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Issieさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81722]2012年8月28日
Issie
[81717]2012年8月28日
Issie
[81710]2012年8月27日
Issie
[81693]2012年8月25日
Issie
[81692]2012年8月25日
Issie
[81472]2012年8月15日
Issie
[81431]2012年8月14日
Issie
[81290]2012年8月10日
Issie
[81287]2012年8月9日
Issie
[81269]2012年8月7日
Issie

[81722] 2012年 8月 28日(火)21:57:15Issie さん
分断された郡
[81720] 白桃 さん
それはともかく、この海部(あま)郡ですが、むじながいりさんのパラパラ地図をご覧いただければおわかりになると思いますが、当初、名草郡によって3つのブロックに分断されております。

「海部郡」という郡は,紀州のほかにも尾張(愛知県)や阿波(徳島県),豊後(大分県),さらに異表記の「海士郡」という形で隠岐(島根県)にもありました。ただし,尾張の海部郡は中世に分割されて大正に再統合されるまで「海西郡/海東郡」に分かれ,さらに海西郡は木曽川の流路の変化による濃尾国境の移動によって美濃にもまたがり,こちらは明治後期の郡の統合により岐阜県の「海津郡」の一部になりました(「津」は統合相手の“下石津郡”)。
漢字表記が表すように,海での活動を生業とする集団である「あま部」に由来する郡で,だから全部が海のそば。
紀州の海部郡の場合,名草郡との境界のラインは古代からは少なからず変わっているだろうし,紀の川の河口デルタや和歌浦あたりの地形もかなり変わっていて,沿岸に点在する海部郡郡の領域の“陸地”からの隔絶性は今よりも高かったかもしれません。あるいは,後に名草郡の領域が陸地から拡大してきてそうなったのかもしれませんが,やはり「海人集団の郡」ではあるのでしょうね。

このような郡の分断例は結構珍しいのではないでしょうか?

珍しくはありますが,“2分割”であるならほかにもいくつか例がありました。
たとえば,「海津郡」を経て今は「海津市」の一部になっている前出の「下石津郡」。当然,“上”があるわけで,1878年の郡区町村編制法によって「上石津郡」と分割されるまでは両者合わせて「石津郡」でした。上石津郡に相当する区域は大垣市に編入された2006年まで丸ごと「上石津町」でしたが,下石津郡 とは隣接しておらず,間に 多芸郡 がはさまっていました。海西郡+下石津郡 で「海津郡」ができたとき,上石津郡はその多芸郡の大部分と合わされて「養老郡」となりました。

間に別の郡がはさまって分断された分かりやすい例が,武蔵(埼玉県)の 入間郡。ここでたびたび話題になるように,奈良時代の初めに朝鮮半島からの渡来民とされる人々を入植させた「高麗郡」が入間郡内に設けられて,その高麗郡が間に割り込んだせいで入間郡は2つの領域に分断されました。この状態が解消されるのは,高麗郡が入間郡に編入された明治半ばのことです。
※地図をよく見ると,両入間郡はその付け根部分で蝶番のようにわずかにつながっていなくもないのですが,現実にはほぼ無視してよいでしょう。

伊豆(静岡県)の北西隅にあった「君沢(きみさわ/くんたく)郡」も2つ領域に分かれていました。
三島市の大部分と,旧伊豆長岡町(現伊豆の国市),旧修善寺町西半(現伊豆市)と沼津市の内浦地区から旧戸田村,そして伊豆市の旧土肥町にかけての区域。間にはさまる函南町(田方郡)で分断されています。ちなみに,函南町のうち狩野川左岸の 日守地区 のみは 駿河国駿東郡 からの編入です。
実は 君沢郡 という郡は古代には無く,近世初頭までに田方郡から分割された郡であるようで,わざわざこの形にしたのには何か面白い話があるのかもしれません。

安芸(広島県)の「豊田郡」も2つの区域に分断されていました。
広島県では1956年に 豊田郡 と 賀茂郡 の町村の間で所属の交換を行い,以降は 豊田郡 が島の部分も含む沿岸部,賀茂郡 が内陸部の呼称となりましたが,それまでは 豊田郡 は内陸部も含めて東側の沼田川流域,賀茂郡 が 竹原 以西の沿岸部・島も含めた黒瀬川流域までの区域を領域としていました。
この「賀茂郡領域」の中で,現在の竹原市南西端の 吉名地区 と,それに隣接する東広島市(旧安芸津町)南東端の 木谷地区 だけが豊田郡に属していました。一見,この部分が“豊田郡の飛び地”であるようにも見えます。ただしもう少し広く見ると,この“飛び地”部分の対岸の 大崎上島・下島 および 豊島 も豊田郡で,そうして見ると逆に 竹原周辺 が「豊田郡領域」に割り込んでいるようにも見えます。ちなみに,上・下蒲刈島 は元は賀茂郡の島。

まだほかにもあるかもしれませんが,とりあえずはこれだけ。
ただ,確かに3つに分割される紀州の海部郡は珍しい例でしょうね。
[81717] 2012年 8月 28日(火)01:52:16【1】Issie さん
播磨と飾磨
[81713] グリグリ さん
飾磨という郡名そのものは、播磨国の「磨」との関連があるのでしょうか。

ちょっと調べてみたのですが,とりあえず「磨」という漢字自体にはあまり意味がないように思います。

「はりま」については,6世紀以前に「国造」が配置された段階では「針間国造」,あるいはそれから分かれたとされる「針間鴨国造」というのが見られ,つまり早い段階では「針間」という表記が行われていたようです。「針間国造」や「針間鴨国造」の“縄張り”は今の播州平野のあたりなんでしょうが,それぞれがどの領域に当たるか,今ここでは確認できません。
(※「鴨」というのは後の「加西郡/加東郡」のもとになった「賀茂郡」のことなんでしょうね。そうすると「針間鴨」の方が東播地方で,「針間」の方が西播地方ということになるのでしょうか。)

一方「しかま」の方は,たとえば“いわゆる大化の改新”期に全国に「評(こおり)」が編成されたときには「志加麻評」という表記が行われていたようです。「しかま」という地名自体は播磨以外にもわりと多く分布していて,たとえば「色麻」なんて表記も行われていますよね。
「播磨」「飾磨」という表記に固定されてくるのは律令による国郡の編成が進んでいく過程のことであるようで,たとえば「多磨郡」という表記もあり得るように(よく見かけるのは「多麻」「多摩」という表記ですが),ここでは単純に「ま」という音にあてた漢字,いわゆる“万葉仮名”の一つと見た方がいいように思います。

あるいは漢字による表記以前に“語源論”的なレベルで「ま」という音自体に何らかの意味がある,という分析をすることが可能かもしれませんが,そこまでさかのぼると最早「播磨/飾磨」という枠を超えたもっと根源的な議論になってしまいそうです。
さしあたり,「播磨の一部という意味合い」を読み取るのはかなり飛躍しすぎかな,と考えます。

参考までに,こんなページ がありました。ここでは日本書紀や風土記にかなり忠実に播磨・飾磨の古代について説明しています。
[81710] 2012年 8月 27日(月)19:59:18Issie さん
択捉焼山
先ほどNHKの「7時のニュース」でやっていたのですが,択捉島の「択捉焼山」という火山がやや大きめの噴火をしているのだとか。
たとえば ここの記事 によれば今月の15日に噴火が始まったことが,17日には伝えられていたようですね。しかし,私は先ほどのニュースまで気がつかなかった。
「わが国の領土」でありながら,やはりこちら方面の情報が入りにくいのは致し方ないところでしょうか。とりあえずググってみても,初めの方でヒットしたのはここにリンクをするのが憚られるようなページばかり。かなりめくって,やっと時事通信の記事にたどり着いた次第です。

でも,「択捉焼山」って聞いたことがない。「単冠山」(←やっぱり一遍には変換されません。戦記物に詳しいIMEなら一発?)とか,「散布山」なんて山なら聞いたことがあるような,ないような…。国後島の「爺爺岳」はよく聞く名前ですが。
そこで地図を見てみる…。
改めて見ると,択捉島は特に,一列に並んだ火山の複合体なのですね。細長い島の北から南まで点々とそびえ立つ山のほとんどが火山であるらしい。そのたくさんの火山の中から最初は「焼山」という字を見つけることができませんでした。何回か島の上を往復して,やっと真ん中へんの「小田萌山」を中心とする山の塊の中に見つけました。
現実にはほとんど意味のない地名呼称ですが,島の中部を占める「択捉郡留別村」に属するようです。

参考までに 気象庁のページ も。こちらでは今回の噴火はまだカウントしていないようです。ちなみに,ロシア名は「イワン雷帝山」というそうで…。
※島の名前は「イトゥルップ島」。ほぼ日本語と同じ名前だけど,これをもっとロシアっぽい名前にするなんて話が最近あったけど,どうなるのだか。
[81693] 2012年 8月 25日(土)21:29:21【2】Issie さん
狸の××
[81692]
…というわけで,アップし直し。


[81674] 白桃 さん
下関といえば、
♪お萩がお嫁にいくときにゃ・・・
という「リパブリック賛歌」の替え歌を思い出しました。

[81690] hmt さん
でも、私は ♪お萩がお嫁に…という替え歌の「存在」を知りませんでした。

そうですね。私も知りません。
地域に加えて世代の違いもあるかもしれません。

権兵衛さんの赤ちゃんが…、
一人一人が腕組めば(阪田寛夫作詞『ともだち讃歌』)、

これは小学校で教わりました。俗謡的な「おたまじゃくし」に対して,“学校公認”というところでしょうか。

学校で教えてくれなかったけどいつの間にか子どもたちの間で教わっていたのが,「狸の××」の歌。近年,池袋からヨドバシカメラの牙城に進出して競争著しいビックカメラがCMソングに使っているやつですね。
これはプロテスタント系のキリスト教会が持ち込んだ讃美歌が元歌なのだそうですが,間に昭和初期の流行歌である「タバコ屋の娘」(作詞・薗ひさし、作曲・鈴木静一。ただし,「薗ひさし」というのは 鈴木静一 の別ペンネームなので,実は作詞・作曲は同一人物らしい)がクッションとしてはさまっているかもしれません。

「権兵衛さんの赤ちゃん」は今ここで話題の「リパブリック讃歌」バージョンとは別に,「烏の赤ちゃん」に変わっていますがほぼ同じ内容の歌詞に“+α”部分を加えて「パイノパイノパイ」(東京節)の節で歌うバージョンもあって,男声合唱曲に編曲されてグリークラブなんかが歌っています。
私たちの世代ではドリフターズが「バイノバイノバイ」と歌っていた(←よく聞いてみると“半濁音”ではなく“濁音”に変わっている)のが記憶にあるのですが,「パイノパイノパイ」は大正期の流行歌。すでに東京駅が開業して「東京の中枢は丸の内」になっている一方,浅草には「十二階」がある(=つまり,関東大震災前),というわけで年代が割と絞られそうな歌です。元歌は開国後わりと早い時期にアメリカから持ち込まれた「ジョージア・マーチ」という軍歌で,これも南北戦争がらみ。

南北戦争はアメリカ国内だけで終結せずに,そこで使用された兵器の中古品が大量に輸入されてそれが幕長戦争から戊辰戦争で使用されたというのはよく指摘されることですが,南北戦争の頃にアメリカで流行して輸入された歌が日本人にとって初めての「洋楽」だったからか,讃美歌のように格調の高い歌から「狸の××」のように学校で教えてくれないくらい下品なものまで(私も含めて,小学生は「下品」なものが大好きです),

孔子や孟子が酒飲んで

のような軍歌・学生歌(これは軍歌に詳しい同僚に教えてもらいました)から,果てはいわゆる“春歌”(「下関」はこのジャンルに入るでしょうかね)まで,さまざまな替え歌の素材を提供してくれました。
※ちなみに,「下関」に類するような歌,私も学生時代にいろいろ教えてもらいましたが,今の学生さんはどうなんでしょうね。「セクハラ」と言われれば,それまでなんでしょうが。

【追記】改めて歌詞を見に行ったら,どうも考え過ぎていたみたいですね。「下関」はどちらかというと,“大人の男性の歌”というより「狸の××」に近い“子どもの歌”でしょうか。
…ま,そんなとこで。

そんな南北戦争の時代に生まれた歌の一つに "Tramp, Tramp, Tramp" という歌があります。
私は学生時代にエスペラントを教わったのですが,その時に教えてもらった歌の一つに "La fluanta tajdo"(潮の流れは)という歌がありました。今船出をしようとする若者たちに「潮の流れは君たちにある」と言ってこれからの航海の幸福を祝う内容でエスペラントの歌詞がつけられていて,その調子の良さと歌詞の内容が気に入って好きになった歌の一つでした。その当時,私はエスペラント・オリジナルの歌と思っていたのですが,ある年末,新宿の地下街で救世軍の楽隊がこの歌を演奏しているので驚いてしまいました。キリスト教関連の歌なのかな,その時はそう思っていました。けれども,なかなかその“原曲”に出会えずにいました。
ところがある日,ネット上をさまよっていくうちに,これと同じ曲に出会いました。それは 北海道大学の校歌
北大の歌といえば恵迪寮の「都ぞ弥生」が有名でそれは私も知っていましたが,この“校歌”は知りませんでした。私たちの仲間に北大の学生がいればエスペラントの歌と一緒に教えてもらえたのでしょうが,東大や京大,東北大,そして弘前大までは仲間にいても残念ながら北大の学生はおらず,以後四半世紀,この歌の別バージョンを知る機会が得られませんでした。
その意味で,やっぱりネットは便利です。
元歌の "Tramp, Tramp, Tramp" というのは兵士たちの足音の擬音で,南軍に捕えられた北軍の少年兵が友軍によって救出されるのを待っている心情を歌ったものなのだそうです。それが(たぶん,いろいろなクッションを通過して)明治期の日本に持ち込まれて札幌農学校,そして北大の校歌になったのですね。
この歌は日本とは別にアイルランドに持ち込まれて“準国歌”の地位を得ました。"God Save Ireland"(神よ,アイルランドを護らせたまえ)という歌。「イングランド」の“国歌”と似たようなタイトルですが,これはイングランド,つまりは“連合王国”からの独立を唱えて“反乱”を起こした首謀者たちが処刑される直前に叫んだ言葉なのだそうです(…ということを,この歌は歌っています)。
独立後のアイルランドではもう少し“おとなしい”歌が国歌に制定されましたが,この“準国歌”は依然として人気が高く,たとえばサッカーの試合の中継の際にパブなどで高唱されるのだとか。歌詞の中身はかなり凄惨なのですけどね。

なお,ここでリンクしたのはいずれも「ようつべ」のページ。
著作権上少なからず問題があって,リンクが切れてしまうかもしれないので,悪しからず。
[81692] 2012年 8月 25日(土)21:05:02【1】Issie さん
削除
ごめんなさい。
まだ途中なのですが,誤って確定ボタンを押してしまいました。
なので,正しいものはまた後ほど。
[81472] 2012年 8月 15日(水)12:01:14Issie さん
わ・ちべん
[81313] 白桃 さん
和智弁?

これは「和歌山の智弁」って意味じゃないかなあ。
たぶんこちらの方が「智弁和歌山」という名前よりも“部外者”の感覚に近いのではないかと。

いや,そんなことより,この手の略称は主催者や球場サイドが勝手に決めているものではないだろうと思います。
硬式野球(高野連)の方は経験がないのですが,水泳部(日水連)の場合,春に選手登録をする際に正式な学校名にあわせて略称も一緒に申告します。そして大会の掲示等にはその申告した略称が基本的に使用されます。もちろん,その都度略称を改めて申告するのではなくて以前(加盟時)に決められた略称を申告するのですけどね。少なくとも,自分の学校がどのような略称であるのかは当該校も諒承していることです。

たぶん野球も同じであって,「和智弁」というのも“関係者”は十分承知しているのではないか,と推察したりもします。
[81431] 2012年 8月 14日(火)20:07:16Issie さん
丸い校舎
[81305] 菊人形 さん
・宮城県)大崎市田尻総合支所 旧:遠田郡)田尻町役場
こちらは本当に見事な”円型”です。昭和33年竣工とのことですから、今から半世紀以上前の庁舎ということになりますが、まだまだ現役のようです。

これはもしかしたら,ちょうどその頃に流行した(一部で?)意匠なのかもしれませんね。
というのも,役場の庁舎ではないのですが,千葉県の習志野市ではそれと同じ頃に津田沼地区で建てた市立の小学校と高校の校舎がほぼ完全な円形をしているからです。
高校は硬式野球部が甲子園で2度優勝したのでよく知られている学校なのですが,2度目の優勝の頃に移転して,ごくありふれた普通の形の校舎になってしまいました。ということは,円形校舎はあまり使い勝手がよくなかったのかもしれません。
小学校の方は,移転も改築もされることなく現在もほぼそのままの形で使用されているようです。
ちなみに高校。上で述べた事情から,去年もこの高校の校歌が何度か甲子園で流れたのですが(今年は残念!),“東習志野”に移転した今も校歌は昔通りに「ここ津田沼の」と歌っているようです。
ま,校歌の歌詞はそうそう変わらないか。

ググってみると「円形校舎」で少なからずヒットして,やはり1955年前後に全国的に流行したようです。
というわけで,旧田尻町役場庁舎の1958(昭和33)年というのも,この“流行”にからむものなのでしょうね。
[81290] 2012年 8月 10日(金)21:45:12Issie さん
草島
私は来週の前半が夏休みの前半3日分。明日から事実上の夏休みということで,今日は午後3時間分の年休を取っちゃいました。夏休み残り2日分は,また後日ということで。
※つまりね,お客さんたちはお休みでも教員は夏休み中も普通に学校に出勤しているんですよ。…昔と違って。

お休みを取って何をしたかというと,一連の話題についてちょっと確認しようと図書館に行ってきました。――つまりね,図書館に行ってちょっと資料をあさりさえすれば,以下のような情報は簡単に手に入るということです。

さて,「草島」。
[81287] で私は

私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ

と書いてみたのですが,どうやらそのラインは「幻」であるようです。
どうやら 草島村 は全体で一つにまとまった村落であり,それを加賀藩と富山藩が分け合って,加賀藩領分が新川郡,富山藩領分が婦負郡に属していたということです。

まず繰り返しですが,神通川が婦負郡と新川郡の境界であることはその通りです。
そしてその神通川の最下流部は,江戸時代の初めまで現在よりも西を流れており,問題の草島村は川の右岸(東側)にありました。その点では,大きな目で見ると 新川郡側 にあったと言えるかもしれません。
寛永16(1639)年,加賀藩領のうち越中婦負郡・新川郡,加賀能美郡のそれぞれ一部が分知されて「富山藩」が成立します。当初,母藩・加賀藩領内に分散していた富山藩領は,後に婦負郡・新川郡内の一部に集約され,10万石の藩領が成立します。そして,その際に 草島村 は両藩で分割され,前述のとおり,加賀藩領分が「新川郡草島村」,富山藩領分が「婦負郡草島村」となりました。
しかし,もともと一つの村を分割したものですから,両者間の境界は集落内でも耕地でも極めて錯綜していたようで,その後くりかえし郡境争いが起きているようです。
なお,神通川は江戸時代初期の大洪水で何本かに分かれていたうちの東の流路に本流が移っていき,江戸時代半ば以降は草島村は左岸(西側)の村になっていました。それでも富山藩領が婦負郡,加賀藩領が新川郡という状態は,そのまま廃藩置県まで続きました。
そして郡区町村編制法以降も,「婦負郡草島村」と「上新川郡草島村」の並立状態は1889(明治22)年の町村制施行で両村および周辺の村を合わせて「草島村」に統合されるまで続きます。この“統合された草島村”は神通川左岸にあるので 婦負郡所属 となりました。
ところで面白いことに,この統合された“婦負郡草島村”は,ほかの多くの町村と同様に合併前の旧村をほぼそのまま大字に編成しましたが,婦負郡草島村を引き継ぐ「大字(婦負郡)草島村」とは別に旧上新川郡の区域で「大字上新川郡草島村」という大字を編成しました。自治体村としては統合されても,大字としては両村併存状態が継続していたのですね。両大字が統合されて「大字草島」となったのは1911(明治41)年のことだそうです。ちょうどおよそ百年前。

だから結論を言えば,草島で正確な郡界のラインを確認するのは極めて困難。やっぱりここは大ざっぱな線で我慢するしかありません。
実際,平凡社・角川いずれの地名辞典の付図についても,このあたりの処理は実に大ざっぱで,少なからず不正確です。
そんな程度でいいんですよ。
で,問題はその“錯綜度”ですが,たとえば極端な例では以前に話題になったことのある神奈川県鎌倉市(相模国鎌倉郡)の 腰越村・津村([34676][34719])のように錯綜の極みに達していまだにゼンリンの住宅地図でさえ大字界を記入できずに一軒ごとに「腰越」か「津」を個別に記載しているものもありますが,ここの場合は“郡境争い”ができる程度には一応ラインが決まってはいるのでしょうね。
でも,精度的にはそこまでこだわる必要もないだろうと,開き直ってしまいましょう。

ところで,以下は副産物。
一連の説明(平凡社版・角川版ともに)を読んでいく中で「あれっ?」と思ったのは,草島村のうち,“西側”に位置するはずの 婦負郡側 が富山藩領で,“東側”の 新川郡側 が加賀藩領という点。だって,富山城下そのものは新川郡じゃないか…。
要は,新川郡のうちの神通川右岸最下流部は“富山藩に分知された新川郡”に含まれないわけで,東岩瀬 を中心とするこの区域は加賀藩領なのですね。で,“新川郡草島村”は加賀藩領。
一方,婦負郡の大部分は富山藩に分知されて,だから“婦負郡草島村”は富山藩領,というわけ。
つまり,“富山城下の外港”である 東岩瀬 は,実は富山藩領ではなく加賀藩領なのですね。
ちなみに婦負郡に属する 西岩瀬 は富山藩領。
前述のとおり,元は神通川の本流は西の方に偏っていて,その河口にあったのが 西岩瀬 でした。この段階では 西岩瀬 の方がメインの港で 東岩瀬 はワンランク下。富山藩立藩時は当然,自藩領内の 西岩瀬 が富山藩の外港だったんでしょうね。
ところが,これも前述の江戸時代初期の大洪水以降,神通川の本流は東に移動し,さらに相次ぐ洪水や高潮被害によって 西岩瀬 は衰退し,代わって神通川本流の新しい河口となった加賀藩領の 東岩瀬 に繁栄が移った,という話であるようです。
そして併せて,富山藩の外港の地位も 東岩瀬 に移ったのでしょうね。“親戚”と言えど他藩領なのですが。
[81287] 2012年 8月 9日(木)19:47:40Issie さん
月はおぼろに東山
[81286] グリグリ さん
娑羅の木(ナツツバキ)

娑羅の木,つまり娑羅双樹と言えば思い出すのはやっぱり「平家物語」。ここで出てくる「祇園精舎」とはお経に出てくる本来のインドの祇園精舎(ジェータヴァナ・アナタピンダダシヤ・アラマ)なんだろうけど,やっぱり京都の祇園が頭に浮かんできちゃいます。
その平家物語ならぬ,今年の大河ドラマの「平清盛」,視聴率的に苦戦しているようですね。私には面白いのですが。いや,裏で女子マラソンをやっているなんて知りませんでした。

[81280] 皿 さん
1889年まで草島村は婦負郡と新川郡に2つありました。

以前のご質問も含めて,求める精度によってお答えは変わってきます。
ですから,皿 さんがどの程度の精度の情報を必要としているのか,そして何を目的としてそれを集めているのか明らかにされた方が有用な情報が集まるだろうと思いますが,とりあえずこれまでの話の流れからは,それほどの精度は求められていないのではないかと推察されます。もしそうであるならば,…
その程度の違いは無視しましょう。

まず基本的に,婦負郡と新川郡とは古くから神通川を境界としてきたと思われます。
ところが神通川は富山平野の中でしばしば流路を変えており,そのせいで現在の富山市街の西方で新川郡の草島村が神通川の左岸(西岸)に,逆に婦負郡の牛島村(現在の富山駅周辺)が右岸(東岸)にそれぞれはみ出してしまったように見える。本当は旧流路で引かれた郡界が,流路の変更後も取り残されたのだけど。
だから,とりあえず旧村を引き継ぐ大字や住居表示地区では新町名に見え隠れする旧村名の“かけら”を丹念に拾って根気よく郡界を復元していけば,おおよそのラインが見えてくるだろうと思います。
で,2つだった草島は今は1つになってしまっていますから何の手がかりもないのですが,そこは前後関係(…というか,ここの場合は最下流の村なので,上流側からのつながり)で,エイヤッと線を引いてしまう(草島に隣接する旧(上)新川郡の金山新と旧婦負郡の古川の境界をよく見ると,私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ)。

そうして引いた線が正しいかどうかは分からない。でも,それはそこをきちんと検証できる資料に出会ったときに修正すればいいのであって,今でここで求められていると思われる精度であるなら,そんなに気にするほどの誤差ではない,
…と,ここでは開き直ってしまいましょう。

[81234] hmt さん
作品の目的からして、無視できる程度の規模であると判断すれば、無視(又は保留に)すればよいだけです。

という言葉に尽きます。

もし極めて精度の高い「正確な」境界線の位置を知りたいのなら,それはとにかく自分で出来る限り資料をかき集めてくるしかありません。

[81280] 皿 さん
わたしは全部探す暇がありません。

などと言っている「暇」さえないはずです。
でもね,
たぶんそれほどの精度の作業をしている人がこのような質問をされることはないだろうな,と私は推察しています。
[81269] 2012年 8月 7日(火)22:55:31Issie さん
外港2
[81263] 白桃 さん
外港都市

以前に話題になったことがある 飫肥 と 油津 のペアーはどうですか?
あと,高田 対 直江津 とか。
津軽藩は内陸の 弘前 が城下町なわけですが,岩木川が注ぐ十三湖の出口の 十三湊 や 鰺ヶ沢 が外港の役割をしていたようです。
外港としては,本当は 首里 と 那覇 のペアーも外せないところだと思うのですが,明治以降になると“主都”としての機能も那覇の方に移ってしまいますから,ちょっと微妙かも。

もう一つ。
これは内陸の河川交通についてのものですが,伏見 は“京都の外港”として発達した都市ですね。


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