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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[99368] 2020年 4月 14日(火)16:16:30【1】hmt さん
役場巡りの菊人形さん
[99366] 菊人形さん
全国の市町村役場を一通り巡りましたが、庁舎が新しくなると再訪しているので、ゴールは永遠に来ないかもしれないです(笑)。【中略】
さて、新型コロナの影響で各地で自粛空気の中で、本日(4月13日)に3つの市役所の新庁舎が開庁しました。

お久しぶりです。
菊人形さんとの初対面は、2012年の岐阜オフ会。例会翌日にも、金華山行きなどで助けていただきました[82265]
その後も 2016年の杖立まで 5年連続してオフ会同席。
2013年の松江では、富士山世界文化遺産登録を記念して 富士見市が作成した団扇[83633] を菊人形さんがゲット[84496]

2015年 氷見を訪れる往路では、思わぬハプニングもあった[89225]とか。
hmtも 2008年 湯瀬オフ会への往路で訪れた八戸駅(当時は新幹線終着駅、記事なし)で、同様の失敗を経験。

庁舎訪問の趣味は 特にありませんが、『広報かわぐち』で川口市新庁舎の外観4/13_使用開始を閲覧。

菊人形さんの過去記事を眺めていたら、4年前に 北海道石狩湾北端の 雄冬に関する記事があることを発見。

関連記事には、
30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していること
に感動した hmtの記事[92055]も 含まれていました。

楽しからざるニュースが溢れている昨今です。
しかし、久方ぶりのメンバー登場を機に、一つの地名「雄冬」を選んで、過去記事を発掘してみました。
その結果、普段は忘れていた地域や その過去を再認識して、歴史の中に生きている実感を味わうことができました。
[99364] 2020年 4月 12日(日)15:18:34【1】hmt さん
チバニアン補足
[99356]の補足です。
これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代

シロウトですが、学問の進展により変化している 地質時代の名称について、少し記しておきます。

最初に 第一紀・第二紀・第三紀・第四紀と呼ばれた区分の基準は、古生物化石の変化【大量絶滅】でした。
しかし、研究が進んだ結果、第一紀には6紀が、第二紀には3紀が含まれることになり、古生代・中生代と命名。
これに伴い、恐竜に代り哺乳類と鳥類が陸と空の動物代表になった第三紀以降は、新生代と命名。

第三紀 Tertiary。これは 長く使われてきた用語であり、現在でも「K-T境界層」などの用例を見かけます。
K-Tの「K」は、ドイツ語の Kreide 白亜紀 です。
現在では 古第三紀 Paleogene と 新第三紀 Neogene とに分けられており、「K-T」は「K-Pg」になりました。

第四紀 Quaternary だけは、大量絶滅とは無関係に、「人類の時代」として使われてきましたが、2004年に Neogene に併合する提案がなされました。
しかし、この提案には 反対論が多く、第四紀を存続し、その始期【新第三紀との境界】を ジェラシアンの基底年代である 258万年前とすることになりました。2009年6月です。

2010年の 地質時代区分を見ると、0.78-0.126Mya は「更新世中期*2」と記され、「*2:Ionian が提案」という注記により「チバニアン案」は未申請であったことが解ります。【イオニア海に由来するイタリアの提案】

最新の 国際年代層序表v2020/01

この表の左上 第四紀更新統/更新世の2番目に 「チバニアン」0.774-0.129Mya があります。

日本の地名に由来する チバニアン が、国際年代層序表に 新たに採用されたのは 快挙であるように思われます。
それは「地磁気逆転」研究分野に関して、松山教授を先駆者とする日本人が貢献した成果を背景とするものでした。

しかし、今回の命名に至る段階では 日本国内の反対論・反対活動もあったと伝えられています。出典


新第三紀 中新世に「アキタニアン」があります。これは 秋田… ではなく、フランス南西部 Aquitaine 由来です。
[99356] 2020年 4月 10日(金)19:06:11hmt さん
心配事の材料は、コロナウイルスだけではない
現時点で世間を騒がしている心配事の材料と言えば 何と言っても コロナウイルス です。
感染の原因とされる 他人との濃厚接触 を避けることは、もちろん必要でしょう。
幸い、免疫というシステムが存在し、免疫に関する研究も進みつつあるので、人類滅亡という段階になることはあるまい。

悪疫対策や老衰への備えは常識となっていますが、発生の時期も、社会に対する影響も不明であり、如何なる対処が求められるのかわからず、不明のまま放置されているに等しいリスクもあります。

「無視していたリスク」の一つに気付かされた材料に、4月1日の記事 [99325]チバニアン がありました。

改めてチバニアンを検索してみた結果、この地は 地磁気の逆転(ポールシフト)に関する研究にゆかりのある地であることを知りました。

2020年1月、ついに「チバニアン」という時代が誕生することになりました。これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代、その時代の始まりを告げる痕跡が千葉県市原市の地層にあったことから、日本の研究者たちが時代の名前としてチバニアンを申請していました。

方位磁石は古くから航海に利用されていましたが、ギルバートが地球は大きな磁石であるとしたのは1600年。
ガウスが地磁気の研究を始めたのは 19世紀であり、ブリュンヌが現在とは逆向きに磁化された岩石を発見したのは、1906年でした。
京大の松山基範教授は、1926年の玄武洞以後に行なった逆向き磁化の研究により、「地磁気逆転の可能性」を示す論文を 1929年に発表しました。

最近 500万年澗を見ると、ギルバート, ガウス, 松山, ブリュンヌと4人の先駆者の名で大別された4期間の中で、更に細別された逆転を繰り返していたことがわかります。

2015年5月作成の 第四紀とは 2/4コマの図では横向きになっていますが、同様の図が日射量、海水準、人類と共に示されています。海水準の上った間氷期もありますが、概ね氷期であったことがわかります。

ネアンデルタール人、ホモ・サピエンス共に、地磁気逆転を経験したのは 人類の文明段階が低かった「氷河時代」ですから、私達文明人にとり、地磁気逆転は COVID19とは比較にならない 全くの未経験の事態です。

楽観的観測もありますが、メカニズムが解明されていない磁極逆転の時期とその影響。
私達の生きている間に、そのような事態になることはないだろう。

そんな気休めを唱えながら、幸運を祈るばかりです。参考
[99352] 2020年 4月 6日(月)20:14:16hmt さん
Re:連鎖循環クイズ
解いてみた結果、私として最も感心したヒントは、下記の部分でした。
A市と同一年月日に市制施行した兵庫県の市はB市です。
[99340] 2020年 4月 5日(日)17:18:38【1】hmt さん
琉球処分
昨日4月4日は 1879年に 沖縄県が設置された日 でした。明治12年太政官布告第14号
ローカル祝日とされている県も多い「県の誕生日」ですが、沖縄県の受け止め方は、様子が違うようです。

【追記】
公式書類上では日本全国に布告された M12/4/4とされている「第二次琉球処分の日付」ですが、沖縄の人たちの心に深い傷跡を残した日付は、突然に 武力による威嚇を伴って 知らされた 「M12/3/27」 であったようです。【追記終】

沖縄県公文書館のページ あの日の沖縄をご覧ください。
沖縄県の誕生は、琉球人の視点では、500年余の歴史を持つ琉球王朝の 事実上滅亡。
その厳しい変化を実感した出来事でした。

琉球の歴史 を遡ると、江戸時代初期の 1609年に 日本の薩摩に征服され、奄美を失いましたが、沖縄と先島については 首里の王府が存続しました。
鹿児島による間接支配を受けながらも、対外的には【“中国の服属国”たる「琉球王国」として】外交・貿易権を行使し、稼いでいました。

明治になると、その影響は琉球にも及びます。
明治4年 廃藩置県の結果 一旦鹿児島県管轄になった「琉球国」[76021]は、明治5年には 政府(外務省)直轄の琉球藩になりますが、その
明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明したのが、琉球処分に至る公式手続の最初でしょう。ここで 琉球の置かれた状況 を確認させたつもりでしたが、現実には 琉球側は 政権交代の意味を 十分には認識しなかった と思われます。

琉球藩王・尚泰王の名で 最後の清国進貢船を送ったのは 明治9年(1876)[4027]

前記「あの日の沖縄」には、次のように記されていました。
この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。

「琉球処分」という言葉について。
当時の公文書にズバリの例は未発見でしたが、松田本人の使用した言葉であるようです。参考
後に生まれた呼び方かもしれませんが、内務大書記官の彼は、「琉球処分官」松田道之 という 肩書により呼ばれるようになったようです。その時、沖縄は

明治12年4月4日の変化は、形式的には 日本本土で明治4年に行なわれた「廃藩置県」と同様です。
しかし、武力による威嚇を伴い実行され、「処分」にふさわしい厳しさを伴う変化であったようです。

琉球処分時代に見られた人口の異常な変化についての記事もありました。[72118]
[72124] YT さん
第二次琉球処分の前後の2年間(明治11年~明治13年)で、ほぼ本籍人口が倍増しています。いくらなんでも2年間で人口(しかも本籍人口)が倍増することは、たとえ本土から集団移住があったとしてもありえないので、解釈は一つしかあり得ません。つまり本土からの役人が介入したことにより、それまで隠されていた人口が明らかにされたということです。
人口が隠蔽された原因ですが、おそらく税の主体が人頭税であったことが考えられます。これに対し本土では地租が税金の主体であり、人頭税が敷かれた藩は余り多くありません。そのため比較的本土の本籍人口は実態を反映していると考えられています。
[99312] 2020年 3月 29日(日)17:57:36hmt さん
1854年 御台場を舞台としてペリー艦隊と戦ったら?
高輪ゲートウェイ駅が暫定開業(2020/3/14)したと思ったら、今度はコロナウイルス感染症対策で東京封鎖の動き。

慌ただしい動きを示す首都の「玄関口」ですが、170年近く前の「御台場築造」も、東海道封鎖を伴う大工事でした。

ことの起こりは、ペリーが率いて嘉永6年(1853)浦賀に来航した艦隊による アメリカからの開国要求でした。

江戸幕府は、どのように対処したのか?
とりあえずは、通商条約を拒否。
しかし、アヘン戦争の二の舞だけは回避しなければならない。そこで、日米和親条約を締結[91104]

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。
1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。

最近 NHK 歴史探偵で「黒船来航」と題して、品川台場を舞台とする「黒船迎撃作戦シミュレーション」が放送されました。
もちろん、現実には 日米和親条約で妥結した外交交渉により、結果的には避けることができた決戦でした。
しかし、御台場からの集中砲火能力、アメリカ側のボート・ホイッツル砲の活用、ペリーの再訪が予定より早くて御台

場築造工事が間に合わず 3砲台では負けてしまうという結果、日本側が用意できる多数の小舟、武士の気概と戦闘能力、日米問題に留まらず ロシア・イギリスなど他国が動く可能性など、多方面の視点からの言及があり、なかなか興味深い番組でした。
…と、一応はシミュレーションを褒めておきます。

しかし、番組で取り上げていなかった重要な因子として、アメリカの国内事情があります。

ペリーは日本に対して通商を求める 第13代大統領フィルモアの国書を持参しました。
しかし、「これを日本に拒否された場合、直ちに開戦に直結させる権限」など与えられていません。
日米戦争に発展する可能性など、全くなかったのではないでしょうか。

これを言い出すと、番組の主軸である「黒船迎撃作戦」が成り立ちませんが、テレビの娯楽番組なんて こんなもの なのでしょうか。

参考までに、ペリーの持参した国書【翻訳文】を発行したフィルモア大統領の任期は、ペリー来航より前に切れて、第14代ピアース大統領に引き継がれています。第15代ブキャナン大統領を経て、第16代大統領がご存知・リンカーン大統領です。

通信技術が発達していなかった時代というだけでなく、南北戦争前で米国内の対立も存在した時代です。
そもそも、捕鯨船への物資補給を頼るために 日本開国を求めたアメリカ。
兵站のことだけを考えても、太平洋を隔てた遠い日本との戦争など、アメリカが考えるはずはなかったのでした。

1854年の騒ぎから4年後、ハリスとの交渉により通商条約も調印。もちろん、
阿片の輸入厳禁たり
という一文が、罰金額と共に第二則の末尾に記されていたのでした。出典

幸い実戦に使わずに済んだ御台場ですが、今回の記事を記すための調査により、江戸の守りは品川台場でというページを知り、参考になりました。
[99293] 2020年 3月 24日(火)18:44:35【1】hmt さん
明治12年当時の北海道 北見国網走郡と釧路国網尻郡
[99288] hmt  
そのつもりで 【公文録の】2コマに続く編制を見ると、疑問点があるようです。

一例を挙げると、リンク文書の16コマには、北見国網走郡8村があり、17コマにも同網走郡6村があります。
村名を見ると重複はないので、北見国網走郡が2群に分かれて記録されたのは単なる集計の不手際でしょう。

見逃せない本格的な疑問点として挙げておきたいのは、釧路国に存在したとされる「網尻郡」です。
この郡について 少し記します。

日本の北辺が騒がしくなった19世紀初頭。幕府により釧路国庶路から北見国に向かう「網走越」ルートが開通しました。
釧北峠【阿寒湖の西側】の北は 網走川沿い になりますが、現在の津別町・美幌町のあたりまでは釧路国の領域とされ、北見国とは同音異字の「網尻(あばしり)郡」とされたようです。

明治12年「公文録」では、釧路国に置かれた郡は 15-16コマに記され、網走越ルートの起点である 白糠郡庶路村や阿寒郡各村の名も見えます。しかし、網尻郡の存在は無視された状態です。

[99290]で紹介されたばかりの資料ですが、 府県及北海道境域沿革一覧第一編沿革図表 の 15コマ 左下付近を拡大してみると、北見国網走郡と釧路国網尻郡とが隣接していました。

大きな表を 境界線に沿って 上方に移動すると、明治14年の段に至り、「7月8日両郡の合併による網走郡」と記され、明治12年当時は「釧路国網尻郡」が存在していたことを確認できました。

最近落書き帳に紹介された資料の試用は この程度にして、北見国網走郡については、従前からの変遷情報も利用してみました。

今回の記事の冒頭に記したように、公文録の集計で2群に分かれていた村々。

16コマの 北見国網走郡8村
これは 1902年北海道二級町村制で網走町藻琴村最寄村が施行される前の旧村群でした。

そして、17コマ記載の同網走郡6村
こちらは 1915年北海道二級町村制で美幌村設置前の旧町村でした。

こんな具合で、郡区町村編制法>北海道二級町村制を経て現在の市町村への変遷ルートが追跡できるようです。

ここで新たな疑問が生まれました。
変遷情報検索で「網走」を検索すると、二級町村時代に網走町であった【ピンク地色の】北見町が出ます。
検索結果

明治35年の北海道二級町村制で誕生した「網走町」を構成した旧町村の一つである「網走郡北見町」です。この町は、明治12年の公文録に記載されておらず、その実体が不詳でしたが、網走町の市街地部分でしょうか?

記載がなかった原因を推測すると、明治12年から35年の間に【例えば】網走村からの分割 or 分立により誕生していたのか? それとも、公文録の記載漏れか?


ここで、変遷情報検索を使った お遊び。
北見市と、「その前身ではない北見町」を並んで出せるか?

普通に「北見」を検索すると、【ピンク地色時代の】北見町は hit しません。
苦し紛れに、「自治体種別:指定しない」 を外し 市町村だけにして 「北見」で検索を試みました。

結果オーライで、ピンクの網走郡北見町と【元・常呂郡野付牛町】現在の北見市とが 並んで hit しました
[99288] 2020年 3月 23日(月)11:20:05hmt さん
公文録
KUMON式とは無関係です(笑)。
太政官が明治元年から明治18年に授受した公文書を整理編集した資料です。
落書き帳では、最近になり ekinenpyouさんによる 具体的な事例紹介に利用されています。
私自身は検索手段も知らず、利用するに至っていない入門者ですが、一筆したためておきます。
レファレンス協同データベースの解説

[99279] ekinenpyouさん
開拓使 乙第4号布達 M12.7.23 M12.7.23
[99259]リンク先のもの【府県…沿革一覧】は本文が大幅に省略されておりますので
こちら(2コマ)も参考になるかと思います。

開拓長官 黒田清隆の名で「郡区町村 別冊の通り編制」という結果が、乙第4号として布達されたのは、明治12年7月23日であることは、資料「公文録」の 2コマによって よくわかりました。

リンク資料冒頭の 簿冊表題に続く部分をクリックすると、表紙と目録 が現れます。

5番目に挙げられている「郡区編制の件」ですが、[99279]でリンクしていただいた本体の第1コマには、何故か明治12年7月28日付の上申書(乙第82号と朱書)が付けられています。

昨年(明治11年甲第22号)伺済であり、上記のように人民に対する布達も済んでいるのに、編制実施の際に重ねて上申を出した理由は何か?
私にはよく理解できないので推測になりますが、いざ実施段階になったら、決済を得ていた編制から少し変更していたので、改めて上申したのではないでしょうか。

北海道における 郡区町村編制法の実際の施行日は、M12/7/28? との疑惑。

そのつもりで 2コマに続く編制を見ると、疑問点があるようです。
せっかく詳細な編制を 公文録によって知ることができたと思ったのに、あらぬ疑惑を生じたのは残念ですが、とりあえず記しておきます
[99271] 2020年 3月 19日(木)13:04:35【2】hmt さん
大学の敷地面積
[99269] シノレパシクソ さん
昔、「東大の関連施設の敷地面積は国土の1%にもなる」なんて都市伝説を聞いたことがあるのですが、実際どれくらいなんでしょうね……。

おめでとうございます。大学の広い構内を楽しんでください。

Webによると、東京大学の総敷地面積は、およそ 320km2。出典
国土面積の 0.1%弱ですから、都市伝説は1桁違っていたようです。
北海道大学は 660km2で、国土面積の 0.17%。

落書き帳には、東大演習林の中で最大の富良野演習林 230km2 に関する過去記事[68625]があります。

【追記】
大学敷地面積の出典を追加

演習林どの施設は別として、大学のキャンパス単位では 約2.5km2 以上ある下記の3キャンパスが広いようです。
しかし、市町村面積【最小の富山県船橋村でも 3.47km2】には及びません。
九州大学・伊都キャンパス
筑波大学・筑波キャンパス
広島大学・東広島キャンパス
[99257] 2020年 3月 15日(日)17:48:03【2】hmt さん
埼玉県 明治時代の変遷
2月以降のhmt投稿は、「全国の市町村数」を柱にしてきたつもりですが、実際は脱線も多いようです。
最近の[99248]も、埼玉県ローカル、しかも市町村数ではなく、郡を主役とするものでした。関係記事

[99248]を見ると、明治12年の郡区町村編制法施行時の郡名・郡役所を紹介したことだけでは、物足りません。
そこで、明治4年から9年に遡る「埼玉県の成り立ち」や、明治29年に行なわれた「郡の再編」を加えて、「明治時代における埼玉県の略歴」という形にまとめておくことにしました。

素材は落書き帳の過去記事も使いましたが、最近になって「府県及北海道境域沿革一覧」という資料の存在を知ったので、これも利用することにしました。▲ 埼玉県の境域沿革概要

日付根拠記事沿革
M4/11/141871布告594[36047]埼玉県を置く(県庁:岩槻) 埼玉、葛飾の内、足立の内
M4/11/141871布告594[36047]入間県を置き横見、入間、…高麗、多摩の内 14郡を管す
複数回?1871-1872【入間県】多摩郡の内を神奈川県管轄に属せしむ
M4/11/141871布告594印旛県を置き下総国9郡を管す
M6/6/151873布告214印旛県を千葉県に編入
M6/6/151873布告214[36081]入間県を廃し熊谷県を置く
M8/8/301875[36159]葛飾郡金杉村外42村を埼玉県に属せしむ
M8/11/101875布告167 [36159]足立郡舎人町を東京府に編入
M9/8/211876布告112[36111]熊谷県を廃し新座郡以下13郡を埼玉県に属せしむ
M9/9/281876内務省布達甲37葛飾郡の内、寄巻村の内一部東京府管下葛飾郡下小合村に編入
M10/3/21877内務省布達甲5栃木県管下内野村飛地分割→埼玉郡小野袋村と群馬県海老瀬村
M12/3/171879埼玉県達甲14[99248]郡区町村編制法施行 18郡設置
M13/5/51880布告22下総国葛飾郡の内→埼玉県中葛飾郡、
武蔵国葛飾郡の内→北葛飾郡
埼玉県埼玉郡及び足立郡の内→北埼玉郡・南埼玉郡・北足立郡
M17/7/141884埼玉県達甲43戸長役場位置及び所轄町村改定
M17/10/311884[44653]秩父事件
M23/9/251890勅令213[22470]埼玉県庁を武蔵国北足立郡浦和町に移す
M24/6/91891[54575]新座郡榑橋村→東京府北豊島郡大泉村
M28/4/11895法律24東京、埼玉、千葉、茨城の境界変更 江戸川を境界とする
M29/4/11896法律40[90597]郡の再編 北葛飾郡と中葛飾郡を統合→武蔵国北葛飾郡、
13郡→北足立, 入間, 比企, 児玉, 大里の5郡に統合】
M40/3/161907法律8[36159]北足立郡保谷村を東京府管下北多摩郡に編入

埼玉県達全書

大部分は市制町村制の施行前に行なわれた県域の変更ですが、千葉県との境界について、市制町村制施行後の変更があったことを知ったので、説明しておきます。
[36159]に記したように、1875年に下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村の千葉県から埼玉県への移管は、河川がらみの埼玉県域修正の中で最大規模のものでした。
その後も呼び方の変化などはありましたが、今回の作業により、明治28の法律による再修正を知りました。
★東京、埼玉、千葉、茨城の 江戸川境界への変更

都道府県変遷情報にも収録されていない変遷の存在に驚き、調べてみました。
13項目にも及ぶ変更には「編入」という廃置分合用語が使われており、妙見島のような有名地名も含まれています。
しかし その実体は、大字規模ではない ように思われました。江戸川改修に伴う小規模地域の府県変更の集合体と理解し、都道府県変遷情報の対象から除外されている現状に、一応納得しています。

最後のあたりに記された M24年大泉村への合併、M29年の郡再編、 M40年の保谷村 は変遷情報収録済みです。


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