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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[38610]2005年3月15日
BerryBlossom

[38610] 2005年 3月 15日(火)17:36:54BerryBlossom さん
目が回る~
またまたお久しぶりです。世間では合併がほぼ連日のように行われていますね。我が町はまったく関係ありませんが…。私生活でもかなり慌しく、ログを読み返すだけで精一杯な感じです。ゆとりを持ちたいものですがw

さて、今回も前回の書き込みに引き続きわが町の昭和の大合併のゴタゴタを市史から年代順に整理したものを載せようかなと思います。前回と同じく「小山市史」より資料を抜粋しましたが、なかなか興味の持てる内容だと個人的には思いました。
小山市の北部に昔ありました桑絹村(後に町制施行)のお隣茨城県結城市を巻き込んでの大騒動のお話です。文中にもありますが、日本における村長選挙の最多立候補者数という記録を作ってしまった村の話でもあります。

◆1953(昭和28)年
11月18日絹村に対し、合併動向の調査を目的とした県の監査
11月19日桑村に対し、合併動向の調査を目的とした県の監査

◆1954(昭和29)年
3月20日絹村町村合併促進大会開催 村関係者約140人が出席 絹村町村合併研究会結成を結成
絹村としては第1次試案(絹・吉田・薬師寺3村合併)に賛成
4月28日桑村合併調査研究会 「絹村とともに小山市に合併することが当然」
9月7日絹村合併研究会が桑村を訪問、両村首脳で合併促進協議会の設置の方向で一致
10月 絹村合併研究会を合併促進会に改組
11月26日 桑村合併促進委員会(委員64人)発足
12月18日県地方課、両村の村長・助役・正副議長を県庁に招集
12月絹村、合併促進会主催で各地区ごとに座談会を実施
結城との合併希望11地区、桑と希望が9地区、大勢に従うが4地区

◆1955(昭和30)年
2月10日絹村議員協議会 「現議員の在任中に町村合併を実現する」ことを決定
目標の町村を桑村15、白票1、棄権3で桑村に決定
2月11日絹村合併促進会 議会への無条件委任を決定
2月28日桑村合併促進委員会 最高方針として「可及的速やかに小山市に合併する」
ことを前提に「第1段階」として桑・絹合併を3月末で行うと決定
3月3日両村委員による準備協議会 於・桑村役場
3月4日第2回準備協議会、絹村南部地区結城合併期成同盟会の住民約300人が抗議行動したために流会

◆1956(昭和31)年
5月絹村合併促進会を再設置
7月23日桑村合併促進委員会で各地区の意見集約
県の合併計画賛成46%、小山との同時合併17%、未決定37%
7月30日桑村合併促進委員会 県の計画に従い絹村との合併を認めることを満場一致で決定
8月5日県地方課長と絹村首脳の会談。絹側は「住民投票しかない」とするも、
県側は「指導者による世論の統一を」と強調。南部地区の将来の分村に応ずる発言。
8月18日桑村議18人と結城市長・茨城県地方課との懇談会
結城市側「絹村議会において合併の決議があれば、受け入れについて相当努力する」
8月27日絹村合併促進会 県計画による桑村との合併を決定
9月1日絹村結城市合併促進会を結成
9月5日絹村結城市合併促進会 休地区の天満宮で分村合併決議大会を決行。約200人が参加
南部7地区(岸福・台・福良橋・休・中河原・下梁・西梁)の自治管理の体制を固める
9月8日両村の合併議決のため村議会開会。 桑村議会は満場一致で合併を議決。
桑村議会では難航。県側は絹村の分村・結城編入は極めて困難と表明。
絹村議会、無記名投票で採決。結城派5議員退場、賛成11・反対5で桑村との合併が議決。
9月10日栃木県議会において桑村・絹村合併を議決
9月22日茨城県議会で「絹村分村地区受入決議」
9月25日結城市議会で同上の決議
9月30日桑村・絹村合併。桑絹村発足。新村名は「一時的な村名」で、
「近いうちに何等かの方法で新しい名称に改める予定」であった。
旧桑村役場に桑絹村役場を設置。絹村役場に支所を設置。議員は1年間継続
10月20日絹村結城市合併促進会「今後、納税を完全に拒否して一切村政と絶縁する」と声明
10月29日合併促進会代表(南部60人、中部18人)が栃木県合併審議会会長(副知事)に
直接陳情。副知事は「境界変更は不可能」
11月17日桑絹村長に前桑村長伊沢照夫氏が無投票で当選
11月23日結城市中央小学校で「結城市合併完遂住民大会」 南部住民330人、中部住民
180人が参加 集会後約2時間のデモ

◆1957(昭和32)年
3月23日総理大臣が新市町村建設促進法に基づく3人の町村合併調整委員が任命
5月桑絹村当局は納税拒否を続ける結城派の住民に対して土地の差し押さえと
公売等強権発動の姿勢を示し、一部を実施
5月29日~31日3調整委員による現地視察。
8月14日栃木県新市町村建設促進審議会の4委員が自治庁長官、調整委員等に現状維持を陳情
8月29日絹地区分村反対協議会が12地区、100余人の出席で開催 「分村反対現状維持確保」を決議
自治省への陳情を決定
9月15日絹村・結城市合併完遂住民大会を開催、約500人が参加。
9月27日桑絹村議会議員選挙 結城派住民約1000人が集団棄権

◆1960(昭和35)年
4月伊沢桑絹村長の死去に伴う桑絹村長選挙 結城派による有権者全員立候補作戦
村長選立候補者267人(最終的に202人) 事実上3人での選挙戦
結城派からの立候補者は1195票で第3位 ※ちなみにS35年の桑絹村の人口は16,905人

◆1961(昭和36)年
3月14日調停委員の調停案発表。南部7地区の分村・結城編入を結論付け。
3月18日桑絹村・栃木県当局者が上京し、自治省に調停案拒否を通告
3月22日調停案を正式に提示
3月24日桑絹村議会が調停案の受諾拒否を決議
3月28日北部地区の分村反対派が絹地区分村反対用水組合大会を3用水組合の連名で開催
分村絶対反対の宣言とともに、調停案が撤回されない場合の南部地区への用水路の閉鎖を決定
4月2日北部分村反対派住民の用水せき止めの実力行使 以降断続的に繰り返す
5月11日安井自治相が衆議院地方行政委員会で「調停案のみにこだわらず両県の話し合い
で円満解決を図る」と答弁し、調停の打ち切りと自治省による政治的解決の方向へ
5月13日調停委員は調停の打ち切りを決定、首相の同意を得て正式に調停打ち切り
5月20日自治省が新しい斡旋案を提示。7月1日に結城編入地区を狭め、
岸福・中河原・台および福良橋の一部を結城に編入。
栃木県・桑絹村は受諾の意向、茨城県・結城市が反対の意向
5月21日分村反対派が自治省案受諾を決定、用水せき止めを解除
5月22日桑絹村議会、自治省案を受諾 町制施行を目指し、準備を開始
5月23日結城市長と合併促進会代表約100人が自治省へ
「住民投票により目的を完遂する」決議を手渡す
6月15日桑絹村議会、町制施行を満場一致で決議、県に申請
7月1日町制施行、下都賀郡桑絹町発足
9月1日結城派による小・中学校の同盟休校実施。対象の生徒の56%程度の240人が参加。
7地区の自治会は“自治共立小・中学校”を設置して自主学習を実施
9月5日編入対象地区110戸による編入反対の桑絹町協力同志会結成
9月8日桑絹町当局が同盟休校参加の保護者に対し正式に登校催告を実施
9月11日同盟休校の打ち切り
11月2日分村反対派150人が桑絹町役場を訪れていた横川栃木県知事に陳情
町長・議長に自治省案の否決を詰め寄る
11月10日桑絹町議会で自治省案の受諾取り消しを議決
12月28日結城市議会が正副議長ら14議員欠席のまま16議員のみにて自治省案の受諾を議決

◆1962(昭和37)年
2月28日南部7地区の協議で運動打ち切りの方向が出る
3月15日南部・中部10地区全体の会議、自治省への最終的打診を経て分村運動を終結
12月11日自治省行政局長通達により、自治省調停案の正式撤回
12月27日桑絹町合併振興大会実施

と、約7年に渡るゴタゴタがあったようです。
自治省による調停委員があまり役に立っていないのがかなり疑問ではありますが…

※長々と大変失礼いたしました。


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