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hmtさんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[98178]2019年8月11日
hmt

[98178] 2019年 8月 11日(日)11:09:58【1】hmt さん
度量衡の話(3)容積の単位 寛文9年 一升を 64827立方分 に統一
度量衡シリーズの第一回は キログラムの定義変更[98033]、つまり「衡」から始めました。
7月の第二回は メートルの定義[98077]、つまり「度」に関する話。
8月になった第三回は 当然のことながら 体積をはかる「量器」=「枡」の話になります。

…と言っても、長さの基準さえ確立していれば その組み立てにより定義することができる「体積」については、前2回とは異なる視点の話になります。

基本単位でない体積が、長い間「度量衡」の一角という重要な地位を占めていた理由。
それは、経済活動の基礎を支えてきた 「お米」の計量 に用いられた単位だったからです。

現在は kg単位 で取引され、その都度計量する必要もない包装商品になっている「米」ですが、農業生産が経済活動の主流を占めていた時代には「年貢米」という納税対象とされ、地域の経済規模を示す「石高」の算出にも使われていた、最も重要な生産物でした。

【追記】
解りやすくするために「米」を例示しましたが、誤解を防ぐために [58062]okiさんの注意書きを追記しておきます。
石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
また、白米ではなく、玄米や籾で扱われるのが普通でした[72071]。【追記終】

その「お米」を計量する基準は 体積を量る「枡(ます)の寸法」でした。

子供の頃に、ある殿様がこんなアイディアを考えたという昔話を耳にした記憶があります。
年貢米を集める為政者としては大きい枡を使いたい。
そこで、5寸四方・深さ2寸5分という一升枡の形を、4寸9分四方・深さ2寸7分に変えた。
つまり、2辺を1分ずつ減らして 小さな枡に見せながら、深さは2分増した。

これならば、納税者を納得させながら 増税することができるのではないか…という論法。
計算してみれば、62500立方分から64827立方分へと 3.7%以上大きくなっていることはバレバレでしたが、この増税を強行した結果、現在の一升枡の寸法になったという説明でした。

この話は、本能寺の変後の政変に巧みに対応し、近畿地方の政治統一を果した 豊臣秀吉が 浅野長政に命じて統一した「京枡」の由緒と理解していました。
最近見たブログには、もう少し後の江戸幕府による仕業という説明もありました。
当業者のものですが、肝心の枡の寸法記載など疑問があり、信用できない説と思われました。

私としては、コトバンクに紹介された百科事典の解説により、寛文9年(1669)江戸幕府による「京枡への再統一」が正しいように思っています。京枡/江戸枡/一升枡など資料による用語の混乱もあり、いささか当惑しましたが、「京枡への再統一」前に使われた深型の江戸枡(47.5*47.5*29=65431.25)についての記載【世界大百科】もありました。

64827立方分として統一された一升枡の寸法は、江戸幕府から明治政府に引き継がれ、明治8年太政官達第135号度量衡取締条例に、詳細に規定されています。
403-4コマを見ると、旧器斗量と新器斗量とにつき、それぞれ穀量【米用】、水量【酒用】に細分された枡の規格が示されており、水量の一升枡で 64827立方分、穀量では 深さが1厘大きいものの、弦積差引 64827立方分という数字を確認できます。

折衷尺に代ってメートル原器との関連が付けられたのは、明治24年法律第三号度量衡法の第二条であり、ここでも 9コマの末行(第三条)に記された「升」の定義【むしやふな】を確認することができます。
六萬四千八百二十七立方分

枡の産地・大垣市
京都と江戸の枡座時代はさておき、明治時代になると、木曽ヒノキの集積地・名古屋で、枡の生産が盛んに行なわれていました。
奉公を終えて名古屋から大垣に戻った職人が伝えた枡作りの技術。
11社あった大垣の「木枡」生産者も半減したとのことですが、年間200万個を生産し、全国の8割をつくる産地とのことです。
大垣には 2012年岐阜オフ会の前に立ち寄りましたが[82261]、枡のことは知りませんでした。

大橋量器 枡の知識


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