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faithさんの記事が10件見つかりました

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[53462] 2006年 8月 17日(木)23:54:38faith さん
いわゆる「地理的事象」とは殆ど関係ない書き込みばかり
[53459] 白桃 さん
いわゆる「地理的事象」とは殆ど関係ない書き込みばかりのように思えますが、どうお考えなのでしょうか?
お答えいただければ幸いです。
私としては、地理的事象と関係のない書き込みをしているつもりはありませんし、これまでと違った書き込みをしているつもりもありませんでした。
率直に言って、なぜ私が「今」名指しで、「どう考えているのか答えろ」と言われるのか、戸惑っています。(他の方が出された話題を発展させているものも多いわけで、「なぜ私に?」と思います)
地域に結びついた学校史も、地方自治制度史もアーカイブにもなっているぐらいなのに、掲示板の趣旨と関係がないと言われるのは納得がいきません。
これでお答えになっているでしょうか。

とはいえ、私がどう考えようと、他の参加者を不愉快に思わせてまで書き込みを続けようとは思いませんし、その権利もありません。
が、自分の興味や(わずかな)知識のある事柄以外についての書き込みを行うことにも意義を感じないので、そういうことでしたら、今後は書き込みを遠慮いたします。

[53441] については本当に答えを知りたいと思っていたのですが、この掲示板の趣旨には合わないのであれば、皆様無視してください。

皆様、これまでお世話になりました。
この掲示板での議論は楽しかったし、ためになりました。ありがとうございました。
[53456] 2006年 8月 17日(木)22:18:08【4】faith さん
Re:謎が謎を呼ぶ
[53439] 油天神山 さん
大阪人にかなり普遍的に存在する「太閤さんにあやかりたい」という願望の発露ですかねえ。
そういうのって普遍的に存在するのでしょうか(笑)。私には分かりませんが…
ただ、それでは説明が付かないのが、大東校舎の存在はもともと期限付きとされていたことです。
「十周年記念誌」より
大阪府下の中学校卒業者数の急増・急減の時期を目前に控えて、昭和53年7月以来大阪府と大阪府私立中学校高等学校連合会との間で積極的に進められてきた「大阪府公私立高等学校連絡協議会」の第6回協議会(昭和54年9月)の同意に基づき、公私共に従来の高校進学率の維持を基本とした上で、私学は昭和58、59年度の高校進学者に対して積極的に受け入れの努力を行うと共に、府はその条件整備に対する助成に努力をすること等が申し合わされた。私中高連は、私学各校に対して募集定員増等の措置をとるように要請した。
これを受けた学校法人大阪産業大学並びに大阪産業大学高等学校は、(中略)城東区古市の大阪産業大学高等学校校地では在籍者数を増やすことはできないと判断し、比較的校地に余裕のあった大東市の大阪産業大学キャンパス内に新築校舎を立てて分校を開設して、この要請を受け入れることを決定した。(中略)
申請書の生徒募集計画の欄には、昭和64年度以降の募集はゼロであることが明記されており、大東校舎の認可が急増期の間だけの臨時の設置認可であることが分かる。
それなのに、なぜ、母体とも異なる五七の桐という校章が当時から用意されていたのでしょうか。
実は関係者は期限付きのつもりはもとよりなく、学園拡大のチャンスと捉えて大東校舎を作ったのかも知れません。
あるいは、この学校法人は桐の紋章を当時は、他でも用いていたのかも知れません。いずれにしろ真相は不明です。

[53455] 千本桜 さん
大阪桐蔭高校の場所を考えると、その方がピッタリだと思います。
コメントしづらいのですが、新設の私立学校の校歌としては「河内平野」よりは「大和平野」が好まれそうな気はします。

※余計なスペースを削除。[53455] 千本桜 さんに対するコメントを追加。
※※「十周年記念誌」引用部分の文字遣いを原文に合わせた。「建てて」→「立てて」他
※※※同上
※※※※同上
[53441] 2006年 8月 17日(木)05:29:41【2】faith さん
北海道庁と北海道地方費
現在の北海道は、戦前(正確には昭和21年まで)地方官庁としては「北海道庁」と呼ばれ、地方自治体としては「北海道地方費」と呼ばれたと言います。

現在の「道道」に対応するものは旧制度下では「北海道地方費道」と呼ばれていたような形跡があります。(誤りでしたらご教示下さい)
衆議院会議録情報 第006回国会 建設委員会 第6号に、
北海道地方費道札幌稚内線は、北海道の中央部より北海道の北に通ずる、すなわち道北に通ずる陸路唯一の交通路でありまして、その利用度は文化の交流発達に従い、逐次高率を示しておりまして、特に終戰後は進駐軍の視察、あるいは連絡上本路線を利用することが非常に多くなつて参りました。
とあります。

一方、よく知られているように、学校を初めとする、現在の「北海道立」の施設は、旧制度下では「北海道庁立」でした。
この使い分けはどうなっているのでしょうか。

また、旧制度下では、「北海道とは単なる島の名前に過ぎなかった」という記述を異なる箇所で何度か目にしたことがあります(出所は同じ可能性もあります)が、
高等学校令(大正7年勅令第389号) では、
第三条 高等学校ヲ設立スルコトヲ得ル公共団体ハ北海道及府県トス
と、「地方費」も「庁」も付かない「北海道」が「府県」と並んで出てきています。
中等学校令(昭和18年勅令第36号)に至っては、
第三条 北海道及府県ハ中学校、高等女学校及実業学校ヲ設置スベシ
2 文部大臣ハ北海道及府県ニ対シ中等学校ノ増設、拡張及整理ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
3 前二項ノ中等学校ノ経費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス
と、同じ条文の中で、「地方費」が付いた「北海道」と何も付かない「北海道」が混在しています。(中野文庫の誤りかとも思いましたが、文部科学省の「学制百年史」の中等学校令(抄)を見ても同様です。)

これは、「北海道地方費」と「北海道庁」の使い分けが、勅令を起草するような者でも混乱するぐらい微妙なものだったのか、それとも混乱しているようで、実は厳密な使い分けが行われているのか、どちらでしょうか。

「北海道はなぜ「北海」と略さないの?-都道府県に違いはあるのか-」のようなアーカイブや、
都道府県の沿革
事典 昭和戦前期の日本―制度と実態
を当たっても、結局分かりませんでした。
お詳しい方、お教え頂ければ幸いです。

※リンクが正しく張られていないのを修正
※※第2センテンスの先頭の「ところが、」を削除。他の箇所に接続詞を補った。
[53437] 2006年 8月 17日(木)01:00:32【1】faith さん
大阪府下の市立高校
[53435] faith
兵庫県下の市には市立高校が多いような気がしますね。
たとえば、大阪府下の市で同じようなリストを作ると、以下のようになります。
大阪府下の市立高校のリスト(大阪市立は除く*)

設置した市校名同名の府立高校の存在
堺市商業
堺市工業
堺市第二商業
堺市第二工業
岸和田市産業
東大阪市日新

また、堺の4校のうち、校名に「第二」が付く学校は、「第二」が付かない学校の定時制課程が独立したものであり、同じ敷地にあります。
これを考えると、堺市立の高校は実質的には2校と考えても良いと思います。

*枚方市の大阪市立高校([53123]faith 他)はリストに入れるべきかどうか迷わないでもないです。

※脱字修正
[53435] 2006年 8月 17日(木)00:28:03faith さん
兵庫県下の市立高校、大阪桐蔭の桐
[53423] 小松原ラガー さん
[53422] なると金時 さん
直接ここで問題になっていることではありませんが、兵庫県下の市には市立高校が多いような気がしますね。
必然的な結果かも知れませんが、芦屋、尼崎、伊丹、西宮と、県立と市立で同じ校名を持っているところが多いのも目に付きます。
もっとも市立芦屋は廃校が決まっているようです。
市立芦屋高校 平成19年3月末廃校決まる

兵庫県下の市立高校のリスト(神戸市立は除く)
設置した市校名同名の県立高校の存在
芦屋市芦屋
尼崎市尼崎
尼崎市尼崎東
尼崎市城内
尼崎市尼崎産業
尼崎市尼崎工業
西宮市西宮
西宮市西宮東
伊丹市伊丹
明石市明石商業
姫路市琴丘
姫路市姫路
姫路市飾磨

[53413] 油天神山 さん
桐蔭の「桐」って豊臣家の家紋「五三の桐」から来てたの?
先に紹介した「十周年記念誌」でも、校名の由来を探せませんでした。(どこかに載っていたのかも知れません)
ただし、大阪産業大学付属高等学校から独立する前の同校大東校舎時代に、大東校舎独自の保護者会を結成する際、
当時の副理事長大西利治先生に命名をお願いして、五七の桐の校章から桐の文字を採って「桐友会」という名称を頂戴した。
とあります。桐はここに端を発しているのだと思います。
「五七の桐」自体知らなかったのですが、調べてみると、確かに五七の桐になっているようです。
ということで、なぜ大東校舎が五七の桐の校章を最初から使っていたのかということになりますが、これが分かりません。
大阪産業大学付属中学校・高等学校
では五七の桐の校章は使われていないようでした。
先にも書いた通り、この大阪桐蔭という学校は沿革とか由来を説明することにはそれほど興味がなさそうです。
なお、名前が似ているだけで、系列関係はないようですが、横浜の桐蔭学園の方は五三の桐です。
学校法人 桐蔭学園
[53410] 2006年 8月 16日(水)03:55:55【1】faith さん
学校のイメージと自治体のイメージ
[53409] hiroroじゃけぇ さん
このように、大学があるなしという観点がその市町村のイメージに影響しているという実態があるのです。
おっしゃりたいことは分かったように思います。
[53362] hiroroじゃけぇ さんが書かれた
一般的な「偏差値表」がその大学のある自治体のイメージに、少なからず影響を与えている
は、より広い層に適用しやすいように書き換えれば
「大学自体が持つイメージが、その大学と結びつけて考えられる自治体のイメージに、少なからず影響を与えている」
ということになるでしょうか。
偏差値表を廊下に掲示している高校
のような環境では。「大学自体の持つイメージ」≒入学難易度ということになるのでしょうし、そのような環境にいない人間にとっては、自らが受験生だった時代のイメージだったり、報道から作られたイメージだったり、身近な卒業生から受けた印象だったりするのでしょう。
「その大学と結びつけて考えられている自治体」というのは、多くの場合、その大学のキャンパスが存在していると皆が思っている地域と言って良いと思います。
特定の学校を例に出すのは気が引けますが、関西学院大学といえば、関西でも多くの人は西宮市または阪神間の地域と結びつけることでしょう。
しかし、三田市またはその周辺の住民であれば、三田市と結びつけるかも知れません。
いずれにしろ、このケースでは、明らかに西宮市ないし三田市のイメージに対する影響はポジティブだと思います。
ただ、このような有力私学でなくても、特殊な事情がない限り、大学が存在すること自体が、多くの人にとってはやはりポジティブなイメージファクターであって、
Aという自治体に3つの大学があるとし、1つが上の方に掲載され、2つが下の方に掲載されている。このような場合、数の多い方に引きずられてしまうという現象が起こるのです。
というほど入学難易度に影響されるのは、hiroroじゃけぇ さんもほのめかしておられるように、受験生あるいは、受験生だったころから日が浅い人々に特有の現象、という気もします。

以上、あまり考えたことがなかったので的外れのことを書いているかも知れませんが、いずれにしろ、学校のイメージと、その学校と結びつけて考えられる自治体のイメージの関係は面白い問題だと個人的に感じます。

※過去の発言に入っていない表現については引用機能を用いないことにした
[53406] 2006年 8月 16日(水)00:21:41【7】faith さん
大手前という学校(大阪市編)
香川県にもあることがわかっており(私立の香川県大手前中・高等学校(丸亀市)、およびその系列校である、香川県大手前高松中・高等学校(高松市))、おそらく全国を探せばもっとあると思いますが、ここでは大阪市にて「大手前」と名乗る・あるいはかつて名乗った学校および学校法人について書きます。

1. 大阪府立大手前高等学校
1886年(明治19年)、大阪府師範学校から独立した大阪府女学校は翌年、大阪府立高等女学校と改称します。(1899年(明治32年)の高等女学校令の公布・施行より前のことです。)
以後、所在地移転、移管(府→市→府)による改称を経て、1923年(大正12年)大阪府立大手前高等女学校となります。
その後、1948年(昭和23年)大阪府立大手前高等学校となり、今日に至ります。

2.財団法人 大手前学園
1888年(明治21年)に小学校を開設した大阪偕行社、およびその後を継いだ錦城育英会が戦後解散を命ぜられ、学校の存続のために、学校名を全面的に改称する必要があり、選んだ名称が、「大手前学園」でした。
1947年(昭和22年)4月、これまでの小学校は「大手門学園小学部」、新設の中学校は「大手前学園中学部」という名称で開学しました。
ところが、
昭和22年11月、校名を「追手門学院」と改称。隣接の70余年の歴史を持つ府立大手前高等学校と類似しており、混同をさけるため、府の勧告もあり、校名を変更した。
(「追手門学院小学校 百年志」(漢字遣いはこれで原題通り))
府立の中等学校が「大手前」を名乗ったのは、上に書いた通り、1923年(大正12年)のことなのですが、前身の大阪府師範学校自体は1874年(明治7年)の「教員伝習所」までは遡れそうなので、1947年(昭和22年)の時点で
70余年の歴史を持つ
と言えないこともありません。(実は大阪府師範学校の後進である大阪教育大学は1873年(明治6年)の官立大阪師範学校設立から沿革を始めていますが、これは少し無理があると思います。)
大手前高女はこの時点ではまだ新制に移行していませんが、名称は決定していたのでしょう。
新校名の由来ですが、
学校所在地の旧町名追手通(大手町と明治5年に変更)の追手が大阪城正門である追手門に由来することから、追手門学院となった。名付け親は中田守雄理事長である。なお、昭和23年5月許可を得た。
とのことです。

3. 追手門学院大手前中学校・高等学校
1967年(昭和42年)に、追手門学院が茨木市に中学校、高等学校を開設した際に、それまで存在した中学部・高等学部(中学校、高等学校に相当)に「大手前学舎」と付けて区別しました。
以後、大手門学院中学校・高等学校大手前学舎(1971年(昭和46年))
大手門学院大手前中学校・高等学校(1980年(昭和55年))と改称されて今日に至ります。

4. 学校法人 大手前学園
1946年(昭和21年)、現在の大阪市中央区大手前に大手前文化学院が開設されます。1951年(昭和26年)同地に短期大学が、1966年(昭和41年)西宮市に4年制大学が開学します。
いつから学校法人自体が「大手前学園」を名乗っているかは不明です。
なお、同学園のサイトには
大阪城大手前周辺(大阪市中央区京橋前之町偕行社跡)に学園の前身「大手前文化学院」を創設
とありますが、偕行社は疎開はしていたけれども移転はしておらず、偕行社との関連も含めて詳細は不明です。
短大はその後、伊丹市に移転しており、現在、大阪市中央区大手前には、同学園設置の専門学校である大手前栄養学院、大手前製菓学院が存在します。
大阪府立の中等学校との名称の類似については、現追手門学院とは異なり、各種学校扱いだったため問題にされなかったのでしょうか。

※タイトル「大阪編」→「大阪市編」 そのほか第1センテンスの表現を少し変更
※※「府立の中等学校が『大手前』を名乗ったのは…」で始まる1センテンスを少し修正。第1センテンスに出てくる学校名に注釈を入れた。
※※※変更履歴の表現を修正
※※※※見出しの校名を、「大手前」を含む最終(現存の場合は最新)の校名・法人名に統一
※※※※※「、」と「・」の使い分けを統一。「当時は各種学校扱いだった」の意味を明確にするために少し書き換えた。
※※※※※※「1947年(昭和22年)の時点で」を挿入、西暦、年号の併記を徹底。(面倒なので次回からは併記はやめようと思います。)
※※※※※※※大阪教育大学の沿革に関するセンテンスの意味を明確にするために西暦、年号を追加
[53398] 2006年 8月 15日(火)21:50:39【2】faith さん
いろいろ書きましたが
[53362] hiroroじゃけぇ さん
記憶の怪しい所は、先に復習しておく様にしているのですが・・・。思い込みというのは恐ろしいものです
具体的な事実の誤りのこともありますが、[53333]にもfaith が
それぞれの昇格時期は、2つの異種の教育機関の社会的機能や取り巻く情勢によって決まっていることで、岡山と広島の重要性の比較にはあまり関係がないことです。
と書いたように、断片的な事実を、教育制度史の中に位置づける作業をせずに、都合の良いように解釈するのでは、あまり有意義なことにはならないと思っています。
そういう思いがあったのですが、今見ると何だか牽制するような書き込みになってしまっていました。それに、[53362]を読ませて頂いたところ、余計な心配をしていたようです。
ただ、一般的な「偏差値表」がその大学のある自治体のイメージに、少なからず影響を与えていることには認めざるを得ない
少数の有名な例はあるのかも知れませんが、一般的に、市町村のイメージに結びつくところまで行っているのでしょうか。
最近の、特に私立大学では、これまでの郊外展開の流れ以外に、職業人に対する教育を見据えた都心回帰の流れ(上の年齢層の取り込み)や、新たに系列校を充実させるための展開(下の年齢層の取り込み)もあり、キャンパスの所在地が複雑です。特に関心を持っていなければ、一般人には把握しにくいところもあります。
そういうことも、教育史を探求することで発見できると思います。そのため、「大学コンソーシアム京都」のような単位互換制度の広がり(「環琵琶湖単位互換」「大学コンソーシアム岡山」)は、新たな時代を象徴しているような気がしています。
これは頼もしいですね。faith はえらそうなことを書きましたが、今後のことよりは、昔の話が得意です。(当初は、まだ多くの人と興味が共有できそうな、大学史(旧制専門学校史)を中心に書き込みをして来ましたが、だんだん興味が新制高等学校史(旧制中等学校史)に移り、今や小・中学校史に…)
いずれにしろ、よろしくお願いします。

※「(特に関西私立大学で)新たに系列校を…」の括弧内を削除
※※[53333]の書き込みに対する補足の部分の表現を修正
[53395] 2006年 8月 15日(火)18:43:36【1】faith さん
大阪桐蔭高校の校歌
[53281] 油天神山 さん
大阪桐蔭高校歌の歌詞
二番以降の歌詞
以下同校の「十周年記念誌」に載っていました。3番まであります。
---
1.
大和平野に そびえ立つ
生駒の峯の 松風が
古代のロマン 今もなお
とわに伝える 山麓に
吾が学び舎の 桐蔭高
蛍雪競う 若人の
研磨のおたけび 来り聴け

2.
行手を阻む ものあらば
吾が手に破邪の 剣あり
知徳を磨き 英知とし
技を鍛えて 糧とする
吾が学び舎の 桐蔭は
この世の栄枯盛衰に
変らじ理想の 旗印

3.
豊家二代の 歩みをば
浪速の都 水鏡
淀の川面の 天守閣
今も輝く 桐の紋
徴を誇る 桐蔭高
靴音高く 進むれば
文化と平和の鐘が鳴る
---
記念誌では、ところどころにルビがふってありますが、却って分かりにくいので省略しました。
豊家は「ほうけ」です。私は知らなかったのですが、豊臣家のことをこのようにも呼ぶみたいですね。
「研磨のおたけび」を始め、個人的にはやや違和感を感じる表現もありますが、まあ前にも書いたように「ご愛嬌」ということで。

※表記を原文にあわせて修正 「来たり聴け」→「来り聴け」 「変わらじ」→「変らじ」
[53333] 2006年 8月 13日(日)03:50:27【5】faith さん
Re:アーカイブスからこれだ!と拾う
[53332] hiroroじゃけぇ さん

西より東の「帝大」の開設が早いのは、東の開発を進める目的があった
帝国大学のような、多大の資源を要する大学は、当初は東京に一校開設・維持するのが明治政府には精一杯だったと思われます。
2校目は京都に、そして仙台、福岡と相次いで開設した政府は、比較的バランスを考慮して配置していたと個人的に思います。
北海道、京城、台北の3校の設立目的には、その土地の開発と結びついたものがあったと想像できますが、東日本を西日本に優先する意図は私には見えません。
(特殊なものを除き、「高等教育機関は、東京にまず一校設置する」というのは明治政府の一貫した方針ですが、これは東日本の開発を目的にしたわけではなく、首都に置くのがいろいろな面で有利だからでしょう。)

「岡山医大」の設立(1922年)が「広島理大」(1929年)よりも早いのです。
広島文理科大学のことでしたら、「広島理大」と略されることは決してありません。
医学専門学校と高等師範学校はそれぞれ別の背景と目的があって設立されている教育機関です。
それぞれの昇格(分かりますか)時期は、2つの異種の教育機関の社会的機能や取り巻く情勢によって決まっていることで、岡山と広島の重要性の比較にはあまり関係がないことです。

現存する特定の学校の優劣比較につながるような話題についてはコメントを避けたいと思います。

いずれにしろ、教育史に興味を持って頂けるのは大歓迎です。

教育史分科会より
(雑魚委員長、hmt委員、まるちゃん委員、深夜特急委員、faith…)

追記
実際、「京都大学」が「大阪大学」よりも先に「帝大」に昇格している
京都帝国大学は前身校を持っていないので、何かが昇格してできた大学ではありません。
大阪帝国大学は、すでに大学令に拠って立つ大学であった教育機関が母体になって設立されたものであり、これを「昇格」というのも(意味は分かりますが)多少論議を呼ぶ表現と思います。

※最初のセンテンスを修正
※※「医科大学と文理科大学は」→「医学専門学校と高等師範学校は」と修正
※※※(特殊なものを除き、…)を追加。
※※※※「追記」を入れた。
※※※※※昇格時期の比較に関するコメントを分かりやすく書き換えた。


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