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eiji_tさんの記事が10件見つかりました

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[45450] 2005年 10月 6日(木)21:51:30eiji_t さん
「小国民」「少国民」余波
[45445]hmt さん
私の安易な誤りに丁寧なホロー有難うございます。
大変勉強になりました。「少国民」は1940年代前半の言葉と思い込んでいました。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は、中学生の時に読んで世界に目を開かれた想い出があります。現在でも出版されていて、超ロングセラーになっていますね。
またIssie さんに「少国民」とイタリアの繋がり、お聞きしたいですね。

追記
「産めよ殖やせよ」は1939年厚生省(当時)の『結婚十訓』の中の言葉で「国の為」が後に続きましす。当時の流行語になったそうでうす。
「産児制限」は意外にも1910年代初めに"birth control"の訳語として作られ、戦前は弾圧の対象だったそうです。

私の不用意な発言が波紋を呼んで、般若堂そんぴん さんと、ぐりゅんさんの論争に発展しそうな雰囲気です。
ここはそういう場ではないと思うので、人口問題でどうしても発言したい方は私も責任を感じますので私宛に個人メールを下さい(あて先はメンバー紹介でお調べ下さい)。
お騒がせした事をお詫びします。
[45437] 2005年 10月 6日(木)06:28:15eiji_t さん
Re:Re:人口問題に関して
[45434]ぐりゅん さん
地理ネタと外れるので、触れたくなかったのですが。
すみません。国勢調査について書いて、関連してしで人口問題に触れて、「戦後最大の政府の政策の失敗」などと書いてしまったのが始まりだと思います。

戦前・戦中の日本のことを「軍事国家」と称しているのだとすれば、
もう一度歴史や社会の勉強をしなおすことをお勧めします。
こちらもすみません。適切な言葉を想いつかなくて、自分でも「違うかな」と思いつつ、書込みして島しました。

言い訳に終始しましたが、今後とも適切なご指摘お願いします。
[45421] 2005年 10月 5日(水)18:25:16eiji_t さん
人口問題に関して
[45412]般若堂そんぴん さん
素早いレスありがとうございます。日頃からこの問題を考えている事が想像されます。
般若堂そんぴんさん は、日本の人口は減ったほうが良いとお考えのようですね。
実は私も基本的にはそう考えています。

問題は1947-1960年の急激な出生率低下です。私の[45409] は説明不足だったので、般若堂そんぴんさん に誤解を与えたようです。
戦後すぐの人口抑制政策は当然だったと思います。前に書いた理由の他に、教育の問題がありました。団塊の世代の話を聞くと、「すし詰め教室」「廊下まで児童生徒が溢れる」「代用教室」「午前と午後との二部授業」などで教室不足を補ったそうです。

急激な出生率低下が続くと、人口構成比に世代間のアンバランスが生ずるのです。
これが後に高齢化社会を齎すのです。
私が「戦後最大の政府の政策の失敗だったのでは」と書いたのは、政府が1947-1960年のどこかで政策の転換を図り、急激な出生率の低下を防ぐ手立てを打たなかった事にあります。後から人口の構成比を変えることは出来ないのです。
人口が減るにせよ増えるにせよ、急激な変化は後世に悪い影響を長く及ぼします。
過去の急激な出生率低下が生んだ高齢化社会を私たちはじたばたせず受け入れるしかないでしょう。

「戦後最大の政府の政策の失敗」と言うよりは,昭和前期の「生めよ殖やせよ」こそは「最大の失政」と思えるのです.
戦前の政策は軍事国家なら当然の政策だと思います。子どもを「小国民」と呼び、兵士の予備軍と考えていたからです。問題は軍事国家に突き進んだ事にあると思います。

労働力の不足を危惧する意見もありますが,「少子化対策」のかけ声につられてみたら,あらゆる産業分野でスリム化が要求され,職にあぶれる若者が増加,などという事態の方が深刻に思えます.
現在の政府の政策に国民は応えないと思います。政府が将来の展望を示し得ていない現状では、小手先の「少子化対策」(例えば児童手当を増やす)では、未来に子どもを託せないからです。これからも少子化は続くと思います。
[45417] 2005年 10月 5日(水)04:13:48eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(3)
[45357] [45394] の続きです。

3)昭和の大合併
昭和30年2月、1市6町村で合併し、新市名日立市。
この時の合併の重要な相手が多賀町でした。新市名で揉めたのも多賀町との間でした。

・まず多賀町の沿革から
昭和14年4月、河原子町,国分村,鮎川村が合併して多賀町が誕生します。この3町村の産業は農業を主体としていました。
この合併には軍需が絡んでいるのです。
それまで比較的軍需に消極的だった日立製作所も昭和十年代はいよいよ軍需産業に傾斜していきす。
日立製作所は新工場用地をこの地に求めます。それに平行して合併も進められます。
新工場と合併がいかに密接だったかは、合併期日と多賀工場創業が同日だったのに窺えます。
[37842] hmt さん
「大東亜戦体制合併」
私の造語では「軍需合併」、大東亜戦体制合併の一種です。
合併と新工場の密接さを窺わせるのは町の新名称にも表れます。地元では最初国分村の旧村名で、駅名にもなっている「下孫」を選んだが、日立製作所の専務が提言した新工場の名でもある「多賀」に決まります。
[2374]深海魚[雑魚] さん
常陸多賀周辺の沿革はなんだろう。郡名を名乗る以上、広域の中心地だったと思えるのだけれど。
ところが、事実は逆なのです。将来多賀郡の中心として発展することを祈ってつけられたそうです。
昭和14年10月「下孫駅」、「常陸多賀駅」に改称。
昭和16年1月「坂上村」編入。これにも日立製作所の施設(社宅)が絡みます。

・日立市と多賀町の合併
昭和28年の町村合併促進法に積極的だったのは日立市でした。市内に工場,住宅,学校などを増設する土地が不足しており、それを周辺の町村に求める構想があったからです。周辺の町村ではそれぞれの事情で温度差があったが、多賀町は消極的ででした。財政,都市設備も日立市に頼らなければということもなく、土地不足も特になかった。
そんななか、日立市,多賀町の首長は県知事に呼ばれ、「県北の鉱工業地帯の中心として発展する事が期待される。そのためには両者が合併する事が望ましい」と要請されました。
紆余曲折があって合併の合意にこぎつけましたが、新名称で揉めました。多賀町は「多賀」の名を残す事、あるいは「日立」の名前をはずすことを求めました。「常陸市」という名も挙がりました。
しかし結局「日立」の知名度が勝ちました。

他の5町村もそれぞれの問題を抱え、日立市との合併に関し経緯がありましたが略します。
昭和31年豊浦町編入。1年遅れたことに豊浦町の苦悩を感じます。
平成16年十王町編入。十王町は高萩市か日立市かで悩んだが日立市を選びます。

こうして3回に亘り日立市の合併の経緯を見てきますと、最初の日立村の誕生を除き日立製作所の存在がいかに大きかったか分かります。
[45409] 2005年 10月 4日(火)20:54:35eiji_t さん
今度の国勢調査は歴史に残ることなるかもしれない
[31511]白桃 さん
次の国勢調査(2005年)とその次の国勢調査(2010年)のいずれが多いか、いいかえれば、どちらが国勢調査史上最高人口となるか、は大いに気になるところであります。ピークになる年は中位推計と変わらない、ということであれば、ピークは2006年あたりでしょうか。そうなると、やはり、2005年国勢調査が最高人口となることが予測され、市町村合併の結果ともあいまって、本当に待ち遠しい国勢調査となりますね。
最近の報道ですと、どうも今回の国勢調査が人口のピークになるのは確実らしいです。
ということは日本の歴史始まって以来の事を、私たちは経験するんですね。
以前にも飢饉や戦争で一時的に人口減少することはあっても、自然減少は初めての現象でしょう。以後自然増加に転ずる可能性は非常に少ないと思います。

縄文中期26万人
弥生59万人
奈良451万人
江戸中期3,127万人
明治33(1900)4,654万人
大正09(1920)5,596万人
昭和45(1970)10,466万人
平成15(2004)12,768万人
平成17(2005)   ?
※大正,昭和は国勢調査、2004年は推計人口
(鬼塚宏・上智大教授)

「本当の「少子化」は昭和20年代」(落合恵美子・日文研助教授)
これを聞いた時は、目から鱗でした。
1947年の出生率4.54をピークに1960年には2.00と急激に下がります。以後出生率は暫くの安定期を経て、徐々に下がって現在に至ります。
この1947-1960の急激な人口低下が世代間の人口比を大きく変え、将来の急速な高齢化を約束する事になったのです。
当時の政府は人口抑制政策をとっていたのです。「将来の事より、目の前の物資不足や住宅不足」だったのでしょうが、これが戦後最大の政府の政策の失敗だったのではないでしょうか?

戦前「産めよ殖やせよ」
戦後「産児制限」
現在「少子化対策」

国策に振り回される国民の姿が目に浮かびます。
[45400] 2005年 10月 4日(火)16:24:10eiji_t さん
纏めレスなど
[45368]千本桜 さん
遜って書かれたのでしょうが、関心を広げる方法に「邪道」「正道」の区別があるのでしょうか。
「自分の身近な所から関心を広げる」方法は、「自分の主観に陥って重要な事を見落とす」、「対立する2説があると身贔屓になりやすい」「広げすぎて収拾がつかなくなる」などの欠点があると思います。それで「邪道」と書いたのです。
一方、「縁遠いと思っていた事柄が身近な事に関連があると知ると、その事柄がリアルに浮ぶび上がる」「意外な結びつきを発見する」といった長所もあると思うので、あえて「邪道」で行こうと思っています。
千本桜 さん、どしどし「絡んで」下さい。励みになります。

[45304]紫魔法師 さん
[45169]Issieさん
「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
[45173]eiji_t で「全くの偶然です」と書きましたが、書き落とした事があるので…
日立市の鮎川の命名者は徳川光圀だという説があるのです。(黄門様由来説を書くのは何回目か)
昔、川の上流部の地名から「諏訪川」という名だった。そこに光圀が鮎を大量に放流して鮎川と名付けたというものです。
ともかく「鮎川」の名は江戸時代までは遡れるのは確かなようです。

[45392]笠津前浜 さん
忘れかけていました。言及ありがとうございます。
「職業名由来地名」コレクションに関係なく、「塩」地名の探求を続けたいのですが、なかなか手が回らなくて中断しています。
[45394] 2005年 10月 4日(火)07:36:42eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(2)
[45357]eiji_t の続きです。

2)日立市の誕生
昭和14年9月に日立町、助川町が合併して「日立市」誕生。まずはそこに至る経緯から。
日立村に日立鉱山(明治38)日立製作所(明治43)発足。両社の発展とともに人口も増え、大正13年町制施行「日立町」。
助川町の経緯は、明治22年の町村制施行で助川村,会瀬村が合併して「高鈴村」。村名は地区の西部にある山から取る。助川駅開設(明治30)、鉱工業の貨物が増大。また助川地区には鉱工業の従事者が住み、人口が増えて大正14年に町制施行「助川町」。町名は旧2村の内、助川地区の発展が進み、奈良時代からの歴史のある名である助川に戻したもの。
昭和5年には助川町に日立製作所海岸工場(現日立事業所)が完成。日立,助川両町は地理的にも産業的に密接な関係になり、この頃から日立町,助川町に合併の話が出る。
何度か合併問題は不調に終わるが、昭和14年ようやく同意にこぎ着ける。
しかし新自治体の名称でこじれる。助川町は「日立助川市」を提案、日立町が拒否。妥協案の「茨城市」も両者に不満。ついに県に一任となって、県は歴史のある「助川」より知名度の「日立」を選ぶ。

その後、助川地区に工場が拡充、商店街が発展し市の中心となる。助川町が企業誘致で日立市に名称変更したという、誤った説が拡がる。
[45165]に「地名学の専門家も誤解していた」と書きましたが、こんな例を見つけました。、
企業名由来の自治体名を持つ唯一の市である豊田市の改名運動に、日立市の名が利用されたそうです。
『豊田市史』(第4巻第2章)
挙母市(豊田市の旧市名)商工会議所の有志が、昭和33年に市名変更の「請願書」を市議会に提出しましたが、そこに企業名由来の自治体名の例として「日立市」が挙げられていたのです。
豊田市の場合も強い市名変更反対があり、名古屋裁判所へ行政訴訟まで起こされたそうです。
[45357] 2005年 10月 3日(月)15:36:00eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(1)
合併による新自治体の名称で揉めるのは、平成の大合併に限らず、明治,昭和と続いてきました。それを一つの市に沿って辿ってみるのも意味があるかと思います。

日立市は明治22年の町村制による合併から始まって、編入以外の3回の合併で、その都度名称で揉めました。揉めた相手も理由もその都度違います。以下その経緯を。

1)日立村の誕生
[2369]たけもと さん
元禄年間:徳川光圀が神峰山に登り「日の立ち昇ること領内一」の言葉を残す。
明治22年(1889):宮田村と滑川村が合併。日立村と名づけられる。
しかし事はそう単純じゃないらしいのです。
このとき名称で揉めた相手は、県でした。当時の県官の威力は大きく、例えば現日立市の当時「中里村」は古来縁の「撫子村」を県に拒否され、里川が中心を流れているからと中里村にされたそうです。やはり現日立市の「坂本村」「東小沢村」は名称だけではなく、合併の相手先まで地元の意向を無視されたそうです。
宮田村と滑川村の場合、県は両村から1字づつ取って合成名「宮川村」を指定しました。地元有志は3日以内に新村名を選定して報告するるといって、県指定を拒否したそうです。
地元有志が考え出したのが上記の黄門様に由来する名称だったのです。
黄門様の御威光は明治の県官を納得させるだけの力を保っていたらしいです。(明治6年には光圀を祭神とする常盤神社が水戸に創建され、後に別格官弊社になっています)。
地元の作戦勝ちでしょうか。以後黄門由来説が定着します。

光圀よりも前の江戸期の古文書に「常陸国」を「日立国」と表記する例が2つ現存しています(どちらも個人蔵)。
茨城県の東の外れの一寒村にすぎない村の有志たちに「日の出を早く望むことが出来る常陸の東方=日立という心象」が先にあって、それを光圀の伝承に結びつけたというのが真実に近いらしいです。
[45354] 2005年 10月 3日(月)07:59:56eiji_t さん
レス&アーカイブズ提案
[45335]inakanomozart さん
[45341]かすみ さん
[45342]miki さん
情報提供ありがとうございます。
かすみ さん、miki さん は 以前にもマンホールの話題がありまたね。
かすみ さんのHP拝見しました。写真のアップ期待しています。

というわけで、「マンホールの蓋」アーカイブズに提案してみました。
古い市章のマンホール発見というのと、素敵な(面白い)マンホールを見つけたという2系統に分かれますね。
前にも書きましたが、他の話題の中でマンホールに少しだけ触れた記事が多いので、アーカイブズの趣旨になじむかどうか?

マンホールの蓋
[45339] 2005年 10月 2日(日)21:08:14eiji_t さん
廃線から半年、日立電鉄雑感
先月末で日立電鉄が廃線になって6ヶ月になりました。私は「鉄系」ではないのですが、子どもの頃に乗って見た窓外の風景を思い出しながら、この書き込みをしています。

廃線の1ヶ月後には、山際の線路を雉がのんびり歩いていて「雉も廃線を知っているのかな?」と思ったりしました。
線路の撤去も進んでいます。こんなに早く撤去するとは思いませんでした。
10月末までには「橋」以外は枕木も含め取り払われるそうです。この「橋」が今回の廃線の決定打でした。わずか18.5kmの路線にに橋梁が39ヶ所あるそうです。設備の老朽化の中でも特に橋は著しく、補修しながら騙し騙し使っていましたが、耐用年数が尽きかけているそうです(資材不足の時代に作られた橋は、中古品の転用だったという話もあります)。
始めは、万年赤字線を親会社の日立製作所や地元日立市・常陸太田市が見放したのかと思っていました。廃線やむなしだったのでしょうか。

資料を見ていると、昭和22年に廃止になった駅が在った事が分かりました。廃線のずっと前の廃駅、痕跡が残っているでしょうか。今度行って確かめてみようと思います(痕跡を探すのが好きなのです)。
日立港へ延びる枝線の計画が有ったことも分かりました。用地も確保していて、それが今でも残っています。こちらは現地に行ってみました。道路に沿って細長く草地が延びていました。事情を知らなかったらこの草地の意味も分からなかったでしょう。

茨城県では「鹿島鉄道」が、2006年度で沿線自治体の支援が打ち切りになるそうです。(地元の鉄道の存続に力になれなかった身でなんなんですが)がんばって欲しいです。


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