[4564]Issie さん
>はじめのうち,京成は押上から当時の東京最大の繁華街である浅草へ乗り入れるべく東武と競争をしたのですが,結局は負けてしまい(東武が浅草へ乗り入れた),おまけに東京市会を舞台にした疑獄事件に発展してしまったのでした。そこで方向転換をして,上野への乗り入れを目指したわけです。
なんと興味深いです。そういう経緯があれば納得出来ます。それにしても東武に負けて、上野へ向かう時、青戸駅から分岐して日暮里経由して上野へ目指してたんですね。それにしても上野駅とはいえJR上野駅から離れている理由はなんだったのでしょうか?京成上野駅開通は確か昭和8年?6年?かな?
[4549]桃象@国仲涼子ファン さん
興味深かったのですが、現在合併特例法として騒がれていますが、土浦・つくばとの合併というか、それ以前に土浦が霞ヶ浦町と千代田町と新治村(八郷町と石岡市は未定だが)と合併してからつくばと合併する形はあまりお薦めしたくないなぁと私は思っています。もっとも土浦市は行政でつくばは商業なのでバランスよく合併出来れば最高だと思いますが、妄想だけで終わってしまいそうです(涙)
犬猿の仲みたく仲が悪いのです。何よりも証拠に土浦学園線でつくば東部と土浦西部の間に何もありません。常磐自動車道があるだけです。
>ご存じのように,茨城県の県南地方には20万人を超える人口を有する市がありません。このような地域にどれほどの鉄道輸送隊系が必要なのかと言うことも考えてみる必要もあるように思い
筑波鉄道はともかく、大正時代当時の人口は茨城県は千葉県と埼玉県より上だったはずですが、スタートラインは一緒だと思います。だからあの時鉄道を開通してたらどのようになっていたかと思うのです。
>つくばエクスプレス(常磐新線)が赤字垂れ流しにならなければいのですが。つくばエクスプレス開通に伴う地域開発も問題だらけと言うか,日本の地域都市計画はいずこに?という感じです。
都市公団問題が炙りだされていますね。実は常磐新線の沿線近くに住む私なのですが、なぜかいつもと違う雰囲気が漂わせているのです。活気があるっていうか人の流れがつくば中心部から見て土浦方面よりも水海道方面の方が多く流れてるように感じています。それにつくば中心部はマンション建設や一戸建て新築など目立ってますし、葛城地区は既に商業向けの建造物を建設してるところがあり、つくば地区だけはまだマシでも萱丸・谷和原・伊奈地区は大きな問題でしょうか。
でも開通してみないと分かりませんね。
確かに赤字は覚悟だけど、筑波学園都市は元々国のものですしいきなり廃線するとは考えにくいです。だから少しでも良くなるように開通したら出来るだけ秋葉原まで乗ろうかと思っていますよ。少なくとも常磐線よりもこっちの方が早いからです。
>>常磐線土浦駅は明治時代に設置されましたが,土浦駅が設置された所は川口川(旧桜川)を中心とした湿地帯(一部は田畑)でした。高架道の下にある水門は当時の名残りの一部でしょう。その後次第に土浦駅と土浦城跡の間の地域が開発され,昭和時代初期(7~9年)には,土浦駅と土浦城跡の掘の間を流れていた川口川の一部が埋め立てられて,現在の亀城通の大半が完成しました。旧小網屋の前にある石碑に書かれている,霞ヶ浦の境界云々の話は江戸時代の話だと思います。私もちょっと不思議な気がするのですが,明治時代の土浦はアムステルダム市のように水路を利用した交通網が発達した街だったようです。
すみません。これは私に対するレスだったのですね。連休中に一大イベントがあって忙しかった為かすっかり忘れて見逃していました。有難きレス頂きまして有り難うございます。
そうだったんですか、確か商店街の下にコンクリートで閉じこめられた川が流れてるのがあったと聞いています。それが元々川口川だったんでしょうか?立体駐車場の近くに霞ヶ浦へ向かって川も無いのに橋が掛ってた所がありました。(今は整地され真っ平らな道路になっています)
霞ヶ浦~橋~水門(のそばに鉄道を跨がる木製の橋もありました)~石碑~土浦址の掘へとこれならほぼ一直線になっていることが分かり長年疑問があり続けていた事が今はっきりと解けました。