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[107127] 2023年 3月 21日(火)23:30:06【4】訂正年月日
【1】2023年 3月 21日(火)23:35:30
【2】2023年 3月 21日(火)23:44:31
【3】2023年 3月 21日(火)23:54:49
【4】2023年 3月 22日(水)00:06:06
YT さん
丸亀五番丁はおそらく明治23年まで存続、ただし丸亀営所は元一番丁~四番丁に設営
[107123] むっくんさん

これらからすると明治7年に、おそらく、住民の数が0人となった自治体としての丸亀一番町~四番町が無くなり、登記簿上のみに丸亀一番町~四番町が残った。その後、明治23年の市制町村制施行に伴う丸亀町の成立に伴い、他の町村の管轄区域ではない丸亀一番町~四番町(土地の登記簿上のみ存在)が自治体として一瞬だけ復活していることとしていたものと考えます。
#丸亀一番町~四番町のような事例としては、現在の京都市上京区の京都御苑に存在していた西殿町(M19.5.13廃止、M22.4.1に上京区の一部)が挙げられます。

当時の丸亀営所は丸亀五番町にあり、丸亀五番町は丸亀通町外二十二箇町連合を形成する一つの町ではないでしょうか。おそらく、何らかの手違いで丸亀五番町が抜け落ち、その為に丸亀通町外二十一箇町連合となったのでしょう。

考察ありがとうございます。

まず色々調べた結果、『丸亀市史』(閲覧には利用者登録が必要です:[107055]参照)の方に明治21年8月13日付で「丸亀通町外二十二箇町戸長」の人口戸数のデータが乗っており、「丸亀通町外二十一町丁」とするのは誤りであり、たとえ人口がゼロであっても「五番丁」は空欄として登録するべきであることが示唆されました。

一方で、この丸亀市史収録の報告書には・・・御供所町、北平山町、西平山町、瓦町、風袋町、葭町、宗古町、魚屋町、松屋町、米屋町、通町、富屋町、塩飽町、南条町、横町、福島町、六番丁、七番丁、八番丁、九番丁、十番丁の合計21町丁の情報が載っているのですが、浜町と五番丁が欠けています。五番丁は本籍人口ゼロだから仕方ないかもしれませんが、浜町は明治22年の本籍人口が522人ですし、データの収録ミスかも知れません。

さらに厄介なことが判明しました、少なくとも丸亀営所は、一番丁~四番丁の武家屋敷をつぶしたところに作られ、あとから五番丁が兵営地に編入されたと推測されるからです。

まず、国立公文書館デジタルアーカイブの方に『讃岐国丸亀絵図』がありますが、こちらの城絵図は、下の方が北、上の方が南、左の方が東、右の方が西となっています。現在の丸亀城址(丸亀市一番丁)は、中央の内堀の内側のみで、外堀は埋め立てられるか、暗渠になっているかしており、地図の上ではなんとなく過去の外堀・町割の跡を道路で確認できる程度です。

次に明治6年12月3日の山縣有朋による『丸亀兵営建築地所請取方伺』もまた、国立公文書館デジタルライブラリ―で閲覧できますが、この資料の3/7頁目に、まさに丸亀兵営地を作るために陸軍に引き渡される予定の5万9463坪4号9勺4才別紙図面が掲載されています。場所としては城の外堀の内堀に挟まれた地で、「土橋」の位置から、城絵図と比較すると、現在の丸亀城址の北側の、丸亀市大手町一丁目大手町二丁目大手町三丁目に相当する地域であることが分かります。

『新版 角川日本地名大辞典』によると、現在の「丸亀市大手町」は、

昭和25年~現在の丸亀市の町名。昭和57年からは1~3丁目がある。もとは軍用地の一部(丸亀市旧一番丁~四番丁の中央部分)。丸亀城大手門前の一帯にあたり,町名はそこに由来する。

ついでに「四番丁」は、

江戸期~明治7年の町名。丸亀城の外郭内の武家屋敷町の1つ。丸亀平野の北部に位置し,丸亀城の北にあたる。三番丁の南に位置し,南側は内堀に面した。東西に細長い町で,中央は広場となっており,橋を経て大手二の門の正面にあたった。生駒氏時代から家中の居住地であったと推定されるが,町の成立は不明。続く山崎氏時代の城郭図には町割が整い,「侍屋敷」と記されている。京極氏時代の文政11年城郭図には10前後の武家屋敷が記されている。明治7年広島鎮台丸亀営所創設にともない陸軍省が用地を買収し軍用地となり,町は消滅した。買収による取払民家数8軒(丸亀市史)

つまり、一番丁~四番丁は、現在の丸亀城址の北側に、かつての外堀と内堀の間を埋めていた城下町で、北から順番に外堀、一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、内堀と東西に延びた町割であったようです。この地の約90家の武家屋敷が明治7年に取り潰されて、丸亀営所になったようです。現在の大手町は、かつての東西に細長い四層構造を南北のラインで東西3つの丁目にぶつ切りにしてしまっています。

丸亀市史』の方に、兵営接地のために取り払われた武家屋敷の所有者一覧と住所が書かれています。すなわち「元一番丁」、「元二番丁」、「元三番丁」、「元四番丁」が該当します。リストには華族として京極一門の名前もあり、割と上級武士の武家屋敷のようです。丸亀営所自体は明治7年9月に新築落成しています。


一方五番丁の方は

江戸期~明治初年の町名。丸亀城の外郭内の武家屋敷町の1つ。丸亀平野の北部に位置し,丸亀城の東にあたる。四番丁の南に位置した。南北に細長い町で,東西でそれぞれ外堀・内堀に面した。生駒氏時代から家中の居住地であったと推定されるが,続く山崎氏時代の城郭図では町割が整い,「侍屋敷」と記されている。京極氏時代の文政11年城郭図には30数軒の武家屋敷が記されている。また当町の北東端には番所があり,土橋を経て城外に至った。明治7年広島鎮台丸亀営所創設にともない,陸軍省が一番丁~四番丁の用地を買収,その後当町も歩兵第12連隊の作業場地域となり,町は消滅した。なお,昭和25年当町域は城東町の一部として再発足した。

こちらは現在の丸亀城址の内堀の東側に、南北に伸びた武家屋敷で、現在の丸亀市城東町二丁目に相当します。文章からすると後から陸軍に接収された土地です。ただ、『日本歴史地名大系』の方も

外郭内の武家屋敷は北から一番丁―十番丁まであったが、明治初期の丸亀歩兵連隊設置により一番丁―五番丁は消滅した。

とあり、『日本歴史地名大系』や『新版 角川日本地名大辞典』の記述に従うところの五番丁の消滅(?)時期が不明です。

結局具体的な丸亀営所の住所表記は分かりませんが、『陸軍省第十年報: 明治十七年 自一月 至十二月』の方だと、歩兵第十二連隊の営所の住所は、「那珂郡丸亀一番ヨリ九番地マデ丸亀城」となっています。

以上をまとめると、

1.「五番丁」は実態は無くとも居住地としては生きており、「町村別戸口表に掲載なし」という備考を加えた上でデータとして追加するべきである。

2.「通町外二十一町丁」は「通町外二十二町丁」に改訂するべきである。

3.「丸亀営所」は、元一番丁~元四番丁を接収して建設された。よって、「丸亀営所(旧一番丁~旧五番丁)」は「丸亀営所(元一番丁~元四番丁)」と改訂するべきである。



まあ今回改めて感心したのは、よく本丸、天守閣を潰して兵営地を建設しなかったことです!万が一天守閣を潰していたなら、丸亀城は現存十二天守の資格を失っていました。丸亀に関わった陸軍の幹部は、丸亀城の天守閣を潰さずに、あくまでも武家屋敷を潰して外堀と内堀の間に兵営所を建設し、その他の重要な軍備施設は城郭建物を転用していたようです。丸亀城が生き残れたのも、本当に幸運のなせる業と言えるでしょう。

【文章を色々修正/追記】丸亀藩・京極家は幕末尊皇派として行動し、明治維新後も率先して廃藩置県に応じたことから、丸亀城郭存続に効いたのかも知れません。明治時代~昭和時代の丸亀城周辺の地図を掲載しているサイトを見つけました。明治32年の地図(pdfファイル)を見る限り、兵営地があったのは現在の丸亀市大手町三丁目と現在の大手町二丁目で、元一番丁~四番丁の西側の半分という感じです。元一番丁~四番丁の東側は「練兵場」となり、五番丁は「作業場」になっています。


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