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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[110405]2024年4月19日
YT

[110405] 2024年 4月 19日(金)02:00:14【4】訂正年月日
【1】2024年 4月 19日(金)02:06:49
【2】2024年 4月 19日(金)10:23:02
【3】2024年 4月 19日(金)11:56:07
【4】2024年 4月 19日(金)12:17:19
YT さん
居住地標高と雑談
おもしろそうな話題なので、私も自分の居住地標高をまとめてみました。【修正:隠すことでもないので自治体名追加】

14 m (浦和市) → 75 m (川崎市多摩区) → [480 m] (Garching bei München, Bundesrepublik Deutschland) → 75 m (川崎市多摩区→川崎市麻生区, 2度目) → [65 m] (Berkeley, CA, USA) → 75 m (川崎市麻生区, 3度目) → 14 m (さいたま市浦和区) → 75 m (川崎市麻生区, 4度目) → 80 m (川崎市麻生区) → 57 m (稲城市)

なお[]内は海外に居住していた時で、Google Earthの情報を利用しました。

生まれ故郷、および成人後に4年ほど住んでいたさいたま市浦和区(旧浦和市)は、どちらも標高14メートルと、内陸なのに想像以上に低地でした。また人生の半分以上を過ごした実家のある川崎市麻生区や、現在住んでいる稲城市が57メートル~80メートルと、こちらはまあ多摩丘陵なので予想通り。ただ現在の居住地は崖の上なので、もっと標高があると思っていました。なお最も海の近くで暮らしていたのはアメリカ合衆国カリフォルニア州のバークリーでしたが、その居住地は65メートルと、こちらは湾が見える場所だったのに予想以上に標高が高かったようです。

そして人生で一番居住地の標高が高かったのは・・・5歳から6歳までの1年間、まだ西ドイツと呼ばれていたドイツ連邦共和国バイエルン州に住んでいた時の480メートルでした。居住していたガーヒング・バイ・ミュンヘンという町は、バイエルンの州都であるミュンヘンの北側に位置しており、自宅の二階の窓からは遠くにアルプス山脈をバックに、ミュンヘンの街並みが見えていた記憶があります。今思えば遠くの街並みが見えるということは、この一帯の地形は北から南に向かって緩やかに標高が上昇していたということですね。ミュンヘン自体の標高は520メートルで、住んでいた居住地より40メートルほど標高が高くなっています。

なお私の人生で地に足を接した状態で(つまり飛行機を除く)訪れた一番標高の高い場所は、スイスのユングラフヨッホの3463メートル(展望台の標高自体は3571メートル)のようです。ただし当時5歳だった自分は駅に着いた後に高山病に近い状態になって途中から大人に背負われて眠ってしまっていたので、確実に歩いた記憶があるのはユングフラウヨッホ駅の3454メートルです。

そういえば少し前に日本のGDPがドイツのGDPに抜かされた話題がここでも出ましたが([110365])、私が生まれる数年前に、日本のGNP(GDPの方が一般的に使われるようになったのは90年代以降)が西ドイツのGNPを抜き、アメリカ合衆国、ソ連に次ぐ世界第3位になった時代でした。ただし1人当たりの名目GNPが西ドイツを抜いたのは、円高が急速に進んだ80年代後半のバブルの頃でしたし、私が西ドイツに暮らしていた70年代末当時、道路交通網の充実、ごみ一つ落ちていない街並み、町全体を温めるセントラルヒーティング、レストランで出てくる飯の量!と、西ドイツでの生活は日本よりもはるかに豊かに感じました。

とはいえ、私は所詮物を知らない子供でしたので、西ドイツは西ドイツで暮らす上で色々面倒はあったようです。西ドイツは70年代末当時すでに少子化に直面しており、当時は外国人であった私の家族にも子供手当が出たそうです。そのことでトルコ系住民が大量に西ドイツに押し寄せ、兄の通っていた学校でも移民へのいじめ問題が発生していたようです。私自身は特に幼稚園でいじめは受けませんでしたが、まあ黄色人種は珍しく、目尻を指でぐいっと上げて「チンチャンチョン、キネーゼ!」(中国人【追記:ふとChineseは標準ドイツ語だと「ヒネーゼ」になるはずなのに記憶違い?と調べてみたら、どうやら語頭のchの発音がk化して「キネーゼ」となるのはバイエルンなどの南部で、北部低地帯では「シネーゼ」となるようです】)と町中で呼ばれることは定期的にありました。またドイツはやはりゲシュタポの国で、暇な老人が交通違反をした車の番号を控えて警察に通報していました。その結果両親の知り合いの日本人がスピード違反で捕まったのですが、それが日本赤軍の指名手配犯に似ているとされて(余り似てはいなかったようなのですが、ドイツ人警官からしたら黄色人種はどれも同じように目が細くて吊り上がって平たい顔)、身元引受人が迎えに来るまでの数日間、ミュンヘンの牢獄に問答無用で閉じ込められたそうです。

まあそんなことに悩むのは大人の仕事で、私自身は西ドイツでの生活を大分満喫していました。食事については、日本人の中でもドイツの飯は不味い派と、ドイツの飯は美味しい派で全然意見が違うようですが、自分にとってはドイツの食事は美味しかった記憶しかありません。まあ同じドイツでも、プロテスタントの多い北部低地帯に比べ、カトリックが主流のバイエルンなどの南部高地帯の方が食事を楽しむ傾向があるそうですので、これは地域差もあるかもしれません。加えて私の実家は全員健啖家かつ好き嫌いなく何でも食べてしまうので、5、6歳でもドイツの食事の量と味は私の身にあったようです。成人してからのアメリカでの食事の方ががっかりさせられることが多かった(一つの皿に同じ味の盛り付けで飽きる)。


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