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ezekielさんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[54362]2006年10月7日
ezekiel

[54362] 2006年 10月 7日(土)17:07:27ezekiel さん
神戸を巡って ~ 横浜とのアナロジー
[54351]hmt さん、“神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった”

 神戸と兵庫を巡っての雑記帳でのやりとりが比較的多いのに対して、神奈川と横浜との関係に
ついての書き込みは、このサイトの中ではhmtさんの[20917]ぐらいでしたので、ちょっと淋しいなあ~
と思っていました。神奈川と横浜との関係に関する詳しい経過、ありがとうございました。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。
&
神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。

 神奈川がクローズアップされるのは、中世の鎌倉との関係の中で神奈川湊が、近海の海運の
拠点になったことで、その後は江戸期に神奈川宿として東海道の宿場町となって栄えたようで、
兵庫の津とのアナロジーを感じます。

 一方横浜という地名は、神戸と同様に幕末までは一村名に過ぎず、歴史の表舞台に立つ
ことはなかったようですが、黒船来航という大きな史実に直接対峙して、(語弊があるかも
しれませんが、結果として良い意味で)歴史の流れに翻弄されたような気がします。

 神戸村が近隣の兵庫津の影響で、二ッ茶屋村程ではなかったようですが廻船を多少所有して
いたようですし、酒造に関しても灘や西宮程ではなかったようですが商品としての清酒の製造
もしていたようですし、幕末近くには西国街道沿いには商家も多少はあって、近代化、産業化
されていたようです。その上、船蓼場を神戸村が誘致するような形になって、そのことが神戸
海軍操練所へとつながり、それらのことが結果的には神戸港開港の礎になったと捉えることも
出来るのですが、横浜村の場合は、一寒村が突然国際港となって脚光を浴びたようなイメージを
持っています。

*

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話所」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。

 開港に際しても、神戸と横浜では事情が違うようですね。そして県庁所在地となった経緯も
兵庫と神奈川との絡みを見ると、事情が異なるような気がします。

 横浜村が横浜町になったのは1860年、開港の時期が違うのもあるのですが、神戸町の
誕生が3村の連合体とも捉えることが出来る側面を持ち、神戸村の庄屋・生島四郎という
地元の実力者の存在を見逃せないのですが、横浜町の発足というのは、完全な「お上主導」
であったようなニュアンスを感じてしまいます。黒船来航から5年後には開港、翌年には
関内に横浜町と太田町が出来て、安政5年から7年に掛けての2年間で、横浜村は歴史の
大きな“うねり”の波をモロにかぶった大激変を経験したようですね。

 横浜村は、開港と居留地のからみで横浜町となったようですが、今の町村制とは違いますし、
この場合の横浜町って、港町という位置付けだったのか、或いはかなり特異な町という位置付け
だったのか、町としての基盤がない寒村に港が出来て、官民多くの人が雪崩れ込んで、
まさにいアメリカ西海岸のゴールドダッシュで突如生まれた町のようなイメージで当時の
横浜を捉えるのが、良いのかもしれないなあ~とも思います。


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