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[38564] 2005年 3月 14日(月)01:37:32faith さん
Re:もう一つの乗降場
[38465] hmt さん
似た例として、近鉄橿原線の八木西口駅があります。
この駅は、もともとの(大和)八木駅なのですが、大和八木駅が新たに作られた際に、八木西口駅となったものです。
[834] いわ さん参照)
現在も運賃計算時には300m離れた大和八木駅と同じ駅と見なされており、こういうことになります。↓
http://www.ticket.kintetsu.co.jp/i/h/yaginishiguchi.html
ただし、大和八木駅と八木西口駅の間を(あえて)乗車するときは150円かかるとのこと。
[37926] 2005年 2月 19日(土)08:53:47【1】faith さん
Bethesda
[37925] ベセスダ さん
[37924] 北の住人 さん

"Bethesda" は聖書(ヨハネによる福音書)に「ベセスダの池("the Pool of Bethesda")」として出てくる、(おそらくヘブライ語に由来する)地名です。
[37772] 2005年 2月 13日(日)03:51:51【5】faith さん
泉州空港、南セントレア
[37750] たもっちさん
[37725] いっちゃんさん
開港の少し前に「関西空港」という名前がついてからは、この名前やその略称の「関空」が急速に広まったと思います。
開港してからは地元でも「泉州(沖)空港」とは呼ばれていないと思います。

[37680] sutekinaおじさん 他
私も谷川教授の言われる「原則」のいくつかには個人的な感覚のレベルでは同意します。
ただ、それを他人に押し付ける理由がないです。結局地元の好きにすれば?というところです。
谷川教授の言われる「原則」で一つ面白いと思ったのは
(5)濁音を2つ以上使わない-。
ですね。どういう理由でこう言われているのか知りませんが、そういえばこれに該当する市名で思いついたのは今度誕生する「坂東市」(茨城県)ぐらいでした。探せばもっとあるでしょうけど。
この原則だと「ヨドバシ」などは市に使えないわけですが、濁音が2つ入る力強さが印象に残るわけで、やはり社名としては合理性があるかも知れませんね。

[37708] ken さん
千葉市の埋立地(現・美浜区に相当)の町名は谷川先生により命名されたと、聞いておりますが。
地名(や岩の名前)を数多く命名した人というと何だか「明治の文豪 大町桂月先生」を想起しますね。

[37722] はなびしんさん
これからの人達を(20~30代)中心に話し合いを
40代以上の意見も同じぐらいに尊重してください。
今は無限に先のことに思っていても、歳を取るのは意外に早いものですよ。

※空行削除、表現修正
[37771] 2005年 2月 13日(日)03:17:03【3】faith さん
思考停止
[37737] 般若堂そんぴんさん
「信州」とは本来「信濃の国」のことであって「長野県」と合同(identical)ではなく,したがって長野県ではなくなっても信州でなくなるわけではないはずなのですが.
おっしゃる通りですね。というより、地元の人がなぜ「長野県でなくなる」=「信州でなくなる」と思うのかが不思議です。
歴史を書き替えるつもりででもいるのでしょうか?
### でも「信濃の国」は旧山口村では歌わなくなるのかな?歌うと例の知事が文句をつけそう(笑)。

※一部表現修正、空行削除
※歌の名前を間違えていたので訂正
[37653] 2005年 2月 9日(水)00:06:18【1】faith さん
新市名
[37581] sutekinaおじさん
同じ記事の中で筑波大学、谷川教授の新市名を決めるときにしてはいけない5原則を掲げています。
それによると、(1)ひらがな、片仮名は使用しない。 (2)他の地域と識別できない名称は使わない。 (3)東西南北は原則として使わない。 (4)人名は評価が変わってくるので要注意。 (5)濁音を2つ以上使わない。

結局、この谷川教授という方の好き嫌いでしかありませんね。何を言うのも勝手ですが、こんな代物に「原則」と言う言葉を使ってほしくないものです。
私見では、こういうことは谷川教授ではなく、該当する地域に住んでいる人間が決めるべきことです。
とはいえ、住民投票で決めたとしても、全住民の意見が一致するはずもなく、意に沿わない新地名を強要される人たちは必ずいるわけです。
[36732] ふじなが26号さんも書かれていましたが、自分の好みに合わせた(あるいはいくつかの選択肢の中から選んだ)住所を名乗る「自由」がある社会というのも考えられないこともないですね。
何だか夢の中に出てきそうな非現実みたいですが。

※第3センテンスを追加
[37450] 2005年 2月 4日(金)03:12:20faith さん
東洋・西洋の文字体系混用
しばらく前の話題でしたが…
[36505] EMM さん
全国展開している例としてDDIポケットのH゛(エッジ)がありますね。
同社がWillcom に改称されるのを機会に、"EDGE"という普通の表記に変わってしまいました。

http://www.willcom-inc.com/top/news/brand/index.html
[37336] 2005年 2月 1日(火)03:02:46faith さん
地獄谷温泉
[31428] みやこ♂さん
長野県 地獄谷温泉 じごくだにおんせん 近所に「渋の地獄谷噴泉」あり

地獄谷で思い出しただけなのですが…
長野県の地獄谷温泉だったら行ったことがあります。
長野電鉄の終点湯田中からバスで15分ぐらい乗って、さらにそこから30分ぐらい歩いたところにある静かな温泉です。
山中の、月明かりの露天風呂など、なかなか趣がありますよ。
[37091] 2005年 1月 26日(水)11:00:36【1】faith さん
さいたま市の原付ナンバープレート
[37087] くるり さん
ていうか、旧市名の「大宮」「浦和」のままでも良かったんじゃない?と思うのは、私だけでしょうか。
私もそう思います。区の名前として残っているのだし。

さいたま市の様に人口が一気に増えた都市では、ナンバーのオーバーフローをどのように回避するのかが気になります。
さいたま市が政令指定都市となってから払い出された原付のナンバープレートには、「○○区」が1行目に入るので、区の数だけバリエーションを作ることができます。したがってオーバーフローは問題なさそうですね。

※タイトル変更
[36980] 2005年 1月 22日(土)01:41:35faith さん
多摩湖・狭山湖
[36976] hmt さん
戦後は西武鉄道に統合されましたが、多摩湖・狭山湖という命名の裏には、観光政策が影響しているはずです。
このあたりの、西武鉄道の路線網の形成については、[20513] Issie さんが詳しいですね。
「多摩湖」「狭山湖」については、西武鉄道が勝手に名づけて宣伝したため、管理者である東京都は当惑しているという記述をどこかで見かけたことがあります。
[36884] 2005年 1月 19日(水)05:22:24【3】faith さん
JIS漢字
[36829] NTJ会長 さん

JIS漢字の制定は、相当に乱雑な仕事だったのは確かだと思いますね、あたしは。
変な字がある一方で、縦書き用の補助カナ文字が無かったりするんですから。
7000文字足らずの文字セット(JIS X 0208)が、情報技術が飛躍的に進歩したこの四半世紀の間、日本語のテキストデータの交換のほとんどを担ってきたわけで、実は非常に良くできた文字セットだったのではないでしょうか。
なぜこの文字が入っていて…というような不満は、文字セットのサイズをある程度に抑える以上、避けられないと思います。特に、記号類などはそうなのではないでしょうか。

この件を凌駕する「雑な」仕事は半角の「¥」の定義ですね。
元来ここは国際的には、半角の「\」が定義されていた位置です。
これも私は必ずしもそうは思いません。
「国際的な」規格であるISO/IEC646(1972年制定)では、0x5b-5e などは、各文字集合によって定めるとなっており、たとえば韓国(KS X 1003)ではウォンマークが、ドイツ(ISO646-DK)ではOのウムラウトが入っています。別に日本だけがおかしなことをしたわけではありません。

そのような微妙な文字を、ディレクトリの区切りのような、システム的に重要なものに使ってしまったところに問題が起因していると思います。(時系列では、当然ISO/IEC646は例のOSに先行しています)
個人的には、もう一つ禍根を残した決定は、Shift_JIS を定めるときに2バイト目に0x5c を使えるようにしてしまったことだと思いますが、もちろんこれも文字セット自体には責任のない話です。

※一部の表現修正
[36702] 2005年 1月 12日(水)04:21:34【1】faith さん
Re:どんごろす
[36650] Issie さん

どんごろす
中学生のころに、学校行事で一度だけ実物に接したことがありました。
Issie さんが紹介されているページでも、同じような疑問を呈している人がいますが、そのときも、他人は「どんぐろす」と発音していたような記憶があります。

「ドンゴロス」とは英語の dungaree の訛ったものだとか。
最後の「ス」からして、複数形が入ったのでしょうか。
ところで、下記サイトによれば、"dungaree"の元となったヒンディ語の"dungri"は、今ではボンベイの一地区となった村の名前に由来するとのことです。

Online Etymology Dictionary
http://www.etymonline.com/
[36701] 2005年 1月 12日(水)03:50:36faith さん
案内標識
[36606] faith
あるところでは市区町村を示していて、あるところではそうでなく、統一が取れていない可能性もありそうな気がします。
あまり知らずにコメントしていたのですが、案内標識の目標地については、以下のような基準が示されていました。

国土交通省 道路局サイト
「よくある質問と回答」より
http://www.mlit.go.jp/road/roadqa/024.html

もっとも、目標地の選定ルールについては必ずしも一貫していないという認識もあるようで、
「わかりやすい道路案内標識に関する検討会」提言
http://www.mlit.go.jp/road/sign/kentoukai/PDF/0/teigen.pdf
には
(1)表示ルールの徹底(乱れの点検と是正)
・ 表示に用いる目標地(「重要地」「主要地」)の選定ルールの徹底を図り、
表示の連続性・一貫性を確保する。
・ このため、各地域、道路管理者ごとに表示地名の乱れの点検を行い、早
急に是正する。
・ なお、市町村合併等の動きを踏まえ、現在の目標地選定の妥当性につい
ても、地域でマネジメントを行いながら検証する。
という課題が挙がっています。
[36651] 2005年 1月 10日(月)21:52:16【9】faith さん
北信越
[36646]Issieさん
「北信越」ないし「北陸信越」という地域ブロックが設定されることがしばしばありますね。
たとえば,現行の衆議院議員選挙の小選挙区・比例代表並立制における比例区の1つの「北陸信越ブロック」。この呼称の謂いは,「北陸“3”県+長野県+新潟県」というところでしょうね。

[36590]faith からの流れもあって、携帯・PHSキャリア各社において、新潟県、長野県がどの地域区分に入っているかを調べてみました。
キャリアによってばらつきがあることが分かります。
大雑把にいえば、新潟県は関東か東北と一緒にされ、長野は関東か中部と一緒にされていることになります。予想された結果と言えそうですが、新潟県を北陸に分類しているところが一つもないのは注目すべきかも知れません。

NTTドコモ
いずれも「関東・甲信越」
(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野、新潟)

au
新潟は「関東」
(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨、新潟)
長野は「中部」
(愛知、岐阜、三重、静岡、長野)

Vodafone
新潟は「東北・新潟」
(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島、新潟)
長野は「関東・甲信」
(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野)

DDIポケット (WILLCOM)
いずれも「関東」
(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野、新潟)

アステルグループ
新潟は「東北」
(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島、新潟)
長野は「中部」
(愛知、岐阜、三重、長野、静岡県富士川以西)

ツーカー
長野は「東京」
(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野)
新潟は営業区域外 (Vodafone とローミングを行う)

※ツーカーについて補足(後から加筆)
ツーカーが長野を「東京」という名前の地域に分類しているというわけではなく、「ツーカーセルラー東京」という会社の営業区域が上記の9県となっています。
一方、他キャリアは、地域ごとに別会社となっているキャリア(NTTドコモ、アステル)も、全国一社体制を取っているキャリア(au、Vodafone、DDIポケット;ただしauとDDIポケットは沖縄のみ別会社)も、何らかの地域区分をユーザに案内しています。(キャリアによっては今でもサービスが地域によって多少異なっています。)

※アステルグループについて補足(後から加筆)
アステルグループの地域区分については、母体となった電力会社各社の営業地域と一致しているようです。

※結論を加筆
※誤字訂正、事業者の名称の誤った表記を修正
[36638] 2005年 1月 10日(月)17:15:05【1】faith さん
美しい地名
[36619] 今川焼さん
[36617] じゃごたろさん
[36615] 両毛人さん
[36612] 北の住人さん

「きららだに」や「きららがわ」など、大変美しい地名だと思います。

美しい地名といえば山陽電鉄網干線に「夢前川(ゆめさきがわ)」という駅名があることを知り、「なんて風情のある駅名なんだろう」と思った記憶があります。
夢前川駅自体は姫路市にあるのですが、夢前川つながりということで、飾磨郡夢前町のサイトに行ってみると、「全国で唯一夢のつく町」というキャッチフレーズが載ってます。
でも姫路市と合併すると使えなくなってしまいますね。

(夢前町サイト)
http://www.town.yumesaki.hyogo.jp/
(姫路市・夢前町合併協議会サイト)
http://www.hihy-gappeikyo.jp/hy/
[36606] 2005年 1月 10日(月)02:03:48faith さん
アステル他
[36597] かすみ さん

ですから余談なのです。
注釈をつけておいた方がいいのかなぁという程度です。(笑)

えーん。[36594] は私にしては珍しく力の入った書き込みだったのに…(笑)。

[36600] BEAN さん

厳しい筆致にたじろいでしまい、議論に加わる資格もないのですが、
さて、標識に書かれている地名が市区町村を示すものではないとすると、おかしな例があります。
こういうのって、帰納的に結論が出せるようなものなのでしょうか。
あるところでは市区町村を示していて、あるところではそうでなく、統一が取れていない可能性もありそうな気がします。
[36594] 2005年 1月 9日(日)20:53:26【6】faith さん
Re:アステル関西
[36592] かすみ さん

PHS音声電話サービスのみ昨年終了しました。
が、データ通信カードによるPHSインターネット接続サービス
(「eo64エア」と呼ばれているサービスです)は現在も提供中です。

フォローをありがとうございます。
ご指摘いただいた関西(eo64)以外に、中国地方でも、MEGA EGG 64と呼ばれる定額PHSデータ通信サービスが、アステルPHSを提供していた事業者によって継続しています。
しかし、以下の理由で、いずれもアステルPHSのサービスにカウントできないと思います。

1. アステルブランドでの提供ではないこと
2. アステルPHSのインフラを用いているのではないこと
3. 音声通話ができないこと

2.について補足を。
アステルPHSを提供していた事業者なので、定額データ通信サービスでも、そのネットワークを利用しているかのように思われがちですが、そうではありません。
アステル関西、中国の音声通話サービスは、地上部分(無線ではない部分)はNTTのISDN回線を利用していました。しかし、これでは、NTTへの支払いが発生するため、定額データ通信は実現できません。
定額データ通信は、光ファイバーによる、独自のデータ通信網(他社に使用料を支払う必要がない)の構築によって初めて可能になったものです。
両社とも、eo..., MEGA EGG... という名で、光ファイバー網を用いた一連のデータ通信サービスを展開していますが、いずれも、eo64, MEGA EGG 64 と同じ光ファイバー網を用いています。eo64, MEGA EGG 64は基地局と端末の間の通信にPHS技術を利用しているというだけであって、光ファイバー網を用いたデータ通信サービスのバリエーションの1つに位置づけられるものです。

※各社サービスの表記統一
※NTT依存網の説明を修正
[36590] 2005年 1月 9日(日)19:06:30【3】faith さん
携帯電話キャリアの話(Re:東洋・西洋の文字体系混用)
[36505]EMM さん

hmtさんご紹介のHP中にも出てきますが、全国展開している例としてDDIポケットのH゛(エッジ)がありますね。
同じ業界で、TU-KA (ツーカー)というところもありますね。どちらもKDDI系列(DDIポケットは最近そうでなくなりましたが)であることは偶然でしょうか。

話は変わりますが、「ツーカー」と呼ばれるキャリアが存在するのは今では「東名阪」(関東・東海・関西)の3地域だけになってしまい、それ以外の地域の方にはなじみが薄いかもしれません。
それ以外の地域で「ツーカー」といえば、かつて日産自動車(上記ツーカーの当時の親会社)と日本テレコム(デジタルホンの親会社)が共同で展開していたデジタルツーカーが連想されることでしょう。
このあたりの経緯は、他の事業者も関係してかなり複雑ですが(落書き帳の格好の話題かも知れません)、紆余曲折を経て、今では下記のようにかなり単純化されました。

全国展開するキャリア… NTTドコモ(PHS含)、AU(KDDI)、Vodafone、DDIポケット(2月よりWILLCOM)
東名阪だけ※のキャリア… ツーカー

※それ以外の地域ではVodafone の通信網を使うこと(ローミング)により使用可能です。

これ以外に、アステルグループ(PHS)もありますが、多くの地域でサービス自体が終了しており、残った事業者(東北/東京/中部/四国)も地域外での使用が不可能となり、他と比較できるものではなくなっています。(アステル沖縄はこの1/25からDDIポケットと統合されます)

※アステルグループの現状について誤解を受けそうな表現を明確化
※一部の表現を修正(「なじみがない」→「なじみが薄い」, etc.)
※「全国展開するキャリア」の順序を、契約者数の順に
[36584] 2005年 1月 9日(日)16:42:46【1】faith さん
Re:南あわじ市HPのURL
[36582] miki さん

新市発足は11日からとのことですが、ホームページはもう公開されているのですね。
ところで、「主要指摘」とは?何かの誤植だと思うのですが、間違いそうな言葉が思いつかない…

http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/subpage.php?p=4159&t=1105256379

[36585] Hiro(&TOKO)さんに「正解」を教えて頂きました。ありがとうございました。
[36569] 2005年 1月 9日(日)03:21:58【1】faith さん
Re:赤岡町
[36568]軒下提灯さん
[36461]なおさん

赤岡が小規模ながらも中心性を備えた都市集落であった証ではないでしょうか。地形図に描かれた赤岡市街には、高知市郊外の住宅地として発展したものでは無く、もっと古い時代に形成された町並みの雰囲気が感じられます。
軒下提灯さんのご指摘通りのようです。

下記赤岡町ホームページを見る限り、

- 平坦な地形
- 県東部の商業の中心としてにぎわったという歴史
- 狭い面積(1.64k㎡しかない)

が、人口密度が高い理由のようです。

http://www.town.akaoka.kochi.jp/akaokaf.html

※舌足らずな表現を修正
[36566] 2005年 1月 9日(日)01:22:33【1】faith さん
Re:散漫でもないレス
[36565] 般若堂そんぴん さん

私も「ここは、実在する街について語り合う場」という言葉に、「あれ?」と思った一人です。
「空想の意義(あるいは世界観)」がどれだけ他の人たちに共有されるかの違いでしかないようにさえ思えます。
空想の世界に遊ぶことは(あえて「妄想」とは申しません)楽しいものであり、実在しないものを考えないような趣味の世界なんてほとんどありません。
たとえそれが他人に理解できなくて、公共の場に書き込むのにふさわしくなくても。

※誤字訂正
[36562] 2005年 1月 9日(日)00:27:52【1】faith さん
徳島市のこと
[36561] 夜鳴き寿司屋 さん
[36524] えどいん さん

和歌山市も明治9年には11位に入っていた有力都市だったようですね。([3295] 両毛人さん)

その後、経済発展が東海道沿いおよびその延長上の都市に集中したという分析を鉄道ジャーナルか何かで読んだことがあります。
大きな人口の集積を可能とするような平野が周囲に乏しかったこともこの南海道の2都市に共通しているように思われます。

徳島市の話に戻ると、人口という尺度では「凋落」なのかもしれませんが、阿波踊りなど独自の文化もあり、南国情緒のある魅力的な街だと思います。

そういえば、阿波踊りは徳島市のものが有名ですが、「阿波踊り」の名前の通り、徳島県の他の市町村でも広く行われているようですね。(最近は東京にもあると聞きますが)

http://www.tokushima-kankou.or.jp/pick/awa/kennai.html

※後半(徳島市、徳島県の文化についての言及)を追加
[36557] 2005年 1月 8日(土)23:25:18【1】faith さん
古代のスグレモノ
[36549] Issie さん

ちなみに,偶然のことでしょうが古代インドのサンスクリット語では“牝牛”を「ゴー(ガウ)」と言います。英語の cow と同じ意味ですね。
サンスクリット語と英語は起源を同じくする同系統の言語なので,基礎単語が似ているのは偶然ではありません。

"The Concise Oxford Diictionary of English Etymology" によれば、
いずれも印欧祖語 gwous (推定形)に遡れるとのことです。
(実際には上記の辞典では w は小さな字で、oの上には長音記号がついて表記されていました)
古代シナ語と印欧祖語についても、どこかで接触があった可能性があるとの主張を読んだことがあります。

[36541] special-week さん

ボクたちが好きな今尾恵介
"Popeye" あたりに載っても違和感がありませんね(笑)

[36540] 食らうぜビッツ さん

…という風にどうでも良いことを書いている私のようなのもおりますので、そんなに緊張されることもないような。

[36434] なお さん

丁寧な対応、恐れ入ります。
[36406] 2005年 1月 5日(水)03:20:17faith さん
市町村合併とナンバープレート
すでに議論されているかも知れませんが、市町村合併によって、地元の意向とルール(同一市郡内同一ナンバー)が合わないケースが出てきているとのことです。
広島県賀茂郡大和町(三原市と2005年3月に合併予定)が広島ナンバー→福山ナンバーという変更に難色を示しているとか。
他の地域での広島ナンバーへの変更については特に異論がなかったらしいのも面白いところです。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn04123135.html
[36180] 2004年 12月 29日(水)06:13:45【1】faith さん
Re:地名の多義性
[36177] ゆう さん

[16440] 両毛人 さん [16453] ゆうさんを含む一連の発言でも、「狭い範囲の地域名が、それを含む行政区画の名称に採用されることでいつの間にか該当行政区画の地域をさす名称として通用している」という現象について論じられていましたね。
このときも、このような流れには抗し難い面があるが、それでもこれは拡大した用法であることを意識していきたい、という立場を両毛人さんが表明されていました。

新しい意味を止める事はできないのではないでしょうか。
一般論でいえば、「新しい意味」は与えられるものではなくて、私たちを含む話者一人ひとりが(たとえその影響力は小さくても)「新しい意味」を作る作業に参加しているわけで、自分がおかしいと思う用法に与しないのも重要かと思います。
ただ、行政区画名が地域名に転用されるのは(かつての私のように、それが転用であることに気がつかないことがあるほど)自然なことでもあり、ご指摘の通り、止めることは誰にもできないでしょう。

私には「住居表示によって新宿になったところ」と「大字変更によって大河原になるところ」を区別する理由がどうも合点がいかないのです。
この二つの違いが問題になっていたのかどうか自体、よく理解できていないのですが、道路標識の表示であれば、道路の利用者にとって理解しやすいかのみが重要であって、歴史意識に照らして整合性が取れているかはおそらく考慮されていないと思いますし、その必要もないでしょう。

今年一年お世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
皆様、どうか良いお年を。
[35993] 2004年 12月 23日(木)15:58:37【1】faith さん
上越市と合併する町村にお住まいの方の住所の表示は次のとおり変わります。
[33723] 初心者さんが報告されていましたが、
今回の合併後、新たに上越市域となる地域では住所に「地域自治区」の名前を関することになり、あたかも政令指定都市になったかのような住所表示となります。経緯も含めて、姫路市の「区」と似た感じでしょうか。

http://www.city.joetsu.niigata.jp/contents/town-planning/gappei/index.html

※余計な字句を削除
[35992] 2004年 12月 23日(木)15:40:16【4】faith さん
「上越市街(高田)」「上越市街(直江津)」
[35989] EMM さん
以前、上越市内に住んでいた人に「直江津・高田いずれかへのひいき目にならないようにこうなった」
みたいなことを聞いたことがあります。
確かに中間に置いているのはそのようなことを意識したものでしょう。
上越市創造行政研究所(上越市の「組織内シンクタンク」)が発行している「ニューズレター」
http://www.city.joetsu.niigata.jp/gyosei/souzou/newsletter_14/main.html
にも
市役所が高田と直江津の中間に位置する春日地区に建てられ
とあるぐらいなので。

で、以下は私の推定になりますが、「市街地は市役所周辺を中心として、旧来の直江津、高田まで一体化した」と言うことになっているのだろう、と思われます。
おそらく、政治的な配慮により出現した標識だと思いますよ。
そのような「政治的な配慮」がなくても出現するのではないでしょうか。
上越市成立の経緯を知らない人には、旧直江津市街も、旧高田市街も「上越市街」であることに変わりないため、「上越市街」として案内する必要があります。
一方、旧直江津市街と旧高田市街を区別することが必要な状況も、上越市および近隣地域の住民を中心対象にして、当然存在するでしょう。
いずれの必要も満たすためには、「政治的な配慮」でなくても、合理的な案内方法と思いますが、どうでしょうか。
むしろ、旧二都市が、住民の意識では完全には一体化していないことを追認しているという見方もできます。

ところで、タイトルに書いたこと、そういうもんだと思っていたのですが、そうではなかったのでしょうか?
大阪市内では「↑大阪○○km」というのは見た記憶がないですね。「↑天王寺○○km」というように、もっと細かい範囲で表示されているような気がします。(私自身が、4輪を運転しないので、当てにならないかもしれません。)

※空行削除。一部の表現を修正。
[35626] 2004年 12月 9日(木)03:19:50【3】faith さん
王寺駅
[35569] BEAN さん

JR大和路線の快速は、かつて天王寺~王寺間はノンストップでした。八尾市と柏原市を通過して、王寺「町」に止まっていたのです。これには違和感がありました。現在では久宝寺(八尾市)にも止まります。

横槍を入れるほどのことではないのですが、個人的には特に違和感を感じてはいませんでしたのでつい口出しを。
王寺駅は、ご存知の通り、JR関西線以外に、近鉄生駒線、近鉄田原本線、JR和歌山線が乗り入れる、奈良県の鉄道交通の要衝です。
少し古いですが、1993年発行の「近畿470駅」(小学館)によると、天王寺-奈良間のJR駅の乗降客上位駅は以下のようです。

大和路線 奈良-天王寺間乗降客数 上位駅ベスト10 (上掲書の数字をfaith がソートして作成)

1天王寺348942
2王寺61138
3奈良36128
4八尾29868
5平野26166
6加美23422
7柏原21934
8志紀21298
9法隆寺20348
10大和小泉15626

※いずれもJRのみの数字

このように見ると(王寺駅の乗降客数には、JR和歌山線のみの利用客も含まれるとはいえ)、天王寺と奈良の間を走る快速の停車駅としては、王寺は自然なチョイスと思われます。
また、八尾、柏原を含む、4位から8位の各駅は、いずれも天王寺から数えて2つ目から7つ目に位置する、連続した市街地に立地した駅であって、各駅停車によるフリークエントサービスが行われてきました。このように、利用客数からも、利用実態からも、いずれかを選んで快速を止めるべき強い理由はなさそうです。

乗降客数では特に上位に入っていない久宝寺が近年快速停車駅に選ばれたのは、再開発計画の関係と、緩急接続のための配線工事がしやすい状況であったためと思われます。
[35305] 2004年 11月 25日(木)00:53:41faith さん
雪見風呂
[35251] 赤尾鯰さん
毎年末、私は日本海側の旅館に泊まってから帰省してますが、この季節は本当に美味しいんです。雪で敬遠される方もいらっしゃいますが、雪見風呂も風情があっていいですよ。
本当にそうです。雪国の人には必ずしも雪はありがたいものではないでしょうけど、私は毎年のように「雪見」+温泉を追い求めてわざわざ北に鉄道旅行に出ています。
ただ、最近は暖冬で打率が低く、特に北陸ではなかなか雪見という風にはならないですね。

まだ「雪見風呂」には早いようですが、白桃さん、楽しんできてくださいね~
[35253] 2004年 11月 23日(火)03:53:53faith さん
「人は右、車は左」
[35173] 右側通行の男さん

土地の観光協会の役員らしき人が「左側通行を励行して下さいと」と通行人に呼びかけていました。

「人は右、車は左」という言葉もありましたが、確かにあまり意識しないままになっていますね。(実際これは、歩行者の対面から自動車が来ることになり、歩行者が注意しやすいという利点があります。一方通行の際にはあまり意味のないことですが)
少し違いますが、道交法では、自転車も車道を走るのが基本で、許可されている場合は歩道「も」走ることができるというものなのですが、自転車が車道(しかも端)を走っているだけで、けたたましくクラクションを鳴らす勘違いした自動車を時々見ます。不愉快なことです。
[35252] 2004年 11月 23日(火)03:38:59faith さん
鉄道貨物の衰退
[35250] sutekinaおじさん

鉄道貨物の比重の低下を指摘されてますが、近年CO2発生削減のため等の理由で鉄道貨物が見直されているとのニュースもあったかなと思います。(少し古いので、はっきりした記憶ではありませんが。)

全体としては鉄道の比重が低下しつづけているのは間違いありません。
下記の国土交通省の統計によれば、トンキロで1955年度に鉄道52.6%、自動車11.7%だった貨物輸送の分担率が、2001年度には鉄道3.8%、自動車53.9%と完全に入れ替わった形であり、しかも、特に近年鉄道が盛り返しているようにも読み取れません。(途中で自動車に軽自動車が加わっているため連続性を欠いているとありますが、結論に影響ありません。)

http://toukei.mlit.go.jp/16/annual/index.html
(「陸運統計要覧 年報」 2-1 輸送機関別輸送分担率の推移)

JR貨物のサイトには、トラック→鉄道にシフト(モーダルシフト)した例が載っていますが、これは例外的なケースではないかと思われます。

http://www.jrfreight.co.jp/kankyo/index.html

現実に鉄道による貨物輸送の集約化が進み、代わりにトラック輸送のインフラが完備した今では、鉄道貨物を見直す機運が高まったとしても、モーダルシフトの余地自体あまり大きくないのではないでしょうか。
[35071] 2004年 11月 14日(日)01:30:33faith さん
Re;新宿駅より甲武線― 電車唱歌で巡る100年前の東京(4)
[35062] hmt さん

これはまたディープな連載を始めておられたのですね。
「ピクトリアル」誌に掲載されていてもおかしくないような力作です。段落毎に幅広い教養が伺われる内容ですね。

震災後の1923年末、この第2次仮議事堂で開かれる第48帝国議会の開院式に向かう摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃するテロ事件が発生。この虎ノ門事件で辞職した警視庁警務部長・正力松太郎が
議会が始まって以来ずっとあの議事堂で開かれているような気がしていましたが、そんなわけないですよね。
この虎ノ門事件についても、正力松太郎が警視庁を辞めたいきさつも初めて知りました。

ここに出てくる地名に日常生活で接していたら、「あそこにはかつてそんなものが建っていたのか。」「あの場所でそんなことがあったのか。」と、さらに楽しめることでしょうね。
[35069] 2004年 11月 14日(日)00:40:15【2】faith さん
仙台の球団のこと, etc.
[35067] 般若堂そんぴん さん

ご無沙汰しております。(般若堂そんぴんさんだけではないですが)

本音を言えば,一場投手よりも岩隈投手に来て欲しかった……というわけで,バファローズも.
仙台に球団ができて、日本のプロ野球フランチャイズの配置も、完成をみた(球団が維持できそうな都市には一通り置かれたという意味で)と言えると思います。
でも、こうなるんだったら、最初から、球団合併などせずに、近鉄をLかRに売却しておいたほうが簡単だったんじゃないか、と思ってしまいます。
そうすれば、近鉄ファンだった人の中からでも、仙台の新球団を応援する人が多数出てきたでしょう。(売却する前に、「仙台にフランチャイズを置くこと」という条件をつける必要があったかも知れませんが)

ついでに、某巨大掲示板についてですが、実は、私は趣味の分野では入り浸っていたりします。
その場の「空気」が重要視され、誰の意見も特別視されない点、ある種、日本の現代文化の縮図みたいなところも感じます。

ただ、「この私が言うのだから正しい。」というような書き込みが通用しない点、むしろ健全な面もあると個人的には思います。(そのような書き込みは、どこでなされてもあまり感じが良くないかも知れませんが。)

※表記・表現を一部修正 内容を追加
[35063] 2004年 11月 13日(土)23:14:59faith さん
最下位言葉
[35058] ありがたき さん他

南大阪出身の私も「ベッタ」ですね。他に「べべタ」というのも聞いたことがあります。
京都出身の私の母は「ベベタコ」と言ってました。

「ブービー」って、元々は最下位を表す言葉でしたそうで
英語の辞書では "booby prize" は「最下位に与える賞」と書かれてますね。
「最下位から2番目に与える賞」というのは、日本で起こった用法のようです。
[35055] 2004年 11月 13日(土)19:55:05【1】faith さん
呉市 呉市 大呉市
[35011] いっちゃん さん

20 呉 152,184 -86,011 -36.1%
これも、やはり軍港都市としての存在がなせる業ですね。

その歴史は
http://www.city.kure.hiroshima.jp/kureintrod/kurehistory.html
に簡単にまとめられていますが、「全国6番目」の市街電車が1909年に開通するなど、なかなかの先進地域です。
1928年に制定された呉市歌も、なかなか趣があります。
「大和島根の瀬戸の海に
 久遠の光仰ぐ国
 あ丶新潮の高鳴りに
 天翔り行く鳳や
 呉市 呉市 大呉市」

※独り言を削除
[35054] 2004年 11月 13日(土)17:32:03【1】faith さん
市町村合併のメリットとデメリット
[35053]高校生さん

ネットを使える環境にあるのですから、ある程度調査されて、疑問点を絞った方が良いのではないでしょうか?
たとえば、以下をはじめとするサイトにもまとまった解説があります。

(総務省ホームページ 合併相談コーナー)
http://www.soumu.go.jp/gapei/

これ自体は合併を促進する側なので、デメリットについては否定する立場で書かれていますが、主要な論点を知るためには良いと思います。

※「久喜市・幸手市・鷲宮町合併協議会」のサイトをリンクしていたのを、引用元である上記に変更。
[32029] 2004年 8月 22日(日)14:32:00【1】faith さん
直訳地名
[32013]miki さん
意訳といえば
どれも面白い例ですね。どちらかというと「直訳」という気もしますが。
そういえば、Last Emperor を見ていたら、紫禁城は"Forbidden City"と呼ばれていました。

※余計な改行を削除
[29481] 2004年 6月 20日(日)05:32:39【6】faith さん
球団のこと、学校の歴史のこと
[29345] Firo さん
[29340] 夜鳴き寿司屋 さん
[29307] 両毛人 さん
情報およびコメントありがとうございます。
言われてみれば、「バファローズ」の方が見慣れた表記ですね。
もう1つ近鉄という電鉄会社ならではの背景も考えられるわけで、本来、近鉄が球団を
経営する意義が、会社のイメージアップと人気向上によって、電鉄沿線を中心とした鉄道利用者を増やすことにあって、それには必ずしも全国を視野に入れた営業戦略というものは
必要がないわけで
おっしゃるとおり、近鉄には、球団を持つ意味はもうないでしょう。(球場に向かう乗客による鉄道などの収入を、球団の赤字がはるかに上回る状況と思います。)
全国展開している企業でもすでに誰でも知っているような企業が球団を持つ意味はないと思います。そもそも公開企業では、本業にさしてプラスがない、赤字必至の球団を買収することを株主が許さないでしょう。
こう考えると、合併せずに、関西の有力企業に買収されて、今の形で「バファローズ」が存続する可能性もかなり低いといわざるを得ません。
南海ホークスが買収されたときにも感じましたが、確かにファンの方が残念に思う気持ちは分かるのですが、プロスポーツは、基本的には客が来れば存続するわけです。南海ホークスの末期に、客が全然入っていないことが冗談の種になっていたのを憶えています。
近鉄だって同じです。合併反対、身売り反対、といっても客の入りが悪ければしようがない。

一つには、国民の娯楽が多様化しているということもあると思います。
プロスポーツにしぼっても、例えば、今では日本にもプロサッカーリーグがありますし、テニスのATPツアーを熱心にフォローしている人もいるし、米国のバスケットボールやフットボールリーグのファンもいれば、欧州を中心とした自転車競技を熱心に見ている人もいます。
結局、今の関西に3つのプロ野球球団は多すぎるということになると思います。

[29371] 早春賦 さん
地名、学校の歴史が好きな自分はこのサイトは本当に面白いです。
これは頼もしい方がいらっしゃいました。
[28768] hmt さんが書かれているように「教育史分科会」を勝手に名乗っております。今後も健筆を振るわれることを期待しております。
(教育史分科会 委員長 深海魚さん、委員 hmtさん + faith… )
[29306] 2004年 6月 15日(火)00:31:47【1】faith さん
近鉄バッファローズのこと
タイトルの件、ファンの方の心情的反対は理解できます。
しかし、年間何十億円の赤字を出している私企業に「今のまま頑張って下さい」は無理というもの。「経営がまずい」というのが仮に本当でも、それは私企業を非難する理由にはならないと思います。
来年以降の体制がどうなるのか、よく分からないですが、1リーグ制はむしろ「旧パ・リーグ」に属する球団に利益する可能性があると考えられます。また、もともと利害関係の対立から生まれた2リーグ制が、何が何でも守り抜かれるべき存在とも思いません。

参考図書

南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314009470/

[29299] なおさん
現在でなくても半世紀経てば状況は変わるものだと思います。
については全く仰るとおりと思いました。
飛躍しますが、野球に限らず、何十年前の情勢に適合した制度をいろいろな分野で守ってきて(例えば長短分離の金融政策とか食管法など)いろいろと無理が出ていたのをようやく修正しつつあるのが、ここ十数年ほどの日本ではないかと。
政令指定都市などの枠組みも、制度が作られたときとは全く社会情勢が異なる今日では見直されるべきなのかも知れません。

ときどき現れては支離滅裂なことを書くfaith でした。

※タイトル修正
※パリーグ→「旧パ・リーグ」
[28665] 2004年 5月 27日(木)03:22:25faith さん
バスケット市、サイクル
ご無沙汰しております。

###書き込みの仕方も忘れそう
「リハビリ」ということで、小さなネタに反応する私をお許し下さいませ。

[28496] 白桃 さん
せめて、「篭球市」ぐらいにとどめて欲しいです。
その後に続く段落を読むまで、「篭球」を何と読めばよいのか分かりませんでした。
「庭球」「卓球」「野球」などに比べて「篭球」が使われる頻度は低いですね(というか今までこの言葉自体初めて見ました)
日本への定着度(土着度?)を反映しているのでしょうか?

[28517] hmt さん
サイクルと言っても自転車ではない
そういえば、英語では自転車のことも"bike"と言いますが、日本では、自転車を趣味にしている人同士の会話以外では「バイク」はモーターサイクルのことですね。
Queen の "Bicycle Race"の中で"I want to ride my bicycle, I want to ride my bike" という一節があり、奇妙に思っていた中学生時代を思い出します。

…何だか支離滅裂ですね。
[27626] 2004年 4月 23日(金)09:13:09faith さん
アーカイブ、イギリス海岸
[27584] 両毛人 さん
再編集およびお心遣いありがとうございました。旧制中学データベース、確かに地域別に編成する方が妥当であると私も思います。
これはアーカイブ編集とは別の問題ですが、アーカイブに含まれる発言は実体でないといけないのでしょうか、と思ったりもします。

[27586] 牛山牛太郎 さん
イギリスを思わせるというのは特殊な地形なんでしょうか?宮沢賢治とのからみで味わいはありますが。
(数ヶ月前花巻に行ったのですがイギリス海岸は回れませんでした…)
[27438] 2004年 4月 17日(土)18:27:06【2】faith さん
Re:ギリシア、グリース
[27437] mikiさん
地図帳などでは「ギリシア」の表記が普通と思われますが...。
「グレシア」とか日本で聞きなれない表記を私が用いたというのであれば別ですが、「ギリシャ」も日本では普通の表記と思います。

根拠
1. Google でサーチしてみても「ギリシャ」の方が「ギリシア」の倍以上ヒットします。
2. 外務省や大使館が「ギリシャ」という表記を用いています。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/greece/index.html
http://www.greekemb.jp/index_jp.htm

「東学書林」とでも書きたかったのでしょうか?
そんな昔のことは忘れました。でも「大学書○」だったかも知れません。

※第1センテンスの表現を変更。最終2センテンスを全面的に変更。
[27435] 2004年 4月 17日(土)17:47:44【2】faith さん
古典語のはなし
[27430] Issie さん
表題も含めて、今さらながらIssieさんの深い教養がうかがわれます。(一方私の表題は○学書林の一冊みたいになりました)

サンスクリットは現代インドの公用語の1つで,お札にも印刷され,これを母語とするネイティブ・スピーカーもいるそうなのですが,どのような発音をしているのでしょうね。
サンスクリットの話者がいることも知りませんでした。
http://www.linguistlist.org/~ask-ling/archive-2000.1/msg00451.html
によると数千人単位ですね。
ラテン語と同じように、宗教関係者が用いているということはあるでしょう。national languages の一つとなっているのは、文化的な重要性なども加味してのことかと推測しています。

日本人にとってラテン語は紛れもない foreign language (異国の言語)だけども,多くのヨーロッパ人にとっては現代の自分たちに直結する古典語だから,このあたりの意識は日本人学習者とは違うのかもしれません。
そういえば、古語の時間に、万葉集や百人一首を当時の発音で読んだりしないですよね。

ギリシャの言語事情についての解説もありがとうございました。現在行われている口語は古代ギリシャ語とはかなり違うという漠然とした説明を憶えていただけなのでためになりました。
人種的にも、言語的にも、また文化的にも歴史の変転の間にかなりの混交があったようですね。
「(現代)ギリシャ人と(現代)トルコ人は、ほとんど同じ生活様式を持っているのに、すごく仲が悪い」という記述を読んだことがあります。
どちらにも行ったことがないので、実際どうなのか私には判断できませんが、一例として料理は似ているようです。
(オスマン)トルコの影響が大きいのは歴史的にも地理的にも当然というべきでしょう。

とりとめもないですが、現代ギリシャについての言葉で好きなのが、どこで読んだのか忘れたがギリシャの一市民の次の意見です。
「ギリシャ人は古代にいろいろ考えて世界に貢献したから、今はもう良いのだ。」

※最後の段落を追加
※最後の引用を少し簡潔な表現に訂正
[27425] 2004年 4月 17日(土)01:34:17【4】faith さん
来た、見た、勝った
しばらく見られずにいたら、話がかなり先に進んでいますね。

[27116] Issie さん
[27108] 般若堂そんぴん さん
この話と直接は関係ないのですが、欧米では、(ラテン語の専門家は別でしょうが)ラテン語の発音についてはやかましく言わず、現代語風で教えていると読んだことがあります。
そういえば、サンプルは少ないのですが、ラテン語を学校で習っていたというアメリカ人の知り合いは"veni vidi vici" を英語に近い「ヴィーニ ヴィディ ヴィシ」と読んでいました。(「ヴィーナイ…」とまでは言っていなかったから、多少はラテン語式の読みのつもりだったのかも知れません)
"God Father III" でも、新たに法王に選ばれた枢機卿が、「お受けいたします」("Accepto" )を(おそらく)イタリア語風に「アチェプト」と発音しているシーンがあります。(こちらは現実をそのまま反映しているとは当然限らないのでサンプルとしては不適切かも知れません。)

[27403] いっちゃん さん
1.の好例は「イタリア」ですね。他国では「イタリ」、「イタリー」が大勢でしょう。
スペイン語やアラビア語では「イタリア」や「イーターリヤー」だったりするので、「大勢」がどちらかは実は決めにくいのでは?

[27070] Issie さん
千葉中央駅界隈についての解説をありがとうございました。

アーカイブご担当者様:

お手数をおかけして申し訳ありませんが、下記の書き込みを、それぞれアーカイブに加えていただくわけには行かないでしょうか?
いずれも、アーカイブ内で提起された疑問に対して、回答を与える書き込みとなっていると思います。

アーカイブ「21世紀の教育界を担う教員養成学校」
[24858] faith

アーカイブ「旧制中学系高校データベース」
[24853] faith
[25203] faith
[25828] faith

※アーカイブに関するお願いを追加(2回)
※ "God Father III"の「信頼性」に関する言及を追加
[27052] 2004年 4月 8日(木)22:27:47【1】faith さん
ローザ、セントラルプラザ
[27044] Issie さん
考えてみれば,「バラ」って“やまとことば”なんですよね。
本来の“やまとことば”は(オノマトペ=擬音を除いて)濁音で始まることはないのに…。
つまり種明かしは,「いばら」または「うばら」というのが古い形(「うまら」までさかのぼることも…)で,やがて頭の「い」「う」が脱落して「ばら」となった,というものなのだそうです。
そうだったのか…
そういえば、「バラ」は何となくやまとことばらしくない響きですね。「いずこ」→「どこ」等についても勉強になりました。
やはり,「千葉中央」には「中央」の華やかさよりも,“寂れてしまった旧中心街”というイメージが漂っている…。そんな気がします。
そういえば、千葉中央駅周辺には「セントラルプラザ」というデパートや「京成ローザ」(名前も素敵)という映画館など、何となく昭和40年代を思わせる施設が近年まで残っていましたね。
かつては本当に「中央」にふさわしいところだったようです。街の中心が移動したという意味では、神戸の元町と似たところがありますね。
[27050] 2004年 4月 8日(木)22:13:53faith さん
ちょっと遅れ気味のレス
[26867] 太白 さん
faith が[26825]を見落としていたようです。
O'で始まるとアイルランド系なんですね。
おっしゃるとおりです。grandson とかdescendant という意味とのことです。「誰々の子」「誰々の孫」で個人を識別していた時代の名残らしいです。
他にも、「~の息子」をあらわすFitz- も典型的なアイルランド系の姓です。

[27024] 地名好き さん
政令指定都市の行政区並の人口であれば中央を名乗ってもいいかな
面白い発想ですね。
ただし、「中央区」と呼ばれる地域は、(夜間)人口が多い地域とは限りません。例えば、大阪市中央区は、かつて存在した南区と東区の(夜間)人口が減少したために合区してできたと記憶しています。

[27021] 烏川碧碧 さん
他の方々の「隣の県」のイメージはどのようなものでしょうか?
北海道の人だと、「隣の県」ということを意識することがあまりないかも知れませんね。想像ですが。
[26853] 2004年 4月 3日(土)00:34:27faith さん
Freedom fries
[26787] 太白 さん
他の方々も書かれているように大変良くできていて、special-weekさんの[26771]ともども楽しませていただきましたが、一つだけ無粋な疑問:
O'Hare という人名は、他のO'で始まる人名と同じく、アイルランド起源だと思うのですが、米国ではフランス風と認識されているのでしょうか?
[26695] 2004年 3月 30日(火)00:11:27faith さん
遅まきながら打線ネタ, etc.
[26667] Issieさん
[26666] 作々さん
[26665] 白桃さん
[26664] 愛比売命さん

打線というよりはチーム全体ですが、超高校級スラッガーの原(後に巨人)や津末(後に日本ハム)を擁した東海大相模高校が、漢字の類似から「東海大相撲(おおずもう)」の異名を持っていたという記事を読んだことがあります。
でも、異名というよりは単なる読み間違いのようでもあり、真相は良く分かりません。いずれにしろ、都会的なストライプのユニフォームも他の高校と違うものを感じさせました。

[26655][26534] 般若堂そんぴんさん
「米沢十湯めぐり」
どれも魅力的ですね。米沢の人はだいたい一通りは訪れたことがあるようなものなのでしょうか。
20年以上も前から気になっておりましたので,何とはなしにワクワク
私もそうです。
[26510] 2004年 3月 24日(水)00:26:25【2】faith さん
堺市と美原町の合併
このサイトの市町村合併情報にもあるとおり、堺市と美原町の合併の協議が進んでいますね。
合併協議会のサイト
http://www.sakai-mihara.jp/
のトップページに「全ての協定項目の協議を終了し、堺市と美原町の合併を承認しました。」とあります。

堺市では、何年も前から将来の区役所を想定した「支所」が行政手続きの窓口になっており、市域は6つの支所区域に分かれています。
http://www.city.sakai.osaka.jp/city/info/_sisyo/index.html
これから見ると人口4万人に満たない「美原区」は設置はされるかもしれませんが、バランスがあまり良くなさそうです。
仮に支所名がそのまま区名として採用されるとすると、堺区、中区、東区、西区、南区、北区と美原区となり、中心街は堺区に含まれます。
[26433] 2004年 3月 21日(日)20:23:49【2】faith さん
現実論について
[26392] special-week さん
[26368] 月の輪熊さん
他、両毛新幹線スレッドの皆様

私はspecial-weekさんの自由闊達な発想に基づく書き込みを楽しみにしている者であることを最初にはっきりさせた上で、私の考えを述べさせていただきます。
要は楽しくワイワイ地理談義が基本です。あんまり現実とかけ離れているのも問題ですが、あまり現実ばかりに即した議論だつまらないですよね?
基本的には賛成です。というより、現実といくらかけ離れた空想でも楽しいものは楽しいです。
ただし、現実的でないものを「現実的だ」とあえて主張されるのであれば、反論があってしかるべきです。私見では、[16697]special-weekさんと[16746]faithの書き込みはそのような関係にあります。

それに、これは人によって意見が分かれるかも知れませんが、現実的な観点からの議論は趣味的にみても、「つまらなく」はないと思います。
例えば、(そのような議論が実際にあったわけではないが)新しいバスルートの、より採算が取れそうなルートを検討してみるなども個人的には面白いと感じます。

※第2センテンスの表現を変更
※最終センテンスの表現を変更
[26396] 2004年 3月 20日(土)03:19:51【2】faith さん
地名に罪はない
[26388] 般若堂そんぴんさん

[26351]
しかし,米沢藩の歴史が周辺地域から見れば圧政の歴史であったことを思うならば,先の発言は「米沢市」という名称の否定につながっても不思議ではありません.
の部分を無視していただきたくない
「米沢藩下の圧政を思い起こすと再び『米沢』という名前の下に入りたくない」という主張は、(どこまで米沢市の周囲の住民に共有されているかは別にして)、私にも理解できます。が、そのような主張は、結局は好き嫌いを表明しているのであって、論理的に正しかったり間違っていたりするわけではありません。
ましてや、そのような主張をすることが「歴史のネガティブな側面を正しく見ている」ことには必ずしもならないのではないでしょうか。当たり前ですが、『米沢』という地名が圧政を布いたのではないのです。
[26383]を書くにあたって、ここまで考えていたわけではありませんが、「圧政の歴史から、『米沢という地名をどう扱うか』が論理のレベルでは導かれそうにない」とは感じていました。

お分かりと思いますが、私は、「米沢」という響きが好きだったり、米沢の風物に良い印象を持っているので、「『米沢』という都市名が失われるのが残念」と思っているに過ぎません。
米沢市民やその周囲の住民が「米沢」という地名について持つ感情については全く判りませんし、米沢藩の歴史について知っていることもわずかです。
したがって、この問題について考えるのに知識が不足しているかも知れません。ご指摘頂ければ幸いです。

以上、般若堂そんぴんさんの問題意識とずれているかも知れませんが、一応思うところを述べさせて頂きました。

###タイトルの読み筋は Along the Red Ledge です。

※「地名」を一部「都市名」に置き換え
[26384] 2004年 3月 19日(金)22:02:01【1】faith さん
最終列車
[26341] Issie さん

淡路交通についての解説をありがとうございました。
淡路島に電車が走っていたことは一応知っていましたが、廃止の経緯までは知りませんでした。
廃止当日,ダイヤ上の“最終便”を待たずに上記列車の運行をもって営業「打ち切り」となったようです。今だったら
今だったら、事前に周知徹底しないと大騒ぎになったかも知れません。
1997年の「横軽」の廃止時に、JRが善意で最終列車後の回送に客を乗せたのに対して、
「私達が乗ったのが最終列車ではなかったのか!」「もう一度最終列車を出せ!」
と「本気」で係員に食って掛かった素敵な人たちがいたことを思い出します。
私などは廃止の半月ほど前に、同区間を乗車して、それで満足していたものですが。

ちなみに、[26337]の「洲本行き最終列車」とは、Electric Light Orchestra の "Last Train to London" を少し変えたものですが、判りにくいですよね(笑)。

個人的には、関西に住んでいながらなぜか淡路島は「近くて遠い」存在で、花博が2000年に淡路島で開かれるまで、行ったことがありませんでした。

※てにをは修正
※最後の1センテンス追加
[26383] 2004年 3月 19日(金)21:32:04faith さん
Re:米沢と置賜
[26351] 般若堂そんぴん さん

faith が関西から口を挟むことでもないのですが…
「米沢」という地名表記(地名自体はアイヌ語に由来するとの説もあります)の新しさ(伊達家時代)を思えば,「長井」(本来,この地名の中心地は現在の米沢だったそうです)や「置賜」(日本書紀の時代!)の方に歴史的地名としての重みがあると言えるのではないでしょうか.
「歴史に基づく」市名候補というのは必ずしも最も起源が古いものというのに限らないのではないでしょうか。たとえ4~500年「しか」さかのぼれなくても、それから現在に至るまで、都市名として、連綿と用いられてきたという事実は重いです。

faithが米沢市民だったら、やはり「名前を変えてまで他と合併しなくて良い」という考えを抱くことだろうと思います。
[26337] 2004年 3月 18日(木)19:04:14【2】faith さん
洲本行き最終列車
[26332] もよ~ん さん
新大阪 既設(東海道新幹線、山陽新幹線、東海道本線など) 岡山回りの発想を180度転換
淡路洲本 新設 淡路島に鉄道を
鳴門 既設(鳴門線) 明石海峡大橋や大鳴戸橋に鉄道をひくことはできるのか

大鳴門橋は鉄道をひくことができる構造となっています。
しかし、明石海峡大橋は道路専用の構造です。
したがって、上り?四国新幹線は、洲本行きとなってしまいます。
このことは別にして、個人的には阪神地方と淡路島・徳島との交通は現状のバスでもかなり便利と思います。本数も多いし…
鉄道なしで問題が起きていないところに今から新幹線を作ってもペイしないのでは、と思ってしまいます。
でも四国内の都市連絡の時間短縮という側面があるからそうとばかりも言えないか。

[26336] なお さん
実際、現在愛媛・大分でこれについての談合などが時々あります。
事情は良くわかりませんが、時々あるのはきっと「会合」では?

※後半を追加
[25994] 2004年 3月 10日(水)02:02:10faith さん
「認市度」
私も認市度、65市バージョンで試してみました。

○=泊まった
●=歩いた
△=降り立った(駅での乗り換え、S/Aの休憩etc)
▲=通過した(寝ていてもOK)
×=かすったこともない

実はこのうち3つの市には住んだことがありますが、○(泊まった)扱いにしました。

○特別区○横浜○大阪○名古屋○札幌○神戸○京都○福岡  
○川崎○広島●さいたま○仙台○北九州○千葉○堺●静岡  
○熊本○岡山▲相模原○浜松○船橋○鹿児島●八王子○新潟  
●東大阪●姫路○松山▲川口△松戸▲市川△尼崎○金沢  
▲西宮●宇都宮○大分▲倉敷●横須賀○長崎▲福山●枚方  
●岐阜▲町田▲藤沢●豊中●和歌山●豊橋○奈良○長野  
×豊田●旭川×いわき▲高槻●吹田▲岡崎○郡山▲所沢  
○高松●川越○高知●柏○富山△秋田▲越谷▲宮崎  
×那覇

[25838] まがみさん
来たれ箕面
関西人なのでさすがにハイキングで訪れたことがあります。
[25916] 2004年 3月 8日(月)19:36:26【1】faith さん
たけのづか
[25907] 花の東京都民 さん
もう読まれていないかも知れませんが…
読み方です(下へ行ってみて下さい)→ http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/nihongo/gogenjpn.htm

まず、他人の個人的な見解をそのまま持ってきても何かの論拠になるわけではありません。

ここにある、「やまばと」であれば連濁してよいが、「たけのづか」は(「やまのばと」と同じで)間違いと言うロジックで行けば、「天の川」を「あまのがわ」と呼ぶのは間違いで、「あまのかわ」であるべきということになります。「天」の「川」なんだから。
現実には、「やまのはと」や「大阪府の川」というときの「の」と違い、「天の川」の元の意味が薄れている以上、気に入らない人がいても、連濁(に近い現象)は自然に起こります。竹ノ塚もこの例でしょう。
「たけのづか」は「やまのばと」と同じで間違いという考え方は、現象の一部だけを抽出して、それに当てはまらない残りの部分を逆に「間違い」と決めつけているように私には感じられます。

お年寄りに聞かれたり、資料を当たられたということですが(これはこれで価値があることですが)、万葉集に「あまのかわ」とあるからといって「あまのがわ」と今の人々が発音するのが誤りと言えないのと同じで、そういう方法で正否を決める内容ではないと思います。

※一部の表現を修正
[25828] 2004年 3月 6日(土)23:54:33【2】faith さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/02 青森県編 補遺
[16666] 委員長殿
不詳) 青森北 青森市立第一中学
青森北高等学校については、以下の通りです。
1941) 青森北 青森市立第一中学、青森市立第一高等学校、(1969 県に移管)青森北高等学校

野辺地高等学校については以下の通りです。
1926) 野辺地 県立野辺地中学、(1948年 野辺地町立高等女学校を併合)野辺地高等学校

旧制中学校と(町立ではありますが)高等女学校が一緒になって男女共学の県立高校ができたという非常に素直な歴史です。
嚆矢の所在地が県都ではない例
これについては[25203]に書いた通りです。
四中が五所川原ではなく木造に置かれた必然性が未だに良く判らない
これについて、「青森県百科事典」に面白い記述を見つけました。
中学校争奪騒動
第四中学校すなわち西北中学校の設置は、1900年(明治33)県会で可決されたが、その設置をめぐって、西、北郡間に競争が始まった。一応県当局に一任することに決まっていたので、県当局は数箇所の候補地を実検し、土地の状況、飲料水などを調査した結果、西郡木造の旧藩御仮屋跡が学校地に最適であると決定した。しかし五所川原地方ではこれ以来、木造町を恨む気持ちが強く、たびたび争闘が起こり、負傷者を出した。特に1902年(明治35年)5月25日には、山田久須志神社(森田村)の祭礼に集まった五所川原、木造町民4、5人の間に争闘が起こり両方に負傷者が出たが、警察の説諭によって退散した。しかし五所川原町ではこの報を知ると警鐘を乱打し、約200人が木造町に押しかけた。木造町でもこれを知り寺鐘を鳴らして警戒するなど対立はエスカレートし、こん棒、竹やり、その他で乱闘が始まり両方とも負傷者を出しようやく静まった。
第四中学校は、1914年に廃校になりますが、その経緯は上に書いた騒ぎとは別のようです。
同校は開校後職員と父兄間にトラブルが多く、1907年父兄に扇動された生徒が畑校長に体操教師の更迭を要求して同盟休校、1週間後に解決をみたが、職員の中に校長の微温的解決策に不満を持ち、同年12月、生徒の白紙答案提出事件を契機に若木教頭ほか8人が校長に対してストライキを行った。県は事態を重視し教頭ほか8人を解職処分にしたが、翌年同校を弘前中学校の分校とし、1914年(大正3)廃校にした。
もっとも、同資料の「中学校」の項には、生徒の減少が廃校の原因である旨の記述があります。
木造中学校は1901年(明治34)第四中学校として、西郡木造町に創設された。その後、生徒数が漸減し、1910年には弘前中学の分校となり、1913年に廃校となった。その後景気の回復につれて進学希望者がふえたので、1926年(大正15)県立木造中学校として復活開校された。
(なお、同時期の野辺地中学校の設置についても、中学校進学希望者の増加に対応したものであるとのことです。)
[16666] 委員長殿の
1902) 木造 県立第四中学、県立弘前中学木造分校、県立木造中学
ですが、上に書いたように、県立木造中学校開校までの12年間(「中学校」の項の記述に従えば13年間)、対応する学校は存在していません。

参考文献 「青森県百科事典」

※誤字、一部表現修正
※引用追加
[25818] 2004年 3月 6日(土)21:07:34【1】faith さん
つかでもづかでも
[25752] 花の東京都民 さん

[21697]にも例を挙げましたが、日本語ではこうした場合に、濁音・清音を厳密には区別していません。(清濁が単語の識別に使われていない)
したがって、「~つか」と言う表記を採用したからといって、それは「~づか」という音を排除しているというものではないと思われます。
先に人々の発音があり、表記はそれを不完全に表したものなのだから、表記から、実際に行われている発音を「誤り」と断罪してしまうのは、話が逆なのではないでしょうか。

※少し表現を修正
[25625] 2004年 3月 2日(火)02:17:39【5】faith さん
Mexico City
[25622] 般若堂そんぴん さん
Ciudad de Mexico と Mexico City とは意味もしくは範囲が異なるのでしょうか?
私も詳しいわけではありませんし、とうにご承知かも知れませんが、"la Ciudad de Me'xico" は通称であって、正式な名称は "el Distrito Federal" です。
その通称の英語版がMexico City なので、もともと両者で意味が違うというような性質のものではないと思います。

上のような理由で件の都市は英語では "Mexico City" であって "Mexico" ではないので、 "the city of Birmingham" 式の表現をしようと思えば、"the city of Mexico City" と言うのが自然と思いますが、どんなものでしょうか。

ただし、スペイン語では"Me'xico" だけで、"la Ciudad de Me'xico"を意味する場合もあるようですが、これは省略形と見るべきでしょう。

※誤字訂正
※一部表現修正
※最後の一文を追加
[25534] 2004年 2月 29日(日)11:15:11【8】faith さん
旧六の配置について
[25524] 白桃 さん
新潟、金沢、岡山、長崎、熊本はわかるような気がしますけど、なぜ、千葉に置かれたのでしょう。旧6は地域的バランスを考慮していないし、当時の千葉といえば本当に片田舎だったのでは。
[17340]faith と一部重複しますが、旧六のうち最初に(高等中学校医学部の形で)置かれた4校+仙台は、以下のように分布しています。(大学区については、[11728]赤尾鯰さんを参照)
[17340]に書いたように、いずれも医学部所在地の公立(=県立)医学校が官立に移管されたものです。

高等中学校本科所在地医学部所在地医学部独立時の校名所在大学区
第一東京千葉千葉医学専門学校第一大学区
第二仙台仙台仙台医学専門学校第八大学区
第三京都岡山岡山医学専門学校第四大学区
第四金沢金沢金沢医学専門学校第三大学区
第五熊本長崎長崎医学専門学校第六大学区

官立の高等中学校は上記の5校しかない(山口、鹿児島はやや設置形態が異なる)ので、それぞれに医学部を設置してもやはり5校となります。
この後、医学部は独立して官立の医学専門学校になりますが、1910年に新潟医専が置かれ、第七大学区も官立医専を持つことになります。
この時点までは地域的バランスは考慮されていないことはないと思います。
ただし、1912年に仙台医学専門学校は東北帝国大学医学専門部となり、1915年の東北帝国大学医学部の開設に伴い、1918年に廃止となります。

熊本医大については、官立に移管されたのが昭和に入ってから(1929年)ですので、状況が異なります。この移管の経緯は分かっていません。
第一高等中学校医学部が千葉に置かれたのは、都市規模よりは、医学校として充実していることの方が重要であったからではないでしょうか。調査はできていませんが、地元の誘致・協力もおそらくあったと思います。(県の経費を使わずに、医学校が維持・発展させられるのですから)

[25526] 軒下提灯 さん
将来、萩尾みどりが入学するのを予見していた?は、理由になりませんよね。
明治期の官立教育機関の整備に、萩尾みどりが果たした役割については、私もかねてより注目しております。

※一部表現修正
※仙台医学専門学校の廃止に関する記述を追加
※千葉医学校の移管に関する記述を追加
※タイトルの「分布」を「配置」に変更
[25505] 2004年 2月 28日(土)17:11:24【4】faith さん
中国地方と東北地方、国旗と国歌
[25494]白桃さん
県でいうと、兵庫=福島、岡山=宮城、広島=岩手、山口=青森、島根=秋田、鳥取=山形
正解は元々ないことを承知の上で横から口を挟んでいるだけなのですが、地勢や位置からは宮城県と岡山県を対応させたいような気はするものの、やはり中心都市がある県同士を対応させないといろいろな違いを埋めにくいような気がして、あえて以下のような対応を提案します。

岡山=新潟、広島=宮城、山口=青森、島根=秋田、鳥取=山形、(兵庫=福島)

新潟を東北に入れるのは異論もあると思いますが、もちろん岡山市=新潟市、広島市=仙台市です。
この対応だと、岡山市の微妙な位置づけも現せるのが良いと思っています。
faith的には「旧六」(旧制六医大;まるちゃんさん[25367]、faith[25376] 参照)の所在地としても対応しているし。
岩手にあたるところは中国地方には見つからないということでなしにしました。
兵庫=福島はしっくりこないので、岡山=新潟+福島というのも考えられると思います。この場合、岡山市=新潟市+郡山市です。郡山市の交通の結節点という側面を重視しました。

[25390] 月の輪熊さん
韓国やアメリカの国歌を聞いていていつも思うのは、日本の国歌は短すぎる
いろいろな面で、君が代は国歌としては変わっています。オリンピックなどを見ていると感じます。でも他の国と合わせる必要もないんじゃないかと思っています。
国旗掲揚に関する論議は別として、日の丸についても、まことにあっさりとした意匠に独自性を感じます。

※誤字訂正
※一部表現修正
※岡山=新潟+福島という見解を加筆
[25485] 2004年 2月 28日(土)02:44:44【2】faith さん
富山医科薬科大学、琉球大学
[25464] まるちゃん さん
新設医学部についての情報および分析をありがとうございます。状況がよく理解できました。
富山医科薬科大学についても富山大学と統合が決まっていますが、これで同大学の薬学部は、一旦分離した元の相手と再統合というめずらしい事態となります。

(ご参考)
http://www.toyama-mpu.ac.jp/ph/enkaku.htm

保健学部附属病院とはなかなか珍しい.
医学部より先に保健学部があったので,こうなったのでしょうね.
ご紹介いただいたページを見ると、特に初期にはあまり見慣れない学部、学科名があって興味深いですね。
「保健学部」は "the Faculty of Health" の和訳でしょうか。下記を読むと、医学教育も受け持っていたようです。

(ご参考)
http://www.hosp.u-ryukyu.ac.jp/Hotline/200103/hotline13-2.html
[25484] 2004年 2月 28日(土)01:54:45【4】faith さん
Re:re:地名と自治体名
[25442] ken さん
旧田無市民、保谷市民の中には、
お住まいは?に対し、苦笑しながら「(例の、というニュアンスを言外に)西東京市なんですよ」といってたりしますね。
サンプルが1例なので、参考になりませんが。
東広島市の件ですが、私は、これって時間が解決する問題だと思います。
東広島市発足後に東広島市に生まれた世代は、自分たちを「東広島市民」と認識するしかないでしょう。
大阪では「お住まいはどこですか?」「東大阪です。」は普通の会話です。東広島もいずれは同じ道を辿ると思います。
もちろん、東大阪市近辺では、上記の質問に「布施です」「枚岡です」という答えもありうるでしょうが、これは単に縮尺の問題であって、地名の定着度とは関係ありません。

ただ、このような新都市名の地名としての定着度は、新都市名が、もともと地域名として使われるかどうかにも影響されるのではないかと思います。
kenさんが例に挙げておられる西東京市の場合は、地域名としての「西東京」と区別がつかないので、「市」はいつまで経っても取れないかも知れません。
これに対して、「東大阪」は、もともと地域名としてほとんど使われることがないので、「市」を付けなくても誤解の可能性はなさそうです。

[25480] 般若堂そんぴんさん
「彼には役不足」というほめ言葉は誤解されそうで、現実には機能しないですね(笑)。

※誤記訂正
[25376] 2004年 2月 26日(木)01:07:59【6】faith さん
Re: 医学部による地域分析
[25367] まるちゃんさん

設立時期 による医学部の分析は,地域の拠点性をみる一つの指標となるかなと思って調べてみました.
こういう表も作りたいなと思い始めてたところです。早速口を出しに来ました(笑)。
旧帝大....戦前の旧制帝国大学の医学部に由来
北大,東北大,東大,名大,京大,阪大,九大
旧制医科大学....戦前の旧制医科大学に由来
国公立大:千葉大,新潟大,金沢大,岡山大,長崎大,熊本大 (これらは旧制六医大ともいう), 京都府立医大
ご存知かも知れませんが、名大医学部、阪大医学部は歴史的には、京都府立医大と同じグループとも言えます。
明治前半に、府県立の医学校は隆盛をむかえますが、1887年に府県立医学校に地方税を投入することが禁止されたため、病院経営収入で維持できた愛知・京都・大阪の三府県立医学校以外は、官立に移管されるか、廃校になりました。(残った3校が後の名大医学部、京都府立医大、阪大医学部となります。)
このとき官立に移管され、高等中学校医学部になったのが、上に挙げられている、後の旧制六医大のうち、熊本、新潟を除く4校と、宮城です。([17340] faith も参照下さい)ただし、この宮城医学校が東北大医学部につながるとは言いにくいです。
(ご参考)
http://www.archives.tohoku.ac.jp/tenji/isen.html
[17340] に書いたURLはリンクが切れています。)
熊本は、このとき廃校になり、その後、県の援助を受けて開校した私立医学校が後に県立に移管され、医大に昇格した後に、官立医大になります。
(ご参考)
http://www.medphas.kumamoto-u.ac.jp/medical/history.html

新潟はやや遅れて明治期末の1910年に最初から官立医専として設置されたものです。

旧制医大として,中国地方では広島ではなく,岡山に置かれたこと.当時はまだ,広島の拠点性はまだそれほど強くなかったということでしょうか.
そういうことは言えると思います。もっとも、1872年発布の学制で、全国を8つの大学区に分けた時には、岡山と広島は別の大学区に属した(岡山は大阪に本部がある第四大学区、広島は広島に本部のある第五大学区)ところを見ると、中国地方という概念自体がそれほど強固なものではなかったようにも見え、岡山と広島を競合させる発想があったのかどうか自体不明です。
医専は,関西では国公立が,関東では私立が中心であり,多くの関西の医専は国立ではなく,公立のままで現在に到っている.
戦中の各地の公立医専の設置動機に医師不足の解消ということがありました。養成機関が多い首都圏ではそのような必要性が相対的に低かったため、公立医専の設置が少なかったということではないでしょうか。
新設医大は多くは単科医大であったが, 秋田大,山形大,愛媛大,琉球大はなぜか当初から総合大学の医学部に編入されている.
これは設置時期の違いでは?
各ケースにあたったわけではありませんが、文部省が「新構想大学」を設置しだした1973以降に設置のものは、既存の大学ではなく、単科大学として設置されているのだと思います。
(山形大学あたりが時期的にはボーダーラインだったために既存の大学の学部増設になっているのでしょうか。)

※タイトルを含め誤字脱字訂正
※不要になった連絡を削除
[25368] 2004年 2月 25日(水)22:15:51【2】faith さん
青森から弘前に移転した学校について(2)
[25203] faith
青年師範や女子師範については調査でき次第また報告します。
あれから調べることができたので報告します。
結論から言うと、女子師範も青年師範も、青森から弘前に移転した学校ではありませんでした。
前掲「青森県百科事典」によると、女子師範は
1878年(明治11)県立弘前女子師範学校として弘前に設置、女子教員の養成を目的に生徒40人を募集し、24人が入学、2年後12人の卒業生を出したが入学者が少なく1885年(明治18)廃校となった。その後、小学校の女子入学者の激増と1908年(明治41)実施の義務教育6ヵ年とによって教員が不足し女子教員養成が急務となたため、1902年青森市に青森県女子師範学校を設置した。
ということで、廃校を挟んで、弘前から青森に移転したことになります。この後女子師範は1943年の官立移管時に師範学校と統合されます。この後は[25203]に書いた通りです。
つまり
弘前→(廃校)→青森→(師範と統合)→弘前
となります。

同じく青年師範は、
青森師範学校に併置されたが、翌年5月校舎を譲渡されて上北郡野辺地町に移転した。
とあります。ここでいう「翌年」とは青年学校教員養成所が官立移管されて青年師範学校となった1944年の「翌年」です。
この後、弘前大学発足時にこれに包含され、弘前大学教育学部野辺地分校となり、1960年に本校に吸収されたことになります。
ここでは、官立移管前、すなわち青年学校教員養成所時代、あるいはその前の実業補習学校教員養成所時代の所在が不明ですが、青森→野辺地→弘前で現在に至るのは確かです。

※女子師範の所在地の変遷について加筆
[25340] 2004年 2月 25日(水)01:45:42【12】faith さん
奈良学芸大学にあった医科大の教養課程
[25277] の奈良県立医科大学の歴史に関する話題です。

奈良県立医科大学が、奈良学芸大学(現奈良教育大学)に教養課程を委託していたことがあるという話です。以下特記しない限りは前掲「二十年史」よりの引用です。
学制の根本的改革によって、医育教育機関にも大きな変革を来たした。これによって、新制医科大学の入学資格は、「学校教育法に規定された修業年限4年以上の大学に、2年以上在学して、医学教育基準に定める単位64単位以上を修得したもの、およびそれと同等以上の学力を有するもの」となった。従って、旧制医大予科は、昭和23年度をもって生徒の募集を停止し、今回の入学生が終了する昭和26年度をもって廃止されることとなった。
そこで廃止される予科の施設を利用して新しい理科系新制大学を設置して、新制医大への進学コースを兼ねようとする案が考えられるようになった。
新制と言いながら、今と制度が違うことに注目。現在は医学部は6年制ですが、このころは医学部自体は4年制であり、ただしそこに入学する前にどこかの理科系の大学に2年以上在学しないといけないわけです。
そのため、旧制大学時代(といっても奈良医専が旧制の医科大に昇格したのは戦後1948年なので、非常に短い)の予科を転用して、自前の「理科系の大学」を作ってしまおう。というわけです。
他県の県立医大・県立大学医学部でもそういう動きがあります。
この時兵庫県においてはいち早く予科を農学部に、三重県においては水産学部に切り替えるという噂が入ってきた。
少し後の話になりますが、兵庫県の構想は兵庫県立農科大学、現在の神戸大学農学部となります。一方兵庫県立医大は神戸大学医学部になりますから、神戸大の両学部は兄弟ということになります。
三重県の方も三重県立大学医学部および水産学部を経て、国立移管の後、それぞれ三重大学の対応する学部になっています。
一方奈良県では
昭和23年6月2日の教授会で、薬学部設置が望ましいという結論になり、予科が中心となって検討することとなった。
そこでただちに教職員を手別けして、富山薬専、岐阜薬専、京都大学薬学部、京都薬専などを視察して、資料を集めて構想を練り、具体案をつくって県に上申した。県においては、衛生部で検討することになった。
奈良県薬剤師協会や奈良県家庭薬工業組合、奈良県家庭薬配置商業協同組合(置き薬商の組合ですね)などの薬業関係の7団体も連名で陳情を県議会に上程して採択されるなど運動は盛り上がりますが、
最後の方針を決定するため昭和24年12月21日開かれた県議会の薬学部設置特別委員会では、県側から「県財政上到底応ぜられない」との意向を明かにされたため、この問題は「保留」となり、前年来続けられた薬学部設置の問題は、ついに不成立に終わった。

不首尾に終わった、自前の理科系大学の設置の代わりに、国立の奈良学芸大学に教養課程を委託します。
県では予科廃止にかわる薬学部設置案を取り止めた代わりに、教養課程を奈良学大に委託した。学大では理科丙の講座31講座に、2講座を増設することによって、その希望を入れることとし、昭和25年4月1日より開設した。それに要する費用として、初年度130万円、次年度以降150万円を、県において負担することとしたのであった。
このことは昭和32年3月まで7年間続けられた。その間に、この課程を踏んだもので本学を受験したもの266名、うち入学したもの109名をかぞえた。
入学率をみれば判るように、奈良学芸大のこの課程に2年在学して所定の単位数を取ったからといって、奈良県立医大への進学が保障されるのではなく、受験資格ができるというものでしかありません。当時の学芸大教授の宮川陸治氏は以下のように語っています。
理科丙については(中略)成績のよい生徒が入ってくるので、張り切ってやっていた。内容を充実して実力をつけねばならぬと実験実習を多くしたり、選択科目を止めて受験に必要な学科に力を入れたりして、大へん苦労をしていた。ところが実際に受験してみると、なかなか採用してくれない。入学率がかんばしくない。理科丙は奈良県の子弟のために設けたのだからとのことで、奈良県人を多く収容していたのに、肝心の医大で特別の配慮をしてくれないとなると、非常に苦しい立場にたつことになる。他の医大では、教養課程を持っているのが多いので、理科丙のものが受験し得る学校は極めて少ない。困ったことになるので医大にできるだけ多く採用してくれるよう交渉を重ねたが、なかなか思うようにはいかなかった。主任としては、実験実習の経費が多く要するし、教官の手当も増額せねばならぬので、県に対して負担金の増額を申入れたが、これもなかなか言うことを聞いてくれない。私としてはぜひとも年間800万円程度出してほしいと要求したが、とうとう200万円台に乗せることもできなかった。
昭和32年3月で理科丙を止めることになったが、それは学大としても経費の増額が望めないのにだんだん経費はかかるし、自然に苦しくなってくるので、熱意も少なくなってくる。また県としても新たに6年制新制大学に移行するについて、その準備を整えねばならないことになってきたので、双方とも、もうこの位でということで止めることになった。喧嘩別れをしたのではありません。その後数年間空白があったようですが、その間に遅れたものも収容できたのではありませんか。
上の引用の
他の医大では教養課程を持っているのが多いので、理科丙のものが受験し得る学校は極めて少ない。
についてですが、この教養課程を持っているのが多いというのは後に述べる1954年の学校教育法改正以降の状況を指していると思われます。

同じく
新たに6年制新制大学に移行するについて
というのは以下のことを指します。
従来、4年制理科系大学において2か年以上在学し、所定の単位を修得したものを受験資格として採用していた医学教育制度は、ここ数年実施してみると、種々の困難な問題が生じてくるし、そのうえ、志願者の減少に伴い質の低下を来たす傾向が著しくなってきたので、文部省においては、昭和29年3月31日付、法律第195号を以て学校教育法の一部を改正して、医学教育は進学課程2年、専門課程4年の6年制一貫教育とすることとした。
今まで教養課程を持たない本学としては、奈良学大理科丙に委託していたのであったが、それも既に述べたように、経費その他の関係で、漸次解消の方向に傾いていた折柄でもあったので、至急この問題に取り組まなければならなかった。

しかし、進学課程の設置には手間取ります。県立医大の国立移管問題が持ち上がっていたことが関係あります。そのような状況で1956年10月1日に吉松県立医大学長が県に対して進学課程の設置申請を行うよう申し入れたが、進展しなかったとのことです。
この頃の状況として以下の記述があります。上の奈良学大側の「奈良医大が採用してくれないと、受験できる学校は極めて少ない」という状況が裏付けられます。
全国の医科大学における進学課程設置の状況を調べてみると、次のとおりであるので、引続き県に対して強硬に即刻文部省に新制せられるよう懇請した。
進学課程設置状況調
区分校数進学課程を有するもの進学課程のないもの
国立2121なし
公立1211奈良医大
私立1310慈恵医大、大阪医大、関西医大
4642

結局、1957年9月、県立医大の国立移管を断念した県は、ようやく文部省に進学課程開設の申請を行い、翌1958年3月25日付で、文部省から進学課程設置について正式に認可が下ります。
その後数年間空白があったようですが
という奈良学大宮川元教授の言葉は、1954年の学校教育法改正からここまでの4年間を指しているものと思われます。

※誤字訂正
※まぎらわしい表現に加筆
※一部引用追加
※説明の順序を多少変更
[25277] 2004年 2月 24日(火)02:37:50【4】faith さん
A級、B級医専、奈良医専
[25041]で、広島県立医学専門学校について
同二十五日、文部省の視察医院が来呉、三月十六日の第三回校長会議でA級校の指定を受け存続が確定した。
という資料を引用しましたが、このときの他の医専の判定結果について、「奈良県立医科大学二十年史」(以下「二十年史」)に記載が見つかりました。
なお、校長会議の日付が[25041]の広島大学の資料と異なっていますが、後で分かるように翌日にも大きなできごとがあった奈良県立医大の記録が日付を間違えているとも思えず、このあたりの事情は不明です。
「本校」とあるのは、奈良県立医科大学の前身の奈良県立医学専門学校のことです。以下特記しない限りは「二十年史」の記述の引用です。
3月29日、文部省で全国医専校長会議が開かれて、本校から佐藤教授が出席した。席上、本校はA級と判定された。宿望がようやく達成できて、関係者一同胸をなで下ろした。
公表されたA級、B級の判定は、次の通りであった。
1.現在の医専は、医学視学委員会で厳密な実地踏査を行ない、施設、教授陣容、学科課程などの優劣で、A級およびB級に判別する。A級校とは官立大学付属医学専門部、およびこれと同等、またはそれ以上のものとし、B級とはそれにおよばないものとした。
この結果、長崎医大付属医専、福岡、山梨の両県立医専および高知、山梨、秋田の三県立女子医専の計6校がB級校と判定され、本年度で廃校される。なお、A級校となった45校の大学昇格は、今後の問題として別に考慮される。

ところで、本来であれば、A級校のモデルとなって良いはずの、長崎医大付属医専が官立では唯一B級に分類されたのは、原爆による被害が影響しているものと思われます。
長崎大学医学部のホームページ
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/
の記載もそれを伺わせます。
8月9日原子爆弾により長崎医科大学及び同附属医院は壊滅状態となり、角尾学長以下教職員、看護婦、学生あわせて890余名という多数の犠牲者を出した。医科大学本部を片渕長崎商工会議所、長崎経済専門学校、次いで国民学校へ移転し、附属医院として診療を開始した。9月には大村市の旧海軍病院で診療及び講義を開始した。

話を奈良医専に戻して、めでたくA級に判定された翌日に火災があり、大きな被害を受けます。
本医院は建坪3,317坪であって、本館、看護婦寄宿舎、病舎4棟、および調理室、倉庫、ボイラー室などよりなるものであるが、今回の火災により、火元の看護婦寄宿舎を中心として第2、第3病棟を焼失し、その被害建物1,665坪であって、病床としては、203床中109床を失った。(中略)第二第三病棟の小庫に貯蔵中の薬品および衛生材料は全部焼失のうき目にあった。之を価格に見積もれば
薬品756,487円
印刷用紙類184,927円
被服類183,241円
医療材料1,102,184円
2,226,839円
今だったら、建物はともかく、このような物資の損失は何とでもなりそうですが、物資が不足していた当時では、相当なダメージだったと思われます。
この報告に翌日再度文部省に赴いた同校佐藤教授に、文部省係官は
「もう1日出火が早かったら駄目だった」
と告げたそうです。
「二十年史」の別項の佐藤教授の回顧談によると、このときの文部省係官(高橋事務官)の言葉には続きがあります。
文部省に駈けつけて、高橋事務官に、『こうこういう訳で、まことに申し訳けないことが起こりまして、校長が来るはずですが、大変取り込んで居りますので、私が代理でおわびかたがたご報告に伺いました。』といいますと、高橋事務官は『良かったですな。もう一日早く焼けていたら、あなたの方はもうだめですよ。もうパスしたあとですから、今更どうにもなりませんね。』という訳でした。
それにしても、こうやって戦前の学校の歴史を調べていると、戦災は別にしても、火事で校舎等を焼失することが多く、中には奈良医専のように、学校存続に関わる問題になったところもあります。

ところで、奈良県立医大は、医専設立時から、現在の橿原市にほぼ全施設を置いてきました。
これは設立時に附属病院として県農業会の協同病院を買収し、仮校舎もその近くに置いてきたからですが、奈良市に県立医大附属奈良病院が存在したことがあります。
日赤奈良病院が廃止された(昭和36年12月)のに伴い、奈良市を中心とした県北部に公的医療機関の必要が各界より要望され、それにこたえて創設されたのが県立医科大学附属奈良病院である。所在地は奈良市佐紀町86番地 - 近鉄西大寺駅東方600米の地に(中略)近代的設備を整えた総合病院として建設され、昭和39年4月1日、診療が開始された。
そのような組織は現在はありません。建物自体は現在は平城宮跡となっているあたりだと思われます。

奈良県立医科大学の歴史については他にも話題がありますが、続きはまた後日と致します。

※誤字訂正
[25257] 2004年 2月 23日(月)23:28:13faith さん
路面電車
[25243] 花の東京都民 さん
公園内には路面電車の他に,自転車専用道路や歩行者専用道路,せせらぎを設置しようかなと考えています。
ししおどしなども良いかも知れませんね。(笑)
さて、そういうことは置いといて
過去に市電を廃止した都市では,大体の都市が赤字の地下鉄を抱えその上財政難で苦しんでいます。
地下鉄を廃止して,路面電車を導入した方が黒字になると思うのですが(財政的にもね)。
夢のない議論ばかりしかけて(そうでないときは何十年も前の学校の話を…)恐縮ですが、路面電車にしたからといって、地下鉄の建設費が消えるわけではないことを忘れてはいけません(これがすでに回収できている路線であれば、それは黒字が出せているということになります)。
そういうことは別にしても、一旦、地下鉄のスピードと収容力に慣れた住民は、路面電車に戻りにくいと思います。
私も嫌いなわけではありませんが、路面電車って、率直に言ってかなり遅いですよ。
[25203] 2004年 2月 23日(月)01:14:21【3】faith さん
青森から弘前に移転した学校について
[25073] TGRSさん
[25023] まるちゃんさん

弘前は1889年に県下唯一の市になったぐらいですから、
・旧制中学。一中=弘前、ニ中=八戸、三中=青森
と言う風に、「一中」が弘前に置かれてもおかしくないだろうと思います。
もっとも、最初の県立中学校は一旦青森市に置かれたようです。「青森県百科事典」の「弘前高等学校」の項より抜粋します。もちろん、ここでいう弘前高等学校は新制の方です。
二中は弘前の県立中学校の分校が独立したものであることが分かります。
1884年(明治17)8月20日の創立で県初の公立中学校。青森県中学校として同年10月6日、青森県の新町にあった旧藩倉庫を仮校舎にあて開校した。翌年7月、廃校となった県医学校のため新築した校舎に移転。1886年9月、青森県尋常中学校と改称。弘前人士の猛運動で1889年5月、青森から弘前市元寺町の旧県立病院に移転となる。1892年6月、校舎全焼。本町の津軽産業倶楽部を仮校舎とした。翌年7月4日、八戸分校を設置。1894年1月、新寺町に新校舎が落成した。同年3月、青森県第一尋常中学校と改称、同年4月1日、八戸分校が独立し青森県第二尋常中学校となった。1899年4月1日、青森県第一中学校と、1901年6月1日県立第一中学校と改称。1909年(明治42)4月1日、県立弘前中学校となる。同時に木造町の県立第四中学は県立弘前中木造分校となった。1927年(昭和2)2月東奥義塾廃校に伴い4・5年生26人を各収容した。1948年(昭和23)学制改革により現校名(普通科)となる。
師範学校は、青森に本科が、弘前に予科が開設されてスタートしています。「青森県百科事典」の今度は「師範学校」の項より。
1876年(明治9)11月、青森新町に本校、弘前亀甲町に分校が創設され青森師範学校と称し、本校に本科生24人、分校に予科生のみ34人を収容、本県学校教員の養成に当たった。
もっとも分校は1884年には廃止になってしまいます。この後は青森に所在した師範学校ですが、[25042]に書いたように、戦災で弘前に移転します。弘前は戦災に遭わなかったために、移転先が確保しやすかったのでしょう。(軍都であり、軍用地を戦後転用できたものと思われますが、確認できていません。)上掲書には、
1945年米軍機の青森空襲で校舎焼失、翌年11月弘前市に移転し、1949年(昭和24)国立弘前大学の発足で同大学教育学部となった。
とあります。
一方医専も戦災が原因で弘前に移転します。上掲書の「青森医学専門学校」の項から抜粋します。
1944年(昭和19)5月、青森市野分国民学校を校舎に開校。(中略)当時は太平洋戦争中であり、国の軍医養成が主目的であった。1945年(昭和20)7月戦災をうけ校舎、付属病院を焼失、教官、学生に死者が出た。終戦後学校再建のため教官や学生は、浪打や大湊の旧軍隊に赴き実習、実験などの機材を運搬した。翌年7月ごろ学校存廃論が起きた。しかし、関係者の陳情や学生の文部省座り込みの熱意などで存続が決まった。そのころ焦土と化した青森市に存置するか、戦災をこうむらない弘前市に移転するかで両市の誘致合戦が繰り広げられたが、結局国の意向などもあり、弘前市に移転再建されることとなった。翌年3月校舎は当時の朝陽国民学校、付属病院は市立病院が充てられ業務が開始された。
なお、医科大に昇格したのは弘前移転後の1948年です。
したがって、[25042]
医科大、師範が弘前に移ったのは青森の戦災の関係のようですね。
の、「医科大」は「医専」の間違いです。訂正させて頂きます。

青年師範や女子師範については調査でき次第また報告します。(というか調べるのを忘れていました)
faithからすれば、これぐらいの情報は大学のホームページに載せて欲しいですね。

※誤字訂正
[25199] 2004年 2月 23日(月)00:09:41faith さん
名古屋駅、名鉄
[25163] ありがたき さん
名古屋駅ですが、JR東海の駅構内に設置されている表示板の表記で他社線は「近鉄線」「名鉄線」「地下鉄」となっています。
ご報告ありがとうございました。JR東海は東京(?)式なのかな。関西でもJRが他の私鉄をどう表示していたか分からなくなってきました。

[25168] 稲生 さん
他の方も書かれていますが、関連事業は「名鉄ホテル」のようにすべて「名鉄」ですから、自分たちでもやはり「名鉄」と思っているのでは?「新名古屋駅」も「名鉄名古屋駅」に改称すると聞いています。
[25149] 2004年 2月 21日(土)23:54:03faith さん
○○電車と○○線
[25134] special-week さん
[25132] Issie さん

情報ありがとうございます。Issieさんご紹介のCMは知りませんでした。
逆に、関西でも「近鉄線」と全く言わないかというとそういうことはないと思いますが、傾向としては[25123]で書いたようなことが言えるのではないかと思います。
名古屋の状況は知らないのですが、名古屋駅の近鉄はやはり「近鉄電車」と表示されているのでしょうか。
[25123] 2004年 2月 21日(土)12:56:53【9】faith さん
略し方の流儀、用語の違い
[25119] まがみさん他
大阪人は長い名前をすぐ略す
どこまで一般性があるのか分かりませんが、新京成の車内で、地域住民とおぼしき40代ぐらいの女性が「北習志野」を「きたなら」と略していたのを聞いたことがあります。

[25121] Issie さんも書かれていますが、長い地名を略す場合も関東と関西(大阪?)では別の方法を採っていることが多いように思いますがどうでしょうか。

関西…2つ以上の要素の先頭を取り出してつなぐ形で切り詰める (例 「天神橋筋六丁目」→「天六」)
関東…地名の一部を取り出す形で切り詰める (例 「神奈川新町」→「新町」 「北習志野」→「きたなら」)

[25121]Issieさん
「今度の電車」「つぎの電車」などの用法が東京圏と京阪神圏とでは微妙に違う
今は知りませんが、東急の渋谷駅で「こんど」「つぎ」という風な表示が行われていたのは有名でした。
どれが最初に発車するのか分かりにくいとされていたと思っていましたが、あれって関東の人にはそうでもなかったのでしょうか。

他に良く指摘される用語の違いとしては私鉄の路線の呼び方(駅で乗り場を区別する際などに用いられる総称のようなもの)があります。

関東…会社名+「線」 (例:「京王線」)
関西…会社名+「電車」 (例:「南海電車」)

「南海電車のりかえです」を東京風にいうと「南海線のりかえです」になるわけですね。

※誤字訂正
※後半を追加
※地名の略し方、私鉄の路線の呼び方で表示方法を統一
[25078] 2004年 2月 20日(金)21:20:00【2】faith さん
福岡市交通局、大阪地下鉄の放送
[25052] いっちゃん さん
そう考えると民営の路面電車の代替が市営の地下鉄というは珍しいですね。
福岡市は、市バスも市電も持たなかったので、福岡市交通局は、市営地下鉄の開業にともなって新設されたとのことです。

[23566] スナフキん さん
おそらく、
「た」にまちきゅうちょうめ、とか「な」がほりつるみりょくちせん
は、標準語のアクセントのつもりで発声されたものと思われます。

※後半を追加
[25042] 2004年 2月 20日(金)03:26:39【4】faith さん
大学の統合
[25029] ryo さん
しかし、これだけなら松本(中信)・長野(北信)2ヶ所で済む話です。
しかし念には念を入れてというか(笑)、繊維学部は東信(上田)、農学部は南信(箕輪)と
前身校のあった場所に留める事でさらに4地域のバランスをとっているのはさすが?です。
結果的にバランスを取っていることになりますが、前身校のある場所にそのままキャンパスを置き続けているということかと思います。
繊維学部…上田蚕糸専門学校
農学部…県立農林専門学校

特に上田蚕糸は、1910年の創立時にはこの分野では唯一の官立専門学校であり、誇りも高く、戦後の新制国立大学発足時にも、秋田鉱専とともに最後まで単独で大学に移行することを主張したようです。そのような経緯も、統合移転がこれまで実現しなかったのに関係しているかも知れません。

[25023] まるちゃん さん
なぜ青森県の国立大学は,県庁所在地の青森ではなく,全学部が弘前に置かれることになったのでしょうね.

医科大、師範が弘前に移ったのは青森の戦災の関係のようですね。
国立の大学側からみれば、統合できた方が好都合なわけで、信州大学としても、理想を言えば統合したいが、現実的ではないということでしょう。
広島大学が附属施設以外を2つのキャンパス(霞・西条)に集約した今となっては、(北海道教育大学は別にして)信州大学は国立大学では最も「分散度」が高いでしょうね。

※事実と異なる記述を修正
[25041] 2004年 2月 20日(金)02:30:01【3】faith さん
広島県立医学専門学校の移転
[25023] まるちゃん さん
現在,国立大学医学部となった施設で,市を超えて移転したケースもあったのですね.
おっしゃる通りです。
ただし、[24865]には書きませんでしたが、県立医学専門学校は、戦時中の医師不足、結核などの疾病増加に対する対策として、1945年に広島市に開校したものだったのです。
入学者を選考したものの、学徒動員中であり、授業は夏まで始めることはできませんでした。以後、特記しない限りは前掲「包括校史」よりの引用です。
当時、中等学校卒業者は、四月以降も在学中の勤労動員先での作業の継続が指令されており、七月に入って動員を解き授業を許可するということになり、八月八日、開校式を行う旨入学許可者に通知が出された。六月末から七月二十日にかけて出校の連絡を受けたものが旧広島師範校舎にしだいに集まり始め、林校長ほか職員とともに附属病院から机や実験材料などを大八車に積んで校舎に運んだり、校舎の清掃や整地作業を行った。市内の生徒以外は専売局前と広電車庫前との二軒の下宿を割り当てられていた。しかし、本土空襲の頻繁な折から広島で講義をすることは危険であるとして、八月八日の開校式を五日に繰り上げて、高田郡小田村の高林坊に疎開することとした。(『三十年史』)
『三十年史』とは「広島大学医学部三十年史」のことです。

上の引用で、「旧広島師範校舎」とあるのは、広島県師範学校が、1941年に広島市東雲(しののめ)町に移る前の校舎です。(広島県師範学校およびその後身の広島大学学校教育学部はその後、1990年代の西条移転まで東雲に所在します。)
このように、医専の設立にあたっては、なるべく既存施設の活用を図りました。
校舎および設備については時局柄既存施設を利用することとし、建築可能な時期が到来すれば本校舎および附属病院の完備をはかるが、それまでは仮校舎として皆実町の元広島県師範学校(県立商業学校)の旧校舎を一〇万円の費用で一部改造して利用することとした。附属病院としては県立病院をそのまま充てることになった。

医専の疎開の話の続きです。
八月五日、皆実町の校舎に入学許可者を集めて開校式を行い、式後直ちに机・椅子等の荷物を馬車・荷車に積んで広島駅に運び貨車四両に積み込んだ。昼過ぎ疎開先の高林坊がある甲立駅へ出発の予定であったが、集まった生徒も先生も初対面で誰が広島医専の者かわからないようなこともあって、出発に手間取り、荷物を残して生徒が終列車で広島を離れたのは午後八時であった。
その翌日、広島市に原爆が投下されたのである。
この結果、教職員や生徒で広島市に残っていた者は亡くなっています。校舎も附属病院も焼失し、特に病院としてすでに機能していた附属病院の被害は大きいです。
ちなみに上の引用に出てくる甲立駅とは芸備線の甲立駅です。

このような悪条件の中、医専は授業を開始します。
小田村に疎開した生徒に対しては八月八日から授業が開始された。場所は高林坊と同村の国民学校であった。八日には形式的な入学式も行われた。
しかし、小田村時代は短期間に終わります。
その後高林坊の都合で新しく他の校舎を探す必要に迫られ、そのうえ食糧難とともに消化器官系統疾患が生徒中に多発したため、九月十六日から臨時休講し、校長は次の開校指示があるまで広島近辺の者は被爆者の治療に当たるよう生徒に訓示し、高林坊での生活を終えた(『三十年史』)。
この結果、[24865]
女高師と同時期に安浦町に移転した広島県立医学専門学校
と書いたように、安浦町に医専が移転します。
原爆被災後、広島市の電信隊跡へ校舎を作ろうということで、生徒の勤労奉仕で建築材料を集めたこともあったが、当時広島に住めるかどうか疑問視する向きもあり、一時他へ移転することになった。関係者の奔走で豊田郡忠海町へという話もあったが、加茂郡安浦町の元安浦海兵団跡に移転することを決定し、十二月六日に開校した。この地は駅の南側、内海川との間にあり、同時に移転した広島女子高等師範学校と折半して使用した。
上の引用で「駅」とあるのは呉線の安浦駅のことです。安浦の校地は駅とは至近距離にあります。
このころ、医専の存続が危ぶまれることがありました。
占領軍の総司令部の教育改革のなかでも医学教育の改革がいちはやく着手された。それは日本の保健衛生を向上し発達させるために不可欠のことであった。昭和二十一年(1946)四月の米国教育視察団報告書中には、日本の医学校には程度の低いものがあり、それらについては適当な最低標準に到達さっせるか廃校処分に付すべきであり、新しい計画作成のための専門家の研究を要すべき旨を述べているが、医学教育期間については標準をつくることになり、二月に委員会が設けられた。(中略)三月には医学教育審議会が結成され各医専を視察することになった。
医学教育審議会の勧告に従って医学教育の改善を目指した文部省は、医学教育刷新改善要綱を作成した。これによると、医学の学校は昭和二十六年度限りで大学教育に統一することにし、現にある医学専門学校は一定の基準に照らして大学昇格の可能性があるかどうかを調査判定すると同時に、在学生徒に対する教育の実情を調査して、A級・B級の医学専門学校に判別することに定めた。A級の修業年限は五年とされ、B級の学校に在学する生徒は昭和二十二年度中にA級の学校または高等学校・大学予科に転校させることとした。
昭和二十一年(1946)四月当時、文化都市広島再建には総合大学がぜひとも必要であるという希望があるにもかかわらず、文理大の四国移転問題が持ち上がっており、総合大学の一環をなすべき県立医専も存廃の岐路線上に立っているということで関係者の注目を集めた。
このように、一方では広島総合大学には医学系の高等教育機関が重要なのに、肝心の医専の存続が危うくなっている…という状況で、地元では存続運動が盛んになります。
県医師会では昭和二十一年四月二十九日、同会の加藤安芸支部長を会長として広島医専後援会を結成し、五月初めには運動費一一万円を集めていたが、医大実現も夢ではなくなったとして県民の世論に訴えるいっぽう、広島医専大学昇格期成同盟を結成して運動を強化することにした。
五月十九日、安浦の同校内に、県・県会・医師会・市町村・父兄等の代表約三〇名が出席して同盟結成を決議し役員を選出した。(中略)林校長はこの席で二年以内に医学教育審議会の学校施設標準までに整備しなければ廃校の運命にあると述べ、県民の支援を求めた。
県参事会でも早急に運動を進めないと廃校の恐れがあるというので運動促進にのり出し、県首脳部・学校側で県教育部学務課内に医科大学建設委員会(会長は知事楠瀬常猪)を組織し、場所探しに東奔西走し、大竹・比治山高女・宇品国立病院を視察しりしたが、適当な場所がなかった。当時いまだ生徒の人数が少ないため校舎は問題でなく、大学昇格には附属病院の有無が成否のカギであるため、九月に至り同盟会では病院として呉共済病院、校舎に広共済病院を充ててもらうように呉市に交渉し、広島軍政部にも了解方を陳情した。しかし病院側は附属病院となることを希望せず、また両病院は共済協会の所有であったため譲渡交渉はなかなか進まず、一時、学校と共同利用することが提案された。しかし、文部省は借家は認めないという方針であった。同盟会側は、これはいま廃校にならぬための応急措置であり、今後予算をとって病院を建てると説明をして文部省の了解をとった。病院譲渡のことで呉市出身の水野貴族議員に協力を要請したところ、これが契機となって本格的な呉市誘致運動が起こったのである。
呉市誘致については、すでに高林坊時代に呉市が助役を派遣して広共済病院と仁方の仁風園を提供するから呉市へ移転するよう申込み、安浦での開校式のときも大学昇格問題とともに呉市誘致の話が出ていたという(『広島医学』第五巻第八号)。
このようにして話はまとまり、広島県立医科大学の設立認可申請書が文部大臣に提出されますが、また問題が起きます。
本校は安浦に設置し、附属医院は呉市市民病院を本院、市立呉病院と安浦附属病院を分院とし、外来臨床実習委託病院として呉・広共済病院を充てるという内容であった。ところが、一月二十九日の医専A級・B級を決める第一回校長会議で、総司令部・文部省から(1)医科学校はその属性からして都会地に定着すること、(2)基礎および臨床は同一地区内にあること、という原則が出されたためB級校の内定をうけ、さらに二月になって文部省は、学校は安浦町、附属病院は呉市にあるといった状態では認可する上に難点があるとの見解を示してきた。このほか教授陣や資金面が貧弱であることも問題となった。
そのため、両共済病院の接収に見通しをつけ、安浦分院を廃止する、教員を拡充強化する、呉二河公園内の復員局を基礎校舎に充てるなどしてさらに文部省と折衝を続けたとのことです。結局医専は安浦から呉に移転します。
二月十五日、医専の安浦から呉への移転作業を行い、この間生徒は呉市内などで医専存続の署名運動を展開した。同二十五日、文部省の視察医院が来呉、三月十六日の第三回校長会議でA級校の指定を受け存続が確定した。及第点スレスレであったという。その後、文部省で開かれた医専の医大昇格に関する審議会にパスし、認可は確実となった。
四月一日、安浦の仮診療所は閉鎖されて阿賀分院(旧市立呉病院)と合併した。呉市から委譲された附属病院本院(旧呉市市民病院)には本館を建築中であったが、工事完成間ぎわの同月六日放火によって焼失してしまった。
六月十八日、文部省告示をもって、広島県立医科大学の設立が認可された。
ただし、このときはいくつか条件が付けられており、その一つに
大学予科開設は本年六月なるも学部開設については再審査の上追って指示すること
というのがありました。専門課程の開設時に再度審査します、ということです。このため、県は広島県の市町村から寄付金を集め、体制強化に力を入れます。(特に呉市の貢献は大きいです。)
その甲斐あって、医大昇格が決定します。
昭和二十三年三月十五、十六両日、医大昇格委員会一行が学校の諸施設を視察し、二十三日の文部省審査委員会で昇格が決定し、文部省から正式認可された(三月十日付)。短期間でここまでこぎつけたのは、広共済病院の買収に成功したこと、建設費寄付金のうち、呉市からの六〇〇万円獲得の見込みがたったからであった(『中国新聞』昭和二三・三・二五)。
このように呉市の協力のもとで存続、開学した県立医専・県立医大なのですが、結局は県立医大の国立移管によって1957年に呉を離れ、広島市霞地区に移転して現在に至ります。
「円満解決」の条件として、広島大学医学部附属病院の分院が呉市広に残ったと「包括校史」にはあります。これがその後どうなったのかは分かっていません。

これとは別施設とは思いますが、
http://www.city.kure.hiroshima.jp/mitekure/mite13_02.html
には以下の記述があります。
ところで、呉海軍病院の施設に国立呉病院(現・国立病院呉医療センター)が開院した背景には、広島大学医学部の移転問題があった。1955年、施設の不備などを理由に呉市より広島市へ移転を表明した医学部に対して呉市から不満の声が上がった。過去に市立病院などを大学へ無償貸与し、医科大学から総合大学になるために多額の寄付を行っていたからだ。そこで当時の厚生大臣が、「広島市にある国立病院を呉海軍病院に移転し、中国地方における国立病院の基幹病院とする。その代わり広大医学部を広島市に移転する」といった妥協案を出し、1956年国立呉病院が誕生したのである。

※誤字訂正
※皆実町の旧広島県師範学校校舎についての説明を追加
[24916] 2004年 2月 17日(火)01:33:47【1】faith さん
キャッチアップ
LRTについては皆様の書き込みは勉強になりました。

[24902] 花の東京都民 さん
JR東日本の日光線のことでしたら40年も前から電化されていますよ。(日光形電車というのもありましたよね。)
ところで、水を差すようで悪いのですが、日光線って大改造して採算が取れるようなものなのでしょうか。そんなに沿線人口がいたのかなという疑問が先に立ちます。
新規投資して市内と直結して割に合う交通機関というのは現状でもそれなりにフリークエントサービスが行われて、それなりに乗客を集めているところじゃないかと思います。

[24873] 般若堂そんぴんさん
山陽電鉄をひどく
誹謗に同調するわけではありませんが、そういえば、「山陽電鉄ってすごい」という絶賛はあまりみたことないですね。並行するJRにない強烈な特徴(京浜急行みたいな)が打ち出せず、苦労しているように見えます。私も「がんばって欲しいなあ」と思っています。
[24859]まがみさんが書かれているように、須磨あたりの晴れた日の見晴らしは格別です。すぐ近くのJR山陽線でも私的にはOKですが。
これは特に山陽電鉄についてではなかったと思いますが、このあたりの車窓について、故宮脇俊三さんが「通勤電車でこういう景色が見られるとは、関西の人がうらやましい」と書かれていたことがあります。

[24863] いっちゃん さん
これが知事の意見です。
私は同意できませんが、様々な視点があるかと思いますので、みなさんのご意見もお伺いできればと思います。
私には知事の意見は常識的だと思います。
趣味の観点では「客が増えるに違いない」で良いのでしょうが、
「客がいつ、どれだけ増えるのか。それは維持できるのか」が問題になるのが経営というものです。
そのような点を明確にしないうちから安易に計画を進めると、おそらく有権者がつけを払う結果になると思います。
本来慎重であるべきで、積極的でないからといって謬見と決め付けることはできないでしょう。
いっちゃんさんのようなLRTに関する深い知識はないのですが、LRTだったら建設費や運営費のオーダーが違ってくるというわけではないと思うのですが…
また、知事は自動車についても割と深いことを言っているのではないでしょうか。

経営といえば、
[24894] いっちゃん さん
経営と運営の分離といった発想は残念ながら日本にはまだまだ先進的過ぎるのでしょうか?
JR貨物がやっているような上下分離(運営と所有の分離)によって、所有は各企業体に分かれていても、運営はボーダレスにすべきということでしょうか。
[24876] 2004年 2月 16日(月)00:16:31【7】faith さん
広島青年師範の福山移転(続々 広島大学附属福山高の沿革について)
[24865] で、
(広島女子高等師範学校は)高田郡吉田町の広島青年師範学校内に一時疎開し、授業を再開するとともに学校復興の準備に着手した。
とありながら、その後福山に移転したことで、また広島女子高等師範学校が広島青年師範学校と統合されたといういきさつが分かりにくいと思います。
これは、女子高等師範学校が吉田町から、安浦町時代を経て福山市に移転する間に、青年師範学校が吉田町から福山市に移転していたものです。
青年師範学校の福山移転は、女子高等師範学校の福山移転とは異なり、主体的に行われたものでした。以下「包括校史」によると以下のようです。
福山市移転問題は、昭和二十一年三月の福山市会における広島青年師範学校を福山市に誘致する決議に端を発する。しかしこれより先、広島青年師範学校では、将来大学に昇格するためには広島県中部の山間部では立地ならびに敷地の条件が不利であると考えていた。この動きに呼応して福山市長はじめ関係者は、積極的に福山市移転誘致の運動を開始した。広島青年師範学校と福山市との協議もなされ、翌二十二年三月には広島青年師範学校移転大学昇格期成同盟会が結成された。この期成同盟会は、広島青年師範学校を福山市に移転し、さらに大学に昇格しようとする意図で結成されたものであった。さっそく期成同盟会では、寄付募集趣意書を各方面に配布し、移転・大学昇格資金の寄付募集を開始した。
広島青年師範学校の生徒も演劇班や映画班を編成して、県内各地で上演・上映し、さらにバザーを開いてその資金を稼いだ。かくして福山市移転は決定的となったが、その間、吉田町では福山市移転に対して反対運動がおこり、住民感情も険悪な状態となることもあった。しかし移転は学校の将来のためとして強行された。
話はそれますが、学生の「演劇班」や「映画班」で資金が稼げたところに、娯楽に飢えていた当時の人々の様子が想像できます。
昭和二十二年(1947)六月二十日、福山市沖野上町の旧暁部隊跡(現在広島大学教育学部福山分校・水畜産学部)に移転を完了した。当時この跡地には、福山税務署・広島地方検察庁福山支所・福山市立第三中学校・国立福山病院等一九に及ぶ官公庁学校等が同居し、広島青年師範学校の校地は三〇〇八坪、校舎は九一七坪にすぎなかったが、その後官公庁学校等は他に移転し、校地・校舎は拡張されていった。これによって大学昇格への第一段階である移転問題は解決し、さらに第二段階への新しい歩みを続けることとなった。期成同盟会は広島青年師範学校大学昇格期成同盟会と改称された。
この頃は単独昇格による「福山農産科大学」を構想していたとのことです。

なお、青師の附属学校については、[24853]と重複しますが、以下の経過をたどります。[24853]にも書きましたが、継承関係を持つ後身校が現存する青師の附属学校は、結局戦後に新しく開設されたものとなります。
それが後から福山に移ってきた女高師側の附属学校と統合され、現在の広島大学附属福山中・高等学校となる経緯はやはり[24853]にまとめた通りです。
附属学校は、福山市移転によってその年の四月、吉田町の附属青年学校を県に移管し、同時に学校教育法に基づく新制の附属中学校を設置した。また、七月には福山市立実業学校および実践女学校の一部を代用附属青年学校とした。翌二十三年四月には、福山市立高等学校(市立実業学校、市立実践女学校、市立実科高等女学校を合併)の一部を附属高等学校としたが、同二十四年五月に県下学校再編成により県立に併合され廃校となったため、単独に附属高等学校を新設した。なお昭和二十六年三月、広島青年師範学校の廃止により、これら附属学校は広島女子高等師範学校附属高等学校、広島大学教育学部附属福山中学校となり、さらに附属高等学校は、翌二十七年三月広島女子高等師範学校の廃止により、広島大学教育学部附属福山高等学校として受け継がれていった。

※誤字・脱字訂正
[24865] 2004年 2月 15日(日)16:14:51【9】faith さん
広島女子高等師範の福山移転(続 広島大学附属福山高の沿革について)
ますますマニアックになっていきますが…

[24853]で、広島大学附属福山高の沿革について論じましたが、その最も重要なポイントは、女子高等師範附属学校の福山移転に伴う、青年師範附属学校との統合だと思います。
このときの移転は、[24853]には書きませんでしたが、附属学校だけでなく、女子高等師範自体の移転を伴うものでした。
これにより、戦災を受けて安浦町に移転していた女子高等師範が、後身を含めるとその後1980年代終わりまでの約40年所在することになる福山市緑町(当時福山市沖野上町)に移転することになります。
その経緯を、「広島大学二十五年史 包括校史」(以下「包括校史」)、「広島大学二十五年史 部局史」(以下「部局史」)を元に再構成したいと思います。
以下、特記しない限りは「包括校史」の記述です。
広島女子高等師範学校は、戦後、吉田町、安浦町と移転したが、いずれは元の広島市の校地へ復帰するというのが関係者の念願であった。しかし、突然、福山移転の問題がもちかけられた。
「二十三年五月桜井校長が文部省に出頭されると思いがけなく文部省から、福山市郊外大津野にある進駐軍兵舎が近く日本側に引き渡される予定であるから、広島女高師はそこに移転してはどうか、という勧告を受けられた。(中略)ところが、数日後まだ学校としては態度が決定しないうちに、校長は文部省からの招電に接して上京、帰来報告によると、文部省の態度は極めて強硬で、名は勧告であるけれども実はほとんど命令であり、又大学問題打ち合わせのため居合わせた在広国立学校長連もしきりに奨めるので、ついに承諾したとのことであった。」(広幸亮三「福山市移転問題覚書」)
福山移転問題の発端は、文部省からの勧告であったが、そこには広島女子高等師範学校を福山市に移転し、広島青年師範学校と合体することによって、広島大学設置の基盤を拡充、強化しようとする広島大学設置関係者の意図があったようである。なお、最終的には大津野の用地は、新設予定の広島大学水畜産学部(福山市沖ノ上町の広島青年師範学校の一部)との校地交換がなされた。
覚書の著者広幸亮三氏は、当時広島大学教授、同安浦分校主事です。
細かいことですが、青年師範の所在地の表記は「包括校史」では「福山市沖野上町」「福山市沖ノ上町」の二通りが混在しており、どちらが正しいのか不明です。

上の引用で吉田町への移転が言及されていますが、これは、安浦町に移転する前に緊急避難的に疎開したものです。
広島女子高等師範学校は、昭和二十年(1945)八月六日の原子爆弾の投下によって校舎・設備等を一切消失し、一度の授業も行われないまま敗戦となった。学校の復興は危ぶまれ廃校の噂が立ったこともあったが、約一ヶ月後の九月七日関係者の努力で、高田郡吉田町の広島青年師範学校内に一時疎開し、授業を再開するとともに学校復興の準備に着手した。
戦災を受けてやむを得ずとはいえ、この吉田町への移転で青年師範との縁が生まれたとも言えなくもないです。
なお、女子高等師範としては一度も授業を行わないまま終戦を迎えたのは、[24853]にも書いたように、学徒動員を受けていたためです。
ここから吉田町から安浦町への移転については、下記のようにあります。
学校復興に着手するため、とりあえず吉田町の広島青年師範学校に疎開した広島女子高等師範学校では、広島市の元の校地に校舎を再建する見通しも立たず、敷地・建物・立地条件の整った適当な施設を探していた。旧軍関係の施設がいくつか候補にあがったが、そのうちで加茂郡(現在豊田郡)安浦町の旧海兵団跡は、広大な敷地と二階建て木造兵舎が残っており、そこに収容可能なことがわかった。関係当局との折衝の結果、そのうちの一〇棟あまりが広島女子高等師範学校校舎に当てられることになった。かくして昭和二十年十二月五日に、分散授業をしていた附属山中高等女学校も合体して、この旧海兵団跡に移転した。
附属山中高等女学校が分散授業をしていたというのは、以下のような状況を指します。かなり惨めな状況におかれていたことが分かります。いずれにしろ、これほどの非常時にもここまでして授業を確保しようとした関係者の使命感には頭が下がります。
附属山中高等女学校においては、安佐郡祇園町山本国民学校内、安芸郡府中町府中国民学校内、高田郡小田村広島高等師範学校附属中学校修練場内の三か所に分散して授業が再開されることとなったが、平常は借用先の学校の授業があるため、土曜日の午後と日曜日に行われるのみであった。

話は戻って、後にも触れますが、福山市への移転については、関係者は必ずしも歓迎しなかったようです。
広島女子高等師範学校は、昭和二十四年(1949)五月三十一日、広島大学に包括され、その名称を広島大学広島女子高等師範学校と改め、在籍者の教育を続けた。なお前述したとおり福山移転問題も未解決のままであった。福山移転問題からさらに昭和二十四年秋には、呉市広町にある進駐軍兵舎への移転話も持ちかけられた。
「これに刺激されて安浦分校教官の間には色々の意見が抬頭した。それは各科一致した意見ではなく音楽科は広島に、家政科は呉に、体育科は福山にと各線(ママ)であった。呉市移転問題に刺戟された福山教室ではまず受け入れの礎石として校地東南隅の二階建二棟を公費で改修し又附属保護者の寄付により附属校舎一棟を新築した。かような空気の中に二十五年一月を迎えると女高師生徒の中から、福山移転反対の烽火があげられた(前掲「覚書」)。
そういえば、ピーク時には人口40万人を数えた呉市にこれまで師範学校等の教育機関の設置がなかったのも意外ですね。
ただし、1947年から1956年の間、広島県立医学専門学校、広島県立医科大学(旧制)、県立広島医科大学(新制)が順次呉に置かれていたという事実はあります。もちろん広島大学医学部の前身です。ちなみに、これは女高師と同時期に安浦町に移転した広島県立医学専門学校が呉市の誘致を受けて移転したものです。

再度女高師の福山市移転問題に話を戻して
この反対運動には、広島大学教養部自治会も応援し、しだいに激化した。附属学校保護者の間には福山移転反対期成同盟会のようなものもできたようである。一方、呉市では誘致運動が行われた。ただし、これらの広島説や呉説は単なる理想論、推測論にしかすぎず、広島大学評議会において福山市移転が再確認された。しかし、その移転の時期は検討もつかない状態であったところ、同年三月九日、学寮より出火し、学寮一棟、校舎二棟ならびに附属建物二棟、延べ一九七二坪その他二○○○点余りの物品を消失した。出火の原因は漏電によるものと推定されたが、ともかくこれが偶然のきっかけとなって、その年の五月に福山移転が強行されることとなった。ただし、体育科だけは、同年十一月一日に福山市に移転した。なお附属学校の生徒は、第一学年のみ福山市に移り、その他の生徒は、通学上その卒業まで引き続き安浦校舎において授業が行われた。
ここでは、新1年生についても、一旦安浦町に通学した後に福山に移転したようにも読めますが、安浦町から福山市に通うことが困難なのは新1年生も同様なので、このようなことはないと思います。
実際「部局史」には以下のような記述があります。
両附属学校の統合は、昭和二十五年四月、女高師附属中学校、同高等学校の一部が福山市沖野上町に移転して、新一年生(高等学校は普通科・農業科)を募集し、一年生を持たない青師附属中学校、同高等学校と合併して、開校するという形で、行われることになる。
なお、女高師本体と附属学校の一部の移転の時期が前者は五月、後者は四月とずれていますが、附属学校一年生の授業を福山で開始したのが四月と解釈できると思います。
上の引用で、高等学校は普通科・農業科とありますが、農業科を置いたのは、統合相手の青師(およびその後身)の教育実習上の必要を考えてのようです。この後家政科も置かれますが、これは女高師側の必要によるものでしょう。再び「部局史」より
昭和二十七年に設置されたときの、広島大学教育学部附属福山高等学校の生徒定員は、学年ごとに普通課程四学級、職業課程農業科一学級であったが、昭和二十八年から、学年ごとに、普通課程四学級、職業課程農業科一学級、同家庭科一学級と改められた。
職業課程の農業科一学級はぜひ持たねばならなかった。当時太平洋戦争中からの食糧不足は続いていて、農業はきわめて重要な産業であり、本附属学校に置いても、農業科教員免許取得のための教育実習を行う学生は、昭和二十八年度に一一人、同二十九年度に八人といったふうであった。教育実習実施を使命とする本校としては、教育実習の場をつくるため、農業科を欠いてはならなかったのである。家庭科を置いたのも似通った理由による。家庭科教員免許取得のための実習を行う学生は、総和二十八年度に四一人、同二十九年度に五〇人といったふうで、普通課程の家庭科の授業だけでは、教育実習の場が不足であった。
なお、ここまでの引用にも出てきますが、女高師と青師、あるいはその附属学校同士の統合は、女高師側からは歓迎されていなかった節があります。「部局史」にもそのあたりの事情をほのめかしているところがあります。資料の性格上詳しく立ち入ってはいないのですが、女高師としての歴史は短いとは言え、[17249]で言及したのと似た事情が広島でもあったのではないでしょうか。このあたり、機会があれば山中高等女学校/女高師サイドの記述も見てみたいと思います。
両附属学校は、昭和二十四年五月、広島大学の設置により、同大学に包括され、広島大学広島女子高等師範学校附属学校、また、広島大学広島青年師範学校附属学校となった。しかし、両校の統合については、女高師附属学校側から、受け入れ側の青師附属学校および福山市側に対する諸種の要求事項があったうえ、形の上ではもとより、気持ちの上でも、全く別々の学校であって、その実現は容易でなかった。
なお、1950年の5月には附属学校の新校舎が福山に完成しています。「部局史」より
昭和二十五年五月、福山市沖野上町の、旧陸軍歩兵第四十一連隊跡での一区画では、木造二階建ての新しい建造物を前にして三〇〇人以上の人々が祝宴を開いた。P・T・Aの寄付にかかる普通教室八教室分の校舎が、建築費二一四万三〇七八円で立てられ、同年四月三十日に竣工した落成の催しである。附属学校の旧校舎は、旧兵舎の内部を、教室向きに改造したもので、暗く、風通しが悪く、不便であった。ここにはじめて、校舎建築としての校舎が建った。しかも、この新校舎落成の意義は、そのことだけにとどまらない。女高師附属学校と、青師附属学校とは、気持ちのうえでは、この新校舎落成によって、はじめて真に統合し、新生したのである。

※てにをは修正
※吉田町、安浦町への移転の経緯についての記述を追加
※読みやすくするため、空行を少し追加。つなぎの言葉を挿入
※安浦町への「疎開」を「移転」に改める
※附属山中高等女学校の分散授業についての記述を追加
※誤記修正
※呉市に医専、医大が所在していたことを追記
[24858] 2004年 2月 15日(日)02:01:32【5】faith さん
広島大学附属三原学園
[13278]委員長殿
これに青年師範系も絡んだ結果、附属高が広島と福山に複数存在していると考えます。一方、附属中は三原駅前の城址にもありますが、ここは福山校と系列関係にあるのかな?
福山については[24853]に書き込んだ通りです。各附属学校の系統に関して、簡単に私の結論を書いておくと以下のようです。

附属学校系統
広島高等師範学校附属
福山女子高等師範学校附属+青年師範学校附属
東雲広島県師範学校附属
三原広島県三原女子師範学校附属

福山と三原の関係については[13347] せかさんが
三原は福山よりも東雲に近い関係にあるといえますね。
と書いておられます。確かに広島県師範学校と広島県三原女子師範学校は戦時中の官立移管で、広島師範学校のそれぞれ男子部、女子部となるので、そのような見方もできますが、「近い」「遠い」という観点よりも、上のように整理する方が分かりやすいように思います。
この「広島大学附属三原学園」(三原にある附属学校の正式な総称)は、1962年に教育学部三原分校(附属学校でなく大学の分校)を同東雲分校に統合したときに同時に廃止されていてもおかしくないような気がしますが、下記のような事情から廃止は難しかったものと思われます。「広島大学二十五年史 部局史」より抜粋します。
師範学校男子部は、東雲分校の現在地である広島市東雲三丁目にあったが、女子部は広島県三原女子師範学校が昭和十八年の右の制度改正によって改組されたものであって、広島市を隔たる約七五キロメートルの三原市館町にあった。したがって、昭和二十年代に入っても、所在地も離れ合併後なお日の浅い男子部と女子部には、一つの学校としての一体感が十分育っているとはいえなかった。ことに女子部の場合、県立女子師範学校の時代から、同一敷地内に県立三原高等女学校が併設されており、附属学校を加えてあたかも独立した一個の女子学園の体裁をなしていた。こうした事情は、新制大学の発足ならびに後の東雲・三原両分校の統合に、いろいろな意味で影響を与えたものである。
上の引用で、「右の制度改正」というのは、官立移管にともなって、女子師範学校から、師範学校の女子部になったことを指します。
突然ですが、上に引用した部分は、横溝正史の推理小説の初めの方で、読者に設定を説明している文章となんとなく感じが似てますね。
昭和二十六年(1951)一月末に、文部省の大学設置審議会第九特別委員会は、東雲・三原両分校について特に視察を行った。同委員会の動向に対して、同年三月、三原分校主事は「広島大学三原分校存置要望理由書」を大学設置審議会に提出した。しかし、同年五月、前期第九特別委員会は「三原分校を廃止し、東雲分校と福山分校とに統合、福山分校も究極において広島に統合する」ことを勧告するに至った。このようにして、その後複雑な様相を呈した三原分校の存置問題は、新制大学発足後間もなく始まったのである。
ところが、もともと三原女子師範の誘致にかなりの犠牲をはらった三原市民にとっては、三原分校の廃止は三原市最高の文化機関の喪失を意味することもあって、等閑にできない重大問題であった。したがって、この問題が政治問題化することはいわば必然のなりゆきであった。
上の引用で「三原女子師範の誘致にかなりの犠牲をはらった」とありますが、「広島大学二十五年史 包括校史」によると、女子師範学校の発足にあたり、三原町(当時)は同校の敷地12609坪のうち、約1500坪の土地を寄付したとあるので、このことでしょうか。他にも何か負担したのかも知れませんが分かりません。
評議会は三十二年度より三原分校を東雲分校に合併することを決議し、大学としては一応この問題に最終的な決定を下したが、学外においては、三原分校同窓会や三原分校存置期成同盟会などが三原市議会をはじめ、広島県議会、衆議院文教委員会など政界にも働きかけ、三原分校存続の運動、あるいは四年制昇格運動を精力的に展開し、そのため、統合の実現は容易ではなかった。
結局は、上に書いた通り、1962年に三原分校は東雲分校に統合されます。
上の引用で「四年制昇格運動」とあるのは、当時三原に置かれていたのが、二年課程の小学校教育科のみであったためです。
なお、三原町に女子師範学校がおかれた経緯については、上掲資料には以下のようにあります。
その新設地については広島・三原・尾道・五日市・廿日市等が候補にあげられたが、交通ならびに位置・気候・水質、教員生活などの適否による選定基準とともに、県下全体の普通教育の普及をはかるために、男子師範学校のある広島市に対して女子師範学校は郡部に置くこととし、結局広島県御調郡三原町(現在三原市)に決定した。

※横溝正史の推理小説への言及を追加(わざわざ追加するほどのものではありませんが)
※てにをは修正、&→+と修正
※一部の分かりにくい表現を修正
[24853] 2004年 2月 15日(日)00:30:43【3】faith さん
広島大学附属福山高の沿革について
ここで、Valentine's Day に相応しい華やかで timely な話題を…

[17122] 委員長殿
広島大学教育学部では高等師範と青年師範の系譜を擁する関係から、特に青師系の福山高の沿革がややこしそうですが、残念ながら詳細は不明です。
について調査したので報告いたします。(参考文献「広島大学二十五年史 包括校史/部局史」)

広島大学の教育学部福山分校が、広島女子高等師範学校と広島青年師範学校という2つの前身を持っていたため、やや複雑になっていますが、現在の附属学校の起源は私立の山中高等女学校と、戦後設立された青師系の附属学校にあります。
青師系の附属学校の改廃はかなり複雑なのですが、現在につながるものは、福山移転後に新たに設立されたものです。

もうひとつ特筆すべきことは、女高師附属の母体となった山中高等女学校は、1899年の高等女学校令公布以前から高等女学校を名乗る老舗であったことです。

1.広島女子高等師範学校附属学校の系譜

時期できごと
1888.1広島高等女学校開校(私立)
1902.4私立広島高等女学校と改称 (広島県立広島高等女学校が設立のため)
1919広島高等女学校と改称
1921.10財団法人山中高等女学校となる(財団法人認可)
1945.4広島女子高等師範学校付属山中高等女学校となる 
国家寄付により、新たに発足した女子高等師範の附属校となったもの
学徒動員により、女子高等師範附属学校としては一度も授業を行わない
まま原爆投下で校舎を消失。
1945.12加茂郡(現豊田郡)安浦町の旧海兵団跡に移転
(県立医学専門学校も同時期にここに移転)
1947.4広島女子高等師範学校附属中学校(新制)設置
1948.4広島女子高等師範学校附属高等学校(新制)設置
1950.4福山市沖野上町(現緑町)に移転
福山で中学校および高等学校新1年生を募集
中学校および高等学校の在校生は卒業まで安浦町で授業を受ける。
青師の附属学校には1年生がいない(募集しなかったと思われる)ため、
このことは、福山で両校の附属校を統合したことになる。
1951.3広島女子高等師範学校附属山中高等女学校廃止
1951.4広島大学教育学部附属福山中学校を設置
1952.3広島女子高等師範学校附属中学校、高等学校廃止
1952.4広島大学教育学部附属福山高等学校を設置

2.広島青年師範学校附属学校の系譜 (現在につながらない継承関係は省略)

時期できごと
1947.4附属中学校(新制)を福山市に設置
1948.3福山市立高等学校の一部を附属高等学校とした
1949.5福山市立高等学校の県立併合により、単独に附属高等学校を設置した
1951.3広島青年師範学校廃止にともない
附属中学校は広島大学教育学部附属福山中学校
附属高等学校は広島女子高等師範学校附属高等学校
になる

ややこしいですが、各学校ごとに見ると、以下のようになると思います。
下記中、たとえば 「2,3…福山」は、2年生、3年生が福山にいたことを示します。

時期学校学年備考
1950.4青師附属中学校2,3…福山
青師附属高等学校2,3…福山
女高師附属中学校1…福山, 2,3…安浦
女高師附属高等学校1…福山, 2,3…安浦
1951.4広大附属福山中学校3…福山前年まで青師附属
女高師附属高等学校3…福山前年まで青師附属
女高師附属中学校1,2…福山, 3…安浦
女高師附属高等学校1,2…福山, 3…安浦
1952.4広大附属福山中学校1,2,3…福山前年まで女高師附属
広大附属福山高等学校1,2,3…福山前年まで女高師附属
[24784] 2004年 2月 12日(木)21:25:12faith さん
御津町
[24783] またーりさん

御津町のお話を読んで驚きました。
町議会の態度は不可思議のように見えますが、要するに、姫路に合併すると議席が大きく減るからいやだということでしょう。
どこと合併するにしても、そんな町議会は追い払った方が町民のためのような。
[24767] 2004年 2月 12日(木)04:49:39faith さん
鶴橋駅の韓国語、ブラジル系住民
[24741] 夜鳴き寿司屋さん
[24738] 月の輪熊さん

鶴橋駅の韓国語表示は住民構成というよりは、観光客のためのようですね。

[24763] 夜鳴き寿司屋さん
中京圏では東京に匹敵するほどのブラジル人社会が形成されているようです。

そういえば、ブラジル銀行の支店が東京以外にも、日本国内にいくつかあります。
いずれもブラジル系住民が多いところと考えられます。

http://www.bancobrasil.co.jp/Port/voce/agencias/agencias.html
[24722] 2004年 2月 10日(火)21:43:43【1】faith さん
誤字遊び
[24703] 太白 さん
ちなみに、Googleで「米原市」を検索すると100件以上ヒットします。
全然話がそれてしまいますが、島取県とか鳥根県とかありそうな間違いをサーチするという遊びがあります。
公的な機関のサイトも含めて結構ヒットするのが笑えます。社会常識のない人が、字形だけ見て入力しているのか、一旦活字文書になったものをOCRで電子化しているのか…

※表現を少し修正
[24721] 2004年 2月 10日(火)21:24:44faith さん
近鉄駅の外国語表記
[24653] 月の輪熊さん
[24639] なおさん
[24638] はにわさん
近鉄名古屋線でホーム・通路の案内板に中国語・韓国語の表記がありましたね。
たぶん大阪線・京都線・奈良線などでもあるとは思いますが。
私が覚えているのは鶴橋駅(大阪線)、大和西大寺駅(奈良線)です。
下記によれば、上の2駅以外にあべの橋(南大阪線)もそうらしいです。

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00476/contents/016.htm

おそらく他の近鉄の主要駅にも例があると思いますが、そのような情報をまとめたサイトが見つかりませんでした。
鶴橋駅に韓国語表記があるのは、地域の特性(韓国系の住民が多く住む)から考えて、ある意味自然なことと思います。
[24611] 2004年 2月 8日(日)00:03:18【4】faith さん
岐阜の路面電車、命名の自由など
意図は理解できるのですが、特定の参加者についての批判的な言及は最低限で良いと考えます。他の方が言われているように元気良く復帰されることを望みます。

[24570] みかちゅう さん
岐阜の路面電車については、1971年に刊行された保育社カラーブックス「路面電車 消え行く市民の足」に以下のような記述があったのを覚えています。(手元に現物がないので、うろ覚えで引用します。)
名鉄では将来岐阜が40万都市になったときにバス輸送では限界があるとして、路面電車に力を入れていく方針である。各地で路面電車が廃止される昨今であるが、岐阜の電車には何だか希望が持てそうである。
確かに、複電圧・オールクロスシートのモ600形など、なかなか意欲的な印象を受けました。それから30年… 感慨深いものがあります。

大阪と堺を結ぶ阪堺電軌(元南海電鉄阪堺線)についても、会社側は堺市内区間を廃止したいという意向です。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200312160011.html

[24405] なきらさん
「ア段」と言いますね。

[24599] オーナー グリグリさん
メンバー紹介に載るほどの議論を再度繰り返すのは避けて、今回は口を出さないようにしていたのですが、一点だけ。
自由と効率は両立しません。
各自治体に自らの命名の自由を与える以上は、それによる効率の低下を許容範囲に抑えるようにシステムを構築する必要があるでしょう。

※第1センテンスの表現を少し修正
※てにをは修正
[24585] 2004年 2月 7日(土)02:27:52faith さん
散漫なレスです
[24577] 般若堂そんぴん さん

「本命」の方からさらに4WDで山を登ったところです。

[24580]花の東京都民さん

顔の見えない掲示板でトラブルはつきもの。元気を出して下さい。
[24528] 2004年 2月 5日(木)23:59:59【1】faith さん
大分駅の勘違い
[24508] なお さん
実は大分駅は30年前にはもうありました。
今Webで調べたところ、どうみても60年代から70年代の建物ですね。
何か新しくてさびしい駅だったような気がするのですが、私が勘違いしているのでしょうね。それともあれは大分ではなかったのかなあ。駅のラーメン屋で夕食を摂っていたら、酔っ払った客が不潔な食べ方をしており、それを平然と見ている店員のことと合わせていやあな感じがした記憶があります。ってこんなことを書いてもなおさんは困るだけですね。(そもそも大分駅でのできごとじゃないかも知れないし)
そして2008年にまた大分駅が立て替えられます(ビルかドーム型のようです)
高架化も行われるようですね。

※文章を少し修正
[24526] 2004年 2月 5日(木)23:46:55faith さん
米沢
[24488] 般若堂そんぴん さん
faithさんがいらっしゃった中心街はどのあたりだったのでしょう?
大沼デパートや米沢信用金庫の本店(だと思います)がある交差点のあたりです。
私、旅行先でデパートに入るのも好きなんですが、今回は残念ながら、ここまで歩いてきたときに温泉行きのバスの時間になり駅に引き返すことに。
でも、その後バスは結局同じところを通ったので(要するに引き返す必要はなかったのです)、おっしゃっているホテルサンルートの前も通過し、米沢の中心街を観察できました。飲み屋なども結構あるようですね。
faithさんが米沢の温泉を楽しんでくださったのでしたら嬉しいのですが(もちろん,置賜地方や山形県の様々なところも!).
ありがとうございます。
米沢温泉郷では今回がまだ2つ目の温泉だったのですが、前回に行った姥湯温泉と言い、今回の温泉(ここまでの記述でお分かりかも知れません)と言い、実に良かったです。
あんな温泉群に気軽に(行こうと思えば)行ける米沢の人たちが羨ましい!
[24487] 2004年 2月 4日(水)23:56:23faith さん
大分・広島駅前
[24476] なお さん
大分駅は外観がいいのですが、周りの環境が良くありません。
何年か前に一度だけ訪れたことがあります。おっしゃる通り、駅はすごく新しかった記憶があります。
広島もそうですが・・・
広島駅前は今でこそ再開発が進みましたが、それまでは人が集まるようなところではなかったのではないでしょうか。
今でも広島の中心街といえば駅から路面電車で20分ぐらい行った紙屋町あたりでしょう。
[24460] 2004年 2月 4日(水)01:59:53faith さん
東京の街並み・米沢・山形観光
[24455] 花の東京都民 さん
地方都市は駅前に行けば何でもありますから,素晴らしいですよね。東京みたいに街並みが汚くないし。
地方都市といってもいろいろで、中都市クラスでもお茶を飲むところにさえ困るような代表駅もあります。
中心街と駅が離れているのは割と普通のことですし。
(前にも書いたかも知れませんが、この点ではむしろ東京が例外だと思います。)
faith からみると、表通りに限っていえば東京は慨して建物が新しいので、街並みがきれいに見えるような気がします。
看板が氾濫しているのは地方都市だって同じですし。
花の東京都民さんのようには東京を知っているわけではないですが。

[22056] 般若堂そんぴん さん
面積だけは大いに伸びたのですが(笑).
最近米沢を訪れる機会があり、このお言葉の意味がよく分かりました。あの温泉たちがみな米沢市域だったのか…
もう何度もも冬の米沢の駅には降り立っていますが、米沢の中心街に足を踏み入れたのは初めてでした。

米沢自体の話ではないですが、現地でタクシーの運転手さんに
「山形に遊びにきました」と話すと
「山形なんて遊びにきても何もないだろ」
と言われてしまいました。
でも私にとっては米坂線もあるし、良い温泉もあるし、素晴らしいところです。

山形市の方では山形駅の隣の霞城セントラルの大きさに驚きました。テナントが埋まるのかなと心配にならないでもないですが(浜松でACT CITY を見たときの心配と同種の心配です)どうなのでしょうか。
23階の「まちづくり情報センター」の展示はなかなか興味深かったです。
[24166] 2004年 1月 26日(月)01:07:27faith さん
何か私が知らないことが
[24165] 愛比売命 さん
なんと、函館名物、ハセストの焼き鳥弁当が鳥インフルエンザの影響で販売禁止になったとか。。。

鳥を使った焼き鳥弁当もあったのでしょうか?
http://www.hakodate.or.jp/hasegawa-store/
[24022] 2004年 1月 22日(木)01:59:02【1】faith さん
東側・西側
[24006] 花の東京都民 さん
西欧や米国は敵対してきたわけですが、何故日本だけが東側と交流を持ってきたのですか?
これは基本的な認識が異なると思います。他の皆さんも説明されていますが、掲示板だけでは断片的になりがちです。
20世紀後半の世界史について図書館にでも行って関連書籍をいくつもひもといてみるとかされるのはいかがでしょうか。
これだけ興味を持っておられれば、吸収は水のように早いことだろうと思います。

「デタント」という言葉も死語となりましたね。

[24009] 月の輪熊 さん
「西欧や米国は敵対してきたが、日本だけが東側と交流を持ってきた」という部分は事実です。
私の認識とは違うようです。
例えば旧西ドイツでは「東方外交」(Ostpolitik でしたっけ)と呼ばれるある種の宥和政策が長い期間、対東欧外交の基調となっていたと理解していますが?
イタリアのフィアットが旧ソ連やポーランドなどの旧共産圏諸国で国産化されていたのはなぜ?
私のような素人がちょっと考えても「日本だけが交流を持っていた」は正しい主張とは思えません。
いろいろな年齢の方々が参加されているだけに、「個人の見解の相違」で片付け難いものがあります。

※後半を追加
[23942] 2004年 1月 20日(火)01:23:31【2】faith さん
京都交通に会社更生法
京都交通が会社更生法を申請というニュースを見て、路線バスは儲からないんだな、と改めて感じました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000020-kyt-l26

ここに書かれた不振の原因(少子化・高齢化・山間部の過疎化・自家用車の普及)は京都北部・中部だけに当てはまるものでもないので、今後も続くところが出てくるかも知れませんね。

[23939] スナフキん さんも書かれていますが、.exe の添付ファイルは絶対に実行してはいけません。
[23918] 2004年 1月 19日(月)03:06:57【2】faith さん
首都について
[23915] 牛山牛太郎 さん
当時、天皇の「勅命」が無かったのも確か事実です。京都をはじめ関西に居住の方々は、このことはどのようにお思いでしょうか?
非京都人である関西人の私ですが、今さら天皇に京都に戻って頂いて何か良いことがあるとも思いません。(これは天皇制に対してどう考えるかとは別の話です)
一般的に、関西(大阪)の衰退を残念に思う気持ちは私にもありますが、東京と張り合うような発想はないですね。周りでそんな発想を口にしている人自体見たことありません。
大阪が東京といろんな分野で拮抗していた時代を知っている世代であればまた違うのかも知れませんが…

※第1センテンスの表現を修正、続く()内の文章を追加
[23909] 2004年 1月 18日(日)22:56:50【1】faith さん
州都一極集中
[23907] 花の東京都民 さん
でも九州が一つの州になった場合一極集中にはならないのでしょうか?
個人的な考えですが州都(または道都?)は熊本市が良いのではないかと。ほぼ中央にあるので。
実際九州総合通信局のような九州全体を管轄する国の部局でも熊本に置かれているものがあるのはそれが理由でしょう。
ただ、私見ですが、州都への一極集中が進むような形の道州制は北海道(札幌)、関東(東京)以外では、「非州都所在府県」が受け入れず、実現しないでしょう。
北東北3県の道州制に向けた動きも、「東北州」の枠組みでは、仙台および宮城県が当然のようにヘゲモニーを握ることを予期した動きという面もあるのではないでしょうか。(遠く離れた関西で私が勝手に想像しているだけですが)
そういえば、井上章一さんがかつて「近畿における大阪は、関東における東京のようには、近隣各県から尊敬されていない」というような意味のことをどこかで書かれていたのを思い出します。

※てにをは修正
[23896] 2004年 1月 18日(日)11:44:40【1】faith さん
共和国軍
[23889] 般若堂そんぴん さん
1995年版には IRA (アイルランド共和軍)を「アイルランド共和国軍」と記していましたからね.
「イミダス」は持っていませんが、この表現は私も妙だと思っていました。これだと北隣の国の正規軍みたいに聞こえますよね。
ただ、般若堂そんぴんさんはご存知でしょうが、この訳は
「アイルランド共和派軍(事組織)」とか、「アイルランド共和国樹立を目指す軍(事組織)」の単純な誤訳ではなく、歴史的にみれば、完全な誤訳とも言い切れないところがありそうです。(私は今回調べて初めて知ったのですが)
(参考)
http://en.wikipedia.org/wiki/Irish_Republican_Army

※第1センテンスの表現を修正
[23859] 2004年 1月 17日(土)02:13:21faith さん
タオル美術館
[23809]花の東京都民さん
確かに「象徴」となっていますがほとんどの書物には「元首」となっているはずです。
それに事実上「国家元首」ですし。
これについては議論が分かれているようですね。確かに儀礼的にはそのような扱いを受けているようです。

[23854] 般若堂そんぴんさん
遠回りな話ですが、愛媛にタオル美術館というところがあって、そこにタオルと関係のない古いおもちゃの展示のコーナーがありました。それ自体興味深かったのですが、そこで見た中に、皇太子(現天皇)ご成婚記念の雑誌付録か何かで、皇太子夫妻の塗り絵みたいなものがあり、驚いた記憶があります。(記憶はあまり正確ではないですが、だいたいそのようなものだったと思います。)今だったら考えられないですよね。

この場で政治的主張をするつもりはないのでこのあたりにして、タオル美術館は、なかなか面白かったですよ。近くを通りかかられた方はお立ち寄りになるのも一興かと。

http://www.ichihiro.co.jp/art/

アーカイブ担当の皆様:
先日のお願いに早速対応頂き、ありがとうございました。
[23693] 2004年 1月 12日(月)12:52:42【3】faith さん
○○を掲げるということ
[23690] 月の輪熊 さん
韓国の歴代政権が「反日」を掲げてきたというのは事実と思います。
政権当初には「未来志向」を唱えた金泳三・金大中両政権も政権末期には反日っぽくなってきましたし。
月の輪熊さんにそう書かれてしまうと、お若い花の東京都民さんの眼には私の書き込みの信憑性などなくなってしまうかも知れませんが…
韓国政府が具体的な案件について、日本政府に頻繁に抗議したりすることと、「反日を掲げる」、つまり韓国政府が「一般的に、日本という国に敵対的行動を取ります・日本が自国の利益を追求するのを阻止します」というようなことをポリシーとして、それを公言することは全然違うと思います。この二つは区別すべきと思うのです。
通常は、日本と国交がある国で後者のようなことはあるはずもないと私は思うのですが、実際に両政権の末期にはそのような事実があったのでしょうか?

[23682]オーナーグリグリさん
理解しました。ご説明をありがとうございます。

アーカイブ担当の皆様
[23651] でお願いした2件に加えて、以下も同じアーカイブに追加頂けないでしょうか。

[21266] 深海魚さん

※「反日を掲げる」の説明を少し修正
[23677] 2004年 1月 12日(月)02:15:55faith さん
軍隊を持った方言
[23664]花の東京都民さん
中国のように日本語も分けてはいかがでしょう?
方言と言語に厳密な線引きがあるわけではないので、そういうことも考えられます。実際には琉球語は日本語とは別の言語として取り扱われるようです。
「国語とは軍隊を持った方言である」
という面白い言葉があります。誰が言ったのか忘れましたが。
全然違いますが、「プロイセンは国家を持った軍隊だ」というのもありました。

日本のテレビドラマに対する批判が出ていますが。
言いたかったことが十分に伝わらなかったようです。
両国民にはもちろん利害の対立や歴史の評価をめぐって意見が合わないことが沢山あります。これは当然のことです。(個人的には、相手の批判はすべて受け入れよと言わんばかりの主張が「良識ある意見」としてまかり通る現状はおかしいと思います。)
だからと言って、韓国やその国民のことを「反日を掲げている」と表現しないで下さい。それは全然意味が違います。

[23672] キュッキュ さん
女性単数形"la"のついたところが思いつきませんでした。
フランス語起源ですが、La Salle とか。

[23663]inakanomozart さん
faith さんも「Corazon de melon」御存知なのですね!
子供のころからTVで何度か聴いた記憶があります。-on の脚韻の響きが印象的です。
そういえば、かつてのフィリピン大統領はCorazon Aquino さんでしたね。
クオーレという対応するイタリア語形は多くの方が耳にされたことがあると思います。車にもあったような気がするし。
[23662] 2004年 1月 11日(日)21:47:45【1】faith さん
条例などについて
[23657]花の東京都民さん
反日が強いのですね。あと考え方も習慣も違うし反日を掲げているのにも拘らず何故日本のテレビドラマを放送したのでしょうか?
言葉は正確に使いましょう。
韓国という国が反日を掲げているというようなことはありません。
テレビ局もそうではないでしょう。
考え方や習慣が違うといえば、日本と日本以外の外国はどことだって何か違いがありますよね。

ベルギーは連邦制に移行しましたね。あれは王国ですか?
そのようですね。
ちなみに "CIA The World Factbook" によると
federal parliamentary democracy under a constitutional monarch
と表現されるもののようです。
立憲君主の下での連邦制・議会制民主主義政体
というところでしょう。

http://www.odci.gov/cia/publications/factbook/geos/be.html

日本では「条例」という拘束力があまり強くない?ものになっています。
強制力という意味では条例で罰則規定を設けることもできますし、現実に違反者が逮捕されています。法律との違いですが、専門ではないのですが、法律に矛盾した条例は作れないというところにあるようです。
日本国憲法94条より
地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

※「考え方や習慣が…」のセンテンスを少し修正
[23651] 2004年 1月 11日(日)14:22:03【1】faith さん
Corazon de melon♪
[23640] キュッキュさん
・・・デルコラソン、って何なのでしょうか??
たぶんスペイン語で,"of my heart"の意味だったかと・・・。
厳密にいえば "del corazon" なので "of the heart" ですね。でもおっしゃるように、文脈によっては "(of/at, etc.) my heart" という意味にもなります。(英語との文法の違いのため)

[23639] 両毛人さん
高度な議論についていけていないところもあり、的外れかも知れませんが、先日岩手県の久慈市を鉄道で通りかかる機会がありました。休日の朝だったので、列車は久慈に遊びに・買い物に行くらしき人々でかなりの乗車率で、そのような人々が降りた後、列車はすっかり空いてしまいました。
こういう、地域の大都会の活気を見るのはfaith の旅の楽しみの一つです。人口からいうと久慈は小都市以外の何者でもないのですが。

[23604] オーナーグリグリさん
理解しました。お気遣いありがとうございます。
唯一つ確認したいのですが、深海魚さんの学校史関連の書き込みが「企画趣旨」に合わなかったということなのでしょうか。

アーカイブご担当の皆様、問題がなければお手数ですが、下記の発言をアーカイブ「旧制中学系高校データベース」に追加して頂けないでしょうか?

[22968] faith
[22974] いっちゃんさん

※てにをは修正


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