都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
まるちゃんさんの記事が1件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[8846]2003年2月7日
まるちゃん

[8846] 2003年 2月 7日(金)01:37:39まるちゃん さん
宇部,本山線
[8804] 雑魚さま
宇部興産に象徴されるセメント工業より以前に炭鉱産業が盛んだったのですね。長門本山駅に近い海底炭鉱の坑口がその名残りかと思われますが、そう考えると、宇部界隈は産業構造の転換にうまく成功した例なのかな。

明治初期,旧厚狭郡宇部村時代の中心部は,現在の市役所から4km程北東部に入った上宇部地区の寺の前とよばれる地域でした.寺の前の寺とは,教念寺という宇部で最も檀家の多い浄土真宗のお寺で,そこから名前の由来がきています.
明治30年に創立された宇部興産(今は正しくUBEと横文字に変えていますが,今でもふつう,“興産”と地元ではよんでいます)の前身「沖ノ山炭鉱」の鉱区は宇部沖の海底にある炭田でした.熱量こそあまり高くありませんでしたが,火着きがよいことから、主に製塩用燃料や家庭用燃料として使われましたようです.
その後の人口規模の急速な拡大と飛躍的な発展を遂げた宇部村は,大正10年11月、村から一挙に県下2番目の市制を施行し,この頃には現在の地域に中心は移っていたようです.
その後、戦災により市街地の大半を焼失しました(我が家の庭からも以前,さびきった古い焼夷弾がみつかったこともあります)が,戦後の石炭景気に支えられ復興しました.
ただし,戦前,戦後まもなくまでは,粉じんが市街に降り注ぎ,さながら桜島噴火時の鹿児島市内のごとく,洗濯ものが外で干せず,それはひどかったそうです.
宇部市に現山口大学医学部(戦時中にできた山口県立医学専門学校)ができたのも,あまりに健康に悪い環境なため,宇部興産が土地を提供し,宇部に誘致されたものなのです.
昭和29年、小野湖周囲などの北部地区などの周辺4か村との合併を経て市域を現在の形となりました.
しかし,資源エネルギーの需要構造の転換に伴い,多くの炭鉱が閉山を余儀なくされ,昭和42年には最後のヤマも姿を消しました.その結果,一時は人口も減少し市勢も停滞しましたが,化学工業を中心とする工業都市へとなんとか切り替えることにうまくいった都市として紹介されていました.
確かに,大牟田,夕張など他の九州や北海道の炭坑都市に比べ,最大人口からの減少の程度はかなり少ないので,そうなのかもしれませんが,現在では,人口も横ばいからやや減少気味に傾いてきています.

全長 2km少々では、自転車でもある程度は代替が効きそうですし。
付近に位置する石油コンビナートへの通勤客が利用する事情でもあるのかな。

石油コンビナートは西部石油の山口製油所のことですね.
ここは385万klの貯油タンク群を保有しており,コンビナート各社に製品を供給する,貯油タンクが主な施設ですので,通勤客がそんなにいるとこではないのです.
私もかねがね思っていたのですが,なぜ廃線にならずに経過しているか不思議でたまりませんでした.
旧型電車を見にくる,鉄道ファンがのっていたから,廃線しなかったという話しもちらほら.


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示