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伊豆之国さんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[104824]2022年6月12日
伊豆之国

[104824] 2022年 6月 12日(日)22:55:36伊豆之国 さん
大河ドラマの舞台を訪ねて(3年ぶりの本格旅行です)
[104735]
道中記は後日書き込みます
と書き込んだものの、なんだか忘れかけたようになってしまい、「何を今更」といった感ですが…
4月29日から2泊三日で伊豆~駿河~甲斐と、三国を股にかけて回った旅日記を。ようやく書き込むことにします。

思えば、引っ越しのドタバタ、そしてコロナ…と、旅行どころではない日々が続き、やっと宿泊を伴った「旅行らしい旅行」に出られたのは、実に3年ぶり、「平成から令和へ」の伊勢~尾張の道中以来。相模原市民になってからは初の遠出になったのでした。
今回の道中、とにかく天気が不安定という予報があり、空模様に振り回されることになるのは覚悟の上と承知していたところ。初日は。小田急で小田原に出て、熱海で伊豆急直通電車で伊豆急下田へ。伊豆急線に乗るのも気が付けば相当久しぶり。車両のラインアップもほとんど入れ替わり、親会社の東急で役目を終えた銀色の電車がほとんど。乗り合わせた電車もそうで、内部は観光電車らしく海側座席が向かい合わせになったりしていましたが、外観はまさについ2年余り前までの地元で顔なじみだった電車そのもの(もっとも今では消滅寸前ですが…映像)。でも、観光地も疫病禍からようやく回復の兆しが出てきたとはいえ、大型連休の初日なのに、生憎の天気も手伝って、昔のような混雑どころか、空席ばかり目立って寂しい車内風景、海辺を走る区間に出ても伊豆大島などの島影も見えないまま。終点の伊豆急下田駅まで乗りとおし、改札を出ましたが、駅舎の中はすっかり模様替えされたようで戸惑いも。外に出てみると、バスターミナルも駅の横にある食堂や土産物屋などが入ったレトロ風の建物も以前の面影を残していたのには少しほっとしたのでした。そして堂ヶ島方面へのバスに乗り込むのですが、中はガラガラ、気が付いたら車内独り占め状態。雨が降り出す空模様の中とはいえ、こんな様子ではその先が思いやられる状況になったのが心配になります…。
そうしているうちに終点・堂ヶ島に到着。マイカーで来ていた観光客もちらほら見かけましたが、往時の賑わいを知るものとしては寂しい限り。雨が降り出し、遊覧船に乗るのは諦め、洞窟を上から眺められるスポットに出ただけで、旧道廻りのバスに。今度は部活帰りらしい中高生と見られる一団で車内は賑やかでした。向かったのは親父の実家があった田子地区。かつて遠洋漁業と鰹節作りでにぎわったのも今は昔、取り壊された家の跡が空き地になっていたり、空き家になった民家も目立つといった今の光景でしたが、空き家になっていた家の中に、確かに親父の実家だった家に間違いなさそうなのを見つけ、なんだかほっとしたのでした。それから実家の菩提寺([89119])に行きましたが、住職さんも不在らしく、墓の場所もわからなかったので、雨の中ということもあり、本堂を拝んだだけで引き返し、港のほうにも行くのをやめて次のバスを待つことに。雨は一層激しくなり、源氏ゆかりの修禅寺参りは諦め、旧賀茂村の黄金崎クリスタルパークへ。訪れた日は「万華鏡」の特別展示があって、ハンドルを回して中の模様の変化を見ることができ、童心に帰ったような懐かしい思い出に浸ることもできたのでした。
修善寺駅から駿豆線で伊豆長岡駅で降り、少し早めではありましたが、タクシーで伊豆長岡温泉の宿へ。「温泉旅館」に泊まるのは、4年前の夏の津軽([96355])以来のこと。割と小ぢんまりした宿でしたが、かけ流しの湯でじっくり温泉を楽しむことができました。
夜中に雨は上がり、翌朝の散歩で狩野川の土手へ。好天に恵まれ、白雪に覆われた富士山の姿が見事でした。タクシーで伊豆長岡駅に出て、大河ドラマ関係の施設をめぐるバスの一日乗車券を買い、伊豆の国市内に点在する史跡巡りに出たのですが、持ち歩くのに必要でない、重いバッグに入った荷物を伊豆長岡駅のロッカーに預ける際、「仕分け」に手間がかかり、5年前の飛鳥巡り([93764])の時と同様、バスが先に出てしまうという失態。でも元々一日がかりで回る計画を立てていたので、まだ余裕は十分あり、1時間に3~4本と運転本数が多い駿豆線で、隣の韮山駅で降り、駅の反対側にある大河ドラマ館でまず「予習」。そのあと展望デッキに上るとここでも富士山の雄姿が…。
ここでようやくバスに乗って、まず願成就院にお参り。ドラマの主人公・北條義時と姉・政子の父で、鎌倉幕府初代執権の北條時政が建立した寺院で、ご本尊・阿弥陀如来を初め、運慶の作による5体の仏像は、国宝に指定されており、本堂で間近に拝むことができ、境内には時政の墓も建っていました。それから「堀越御所」([90008] hmtさん)の跡へ。今では何もない芝生になっていますが、入り口に説明が書かれた表示板がありました。道を挟んで反対側を少し奥に入ると、「北條政子産湯の井戸」も。河原に出たところにある公園は、「北條氏の館跡」とされる場所で、今では建物などは全く残っていないのですが、往時の様子などが描かれた案内板がいくつか建っていました。
降りたバス停に戻って、ひとまず伊豆長岡駅前に戻ることに。この日は好天に恵まれ、マイカーで訪れた観光客も多かったようで、渋滞でバスも少し遅れ気味でした。昼食を済ませて、今度は狩野川を越えて西側へ。まず北條義時夫妻が眠る「北條寺」にお参り。それから北に向かってしばらく歩いて、北條義時の館跡と伝わる「江間公園」へ。ここで見逃せない珍しい記念物が、「館跡」の石碑の横、敷地の北東隅にある「北伊豆地震の震災遺跡」、ガラスケースの中に保護されている魚雷の表面に残った地震による表面の傷跡。この公園の場所にあった小学校に海軍から譲り受けられた魚雷が、地震の揺れで傷ついたもので、関東大震災から7年後の昭和5年(1930)に起こった「北伊豆地震」([64043])の被害状況を知る貴重な遺跡となっています。
それからさらに少し歩くと、「いちご街道」という愛称を持つ、やや広い通りに出ます。そこを左折してしばらく行くと「豆塚神社」という神社があり、その境内には今回の大河ドラマに関係する「ミニ資料館」のようなものもありました。この辺りの道筋と風景は、[64043]で紹介した「木造の家は地震に強いか」(杉山英男氏著・昭和60年初刊)という本の中で「北伊豆地震と被害状況」について詳しく書かれた記事があり、その中にかつて「江間村」と呼ばれたこの地域の中心部の概略の地図と当時の写真があって、この辺りの地理は十分頭に入っていたので道に迷うことがなく、さすがに「木造~」が著された時より30数年ほど経過しているので沿道の建物などは大きく変化していましたが、先ほど曲がった四つ角(「木造~」にある地図では「中央四辻」と書かれている場所)の写真に写っている、北西側のスーパーと南西側のガソリンスタンドは当時のままの姿を残していました。
ここからは直接行くバスの便もなく、次のスポット「江川邸」までの間は、狩野川を渡ってひたすら歩くことになります。史跡めぐりのバスと言っても本数は少なく出発時刻も不規則で、昨年末に訪れた深谷市の渋沢栄一関連の史跡巡りのバス([103328])と同様、意外と使いにくいダイヤのように思えました。駿豆線の線路を越えたあたりは、旧韮山町の中心だったのでしょうが、これといった商店街は見られず、やはり「伊豆の国市」の中心市街は温泉街がある旧伊豆長岡町だということになるのでしょう。
江川邸」と、後述する「韮山反射炉」は、40年ほどの前に入った記憶がありますが、今となっては当時の記憶は既にあいまいになっていったので、改めて訪問するといった感じで見学することに。内部には、幕末の国土防衛に尽力し、反射炉や東京湾の「お台場」の築造などにかかわった幕末の代官・江川英龍の功績に関する資料などが展示されていましたが、室町時代に建てられたという母屋の豪勢さには圧倒されるものがありました。それからバスで、源頼朝が流された「蛭が小島」(近年は「蛭が島」とも言うようです)へ。今は田んぼの真ん中といった感じですが、昔は狩野川がこの辺りを流れていて中洲のような地形だったのでしょうか。もう最終のバスもなく、この日最後の目的地・反射炉へはまたまた歩き。反射炉の入場時間がこの時期は午後5時まであり、時間の余裕はまだ十分ありましたが、そこまでの道路には歩道が整備されていないところも多く、自動車が近づいてくると少しはらはらしたものでした。反射炉の周りは、昔行ったときには敷地に柵も無く無料で入れたようにおぼろげながら記憶があったのですが、世界遺産に登録され、資料館もできてしっかり入場券を払わされたのにはやはり仕方ないのでしょうか。反射炉の前後左右には詳しい説明が書かれた案内板もあり、その仕組みがしっかり理解できたのでした。余談ですが、毎週日曜日に放映されている「鉄腕DASH」では、以前「無人島に(ミニ)反射炉を作る」という場面があって、韮山の反射炉の映像が出ていたシーンもありました。
反射炉から最寄りの伊豆長岡駅までは、タクシーもあったのですが呼んでもいつ来るのかわからないので、今度も歩き。この一帯には温室が立ち並んでいて、どうやら「旬」も終わって片付けに入っていた「苺」を栽培している温室のようでした。伊豆長岡駅に戻ってロッカーから荷物を取り出し、三島・沼津と乗り換えて、2日目の宿泊地・御殿場へ。ホテルに着いた頃にはすっかり日が暮れていて、チェックインを済ませ、近くの拉麺屋で夕飯を。
3日目の朝はどんよりとした曇り空。朝飯前に町のほうまで少し歩きましたが、晴れていれば間近に見える富士山も、上の方は厚い雲に覆われ、かろうじて中腹から下の一部が見え、裾野のなだらかな曲線から何とか富士山に違いない、と思っただけでした。御殿場駅の広い構内は、かつて東海道本線だった「過去の栄光」の名残を残しているように見えました。3日目の計画は、出発前から「天気予報とにらめっこ」といった形で、「忍野村~富士吉田方面か、アウトレットを見てから箱根方面か」と、ホテルを出る直前まで迷いに迷ったのでした。結局、河口湖方面のバスの出発時間が近かったことから、前者の方を選択。もう富士山はすっかり雲に覆われて見えなくなり、やがてバスは籠坂峠を越えて甲斐の国へ。山中湖は14年前と同様、車窓から湖を見ただけで素通り、バスを降りたのは「忍野八海」の入り口。この「忍野八海」を「行った、見た」という記憶がはっきりせず、バスを降りて観光客が進んで行く方向を見て、「やはりここは初めてだった…」と分かったのでした。中央高速から近いこともあり、マイカーで訪れる客が多く、結構混雑していて、「どこがなんという名の湧き水(池)なのか、どこがどう違うのかいまいちわからず、また8つ全部がここにあるわけでなく、少し離れた場所にあるのもあることも知りました。降り出した雨が本降りになっており、富士吉田市に入って「北口本宮浅間大社」にお参り、そのあと14年前にも見てきていた「御師の家 外川家住宅」に向かおうとしたのですが、もう14年前の記憶が薄れていたのに加え、降りしきる雨の中で方向感覚もわからず、案内板も整備されておらず、中心市街の近くまで来て「道を一本間違えていた」とようやく気付くことに。やっと「御師の家」を見学。そしてやっと富士吉田改め富士山駅に到着。名物の「吉田のうどん」は、結局駅ビルの地下で召し上がることになり、次の列車まで時間が空いたため、近くの喫茶店で珈琲を飲んで時間つぶし。ここから富士急で大月へ。下吉田駅では、今では絶滅危惧種の「鐘が鳴る旧式踏切」の音も聞こえました。大月からは、高尾・八王子・町田と乗り換えて、やっと我が家に帰還。大河ドラマの開始時刻には十分間に合いました。

♯長文お許しください。(「ご当地」絡みなので…)


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