矢祭町の合併しない宣言は幾つかの要素が絡み合っております。今回は稚拙ながらそれらを解説を試みたいと思います。
(1)矢祭町の成り立ちとしての合併に対する嫌悪感。
(2)合併枠組みとして矢祭町が被るデメリットが大きすぎる。
(3)現況としての合併そのものが不要。
(4)国の施策としての(半強制的な)合併への抗議。
これらがおもな理由として挙げられると思います。
(1)矢祭町の成り立ちとしての合併に対する嫌悪感。
これは昭和の大合併時のトラウマです。当初、県の原案として豊里村、高城村、石井村の3村での協議でしたが役場の位置や新村の名称等で協議が紛糾、決裂しました。石井村は、塙・笹原町に合流しました。昭和30年、豊里村と高城村の南部が合併し矢祭村となりしました。その後の昭和32年、石井村の3地区で分村、境界変更によって矢祭村に編入されました。この3地区では住民を賛成・反対と真っ二つに分かれて相当な争いとなってしまったそうです。(今でもそのしこりは解消されていないらしいのです。)
(2)合併枠組みとして矢祭町が被るデメリットが大きすぎる。
白河地方(白河市、西白河郡、東白川郡の12市町村)では、以前より大なり小なり市町村合併につての議論が交わされている地方でした。昭和44年6月に福島県内で最も早い時期に広域市町村圏の指定を受けました。(東白川郡3町1村は昭和46年1月に加入)また、この枠組みを足がかりとして、大同合併へという動きもありました。ただし東白川郡の町村がこの枠組みでの合併に反対しています。将来的な合併として浮上しないとは言い切れません。つまり矢祭町の合併しないという意思は、東白川郡内での合併以上に白河地方単位での合併に大してのNOなのです。つまり、東白川郡内の合併に参加してしまうと、将来的な圏域全体での合併に巻き込まれてしまう危険性があったのです。
確かに矢祭町は白河の経済圏の一町ですが、余りにも中心地からかけ離れてしまっています。車で飛ばしても一時間以上は掛かります。矢祭町内から白河市内の高校に通う生徒は水郡線、JRバスと乗り継ぎ、二時間以上かけて通学しています。実話。少なくとも毎日5時起き(クラスメート談)です。
(3)現況としての合併そのものが不要。
あまりこれは強くは推せません。矢祭町は最盛期の人口1万1千人から現在7千人台まで落ち込んでおります。また平成12年度会計では自主財源が28.5%、依存財源の中でも地方交付税は最も大きな財源で歳入の50%を占めています。
お世辞にも財政の豊かな町とは言えません。しかし財政状況を施策によって改善する余地はまだあります。
(4)国の施策としての(半強制的な)合併への抗議。
矢祭町の合併しない宣言がここまで大きな反響を呼んだのは、犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだ為に大ニュースとなってしまった様なものです。発言そのものの根底にある真意を薄っぺらくした上で、マスコミが全国に発信してしまっているように見えます。(合併反対派の安易な論拠とされることは好みませんが。)
大きく分けるとこんな感じですね。ここのHPに辿り着く人はご存知の方も多いかと思いましたが、拙稿
[22742]の補足の為に書き込むことにしました。
また、この文章は 『合併しない宣言の町、矢祭 根元良一・石井一男 編薯 自治体研究社』
を参考に書き込みました。
※最後の一文を追加。誤字修正。