達。後にこの京都駅から東寺の東側を通って伏見,木津方面へ奈良鉄道(現JR奈良線)が開業しています。
大正になってようやく東山トンネルを掘ることができるようになって,大津と京都をほぼ直線で結ぶ現在の東海道線のルートが1921年に開業。それに合わせて,伏見稲荷前の旧東海道線ルートが奈良線に転用され,廃線となった東寺前の奈良線旧ルートは奈良電気鉄道に払い下げられ1928年に新装開業。これが現在の近鉄奈良線。1928年というタイミングは,「御大典」がらみなのですね。
“多い”というほどではないにしても,“使われなくなった”線路敷を別の路線に転用するという例はままありますが,こういう二重の転用はそうはないように思います。
[77584] 2011年 2月 3日(木)22:09:06Issie さん
消える電車,よみがえる電車
鉄道の廃線に関わる話2題。

長野電鉄屋代線(屋代-須坂)は乗降客の減少による赤字の累積が進み,沿線3市による活性化協議会でも委員の投票によりバス代替を受け入れて,同線の廃線が決まった,というニュース。
元は「河東線」の名前で 屋代-須坂-信州中野-木島 間を結んでいたこの路線。長野や湯田中に乗り入れる路線の方が後からできたんですよね。でも,やがてはこちらがメインとなり,「木島線」となった信州中野以北の区間は既に廃止。須坂以南も「屋代線」となって,細々と運行されていたのですが,とうとう“引導”を渡される時が来た,ということでしょうかね。
もともと沿線の主邑である松代は,長野との間を“縦”に直結するルートの方がメインであって,屋代-松代-須坂を“横”に結ぶ流れはあまり太くないし…。思えばもう四半世紀前,国鉄の昼行急行削減・特急格上げ政策による上野からの直通乗り入れ列車の廃止と,屋代駅を介した貨物の連絡運輸の廃止とで既に役割の大半を終えていたわけで,今まで生きながらえてきたことを良しとすべきなのかもしれません。
それでも四半世紀前には長野の「地下鉄」と松代を直接結ぶ新線をつくろう,なんて構想が語られたりもしたんですけどね。

一方,広島では2003年に廃止された可部線の末端区間の一部を復活させようという動きがあるのだとか。元は非電化のディーゼル区間であって,本当のところは電車が「よみがえる」のではなくて「伸びる」というお話。
よみがえるのは廃止された46キロのうち2キロほど。全体からすれば1割にも満たないわずかな区間ですが,それにしても一旦完全に廃止された鉄道がよみがえる,というのは少なくとも最近は聞かなかったような気がします。
[77554] 2011年 1月 30日(日)11:15:02【1】Issie さん
山口県は九州北部
[77553] 白桃 さん
「オーストラリアってアジアなの?」

「オセアニア」だけで地域大会を開こうとしても難しそうですからね。だから本当は「アジア plus」。

自治体名以外にも、地域が関係する事柄へのネーミングは難しいものですね。

本当に。分けるのも,くっつけるのも,名づけるのも大変です。

ちなみに,「かっこいい」かどうかは別にして,私も「南アルプス市」,大好きですよ。「北杜市」も「北斗市」も,どちらもいいなあ。
「安曇野市」も好きなのですが,振り仮名の方で「現代仮名遣い」のルールから逸脱する「づ」を「正しい」とする表記には個人的には賛同できないのだが…,まあ,いいでしょう。
※ややこしい話ですが,私が賛同していないのは「あづみの」という表記を「正式な表記」として“行政が定めている”点です。私自身は“旧かな表記大好き”ですから,実は「あづみの」という表記を好もしく思っています。ただ,現代仮名遣いのルールにしたがって「かずさ(上総)」「こうずけ(上野)」という表記が行われているのに則るならば,「安曇」は「あずみ」と表記されるべきで,行政がわざわざそれに反するのはどうかと個人的には思います。
蛇足ながら,「吾妻」の場合は「あ+つま」と分解できるから連濁原則により「あづま」と表記する,と強弁できなくもないのですが(ただし,現代語に「あ」という“独立した単語”がないので,本来この言い訳は成立しません),「曇」(ドン)という音に「づみ」という読みをあてはめた「安曇」の場合は,“初めから濁っている”ので「頭痛」「地震」が「づつう→ずつう」「ぢしん→じしん」と書き替わったように,「あずみ」と表記すべきもので,これは「現代仮名づかい」の適用で「とうきやう」が「とうきょう」(東京),「おほさか」が「おおさか」(大阪)と書き替わったように,自動的に行われたはずのものです。
けれども繰り返し,「あづみ」「あづま」「あづさ」という表記の方が私自身は好きです。

[77546] ぺとぺと さん
石川県市制条例

神奈川県の現行の条例(都市としての要件に関する条例,昭和29年条例第44号)では,こうなっています。

----------------------------------------------------------------------------
(3) 公立又は私立の図書館、博物館、公会堂、公園等の文化施設を有すること。
----------------------------------------------------------------------------

すでに「映画館」はありません。
「博物館」という名前の施設も藤沢市にはなかったような。ただし,よく知られている「水族館」や「植物園」があって(ただし私立),これが広い意味での「博物館」にはなりますね。藤沢市で特筆すべきことは「文書館」があって,これは全国市町村に先駆けた先進事例なのですが,ほかの分野は貧弱で何ともチグハグです。

言い忘れた。
「山口県は九州北部」というのは,天気予報の区分です。
[77542] 2011年 1月 29日(土)00:33:06【1】Issie さん
Re:藤沢市が
[77541] 笠津前浜 さん
シネコンは除くようですね

そのシネコンも,今のところはありません。
辻堂駅北口の再開発で,今年の秋にはシネコンが出店するようなのですが。
藤沢市に映画館がない,という話の前段には,それまで唯一残っていた(古いタイプの)映画館が昨年の夏に閉館してしまった,というお話があります。

映画館は,銭湯とともに街中から急速に消えているものの一つですね。そう言えば,以前は町田駅の近くにあったはずの映画館が,いつの間にかなくなっていて驚いたことがありました。一応,市の南はずれのショッピングモールにシネコンがあるので,藤沢市よりもわずかに人口の多い町田市が「映画館のない最大の市」にはならなかったわけですが。

私は学生時代からあまり映画を見に行く人ではなくて,ごくたまにしか映画館まで足を運ぶことがないのですが,やはりしょっちゅう行くには高いですよね。でも,高く設定しなければ経営を維持できないようになっているのでしょう。その,スパイラル。
朝日新聞の記事には,どうもシネコンも飽和状態にあるようなことが書いてありました。
「映画」という媒体をめぐるシステム全体が,かなり厳しいのかもしれませんね。出版や新聞という紙メディア,あるいはレコード(←という言葉は,もはやほぼ死語ですが)という媒体の状況も合わせて,“時代の変わり目”にいるのかもしれませんが,寂しさの前に,いまは不安を感じています。

※追記
私は今,秋葉原の石丸電気のCDショップがこの3月で大幅縮小される,というニュースに大変ショックを受けています。
この20年ほど,最盛期にはビル3館で営業していたものが数年前にビル1館に集約されて「あれっ?」と思ったのですが,とうとう電器売場などがある本店ビルの1フロアに吸収されてしまうのだとか。
このお店は,私が高校生だった頃から折に触れて利用してきたのですが,最近メジャーなCDショップとは違って,歌謡曲とかフォークとか,アイドルとか,つまり「J-POP以前」のジャンルが充実していて重宝したものです。新しい売り場も覗いてみたのですが,DVDもあるわけだし,あの規模では期待できないな。
さて,4月からはどこにCDを買いに行きましょうか。
[77531] 2011年 1月 27日(木)00:06:23Issie さん
きれえやで,かっこええ,ピンクの戦車やでぇ
[77528] ころすけ さん
街のイメージとか印象ではなく、単純に市名のみで日本一かっこいい市名はどこでしょうか?

横綱 氷見市(富山県)

「氷見市」の,どこが,どのようにかっこいいのでしょう?
そして「由利本荘市」以下がランクアップされた理由は? なぜ,あんな順番でならんでいるのでしょう? 北の方がかっこよくて,南の方はそうでないのか? いっぱい市があるのに1つもランクアップされない北海道は,かっこよくないの?
別に「氷見」に恨みはないけれど,このリストから外れた市の人は怒っちゃいますよ。だって,理由がわからないから。

つまり,何の基準も示されずに「かっこいい」と言われても,何をどのように答えていいいのかわからない。そもそも,「かっこいい」というのは思いっきり“主観的”なものであって,いかなる客観性もない。私には ころすけ さんがリストアップされた12市の名前のどこがかっこいいのか,全くわかりません。

「かっこよさ」は人それぞれ。特別な思い入れのある人にとっては,その市の名前が一番かっこいいのだろうけれど,ほかの人には別にかっこよくも何ともない,なんていうようなものじゃないかと思います。
というわけで,

皆さんは、どう思いますか???

といわれても,困ってしまうなぁ…。
[77482] 2011年 1月 18日(火)23:27:04Issie さん
ナマコの入り江
テレビ朝日の「世界の車窓から」。
関東ローカル以外では同じ時間帯に他番組が放送されていたり,放送されていても時期がずれていたりするものですが,関東ではこれからシベリア鉄道に乗るようです。
(昨日,じゃまなサッカー中継があったのでチャンネルを合わせなかったのですが,オーストリアの旅は先週で終わったのですね。)

とうわけで,今日・明日は「東方を征服せよ」という意味のウラジオストク。ちなみに,ロシア領化される前の中国名は「ナマコの入り江」。
私がソ連に行った頃は外国人が入れなかった町ですが,やっぱり行ってみたいところではありますね。私がシベリア鉄道に乗ったのはもう20年前。この番組が以前にシベリア鉄道に乗ったのは確か15年ほど前だったと思うのですが,まあ,どんな姿になっているのか。
毎晩,楽しみではあります。
[77479] 2011年 1月 18日(火)22:17:08【1】Issie さん
あはれせうじよよ
[77477] 白桃 さん
某国営放送の歌謡番組

あたしも見てました。残念なことに,“懐メロコーナー”はお風呂に入っていて,寸での差で見逃してしまったのですが。
実は私,あるコーラスグループの一人が亡くなって,もう“4人”で歌うことがなくなってしまったことに大変ショックを受けています。メンバーの年齢を見ると,やむを得ないこととは思うのですが,一番若い方ですからね…。
だから,

ご本人が歌われてました

というのには,たいへん感慨深いものがあります。

念のため、シラフです。

あたし,酔っ払っています。
[77459] 2011年 1月 16日(日)11:37:19【2】Issie さん
S, A, G, A, 佐賀!
何気なくテレビを見ていたら,CMに テツandトモ が出ていました。久しぶり。もったいないなぁ…,「平成の牧伸二」になれるかと期待していたのに。

問.次の各都市の中で,2000~2005年で最も人口が増えたのはどこか。また減少したのはどこか。
 A:愛知県豊田市  B:長崎市  C:兵庫県西宮市

…というような意味の問題がセンター試験「地理B」に出題されていました(実際の問題文は少し違います)。

そう。センター試験ですねぇ。実際の受験生の皆さんがこれを読む頃には,試験は終わっているはずですが。
私がセンター試験ならぬ「共通一次試験」を受けたころは,共通一次の日は東京近辺の雪の特異日などと言われたものです。正しくは,雪が降りそう,雪が舞う,積もらない程度に雪が降る…,というものですが。実際,私が受けた時は“2回とも”千葉大構内に雪が舞っていた記憶が(←“2日とも”という意味ではないので,念のため)。
昨日,東京は寒い曇天だったけど,雪は舞ったかな?

そんなわけで,昨日の「地理B」の問題をざっと眺めてみました。最近は,某予備校が pdf 形式で問題を配信してくれるのでいいですね。新聞の不鮮明かつ小さい紙面で地図を見せられても,読み取れません(最近,30cmくらいのところがよく見えなくて…)。

まあ,今年もオーソドックス,というところでしょうか。ほぼ満遍なく,重箱の隅をつつかない程度に細かめの問題が出ています。
地形図の読図を含めた問題。昔はわざわざ地名を書き換えて出していたものですが,学習指導要領で地域調査が重視されるようになって,具体的な地域をストレートに出すようになりました。で,今年の対象地域は 佐賀県。
1966年には佐賀城の南側はまだ田んぼだったんですねぇ…。地図の上では,まだ藩政時代の面影が残っているようにも見えます。最後の問題,有田焼の知識なんかもあると役に立つかもしれませんね。

…冒頭の2人に対して,はなわ はうまく生き残っているよな,と思う今日この頃。
[77422] 2011年 1月 13日(木)21:41:53【1】Issie さん
あき
[77418] 山野 さん
ところで、土佐国である高知県に何故「安芸市」及び「安芸郡」があるのかと。その由来は?

[77421] 雲雀山 さん
壬申の乱の頃に土地を治めていた豪族”安芸氏”からとったようです。

「安芸郡」について言えば,これはたぶん逆です。
該当のページをよく読めばわかるように,「安芸氏」がこの地を治めていたのは“中世”です。通常,日本史で“中世”という場合は鎌倉時代(早ければ平安時代末)から室町・戦国時代までを指すのが習慣です。で,ここでは戦国大名の 長宗我部氏 に滅ぼされた,とありますね。
「壬申の乱」は一般に“古代”と呼ばれている時代でも前の方の 672年 のできごとです。
土佐の 安芸氏 が“言い伝え”の通りに壬申の乱に敗れた 蘇我赤兄 の子孫かどうかわからず,あるいはハクづけのために“捏造”した話かもしれないのですが,いずれにせよ,中世のある時期,この地域で勢力を拡大した豪族がその支配圏の地名である 安芸郡 から「安芸氏」を名乗った,あるいは,そう呼ばれるようになった,ということでしょう。
たぶん,「安芸氏」よりも「安芸郡」の方が先にあった。

では「安芸郡」の地名がいつからあったかというと,少なくとも7~8世紀に律令制下の国郡が編成される過程(それこそ,壬申の乱の前後ですね)で,「土佐国」の中に「安芸郡」が編成されているようです。
で,「あき」という地名自体は,瀬戸内の「安芸」とは関係なく,それ以前からあったらしい。

「大野郡」という郡は,飛騨・越前・美濃・豊後 の各国にありました。まあ,素直に「大きい野原」というほどの意味でしょうから,これはどこにでもありそうな地名ではあるでしょうね。実は,飛騨国大野郡 と 越前国大野郡,また 越前国大野郡 と 美濃国大野郡 はそれぞれ隣接しているのですが,これは元々「大・大野郡」として存在していたものが 飛・越・濃 3国に分割されたというよりは,元々“野原”について与えた地名を“山”まで広げて行ったら,偶然隣接してしまった,ということだと思われます(この「大野郡」については,結構以前に話題になったことがあります)。

「海部郡」という郡も,尾張・紀伊・阿波・豊後 の各国にあります。現在,尾張(愛知県)では「あま」,阿波(徳島県)では「かいふ」,豊後(大分県)では「あまべ」と読み,紀伊(和歌山県)の 海部郡 は 名草郡 と合併して「海草郡」となっていますが,古代ではいずれも「あま」と呼んでいたようです(ただし,阿波国海部郡 は古代は 那賀郡 の一部で,中世になって独立したようです)。
尾張の 海部郡 は,中世以来分割されていた「海西郡」「海東郡」を再統合して1913(大正2)年に“復元”されたもので,その時にわざわざ大昔の「あま」という読み方を持ち出したものですが,別の読み方もあったことは近隣地域出身の「かいふ」元首相を見ればわかりますね。
「あま(海士・海女)」という言葉が現代語にも残っていますが,古代の部民制では漁撈や航海などの海上作業を生業とする人々が「あまべ」という職能集団に編成されました。各地の沿岸地域に「あまべ」が配置され,律令国郡を編成するに当たって各「あまべ」の本拠地を中心い編成された郡が「海部郡」なのだろうと思います。
そして,中央(大和)にはこうした各地の「あまべ」を統括する集団がありました。壬申の乱の一方の当事者である 大海人皇子(天武天皇) は,その名前からこうした中央の「あまべ」集団と深い関係があったと考えられています。

※ちなみに,兄の 天智天皇 は元々の名前を 葛城皇子 と呼び,それはかつての有力氏族であった 葛城氏 と関係のあるものと考えられています。そして,彼は「大兄」の皇子でした。それに対して,弟の名は職能集団に由来する 大海人皇子。たとえ両親が天皇(舒明 と 皇極/斉明)であっても,「大海人」とはいかにもランクが低い。日本書紀の記述とは違って,そもそも 大海人皇子 には初めから皇位継承の芽などなかったのでは…,などという説が最近はあるようです。ま,天武天皇とは要するに壬申の乱に勝利した“叛乱軍の総帥”であって,彼(と彼の後継者)が編纂させた「日本書紀」には当然に“粉飾”がある,という前提のお話です。

話戻して,
そんなわけで,各地の 海部郡 はお互いに関係がありそう。

古代の海上集団としては「あずみ(阿曇/安曇)」という部族も知られています。元は現在の福岡市周辺を本拠としていたものが,古代の始まり頃に全国各地に移住したらしい。
で,彼らが移住したとされる先々に「あずみ(<あづみ)」「あつみ」などという地名が成立した。そのうちの幾つかは律令国郡編成の過程で 郡 となり,それがたとえば,三河の「渥美郡」であったり,美濃の「厚見郡」であったり,信濃の「安曇郡」であったり,さらには出羽の「飽海郡」もこれと関係がある,などと言われます。
実際,信州・安曇野の 穂高神社。奥宮が上高地にあって,北アルプスの穂高岳もこれと関係があるわけですが,ここの祭神は“山の神様”である前に“海の神様”ですね。

というように,全国には“同じ名前の郡”のグループがいくつかあって,その中にはお互いにとても深い関連のあるものもあれば,偶然の一致と思われるものがある。
では「安芸郡」はどうか,というと,よくわからない。

「あき」という名前そのものの語源については様々な“憶測”が語られているのですが,たいていはアテにならないので,ここでは話題にしません。
ともかく,瀬戸内の「あき」の方は,すでに律令以前の段階で「阿岐国造」というものが見られます。その支配領域をもとに「安芸郡」が編成され,さらに周囲の各郡を合わせて管轄する国府をこの郡内に置き,その国を「安芸国」と呼ぶことにした。
一方,四国の「あき」の方でも,そのように呼ばれている地域に「安芸郡」が編成されたけれども,こちらはもっと広い平野部を支配拠点とした「都佐国造」の領域をもとに編成された「土佐郡」に国府が置かれたので,その「土佐国」に含まれることになった。
そんなわけで,ずっと古い歴史をさかのぼってみたら 安芸国安芸郡 と 土佐国安芸郡 の間にもしかしたら何か関連があるのかもしれませんが,とりあえずはお互いに別個の存在であったと考えておくのがいいのかもしれません。

一方,「安芸市」の方は,その 安芸郡 において中世の 安芸氏 以来,郡の支配の中心であったわけで,その意味では“安芸氏に由来する”と言えるのかもしれません。
[77385] 2011年 1月 10日(月)01:43:07【1】Issie さん
Re:パスポートの申請
[77375] 白桃 さん
浦安市に住んでいる人は千葉市まで出向くわけですが

千葉(中央旅券事務所)か松戸(東葛旅券事務所)まで出向けば,受け取りだけは船橋(葛南県民センター)でできるみたいですね(千葉県の該当ページ)。葛南県民センター,その昔,私がある書類を提出しに行った時よりも,ずっと便利な所に移ったのですね。
これも昔の話ですが,千葉市の中学校に通っていた頃,足繁く通っていた千葉市中心街。市川市の高校に進学したら見事に全く出向かなくなり,今に至ります。千葉市に通っていた頃は,総武線は複線で,稲毛駅で貨車の入換をやっていたものですが。

でも何故、丸亀ではなく善通寺、三本松ではなく津田、なのでしょうか???

香川県の出先機関(県民センター)がそこにあるから,みたいですね(香川県の該当ページ)。
 ・東讃 ---津田
 ・小豆島 ---土庄
 ・中讃 ---善通寺
 ・西讃 ---観音寺
という配置は,1942年設置の 地方事務所 にさかのぼるようです。その前の 大川郡役所 は 長尾 にあったようですが,1878年の郡区町村編制法による 大内寒川郡役所 は最初 津田 にあったものが,三木郡も合併した時に 長尾 に移って,そのまま郡制による 大川郡役所 になったみたいですね(郡制施行で三木郡は山田郡と一緒になって 木田郡)。

そう言えば,私,神奈川県民になってからパスポートを作ったことがない(直近は,東京都民だった時に新宿まで申請しに行った)ので今調べてみたのですが,千葉県の場合とは逆に,申請だけなら相模原でできるけど,受け取りは横浜か厚木まで出向かなければいけないようです(神奈川県の該当ページ)。
相模原の申請窓口(神奈川県企業庁「プロミティふちのべ」ビル)なら,我が家から歩いて10分足らずなのに。
[77347] 2011年 1月 5日(水)23:48:08【3】Issie さん
…いつか「蓮(はちす)」の花と咲く
タイトルは [77318] の続きということで。

[77331] グリグリ さん
[77147]実那川蒼さんからの情報

ごめんなさい。読み落としてました。重複しちゃいましたね。

[77338] ペーロケ さん
改称?

実はこの件に関しては,自分のHPでどのように取り扱うか,考え中なところです。
が,基本的には 88 さん([77341])と同様,“手続き”を重視すべきである,というのが私の意見です。
今回の件は,「総務省告示」という文書を「官報告示」という形で一般に周知する,という手続きを経たことを何よりも重視したいと思います。
実際,自治体名等の表記の変更について,「自治省/総務省告示」という形で周知された例として1960年7月1日以降では
 ・1972年3月30日付の 鹿児島県噌唹郡→曽於郡(同年4月1日施行,昭和47年自治省告示第82号)
 ・1991年12月3日付 奈良県山辺郡都祁村(“しめすへん”の書体変更。同年10月24日施行。平成3年自治省告示第167号)
の2例があります。…というか,2例しか“ありません”。
大筋は 88 さん([77341]) の説明にある通りです。私も全く同じ認識を持っています。

「字体」の扱いについては 88 さんが [77341] で抜粋された自治省の通知がありますが,“そもそも”の「当用漢字字体表」(昭和24年内閣告示第1号)に付随して出された“内閣訓令”(「当用漢字字体表の実施に関する件」)には以下の下りがあります。

--------------------------------------------------------------------------------------
今後,各省庁においては,この表によって漢字を使用するとともに,広く各方面その使用を勧めて,当用漢字字体表制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
--------------------------------------------------------------------------------------

実は,市町村はあくまでも“自治体”であって“国の官庁”ではないことは,現行憲法・地方自治法の下はもとより,旧憲法の下でもそうであったととらえるべきなのでしょうが,それでもこの「訓令」には相当の強制力があったと理解すべきであろうと思います。「長野県諏訪郡ちの町」の例を考えれば,少なくとも「公」の分野における「当用漢字」の強制力はとても強かった。だから,「廣島市」は“当然に”「広島市」と“書き替わる”(←“受け身(受動態)”ではなく“自発態”)ものであって,告示の必要など全くない
(ところで,「廣嶋市」という表記は“公式に”行われていたのでしょうか)。
全国の自治体名が“自動的”に「新字体」に書き替わったものと思われます(現在,わざわざ“旧字体”表記を(勝手に)主張している自治体も含めて)。

一連の「国語改革」は戦前からの取り組みの歴史を踏まえて 文部省 が主管官庁となって推進されました(決してGHQが「日本の伝統を破壊する」ために押し付けたものではありません。明治以来積み重ねられた試行錯誤の到達点として,獲得されたものです)。ところが,占領終了とともに,旧内務省系の官庁が 自治庁→自治省 と整備されていく中,自治庁/自治省では公文書の表記について文部省系のそれとは若干違うルールを採用しました。たとえば,横書き文書の読点について,文部省系では「,(コンマ)」としているのに対して,自治省系では「、(点)」で表記するものとしています。
常用漢字表において「全て」という表記が“公認”されたのは実は今回の改定が“初めて”です。これまでの常用漢字表(昭和56年内閣告示第1号)では「全て」という表記は認められておらず,「ゼン」または「まったく(まっとう)」としか読めませんでした。けれども,自治省系では「全て」という表記はずっと以前から認められていたようで,公文書でも普通でした。
私が県庁勤務であった時に戸惑ったことの1つは,この“文部省系”と“自治省系”の表記ルールの違いであったわけですが,それはつまり,“自治省の縄張り”である地方自治体において,文部省系の表記の縛りは,最近であればあるほど強くはなかったといえそうです。それとは対照的に,検定教科書における文部省ルールの縛りは極めて厳格でありました。
一方で,その「厳格な」学校における漢字教育を受けた世代においては漢字の一点一画が極めて厳格に決められているものとの「誤解」が芽生えて,それが今回の「しんにょうの点の数」にかかわる「名称の変更」告示につながったのでしょう。
…そんなこと,蓮田市に言われる前っから,あたしゃ「蓮」の字を“一点しんにょう”で書いていますって。

過去に何度も表明しているように,私自身は今回の件は「文字(活字)のデザインの相違」に過ぎないと考えています。“二点しんにょう”であろうが,“一点しんにょう”であろうが,どちらも“全く同じ漢字”。たとえ「正字」というものがあっても,それは“明朝体活字”のお手本であって,それを筆で楷書で書けばそのお手本とされている唐代の字体が“正字体”と違う例はいくらでもある。過去に話題になった「塚」の“点”の有無もそう。「ヶ」や「ッ」の大小もそう。[77344] で にまん さんが紹介されている「葛城市」の例もそう。どちらの形の「葛」が“正しい”かなんて,およそナンセンス。
少なくとも,“手で書く”際にそのようなことにこだわる必要は全くない。ただし,個人名や私企業のような「私」の存在については,それぞれのアイデンティティは尊重されねばならず,字体の違いも最大限区別するべきだと思いますが,逆に「公」の存在である自治体の表記については個々の住民による表記を縛るものであってはならい(“ガバメント・アイデンティティ”というものがあるにしても。それ(たとえば“旧字体/新字体”とか,“ヶの大小”とか)を住民に“上から”強制してはならない。どちらが「正しい」かを決めるのは,住民の多数の“慣用”です。

ただ,冒頭の繰り返しですが,今回の「蓮田市」の件は手続き上,「公的」な表記について“総務省告示”という形で告示されるに至りました。何となく書き替わった「広島市」の例とは違って。この手続きは,重視してしかるべきです。
したがって,記録性を重視するならば,そのような手続きが“わざわざ”行われたことを“記録”として残しておくことは,十分に妥当なことであると思います。
[77326] 2011年 1月 4日(火)18:55:14【2】Issie さん
捕らぬ狸
[77324] 山野 さん
敢えて命名するならば「安芸府中市」でしょうか。

町の公式HPに「あきふちゅうの歴史」なんてコーナーもありますから,そのあたりが穏当ではあるでしょうね。
単独市制であるなら「さくら」や「みどり」のような新奇な地名を創作する必要はありませんよね。お隣りの山口県の例に倣って「芸府市」と言って言えなくもないけど,あまり耳慣れないし,古代の国府の有無にかかわらず近世以降の人々の感覚では「芸府=広島」でしょう。「甲府」が,本来国府のあった 笛吹市 ではないように。
北海道の広島に倣った「西府中市」は,あるか,どうか。
まさか,挙母市の真似をして「マツダ市」とか「東洋市」は,ないと信じたいけど。

ま,今の段階から“皮”の値段の算段をしてもね…。
[77318] 2011年 1月 4日(火)10:50:01【1】Issie さん
どぶに落ちても根のある奴は
今年の 総務省告示第1号 (←pdfファイル。たぶんリンクが有効なのは2月初めまで)は「市の名称変更」というものでした。埼玉県の 蓮田市 の名前を変更する,というもの。
で,何か新しい名前になるのかと思ったら,変更後も「蓮田市」なんですね。
何が変わったかというと,「蓮」の“しんにょう”の点が2つから1つになった,ということ。PCのディスプレー上では,特別なフォントを用いない限り区別できなさそうですが。

これは,昨年11月の告示で差し替えられた「常用漢字表」(平成22年内閣告示第2号)を受けてのことなのでしょう。もっとも「蓮」は常用漢字ではないので,直接には無関係のはずなのですが。
もしかしたら,これからこのタイプの「名称変更」が続くのかもしれません。

なお,蓮田市の「名称変更」は本日,2011年1月4日より有効です。
[77149] 2010年 12月 31日(金)20:44:19Issie さん
明日という日は明るい日と書くのね…
「幸い」という字は「辛い」という字に似てるわ…
なんて言ったら,この歳取りの夜には似つかわしくありませんね。なので,以下自粛。

[77141] 伊豆之国 さん
「十干」(甲乙丙‥)地名の宝庫

さすがに,10分の8番目までは回ってきませんかね。
ひとつ前の「庚(かのえ)」だと,庚申信仰にちなんだ地名が多いし,次の「壬(みずのえ)」も「壬生」なんて形でよく見かけますけどね。
だからやっぱり,本来の意味の「からい」「つらい」に期待しましょうか。

…今,テレビを視ずにベートーベンを聴いています。ベタですが。


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