都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
ぐりゅんさんの記事が10件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[45521]2005年10月9日
ぐりゅん
[45491]2005年10月8日
ぐりゅん
[45454]2005年10月6日
ぐりゅん
[45434]2005年10月6日
ぐりゅん
[45353]2005年10月3日
ぐりゅん
[45213]2005年9月28日
ぐりゅん
[45072]2005年9月22日
ぐりゅん
[44761]2005年9月7日
ぐりゅん
[44660]2005年9月4日
ぐりゅん
[44611]2005年9月2日
ぐりゅん

[45521] 2005年 10月 9日(日)00:04:39ぐりゅん さん
一気に、脱力してしまいました。
[45495] 般若堂そんぴん さん
要するに、ご自分で「軍事力を背景とした勢力の拡大は、拡大とは認めない」と結論づけただけですね。

私は、始めに般若堂そんぴんさんが、進出の文字をかぎかっこ付で書かれていたのを見た時から
「そういう思想」の方なんだろうなとは思っておりました。
それで、歴史観の絡む議論はしないと釘を刺したのです。
特に近代日本の採った政策の功罪については諸説あるので、そこを言い合っても結論が出るとは思えない、
で、「何を買ったかはともかく、そのためのお金があったのかどうか」という面にしぼりたい、
とずっと主張していたつもりですが、
「オレ定義で言えばアウトだから」で片付けられるとは、正直、予想できない結末でした。


開国以降、列強の砲艦外交に翻弄され、不利な内容の和親条約や貿易契約を結ばされつつも
決してその軍門に下ることなく、国際協調路線を堅持(そうしないと滅ぼされていたでしょうが)して
着実に国力を高めていった、明治前半の努力は無視ですか。

次のステップを踏み出す時に軍拡路線(?)を選択したことが悪と思うなら、それはそれでかまいません。
しかしその時、さらなる協調路線を採ることも、選択肢としてあったのかもしれません。
つまり、少なくともこの時点においては、
対外侵攻に頼らずとも、国が進む方向を自力で選択できるだけの国力を得ていたわけです。

それを一歩間違えただけで、それまでの連綿と続く歴史を全て否定するのですね。

<チラシの裏>
いや、経済協調が最重要なのは当たり前じゃないか、
いくらそれまでの行いがよくても、一瞬でも武力に頼る選択をした時点で台無しだよ
などと「現在の価値観」できれいごとを並べる御仁は、きっと
昔も今も、「戦争」も外交戦略の一つである、とか
「当時は」武力侵攻による植民地政策は列強のトレンドだった(日本の開国もこれが原因ですね)、とかの
正論を言っても受け付けてはくれないのでしょうね。
</チラシの裏>
[45491] 2005年 10月 8日(土)00:13:32ぐりゅん さん
前提とは
[45463] 般若堂そんぴん さん
(おお,回文にしてフルハウス!)
ありがとうございます。Cool head, but warm heartですね。
かなりオフトピになってしまってますが、続けさせていただきます。

論旨を整理します。
まず私[45434]は、
戦前の日本が、当時の人口増加(ないし版図拡大)政策を許容しうる経済力を持っていたことを
「前提」(=当たり前に成り立っている)と表現しました。
それに対し、般若堂そんぴん さん[45443]は、
それは間違いであるとして、その根拠に「無謀な対外拡張政策を採ったこと」を挙げました。

で、それに対する私の反論[45454]は、
国外に新たな領土を求める政策を「選択肢に持てたこと」自体が、
国力(経済力を含む)が十分にあった証だ、というつもりだったのですが、
私の表現が稚拙で伝わらなかったでしょうか。
ロシア相手にその考えは甘いとか、ABCDで打撃を受けたのは資源がない証拠だとかは
私は、この話題には全く関係ないと思っています。


基本的に,耕地面積・居住面積が不足していると考えたからこそ,「満州」に「進出」,また南米等への移民を促進したのでは?
その通りだと思います。
しかしその当時、日本は貧困にあえいでいたのですか。違いますね。
# 念のためですが、「国の総体」で考えた場合であって、貧困層が存在しなかったという意味ではありませんよ。
それなりに活発な経済活動が行われ、国として成長・発展していたからこそ、
完全に飽和して大きな問題にいたる前に、領土を増やそうという選択肢を採ったわけです。
進出できるだけの力を持っていたから、そういう手が打てたのです。

出先を間違えたとか引き際を誤ったとか、突っ込みどころはいろいろあるでしょうが、
「能力を持っていたかどうか」と、それを「どう使ったか」「結果がどうなったか」は別問題です。
# もっとも当時の欧州の主要国(本国の面積は狭いですね)は、いずれもその戦略で植民地を拡大していましたから、
# 日本がそれに倣ったこと自体は、特におかしな判断ではないと思いますが。

現在の日本だって、本土の面積は大して変わりませんが、人口は当時より増えています。
持っている国力を、かつての「領土拡大」の代わりに例えば「貿易の振興」等に振り向けることによって、
本来のキャパ以上の人口を支えているわけです。
そして「金を出すだけ」と揶揄されつつも、一応大国のひとつとして、国際的に一目置かれる立場にあります。

その「国力」の中で「軍事力」こそがその「脅威」でしょう.
当時の日本は軍備の増強に傾倒しており、その軍事力は列強でさえも脅威と感じていた、ということですね。
では、それほどの軍事力を確保するためには、何が必要だと思いますか。
強力な武器・兵器を開発・装備し、練度の高い兵士を育成・訓練し、統率された組織体制を維持運営し…
そのための原資はどこから出てくると思いますか。
当時の国家予算や、そのうち軍につぎ込んだ割合など、調べる気もありませんが、
それでも少なくとも、特に通常の国民生活を混乱させることはなかったのですから、
十分な経済力を持っていた、以外の結論が出せますか。
[45454] 2005年 10月 6日(木)23:34:59【1】ぐりゅん さん
人口と活力
[45443] 般若堂そんぴん さん
その前提が確保できていなかったからこそ,無謀な対外「進出」が実行され,
対外進出し、領土の拡大を図ろうとすれば、
経済的にも人的(数だけでなく質も)にも莫大なコストがかかるであろうことは、
素人にもわかります。
ハンパな規模の国では、そんな政策は検討案にすらならないと思いますよ。

曲がりなりにも実行できるだけの国力が、当時の日本にはあったと考える方が自然です。

ABCD包囲陣により危機に陥ったのでは?
列強の進出に呑み込まれないために国力を貯え、後発ながら「勝ち組」に加わろうとしたところ、
古株連のイジメにあって、引っ込みがつかなくなったようなものですね。

日本の存在を脅威に感じたからこそ、よってたかって潰そうとしたんじゃないですか。


まぁ歴史観は人それぞれですので「議論」をしても始まらないですが、
 # そもそもここはそんな場ではありませんし
当時の日本が、国内の人口増を支える経済力を確保できていなかった、
という点については、上記の通り反論します。

住民増を政策の一つに掲げる(国はわかりませんが)自治体は、いくつもありますよね。
その目的はたいてい地域の活力向上のたぐいだと思いますが。
また、事実として、
人口は、国・地域・自治体等の活力を表す指標の一つとして、現在でも使用されていますよね。
[45434] 2005年 10月 6日(木)02:03:28ぐりゅん さん
Re:人口問題に関して
地理ネタと外れるので、触れたくなかったのですが。

[45412] 般若堂そんぴん さん
「戦後最大の政府の政策の失敗」と言うよりは,昭和前期の「生めよ殖やせよ」こそは「最大の失政」と思えるのです.
[45421] 2005 年 10 月 5 日 (水) 18:25:16 eiji_t さん
戦前の政策は軍事国家なら当然の政策だと思います。子どもを「小国民」と呼び、兵士の予備軍と考えていたからです。問題は軍事国家に突き進んだ事にあると思います。

戦前・戦中の日本のことを「軍事国家」と称しているのだとすれば、
もう一度歴史や社会の勉強をしなおすことをお勧めします。

それはさておき、
国の人口は、それを養える経済力を確保できる、という前提でなら、
文字通り「国勢」の重要な指標となります。
当時の白人中心の国際社会(現在でもそうですが)に対して、それなりの発言権を得るためには、
影響力を行使できる証を示すことが必要ですから、
国力の増強および誇示のために人口増を目指すことは、
軍備の増強(それも目的だったでしょうが)以外にも意義のあることです。
[45353] 2005年 10月 3日(月)01:18:45ぐりゅん さん
静岡の魅力?
10月2日付中日新聞に「しずおか日本一過去最多128項目」という記事が載っていました。
静岡県の魅力を多くの人に知ってもらおうという、県の取り組みの一つだそうで
代表的なものは記事でも紹介されていましたが、詳細は県ホームページ参照とのこと。
http://www.pref.shizuoka.jp/j-no1/index.htm

例えば、県単位での産品出荷額やら逆に消費量(支出額)というのは、
ある意味県勢の一面を表しているものに違いないのですが、
年間降水量やらどこぞに生えている樹木の幹回りが一番といわれても、
なんだかなぁという感じもします。(おもしろいですけどね)

一位以外の項目例では、スパゲティの年間購入量が28位に低下とか。
そういえば、餃子では静岡・浜松の2都市が宇都宮と争っていたはず。
県単位で見ればどうなんでしょう。
# リンク先には載っていないようですが。
[45213] 2005年 9月 28日(水)23:53:05ぐりゅん さん
国勢調査のこと
>> 二世帯暮らし さん
[45199]
> 誰が見ても私の家の出入り口は一つしかありませんから、二世帯住居用住宅でないことは明らかです。
[45152]
> それでも、訪れた調査員は「二世帯ですね」、私「はい、二世帯です」と二通の調査票を渡されました。

出入り口が一つしかなくても、調査員には家の中の間取りなど知るよしもありませんから
(玄関が共通でも、居住空間が独立していれば別世帯の扱いとなりますよね)
二世帯っぽければ、居住者に質問して確認するのは当然のことだと思います。
それに対して「おざなり」な返答をしておきながら、
(これは私の邪推ですが、 二世帯暮らし さんの記述からそのように感じられました)
真摯に対応した(めんどくさいから二世帯分渡しとけ、と思っただけかもしれませんが)
調査員をあげつらうのはいかがなものでしょうか。

[45194] inakanomozart さん ではないですが、
国勢調査の意義 自体に疑問を持っているわけでもなく、単に自分の気に入る気に入らないで、
協力しないばかりか、調査員の勘違い(その場で訂正できる程度)への対応までいちいち糾弾されるようでは、
この国の人は、こういう活動への熱意、あるいは地元(村町市県府道都-国)への愛着すら失ったのかと
暗澹たる気持ちになります。
[45072] 2005年 9月 22日(木)00:44:22ぐりゅん さん
店名
[45053] 般若堂そんぴん さん
[45069] matsu さん

どこにあるのかわからない支店名と言えば、
忘れちゃいけないのが「日本一」支店ですね。
# いや、逆の意味で思い切り特定できてしまいそうですが。

三井住友銀行は去年の店舗統合でなくなってしまったそうですが、
UFJ銀行は健在です。
[44761] 2005年 9月 7日(水)23:50:45ぐりゅん さん
取り急ぎお礼
[44684] 太白 さん
メンバー紹介文ありがとうございます。

私のハンドル名は、ドイツ語の「緑」からとっております。
残念ながら、こちらのオーナーさんとは関係ありません。
# これからはお世話になりますが…

それにしても、旅行献血が趣味(?)の方って、思いのほか多いんですね。
私も、意外とたくさんいるんだなぁ。と感心しております。
献血旅行もよくやってましたが、こちらの同好の士はいますかね。
[44660] 2005年 9月 4日(日)01:03:41ぐりゅん さん
西宮&中心街って…
[44617] 愛比売命 さん
[44624] らるふ さん
[44581] まがみさん
[44641] 小松原ラガー さん

私は、学生時代に阪急を使ってましたが、西宮北口は普段は通過するだけでしたし、
待ち合わせなら、残念ながら三宮か梅田が定番でしたので
単に大きめの乗換駅、程度のイメージしかありませんでした。

もっともそれは、まだ直角平面交差があった頃ですので、(改修前後、どちらも体験した世代です)
最近の、地元の方が日々感じられるイメージの方が、現実なんでしょうね。


[44650] 千本桜 さん
○○市の中心街へ行くことを、「○○へ行く」と言うことはよくあるような気がします。
何しろ、○○市内に住んでいても、中心集落名が「○○」でなくても使います。
中心街の近くに駅があるなら、その付近の代表名として駅名「○○」が使われているのかもしれません。

ところで、大阪市には中心街と呼べる地区がいくつか(梅田とか難波とか)あるのですが、
日常会話では、実際の目的地にかかわらず「大阪へ行く」と表現することが、よくあります。
また大阪の私鉄では、特に昔は顕著だったのですが、
列車の行き先を自社ターミナル駅名でなく、単に「大阪行き」と案内することも
普通に行われていました。
こちらから考えると、市域で区分して呼んでいるようにも思えます。

果たして、法則性は導き出せるのでしょうか…
[44611] 2005年 9月 2日(金)02:11:30【1】ぐりゅん さん
Re: 地名が駅名によって、変わっていく。
[44606] 牛山牛太郎 さん
確か「仙台」だって、後付けの佳称地名だったんですよね。
今回の「杜せきのした」にしても「美田園」にしても、
命名に当たって、政宗のエピソードのような壮大感があれば、また受け止め方が違っていたでしょうか…

ところで、駅名によって変わった地名、ですが、
浜松市天龍川町の名前の由来は、実は天竜川そのものではなく、天竜川駅です。
当時は、天竜川上流から船で運ばれてきた物資を鉄道に積みかえる拠点だったそうで、
まぁ駅の名前が一つのステータスだったんでしょうね。

※「杜せきのした」を端折って書いていたのを訂正しました。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示