先日、銀座の本屋さんの店頭で、
古地図史料出版株式会社が復刻版として出している古地図のうち、嘉永江戸図(嘉永4年:1851年)を購入しました。いくつか気づきの点をご報告します。
1.地図は「西が上」
版元の記載(縦書き)がきちんと見えるように地図を置くと、西が上になります。この描き方は、江戸時代の江戸の地図に共通しています。
2.”本郷もかねやすより先まで江戸のうち”
この地図が表現する「江戸」の範囲は、
東端:三ツ目通り沿い?の運河
南端:北品川駅付近
北端:駒込駅付近
西端:新宿御苑付近(新宿御苑は公園ではなく、内藤駿河守ほかの屋敷)
地図から推測するに、東側はさらに市街地が広がっているようですが、ほかの3方向は田畑がはじまっています。
3.屋敷の持ち主の記述は、「門の方向が上」
例えば、江戸城(御城)は、正門、すなわち東方向が正面(上)です。このため、「御城」という記述は地図の上下と逆さまになります。
このほか、”加州”(加賀藩邸:現東京大学)は西が上、”水戸殿”(現小石川後楽園)は南が上などと、記述の方向は入り乱れています。
4.石川島と佃島は1つの島
19世紀半ばの時点で、隅田川東岸の海岸線は、現在の江東区永代~牡丹付近となっていました(だからこそ、当時の海岸の材木置き場が「木場」なわけですが)。隅田川西岸はおおむね現在と同様ですが、浜離宮より南では、現在の東海道線のラインが海岸線となっています。お台場や夢の島はもちろん、月島のもんじゃ焼きさえもありません。
そんな中、唯一あったのが「石川島」と「佃島」。この2つはもともと別の島で、石川島はもともとあった無人島、佃島は江戸時代初期に浅瀬を埋め立てた人工島です。これらが一体化したのは、石川島に人足寄場が設置された18世紀末のことです。
2つの島が一体化したとはいえ、現在の大川端リバーシティ21のごく一部(センチュリーパークタワーとイーストタワーズII?)に相当する非常に小さい陸地でした。
(参考)
http://www.ihi.co.jp/ihi/ihi150/p/30.htm
5.新大橋は歴史がある
当時、隅田川にかかる橋は江戸市中でわずか4つ。北から、東橋(ママ)、両国橋、新大橋、そして永代橋です。
6.溜池は池だった
溜池の交差点にも表示がありますが、溜池は、江戸時代においては江戸城の外堀兼貯水池でした。徳川家光が泳いだという記録も残っています。ここが本格的に埋め立てられたのは、明治期、現在の特許庁付近に工部大学校を建設するためでした。
7.弁天島は陸続き
不忍池の弁天島については、
[32231] hmt さんが、
「陸続き」と疑われた不忍池(しのばずのいけ)の細道は、弁天様の参道です。
1:25000地形図によると、大正7年と昭和6年の間にできています。
とされていますが、地図を見る限り、東側からの参道が1本、つながっており、19世紀の時点ですでに「池中参道」があったようにうかがえます。