[25715] 烏川碧碧 さん
下総の谷津と同様の赤塚の地形は、千葉氏以前にも、
同様の地形を武蔵野台地東端では、「谷(や)」、西部では「谷戸(やと)」と呼ぶようですが
というように、古くは武蔵野台地の言葉に従って「ヤ」あるいは「ヤト」と呼ばれていたのではないでしょうか。それを千葉氏が下総の言葉に従って「谷津」と写した(発音への影響もあったかもしれません)ということはあっても、「命名」というほどのことは無いように思います
お説ごもっともです。千葉氏は赤塚城を新規に築城したのではなくて元々あった赤塚城に入城したのですから、それ以前から付近の谷状の地形に「○○ヤ」あるいは「○○ヤト」と呼ばれる地名があり、それを下総風に「○○ヤツ」と呼ぶようした可能性は高いと思います。一方、新たな支配者がやって来たことを強調する為に、福岡のように、元の地名を否定して自分の出身地に由来する地名を新たにつけた可能性も否定できないわけで、文献に記録が残っていなければどちらが正しいかは判断はできないかと思います。
私としては「○○ヤツ」の「○○」の部分が元々あった地名由来か、千葉氏が赤塚城入城時に新たにつけたかのかどうかよりは、「ヤツ」が千葉氏が下総から武蔵野の赤塚の地に伝えた地名であるかどうかに興味があります。
東京の「タニ」地名
確かに、東京でも茗荷谷、鶯谷は「タニ」と西日本的な呼び方をしますね。
東京の地名で「谷」を「タニ」と呼ぶ場合は、江戸時代以降の比較的新しい地名の可能性が高そうですね。
東国から京都に人が動いた例としては、足利氏による室町幕府の成立の頃くらいしか思いつかない
東国から京に上り、全国的な支配を行った例としては足利氏だけかもしれませんが、鎌倉幕府の成立以降、関東から守護/地頭等で西国に行き大名として一定の勢力を築きあげた一族は多い筈です。
例えば、島津氏、毛利氏、大友氏は皆、相模出身だったのでは。
この他にも、この掲示板では、下野から伊予に行った宇都宮氏、仙波氏、武蔵から丹波に行った足立氏などが話題になっています。
こうした一族の支配地の中には、西日本にあっても谷状の地形を東日本風に「ヤ」、「ヤツ」、「ヤト」と呼ぶ地名があっても不思議ではないとおもいます。果たして、実際に存在するのか興味深いですね。