都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
Issieさんの記事が10件見つかりました

… スポンサーリンク …



[78502] 2011年 6月 7日(火)01:25:23Issie さん
唯一人の公選北海道庁長官
[78500] にまん さん
次に知事。おそらく知事はこれで網羅できていると思います。

[78489] では適当なことを言っちゃいましたね。3人もいましたか。

北海道知事 田中敏文 たなかとしぶみ 35歳6ヶ月 1947(S22).5.? 3 1911(M44).11.9

田中さんが「北海道知事」になったのは現行憲法と地方自治法が施行された 1947年5月3日 であると思います。
でも,この人はその2週間前の 4月21日 からその職務に当たっています。恐らくは,旧憲法・道府県制下の「北海道庁長官」として。
地方自治法が貴族院で修正可決されて成立したのが 1947年3月28日,公布は 4月17日 ですから,田中さんが就任した4月21日時点では既に「北海道知事」となることはわかっているのですが,4月に投票が行われた選挙が始まったのはこの法律の施行はもちろん,恐らく成立よりも前でしょうから,この人は「最初の公選北海道庁長官」として選挙されたものと思われます。
これは「最初の東京都知事」である 安井誠一郎 さんが「東京都長官」として選挙されたのと同じです。で2人とも,「最後の公選長官」となった。
だから田中さんも,最初は「北海道庁長官」として就任して,5月3日に自動的に「北海道知事」に移行した,と考えていいのではないかと思うのですが,肝心の 北海道公式ページ には歴代長官・知事の一覧がないのですね(少なくとも,すぐ見つかる場所には)。北海道(庁)自身が,この辺りをどう処理しているか,知りたいところです。
[78499] 2011年 6月 6日(月)19:39:04【1】Issie さん
若い市長 in 逗子
[78485] グリグリ さん
40歳未満で就任した首長の一覧

元・神奈川県逗子市の市長の 長島一由 さんも,当選・就任当時は「全国最年少の市長」と言われていました。

 1967(昭和42)年1月18日生まれ
 市長在任:1998(平成10)年12月25日~2006(平成18)年12月24日

就任時点で満31歳ですね。在任は8年ですが,2期目途中の2003(平成5)年8月に米軍池子住宅問題で一度辞任をして9月の出直し選挙でみたび当選しています。だから,当選は3回だけど,期数はどう数えるのかな。
「住民の意思を直接問う」として首長が任期途中で一度辞任して直後の選挙にまた立候補する,というのが何だか最近流行していますが,長島さんはその手法が流行りはじめた最初の方の例ではなかったでしたかね。
結局,この人は8年目の任期満了したところで退任しました。立候補しなかったんだっけ? もう忘れちゃいました。
[78489] 2011年 6月 5日(日)22:08:13Issie さん
Re:40歳未満で就任した首長の一覧
私が知っている例に,福田(父)内閣から鈴木内閣にかけて官房長官や外務大臣などを歴任した 園田直 さんがいます。
1913(大正2)年生まれで復員後の1946(昭和21)年に故郷の 熊本県天草郡一町田村(現天草市の一部)で村長に就任した,という例。33歳(または32歳)で就任ということになるでしょうかね。もっとも,翌1947(昭和22)年の衆議院議員総選挙に立候補して当選していますから,在任は1年足らずですね。
それ以上に,現行憲法施行のために行われたのがこの総選挙ですから,園田さんが村長をやっていたのは旧憲法・町村制下での話ですね。したがって,現行地方自治法(あるいは公職選挙法)のように住民による直接投票ではなく,(村議会ではなく)村会で選挙された村長さんです。だから 伊藤兵庫県知事 ともども対象外かな。

というわけで園田さんは微妙ですが,この1947年に実施された第1回統一地方選挙では女性首長と同様に,若い首長も生まれているような気がします。でも確か,知事(および東京都長官,北海道庁長官)にはいませんね。市長も無理かなあ。町村長なら,いるかも。
と言っても,昭和の大合併以前の小規模町村の時代。調べるのは大変そうですね。
[78476] 2011年 6月 4日(土)19:48:13【3】Issie さん
2つの桐ヶ谷村
[78471] hmt さん
問題の「馬込領桐ヶ谷村」は 大田区でしょうが、地名がすっかり変っています。馬込や雪谷という地名から類推するのみ。

たとえば,1922(大正11)年部分修正の5万図を見ると該当すると思われる位置に「桐ヶ谷」の地名はありません。もう1つの「桐ヶ谷」(こちらは「品川領」)は,「大崎町」内の地名として記載されています。
そこで,[68352] でも話題に上がった『新編武蔵風土記稿』(江戸時代後期,化政年間に幕府機関によって編纂された準公式地理書)に当たってみました。関連部分をそのまま引用します。

-------------------------------------------------------------------------------------
○桐ヶ谷村(馬込領・巻46)
桐ヶ谷村は当郡品川宿より西南の方一里半余にあり、家数十五軒、東より南へは市ノ倉村に界ひ、正南は堤方村に接し、西は池上村に隣り、北は馬込村に及ふ、東西十五町南北八町余、水田少なく陸田多し、土性は赤土野土錯(まじ)りに耕作に宜(よろしか)らす、元禄八年織田越前守検地す、御入国の後山本藤右衛門知行となり、それより今の又十郎に至るまで子孫世々襲領す
-------------------------------------------------------------------------------------

現在の町名としては「桐ヶ谷」だけでなく,隣接する「市ノ倉」「堤方」も消滅していますが,「堤方」は呑川に架かる橋とバス停に名前が残ります。文章中の記述と“明治の大合併”で「池上村」に合併されたという事実から,池上本門寺の東側,大田区中央五~六丁目のあたりに相当するものと思われます。
地図をよく見ると,本門寺の東側のヤト(池上一丁目)に「桐里保育園」というのがあるのですが,もしかしたら「桐ヶ谷」と関係があるのかもしれません。

現在も斎場にその名を残す品川区の「桐ヶ谷」については,こう書かれています。

-------------------------------------------------------------------------------------
○桐ヶ谷村(品川領・巻53)
桐ヶ谷村は郡の東境にあり、江戸日本橋より二里半の行程なり、家数六十軒、東は居木橋(いるぎばし)下大崎谷山の三村に隣り、南は谷山戸越の二村に接し、西は下目黒村に及び、北は上大崎村に交(まじわ)る、東西二十町南北八町余、南の方はすべて丘なり、北に及びては地低くして谷合多し、村の東の方に相州街道係れり、下大崎村より入て戸越村に達す、此間五町許(ばかり)、当村開墾の年代詳(つまびらか)ならず、御入国の後御料所にて元禄八年織田越前守検地す、又同じ頃村西の溜井を開墾して水田とせしもの五段、伊奈半左衛門検地して新田となる、今は一円に大貫治右衛門光豊が支配所なり
-------------------------------------------------------------------------------------

というわけで,「桐ヶ谷村」の重複については特に記載がありません。位置が離れていることと,所属する領が違うことで別の村であることが明らかであるからなのかもしれません。

「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分には,桐ヶ谷村のほかに「小山村」と「久ヶ原村」が2つずつ記載されています。
「小山村」は 馬込領 と 世田ヶ谷領 の2つ。このうち,「世田ヶ谷領小山村」については“古くは「尾山村」とも書いた”という記述があり,これは現在の世田谷区尾山台付近のことと思われます。「馬込領小山」は商店街で有名な品川区の「武蔵小山」ですね。
こちらの重複についても特に記述はありませんが,考えてみれば表記は同じでも 世田ヶ谷領(世田谷区) の方は「おやま」,馬込領(品川区) の方は「こやま」と読みが違いますね。

一方,六郷領 と 馬込領 で重複する「久ヶ原村」については記述があります。

-------------------------------------------------------------------------------------
○久ヶ原村(六郷領・巻44)
久ヶ原村は、郡の中ほどにあり、正保及元禄年中改定の国図共に村名の字を久原としるせり、今の字にかきかへしは何の頃よりにや定かならず、又同じ図をみるに、其頃すでに馬込領久河原、六郷領久河原と二村に分ちて記したれど、古(いにしえ)は一村たりしなど土人の伝へあり、もとより地形も接したれば、さもありしならん
-------------------------------------------------------------------------------------
-------------------------------------------------------------------------------------
○久ヶ原村(馬込領・巻45)
久ヶ原村は、六郷領久ヶ原村に弁せし如く、その地あひ接したれば、昔は一村なりしやとおもはる、されど正保の頃改定の国図及び田園簿には、はや各村別ち記せり、土人の伝へには古は当村を今里村と号せしといへり、もし然(しか)らんには一旦故ありて六郷領の久ヶ原村とあはせて一村となせしならん、されど領名の異なるはもとより別村なれば、古は属する所の郷庄ともに同じからず、後の世はその郷庄の唱へも失ひしかど、領名をもてわかつにおよび猶(なお)その属する所を異にせるなるべし、土地の六郷領久ヶ原村につゞきたるは西の方にて、南の方は徳持村にとなり、東は池上村を限とし、北は道々橋村に接せり
-------------------------------------------------------------------------------------

現在は大田区の「久が原」と表記する地名ですね。文章中の記述から,「久河原」という表記もあったことがわかります。
編者は,元々は「久原村」という1つの村であったものが江戸時代初めの正保年間以前に東西に分割され,西側が 六郷領,東側が 馬込領 に属したと推測するとともに,地元の人の言い伝えでは,馬込領に属する東側の部分がさらに古くは「今里村」と呼ばれていた,と記述しています。
明治の大合併前の村では「久ヶ原村」が1つしかありませんから,明治期には再び1つの村にまとめられたのでしょうかね。

参考までに,以下,「新編武蔵風土記稿」の荏原郡部分に記載されている村を列挙します。

【六郷領】
八幡塚村,雑色村,萩中村,羽田村,羽田猟師町,麹屋村,下袋村,東大森村・西大森村・北大森村,北蒲田村,新宿村,浜竹村,高畑村,古川村,道塚村,町屋村,御薗村,小林村,女塚村,新井宿村,不入斗村,堤方村,徳持村,蓮沼村,市ノ倉村,安方村,原村,古市場村,今泉村,矢口村,下丸子村,鵜ノ木村,嶺村,久ヶ原村

【馬込領】
久ヶ原村,道々橋村,雪ヶ谷村,池上村,馬込村,桐ヶ谷村,中延村,碑文谷村,小山村,谷山村,上目黒村,中目黒村,下目黒村

【世田ヶ谷領】
世田ヶ谷村,弦巻村,経堂在家村,用賀村,瀬田村,上野毛村,下野毛村,野良田村,等等力村,小山村,上沼部村,下沼部村,石川村,奥沢村,奥沢新田村,衾村,深沢村,野沢村,馬引沢村,池尻村,池沢村,三宿村,太子堂村,若林村,代田村,上北沢村,下北沢村,松原村,赤堤村

【品川領】
大井村,上蛇窪村,下蛇窪村,戸越村,桐ヶ谷村,居木橋村,上大崎村,下大崎村,二日五日村,品川宿(南品川宿,南品川宿猟師町,南品川宿新開場,北品川宿,品川宿歩行新宿)

【麻布領】
白金村,今里村,上高輪町在方分,下高輪村,三田村

以前,[68370] のあたりで「領」について触れたとき,多摩川以南の 橘樹郡 や 都筑郡(現川崎市および横浜市北部)では郡内各村の「領」への帰属が錯綜していて(「神奈川宿」は「神奈川領」には属しない,など),「領」の領域自体がモザイク状になっている,という旨の報告をしたことがあるのですが,荏原郡内ではそれぞれの領の領域が一円的にまとまっているようですね。
そうした中で,「久ヶ原村」が 六郷領 と 馬込領 とに分割されて所属していたわけです。

長文御免。
[78430] 2011年 5月 24日(火)23:58:54Issie さん
富士Q、抜け駆け
「富士山駅」が誕生するそうです。
富士急の発表(pdfファイル)によれば,現在の 富士吉田駅 を7月1日に「富士山駅」に改称して,今後,富士山観光の拠点として整備していくとのこと。
富士吉田市や地元商業関係者とも連携して,というわけで,「富士吉田」の駅名が消えることについては一応地元も納得しているのでしょうね。その上で「富士山」を積極的にアピールして行こうというのが,地元・富士急双方の今後の戦略であるようです。
少し前に話題になった“南=富士山が上になっている富士吉田の地図”にもつながる話でありましょう。

で,問題は静岡県側の反応。
「富士山」をとられて黙っているのかどうか。
もっとも,富士急グループにとっては山梨県側だけでなく,静岡県側も縄張りの中だから,企業としてはアピールできればどちらでもよいのかも。

ああ,でも「富士吉田」の駅名が消えるのは,それはそれでもったいない。
[78341] 2011年 5月 17日(火)19:50:53Issie さん
デカンショ節
[78340] k-ace さん
篠山市が丹波篠山市に?

最近はあまり歌われないのかもしれませんが,元々は篠山地方の踊り唄だった(らしい)「デカンショ節」にも「丹波篠山」と出てきて,言ってみれば一続きの名前のようなものでしたからね。で,後に「山家(やまが)の猿が…」と続いて,“山奥”の代名詞のようなものだった。実際には,さほど山奥ではないのですが。

さて,こうして兵庫県側で「丹波」ブランドを強調すると,“京都府領丹波”の方も黙っていないのでは。「丹波の本家」はこちら,なんて…。
ちなみに,国府があったのは桑田郡(推定:亀岡市),元々「丹波」という地名があったのは後に分離した丹後国の中郡で旧称が「丹波郡」(現在の京丹後市)。
やっぱり“本家”は京都側かなぁ。
[78335] 2011年 5月 16日(月)23:30:18【1】Issie さん
アイヌ神謡集 と おもろさうし
[78333] デスクトップ鉄 さん
47都道府県の顔

たとえば北海道は,地域史のどこに重点を置くかで人選が変わってくるかもしれませんね。
開拓史に重点を置くなら,やはり クラーク博士 を推したくなります。外国人ですけどね。
私としては,アイヌの口承文学に初めて(?)文字を与えた『アイヌ神謡集』の編者である 知里幸恵 を推したいと思います。

沖縄県は 屋良先生(←政治家への敬称ではなく“本来の意味”で) でもいいのだけど,文学者とするなら「沖縄学の父」と呼ばれる 伊波普猷 は,どうでしょう。あるいは,若干政治がかるのですが「沖縄自由民権運動の父」とされる 謝花昇 という人もいます。

信州と言えば藤村,で間違いないのですが,田中康夫元知事じゃないが,馬篭を岐阜県に取られたのはやはり痛い。そこで“次点”として,文部省唱歌「故郷」の作詞者である 高野辰之(豊田村…じゃなくて,現・中野市出身) は,いかが? そう言えば,中野市なら 中山晋平 という選択肢もありました。
東アジア共通の愛唱歌「北国の春」の作詞者 いではく(南牧村出身) なんて人もいますが,この方は存命でしたね。
※ちなみに,「井出姓」は,自民党三木派の番頭であった 一太郎氏 を代表に,佐久地方南部を代表する姓の1つです。

※追加
そうそう,長野県と言えば,県歌「信濃の国」の作曲者 北村季晴 もいいかもしれない。ただし,この人は県外出身で,たまたま師範学校の教員として赴任していた時に,この曲を作ったのでした。
[78305] 2011年 5月 15日(日)12:24:14【1】Issie さん
現代仮名づかいでは「安曇野」は「あずみの」でなければならないのだが
[78296] futsunoおじ さん
そういえば近頃は「越後平野」の言い方が増えてきた印象があるので調べてみました。

私自身は,「新潟平野」で教わった記憶があります。

つまり国土地理院では、1960年,1977年,1989年,1990年(及び現在)は「越後平野」であることから、一貫して「越後平野」を使用している可能性があります。

そこは,お役所。文部省と建設省という縦割りの世界ですから。以前にも触れたように,公文書の表記法(特に横書き文書での読点の扱い)で自治省が文部省とは違った指針を出して今に至るのと同様。もしかして,これは旧内務省と文部省間のライバル意識の表れ?

越後平野と新潟平野の呼称によると、「越後平野→新潟平野」に変わった時期は昭和34~35年(1959-1960年)頃。「新潟平野→越後平野」になった時期は平成1年(1989年)前後という推測が成り立ちます。

具体的な事例を基にした考察でなく私の「印象」に過ぎませんが,上の「推測」に同意します。1960年代以降に「地名の標準化」が進んだ後,1980年代後半以降にその「揺り戻し」が来ているという印象。
上の推測で「1959(昭和34)年」という年が興味深いですね。その前年の1958年は,戦後の初等・中等教育における重大な転換点であるからです。この1958年,小中高校の教育内容を示した「学習指導要領」の全面改定が行われたのですが,この際にそれまで学習指導要領のタイトルについていた「(試案)」という語が削除されました。
それまでは,「試案」の字が象徴するように学習指導要領は授業計画をするにあたっての“参考資料”であって,具体的に何をどのように教えるかは学校現場の創意工夫に期待する,というのが“建前”でした。敗戦後の教育改革で導入(強制?)された“アメリカ式教育”の発想ですね。
それがこの改定で「試案」という字が取れるとともに,現場に対する強制力を持つものであるという捉え方を文部省は前面に打ち出し,以後,文部行政はその立場を強めていきます。「55年体制」が確立した1950年代後半は,戦後教育行政にとって大きな転換点でした。
「揺り戻し」の時期も興味深い。これは,いわゆる「ゆとり教育」の導入時期とほぼ重なるからです。その前提にあるのは「戦後政治の総決算」を唱えた政権が推進した「臨教審路線」。2度目の「戦後教育の転換点」です。

もう1つ興味深いのは,学校教育とは全く別のステージで進められたものですが,国語政策の動きとも符合するところがある点です。
「地名の標準化」の進んだ1950~60年代は,強制力の強い「当用漢字」と「現代仮名づかい」の定着が進められた時代ですね。当初は印刷物に多く入り混じっていた旧字体の活字も,やがて姿を消しました。
「揺り戻し」の時期は,より強制力の弱い「常用漢字」への切り替えが行われた時期ですね。これも一面では“自由化”の流れに沿うものだけど,見方を変えると「戦後政策の転換」。

学校教科書からもう少し視野を広くすると,並行して次のようなことも起きているように思います。
つまり,「地名の標準化」の時代,一般地名の表記も当然のように「新字体・新かな」に変わり,それが定着していきました。地元関係者は頑なに旧字体あるいは旧仮名遣いに基づく表記を続けていた例もあるけれど,国レベルの公文書や一般マスコミでは「新字・新かな」で表記するのが普通。
ところが1980年代頃から,あえて旧字体や旧仮名に基づくふりがな表記をする例が目立つようになってきた印象があります。四条畷→四條畷 とか,安曇野(あずみの→あづみの)とか…。
背景には「地方からの情報発信」とか「地域のアイデンティティ」の主張などもあるのでしょうが,大きな目で見ると上のような流れと一致するように見えます。

ま,あれこれ言っても地名とは,何が「正しい」かではなく,結局はみんなが使っていれば「そうなっちゃう」ものなんだ,というのが私の基本的なスタンスです。
[78266] 2011年 5月 14日(土)08:06:13【1】Issie さん
Re:神奈川県の顔
[78263] N-H さん
ペリーとか。

いいですね。
肖像画は,教科書なんかに載っている写真じゃなくて,“鬼のような風貌”の当時の浮世絵。

“文化人しばり”,結構難しいですね。
横浜市だったら,森 林太郎 さんってのもあるんですが,これはこの人自身が「石州津和野人」であることにアイデンティティを持っていますから。
歴史上の人物では 坂田金時 という人も思い浮かびました。もちろん成人後の姿ではなく,童形でね。もっとも,「金太郎の故地」は足柄峠の両側に伝えられていて,金時神社は静岡県側にあるのですが。

ところで,伊能忠敬。
忠敬ネタではなく地震関係のニュースとして画面に映っていましたが,佐原市…ぢゃなくて,香取市の小野川沿いの状況もかなりひどいですね。
[78261] 2011年 5月 14日(土)01:25:38【1】Issie さん
県の顔
[78254] グリグリ さん
歴史上の人物でなければ、私は文化人を選びたい。

ああ,これは私も同感。政治家や経済人なんかは生臭いですからねぇ。
「神様」尾崎行雄も,むしろ政治家としてはあまり成功していない(特に国政の場で)から,それで“毒気”が抜けているようにも感じます。
そう言えば,尾崎は歴代東京市長の中で最も在任期間の長い市長でした。ワシントンでは桜を贈った「東京市長」として知られているでしょうし。だから,東京都に持ってかれちゃうかも。
そうすると,ついでに歴史上の人物の頼朝を除いたら,神奈川県は誰になるんだろう。

蛇足
「これで決まり」で,まあ誰も異存はなかろう高知県の坂本竜馬。
私は,ちょっと保留にしたいんですね。
世の中には竜馬にあやかりたがっている人が一杯いるんだけど,私たちが知っている(と思い込んでいる)竜馬というのは,多分に“創作されたもの”なのじゃないか,という疑念が離れません。若くして亡くなってしまったし,ナマの“坂本直柔さん”から離れて,かなり理想化されているのではないか,と。
ま,現実の姿から離れて“創られた虚像”が尊敬や崇拝の対象になっている歴史上の人物は多数いますから,それはそれで構わないんですけどね。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示