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長野県の主要拠点都市はどっち? 長野市VS松本市

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記事数=12件/更新日:2003年5月22日/編集者:special-week

長野県の県庁所在地長野市と城下町として発展してきた松本市。前者は県都として、後者は古くからの城下町を背景に独自の都市を築いてきた。この2都市の対立は昭和に入っても長く続いたため、分県騒動まで持ち上がった。松代、篠ノ井を合併して巨大化していく長野市、南信の拠点として反映する松本。長野県は今後どうなるのか?

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[233]2001年5月4日
Issie
[926]2002年2月18日
Issie
[2751]2002年8月24日
Issie
[2753]2002年8月24日
深海魚
[2758]2002年8月24日
Issie
[3116]2002年9月15日
Issie
[3190]2002年9月19日
YSK
[3193]2002年9月19日
Issie
[8177]2003年1月25日
Issie
[8187]2003年1月25日
special-week
[8203]2003年1月25日
Issie
[8346]2003年1月28日
Issie

[233] 2001年 5月 4日(金)09:53:55Issie さん
長野県の分県問題
> 長野県が分離というのは、長野と松本の分離でしょうね。

そうです。長野と松本の仲の悪さは有名ですからね。
ほかの多くの県では明治から大正にかけて盛んであった分県運動も
昭和以降はほぼ下火になるのですが,
長野県では戦後になっても松本と,それに諏訪と伊那がひきづられる形で
「南信」地方の分離運動が続きました。
そして,日本国憲法と地方自治法に基づく新しい地方制度に移行したばかりの
1948(昭和23)年春の県議会の議題となりました。
当然,分離賛成派の南信選出議員と反対派の北信(長野・上田・佐久)選出の
議員との間で紛糾し年度末から新年度当初にかけての議会は麻痺しました。
そして,いよいよ採決かというとき,傍聴席から誰かが県民歌として県民誰もが
知っている「信濃の国」を歌いだすと,分離賛成派も反対派もそれに加わり,
議場全体に歌が広まって,結局この話はうやむやになってしまった,
という有名なエピソードがあります。
どこまで本当の話なのか私にはちょっと自信がないのですが(以前,地元紙の
「信濃毎日新聞」の記事をさがしてみたのですが,戦後の2~4面しか紙面の
ない時期で,議会の細かい動向は記載されていませんでした),
少なくとも分県決議が議題に上り,それで県議会が紛糾したことは確かです。

ただし,仮に県議会で分県決議が可決されたとしても,
実はそれを決定する権限は県議会にはありません。
地方自治法では,都道府県の廃置分合は「法律」による,と規定しているからです。
したがって,県議会の議決の後,内閣が法律案を作成して国会で審議
ということになるのでしょうが,当時の芦田内閣と,国会の勢力分布では
どうなったことでしょうね。
[926] 2002年 2月 18日(月)22:06:47Issie さん
筑摩県松本
> 「筑摩」は松本一帯の県名にも使われたそうですが、その守備範囲は?

「筑摩(ちくま)県」は,廃藩置県後の1871年11月の全国的な府県再編によって,信濃国のうち南西半にあたる安曇・筑摩(いわゆる「中信」)・諏訪・伊那(いわゆる「南信」)4郡に飛騨国全域3郡を管轄区域として設置され,県庁を筑摩郡松本に置きました(だから「筑摩県」と言う)。
ちなみに,小県(ちいさがた)・佐久の2郡が「東信」,更級・埴科・高井・水内4郡が「北信」とよばれます。ただし,更埴2郡は特に北半分が長野市に編入されて以降,更埴市以南の区域は「東信」に含まれることが多くなっています。
「中信」と「南信」とで広義の「南信」,「東信」と「北信」で広義の「北信」となります。前者の区域がつまり「筑摩県」の信濃国部分でその中心が松本,後者の区域が旧「長野県」で中心はもちろん長野。
この南信と北信,つまり松本と長野の対立は余りに有名です。

木曽は筑摩郡に含まれます(だから「中信」の一部)。1879年に筑摩郡が東西に分割されると,いわゆる「木曽」の地域が「西筑摩郡」となりました。残り,松本平の南半分が「東筑摩郡」。1968年に西筑摩郡が「木曽郡」と改称されて現在に至ります。

ところで,1871年7月の廃藩置県以来11月に府県の再編が行われるまでの4ヶ月間は,従来の「藩」がそのまま「県」に変わっただけで,したがって全国いたるところに府県の飛び地が存在していました。
たとえば,現在の神奈川県海老名市の区域には下野の「烏山県」や下総の「佐倉県」の飛び地がありました。それぞれ,烏山藩・佐倉藩の飛び地だったからです。隣の寒川町から茅ヶ崎市にかけての区域には三河の「西大平県」がありましたが,これもやはり西大平藩(藩祖は有名な大岡越前守忠相)の飛び地,というより旗本時代からの大岡家の本領でした。
群馬県の川場村が東京都の世田谷区と合併するという話がありますが,またこの時代に戻ろうってつもりなんですかねぇ。
総務省は口先では「自治体のため」の市町村合併と言っていますから,地元の意思を尊重するなら当然あってしかるべきパターンだとは思いますが。

> 「深志」の地名

さて,さっき筑摩県の県庁所在地を「筑摩郡松本」と書いたのは,当時は「松本」という行政区画が存在しなかったからです。
そこにあったのは「北深志村」と「南深志村」(“町”だったかも)。「松本」というのは,この2つの区域からなる旧城下町の総称でした。

「深志」と「松本」を比べたら,当然「深志」の方がずっと古くて,その起源がわからないほどです。
「松本」は始まりが一応はっきりしていて,1582年にこの地に復帰した小笠原氏が「深志城」を「松本城」と改称したことに始まる,と言われています。以来,江戸時代を通じて城主(藩主)はどんどん変わっていきましたが,ここの城下町は「松本」と呼ばれて発展しました。
松本城下町は,お城の外堀の役目をする女鳥羽(めとば)川を境に北側の武家町である「北深志」と南側の町人町である「南深志」とからなっていました。で,これが明治半ばの町村制施行で両区域を統合した「松本町」が発足するまで続いていました。
したがって,1960年代後半からの“住居表示”による新町名が編成されるまでは松本市の中心部は「北深志」と「南深志」の2つの“大字”から構成されていました。現在ではそれぞれの区域のごく一部に「北深志」「深志」という新町名があります。
[2751] 2002年 8月 24日(土)11:26:45Issie さん
長野 vs 松本
>それにしてもこの「本校」 の立地を巡っても、某かの駆引きがあった様に感じるのは穿ち過ぎでしょうか。

松本が長野に比べて特別に開明的であったかどうかはわかりません。松本藩に先進性があったかどうかもわからないし(廃仏毀釈は徹底したことで有名です)。門前町の長野(善光寺宿)は,つまり商業都市なわけで,そこには別のセンスもあるだろうし。
ただ,学校の設置をめぐっても,長野と松本との間でかなりの競争があったことは確かなようです。特に官立高等学校の設置をめぐって。
信州大学の前身となった学校のうちで最も古いのは教育学部の前身の「長野(県)師範学校」
で,これはもちろん長野に開設されたのですが,青年師範学校は松本に設置されました。そのために1960年代半ばまで松本には教育学部の分校があり,現在でも附属小中学校は長野・松本の両方にあります(幼稚園は松本,養護学校は長野だけ)。

戦後の新制大学発足にあたっては,戦争末期に官立の高等学校“並”に格上げされた師範学校よりはやはり“格上”の高等学校と医科大学のある松本のほうに大学本部が置かれたわけですが,今に至るまで長野は教育学部と工学部を手放そうとしません。信州大学の統合が進まない最大の原因と言われています(大学の方では教養課程を松本に置き,教養部が廃止された後も全学部の学生に最初の1年間を松本で“共通教育”を受けさせるシステムにしています)。
なぜ,「松本大学」でも「長野大学」でもなく「信州大学」なのか,と言われる話ですね。

学校教育に関しては長野の師範学校,そして教育学部が県全体の単位でリードしてきたこともあって,この分野では“長野 vs 松本”という対立感情以上に「長野県」ないし「信州」という一体性を強調する傾向が強いようです。
長野オリンピックの開会式で(多分に自発的に)歌われた県歌「信濃の国」は,もともと長野師範学校の校歌でした。現在でも附属長野小学校の校歌です。
[2753] 2002年 8月 24日(土)13:26:05深海魚[雑魚] さん
都市機能分化
[2751]
>門前町の長野は,つまり商業都市なわけで,そこには別のセンスもあるだろうし。
勿論、松本が総じて長野より上格と言う事ではありません。他地域の古参中等学校の
分布から考えて、徳川幕府時代に一定の向学精神が醸成されたと思われる城下町が、
明治時代の文教政策上、重視された傾向が窺える為、この様な発言となりました。

門前町にして商業都市の長野と城下町の松本のかような関係を、或る種の機能分化と
考えるなら、青森と弘前、酒田と鶴岡、上越市の直江津と高田、奈良と大和郡山、
福岡市の福岡と博多、日南市の油津と飫肥、那覇市の那覇と首里などでも、同じ様な
地勢が見て取れる様にも思います。上記の弘前と大和郡山、そして彦根は、県都より
尋常中学の設置が先行した街ですが、津軽藩の開港政策や大津と京都の近接性などを
考慮しても尚、有力な城下町という共通の印象が大きいですね。

一方、今でこそ県都移転すら取り沙汰される県央部の交通の要衝ながら、明治初期は
県都でも城下町でもなく、戊辰戦争の災禍を被り荒れていた郡山に福島県尋常中学が
設置された経緯は今一つ不明です。同校が元々は福島の師範学校に併設された存在で、
郡山の立地は移転の結果という事から、官民挙げた大型公共事業と目される開成社の
開発事業の尖兵、つまり筑波研究学園都市における筑波大学の様に位置付けられたと
いう事なのかな、という風に推しているのですが。

>これはもちろん長野に開設されたのですが,
信州大教育学部も、松本深志高と同様に開智学校が前身であると仄聞したのですが、
長野の設置となると、そうではないのでしょうか。長岡の国漢学校も、複数の後身校を
持っていますが、財政上の理由から、こうした学校に主要教育機関たるを委ねていた
明治期の財政事情が窺われます。一方、私立茨城高の起源である水戸藩校弘道館が、
正規の中等学校と位置付けられたのが昭和に入ってから。それまでの空白期間が少々
意外に感じられます。
[2758] 2002年 8月 24日(土)20:50:56Issie さん
続・長野 vs 松本
>門前町にして商業都市の長野と城下町の松本のかような関係を、或る種の機能分化と

…という機能分化が成立していればよかったのですが,長野も松本も全機能を集中した「県都」を志向しているのです。現実に県都である長野はもちろん,松本も1876(明治9)年までは「筑摩(ちくま)県」の県庁所在地でしたから。

藩政時代の松本は城下町として行政機能はもちろん,藩の経済的中心でもあったわけで,それは近代以降,現在でも中信地方(筑摩・安曇)での圧倒的地位は揺るぎないものがあります。
一方の長野が中心的地位を高めるのは1871(明治4)年の廃藩置県直前に県庁が中野から移転してきてからのことです。
北信地方(更級・埴科・高井・水内),つまり善光寺平(長野盆地)には3つの城下町(松代・須坂・飯山)と1つの幕府直轄領代官所所在地(中野)があって(最初に「中野県」だったのは,幕府解体後にこの代官所を県庁にしたからです),それぞれが一応の中心機能を持っていました。それらの中で長野(善光寺宿)は門前町 兼 北国街道の宿場町として,善光寺平北西隅の地域的な商業中心に過ぎませんでした。
県庁が移転してきて,北信と東信(小県・佐久)を領域とする「長野県」が編成されて長野は急速に中心都市として発展していきます。それに反比例して衰退したのが北信最大の城下町だった松代(松本よりもずっと小さい)でした。
その意味では,中世の小笠原氏支配以来,中信地方の“主都”だった松本よりも長野の方が中心都市としての歴史は浅いのです。

松本から見れば,1876年にかなり強引に(松本市民にとって)「筑摩県」が廃止され,その信濃区域が「長野県」に統合され(飛騨区域は岐阜県へ),県庁を奪われてしまったことが長野への複雑な感情の発端になっていると思われます。
(もっとも,現実には野麦峠でしかつながっていない中信(木曽も含む)・南信(諏訪・伊那)と飛騨とで1県を編成するというのに無理があります。だからと言って統合後の信濃全域の県庁所在地が北に偏りすぎる長野というのには問題がないわけではないのですが。どう見ても,松本が“真ん中”ですよね。)

この対立感情は相当根深いもののようです。
ところが,現行の衆議院小選挙区では長野市郊外の上水内郡は長野市と同じ「1区」ではなくて,松本市を中心とする「2区」に含まれるのですね。有権者の数では松本市の比重が高くなりますから,当然「2区」の当選者は松本に地盤のある候補者です(今,大臣をやってたりして)。長野市に通勤する上水内郡の有権者はどう思っていることやら。

>信州大教育学部も、松本深志高と同様に開智学校が前身であると仄聞したのですが、

教育学部の直系の前身は1875(明治8)年開設の「長野県師範学校」です。さらにその前身の「長野県師範講習所」が開設されたのは1873(明治6)年のことですから,いずれにせよ松本が「長野県」ではなかった頃のことなのですね。
松本の方では,長野県と同じ1873年に「筑摩県師範講習所」,74年に「筑摩県師範学校」が開設されています(どちらも長野より一歩早い)。結局,これも筑摩県と運命をともにして,長野の方に統合されてしまいました。だから,今に至るまで教育学部は長野にあるのです。

で,前の書き込みは私の記憶違いだったのですが,松本には1902(明治35)年に「女子師範学校」が設置されました。以後,男子は長野,女子は松本,ということになったのですね。
「青年師範学校」は,やはり長野。現在の県(立)長野吉田高校の敷地がこれにあたります。
[3116] 2002年 9月 15日(日)10:20:36Issie さん
Re:信州
一応,念のため。

本来,「信州」というのは旧国名の「信濃」の別称です。
信濃国はほぼ現在の長野県と同じ。木曽最南端の旧・神坂(みさか)村の大部分が岐阜県中津川市に編入されていますが,ここだけが「信濃国」と「長野県」の違いです(旧神坂村のうちの馬篭地区ほかは西筑摩郡(現・木曽郡)山口村に編入されました。現在,山口村は中津川市への編入をめざしていますから,これが実現すれば両者のズレは少しだけ大きくなります)。
「信州」は,この「信濃国」の言い換えです。
だから,「信州」と「長野県」は基本的に“ほぼ同じ”。もちろん,木曽も「信州」です(ただし,現在の木曽郡(旧西筑摩郡)のうち,西半の木曽川流域は戦国末期くらいまでは美濃・恵那郡の一部だったと考えられています。ということは,「信濃」ではなかった)。

[3095]
>ガイドブックに「信州」というのが書かれてあれば、長野県だけではなく新潟や山梨の方も掲載されています。
>...これが「長野」と「信州」の違いだそうです。

少なくとも,地元の「信州」にはこういう解釈はありません。

もともと「谷」ごとの地域割拠性が強く,“県都”の長野が大きく北東部に偏っている上に,「長野県」の形成過程で元は「筑摩県」の県庁所在地であった松本の地位を奪ったことによる対立感情から,「長野県」内では「長野」よりも「信濃」「信州」という呼称の方が好まれる傾向にあります。
だから「長野新聞」ではなく「信濃毎日新聞」。「国立長野大学」でも「国立松本大学」でもなく「国立信州大学」。“県歌”として,ほかのどの都道府県よりも広く県民に定着している愛唱歌は「信濃の国」。
ただし,明治・大正期には「信濃」の方が普通で,「信州」がわりと広く用いられるようになったは比較的最近との地元研究者の指摘もあります。

一般に旧国のいずれについても「…州」という別称が定着しています。

[3105]
>「信州=信濃」 「上州=上野」 「長州=長門」 という単純なものではないのかな。

基本的にこういう解釈で結構。
他に「甲州=甲斐=山梨県」「紀州=紀伊=和歌山県+三重県南部」というあたりが現在でも盛んに使われていますね。

[3112]
“ブロック紙”(いくつかの地域をエリアとする)に位置付けられる「中日新聞」は時々キラリとした特集をするのに定評がありますね。東京でもドラゴンズには関係なく「東京新聞」のファンは多いようです。
もっとも,ウチは購読していませんが。
[3190] 2002年 9月 19日(木)22:18:03YSK さん
松本の経済圏
[3177]
>ところで犀川支流の谷に広がる聖高原一帯は、経済的には
>長野と松本、何れを志向するでしょうか。
>高校の通学事情でいうと、松本圏らしいのですが。

手元にある1985年現在での(ちょっと古くて申し訳ありませんが)国勢調査の通勤流動を分析した資料によると、東筑摩郡の町村(篠ノ井線で言えば冠着トンネル以南)は松本の都市圏に入るとされていますね。
また、朝日新聞社の民力97年版でも、やはり同じように松本の都市圏とされています。
[3193] 2002年 9月 19日(木)23:59:01Issie さん
Re:松本の経済圏
>東筑摩郡の町村(篠ノ井線で言えば冠着トンネル以南)は松本の都市圏に入るとされていますね。

一昔前の筑北盆地(本城村・坂北村・麻績[おみ]村・坂井村)は松本電鉄バスのエリアでした。現在では松電バスは撤退してしまいましたけど。
ただし麻績村は,更級郡の大岡村への入口という位置にあるので,ここには川中島バスが乗り入れていました。川中島バスは,長野市の都心部西半部以西の上水内地域と更埴地域,大町以北の北安曇地域と新潟県の妙高高原地区をエリアとしていました。
(ただし,大岡村へのアプローチは,同じ更級郡の中心であった篠ノ井から,または長野市内から信州新町を経て,というのがメインであるようです。これも元は“川バス”(川中島バス)が運行していました。現在は村営。)

つまり,麻績村と大岡村との間には局地的な流動はあるようです。過疎地域のことで,きわめてわずかですが。
けれども,筑北盆地と善光寺平との間の流動はかなり少ないと思われます。
松本-長野という都市間の輸送需要はあっても,聖高原-篠ノ井間のローカル輸送の需要はほとんどないと言っていいように思います。だから,篠ノ井線の普通列車は非常に少ない。松本から明科あるいは聖高原(麻績)までの区間列車が運転される(た)ことがあっても,冠着トンネルを抜ける普通列車は意外に少ないのですね。
[8177] 2003年 1月 25日(土)12:02:08【2】Issie さん
松代
[8155] ヒロオ さん,[8157] YSK さん
何かご指名のようですが…

まず一般論として,自治体の合併や分割には当該地域の中での結びつきや地域構造といった“客観的”な条件だけではなくて,その地域内から都道府県単位,国レベルまで,それぞれの段階の住民や政治家の思惑や期待,そしてそれを実現できるだけの政治力といった条件がそろわなければ実現できません。机上でパズルの組み換えをやっているだけでは,“知的ゲーム”としては面白いけれども,現実には何の意味もないのです。

ところで「松代」ですが,現実の政治の場でどのような動きがあったのかは私にはわかりません。ただ,おそらくは1965年の「市町村の合併の特例に関する法律」(昭和40年法律第6号)の制定が直接のきっかけになっているだろうとは思います。
福島県石城(いわき)地域の大合併(1966年10月1日),岡山県児島市・玉島市と倉敷市(1967年2月1日),西大寺市と岡山市(1969年2月18日),広島県松永市と福山市(1966年5月1日),鹿児島県谷山市と鹿児島市(1967年4月29日)など,同時期に行われた市どうしの合併と同じ流れに属するのでしょう。新潟県上越市(1971年4月29日)の成立と,北海道亀田市の函館市への編入(1973年12月1日)も含まれるのでしょうね。大分県鶴崎市と大分市の合併(1963年3月10日)の場合は,前身の法律である「市の合併の特例に関する法律」(昭和37年法律第118号)によるものと思われます。

藩政時代から明治期まで,松代は確かに善光寺平の中での主邑的な位置にありました。けれども,これはひとえに松代藩10万石の城下町であったことによるものでしょう。
松代は,善光寺平の支配権をめぐって武田氏と上杉氏が川中島で対峙した中で,武田側の戦略的要地として浮上してきました。千曲川に面して築城され,それがその後もこの地域の支配拠点として江戸時代に至り,1622(元和8)年に真田信之が上田から移転してきて真田家の支配の下,明治維新を迎えるわけです。
そもそも松代城が千曲川に面して築城されたのは敵に対する防御という面だけではなくて,千曲川舟運もあてにしたものでしたから,こちらが物資輸送の主役であった時期には松代のロケーションはさほど悪いものでありませんでした。
ただ,陸上交通の面で見ると,屋代から松代を経て須坂,中野と続く谷街道が通っているわけですが,屋代から雨宮の渡しを渡って善光寺宿(長野)から高田方面へ抜ける北国街道に比べて支線的存在であることは否めません。それはそのまま,現在の信越線と長野電鉄河東(かとう)線の違いに現れています。
松代城下町は背後の山地から千曲川へ流れ出す中規模河川の扇状地上に位置するのですが,この河川の奥行きは深いものではなく,したがって松代市街は後背地というものをほとんど持ちません。先述の通り,谷街道で屋代や須坂と結ばれてはいますが,千曲川は善光寺平では盆地の南東側の縁に偏って流れ(これは犀川が作る大きな扇状地に押し出されてしまったのでしょう),そのせいで松代は千曲川にせまる山によって屋代とも須坂方面とも分断されて孤立したような位置にあるのですね。
だから,千曲川舟運が廃れてしまえば松代単独での発展は難しいロケーションにあるのです。
松代藩が廃止され,県庁が長野に置かれてしまえば,松代の地位が下落するのは止むを得ないことでしょう。
「埴科郡の中心」という地位も,そもそも郡内の北東端に孤立して位置するわけですから,北国街道に沿い,のちに信越線の駅も設置された屋代にその地位を奪われたのも蓋然的です。

この点,石高に関しては松代よりも小さな松本や上田,飯田などが地域の中心として圧倒的な位置にあるのと大きな違いがあります。
真田信之が上田から松代への転封を命ぜられたとき,名目上は9万5千石から13万5千石へという「加増転封」でありながら,父祖以来勢力を扶植してきた小県(ちいさがた)郡を奪われて,犀川扇状地を流れる荒れ川をかかえた善光寺平への移転を命ぜられたことに家中では大きな不満があったとも言われます(関ヶ原に向かう途中で足止めを食らわされ大恥をかかされた将軍秀忠の真田家への意趣返し,なんてことを言う人もいますね)。

かくて,松代は善光寺平の中のほかの地域がそれぞれに発展をしているのに対して,どうもそのような流れから取り残された存在として,松代小盆地内の商業小中心の地位に甘んじているように思います。そして,広域的には善光寺平の中心である長野の影響圏下にある。合併当時,松代とほかの地域を結ぶ最も太いパイプは,川中島平を横断して長野と結ぶバス路線でした(これは今でも同じ)。
このような状況の中で,善光寺平西半部を“1つの自治体”に統合する「大長野市構想」に,松代町も参加することを選択したのだと思います。
[8187] 2003年 1月 25日(土)15:33:05special-week[ヒロオ] さん
大長野市は再編できるか?を考える
[8177]
Issie様
松代藩が廃止され,県庁が長野に置かれてしまえば,松代の地位が下落するのは止むを得ないことでしょう。


どうして長野市に県庁が置かれるようになったのでしょうか?長野藩があったようですが、明治維新で廃藩置県が行われる時点では、もう信濃領内随一のまちだったのでしょうか?城下町としては、長野県にはほかに、上田、松本などがありますが、これらよりも県庁を置くにふさわしいほど発展していたのでしょうか?まあ、県庁を設置するのに発展している必要はないかもしれませんが、長野市が肥大化してしまった要因が、県庁が設置されたことに起因するならば、長野市がほかの市町村を編入する理由があったと思うんです。
 Issieさんが指摘するように長野県は長野市と松本市で人口・産業などが二分化されているようなので、長野市の完全な独走状態ではないわけですよね?ややもすると県内第1都市の座を松本に奪われかねない長野市に編集されるいわれはないと思ってしまうのです。(松代、篠ノ井が分離したらますます長野市は松本市に肉薄されそうですが)

 長野市とは関係ないけれど、福岡県も県内第2都市の北九州市の方が先に政令指定都市になりました。それでも福岡市か県内第一都市の地位が揺らいでいないですね。揺らいでいないどころか、最近では明らかに福岡市に勢いがある。長野市は大丈夫かなあ~?
[8203] 2003年 1月 25日(土)19:05:59Issie さん
長野県の成立
[8187] ヒロオ さん
長野藩があったようですが、

ありません。
善光寺宿を含む水内郡長野村(長野町になっていたかな?)周辺は藩領でも幕府直轄領(天領)でもなく,善光寺領でした。
結論を言えば,「長野藩」などというものが存在しなかったから,長野に県庁が置かれたのです。

はじめに,1871(明治4)年7月の「廃藩置県」ではじめて「県」が設置されたような誤解がなされているようですが,以前にも触れたとおり,「府」や「県」は1868(慶応4→明治元)年春の明治政府確立直後に,まずは旧幕府から没収した政府直轄地を管轄する地方官庁として閏4月以降に順次設置されました。したがって,廃藩置県までは旧大名(諸侯)が管轄する「藩」と政府直轄の「府・県」とが併存していました。

信濃国内に関しては,松代藩や松本藩以下の大名領を除き,国内に点在する旧幕府直轄領を管轄するために1868(慶応4)年8月2日に「伊那県」が設置され,(上)伊那郡飯島にあった幕府代官所が県庁とされました。69(明治2)年6月24日には三河国内の直轄領を管轄していた「三河県」(県庁所在地は宝飯郡赤坂)が伊那県に統合されましたが,70(明治3)年9月17日に信濃を南北に分割し,南信2郡(諏訪・伊那)・中信2郡(筑摩・安曇)と三河国内の直轄領を管轄する「伊那県」が存続する一方,北信4郡(更級・埴科・高井・水内)・東信2郡(佐久・小県)の直轄領については(下)高井郡中野の旧幕府代官所を県庁とする「中野県」が新設されました。藩政時代,北信の直轄領を管轄する代官所が中野にあったからです。中野の銘酒に「天領誉」というのがありますが,それはこのことにちなむのですね。
繰り返しになりますが,この段階ではまだ東・北信には「松代藩」「須坂藩」「上田藩」「小諸藩」「岩村田藩」「竜岡藩」といった諸侯管轄地(藩)が存在していました。「中野県」が管轄するのは,それらの藩領を除いた東・北信地域内の旧幕府直轄領と善光寺や戸隠権現(戸隠神社)などの寺社領などをあわせた政府直轄地のみです(なお,「竜岡藩:大給[おぎゅう]松平氏1万6千石,藩庁所在地は現・南佐久郡佐久町田口」は71(明治4)年6月2日に廃止され,三河国内の旧領地は「伊那県」へ,佐久郡内の旧領地が「中野県」へ編入されています)。

ところが1871(明治4)年6月22日に中野にあった県庁が(上)水内郡長野に移転し,「長野県」と改称されました。
中野の県庁舎が焼失したのが直接の原因といわれているのですが,実際のところ,善光寺の門前町と北国街道の宿場町,さらに裾花川や犀川流域の山村地域を後背地とする在郷の市場町の諸機能を兼ね備えた長野が善光寺平の中心地としての発展性を備えていたことが大きな背景になっていたのだろうと思います。
廃藩置県によって「松代藩」以下の“藩”が廃止されたあと,同年11月の全国的な府県の統合・再編の結果,東・北信地域は従来から設置されていた「長野県」に統合されました。
なぜ上田や松代ではなくて長野なのかといえば,何よりもまず,すでに長野に県庁があったことが大きかったのだと思います。東・北信を管轄する県庁所在地としても適当なロケーションであると判断されたのでしょう。

一方,中・南信地域では廃藩置県ののち,この地域最大の都市・(東)筑摩郡松本に県庁を置く「松本藩」改め「松本県」が核となって11月にこの地域に,さらに飛騨国全域を加えた領域を管轄する「筑摩県」が設置されました。こちらの場合は,伊那谷の飯島に県庁を置く旧伊那県では飛騨を含む県域を管轄するのには不適当と判断されたのでしょう。とすれば,松本が最適地であることは論を待ちません。

1871(明治4)年11月の全国的な府県統合ののち,1876(明治8)年の4月から8月にかけて「第2次」の全国的府県統合が行われて,統合前の75から38へ府県の数が半減しています。この一環として8月21日に「筑摩県」が廃止されて飛騨全域は「岐阜県」へ,そして中・南信は同じ信濃国を管轄する「長野県」に編入されて現在に至ります。
このときになぜ松本でなく長野の県庁の方が存続したのかは,よくわかりません。東・北信だけならともかく,信州全体からすれば長野は誰の目にも北に偏りすぎているのがわかります。この点で,松本が県土の中心地として最もふさわしいのは明らかですよね。実際,古代の信濃国府は松本付近に置かれていました(上田付近に置かれていた時期もあるようで,国分寺・国分尼寺は上田にあります。一方,国内の神社を一ヶ所に集めた「総社(惣社)」は松本にあったようで,そのまま松本市内の地名になっています)。
けれども,“統一信州”の県庁は長野に置かれたのですね。明治政府が松本周辺で盛んであった民権運動を嫌ったからだ,という説もあります。あるいは,統合前の「長野県」と「筑摩県」とでは県政の運営のしかたに結構違いがあり,筑摩県の運営を政府が嫌った,というのもあります。

いずれにせよ,こうした経緯で成立した「長野県」ですから,長野と松本,旧長野県の東・北信と旧筑摩県の中・南信の間の対立感情は激しいものがあって,これが「長野県の百年」を一貫して続いています。松本への移庁運動から,中・南信の分県論まで,繰り返し繰り返し現実の政治問題として県議会で話題に上っているのですね。
そのピークが分県の実現寸前まで行った,地方自治法施行直後の1948(昭和23)年春の県議会でした。中・南信系の議員が退場しようとして議会が大荒れになったとき,傍聴者の誰かが歌いだした県民歌「信濃の国」に議場にいた全員が唱和して(全曲歌うととても長いです),これを境に分県論は有耶無耶になってしまった,という「伝説」があります。
「信濃の国」がほかの県に見られないほど深く長野県民に浸透していることが,このような地域対立感情を逆説的に証明している,といえるのかもしれません。

ややもすると県内第1都市の座を松本に奪われかねない長野市に編集されるいわれはない

誰がそのように思っているのですか。
篠ノ井や松代に長野から分離したいという声があるのですか。
松本市が長野市よりも勢いがある,という具体的な指標は何ですか。
そもそも,県庁所在地が県内第1の都市でなければならない理由など,どこにもないと思いますが。

当該する地域に自治体の分割という意見がない限り,第三者のよそ者が勝手な分割案を考えてみても,パズル遊び以上の意味は何もないと思います。
[8346] 2003年 1月 28日(火)19:15:55Issie さん
Re:タコ足大学
以前にこんな書き込みをしたことがあるので,参考にしてください。

[4993] 官立旧制高等教育機関

戦後の学制改革で,旧帝国大学はそのままとして,基本的にはそれ以外の官立高等教育機関を都道府県単位で統合することで,新制大学の多くが発足しています。
たとえば千葉県では,「千葉医科大学」「千葉農業専門学校(←千葉高等園芸学校)」「東京工業専門学校(←東京高等工芸学校:千葉市にあった)」「千葉師範学校」「千葉青年師範学校」が統合されて「千葉大学」となりました。
このうち,千葉農業専門学校(千葉高等園芸学校)以外は千葉市内にあって,亥鼻台にある医学部以外は後に西千葉の旧陸軍施設跡地に統合されました。けれども松戸にあった農業専門学校の後身の園芸学部だけは千葉に統合されず,したがってこの学部だけ離れたところにあります。

なお,小学校教員の養成を目的としていた旧制師範学校は元々は府県立で,中学校や高等女学校,実業学校と同格の「中等学校」に分類されていました。実際,小学校卒業者を入学させる5年制の課程が基本とされていました。
それが戦時中の教育改革(1941年に「小学校」が「国民学校」となり,「国民学校高等科=現在の中学1・2年に相当」が義務化される。ただし,それが実施される前に敗戦となり,実施されず)の一環として実施された1943年の改正で,中等学校卒業者を入学させる4年制の「(官立)専門学校」相当の学校に位置付けなおされ,府県立から官立に移管されました。
つまり,「高等農林学校」や「高等工業学校」などと同格になったわけであり,これのおかげで戦後の学制改革で「新制大学」の一学部(学芸学部・教育学部)となることができました。
…というより,各都道府県に最低1校ずつ総合大学としての新制大学を設置しようとしたら,各都道府県にかならず1校以上設置されている師範学校を絡めざるを得なかったわけですけどね。

ま,「信州大学」が「松本大学」でも「長野大学」でもないのは,やっぱり長野と松本の中の悪さのせい,と言っておきましょう。
(なお,農学部の所在地は「南箕輪村」です。実際には伊那市の郊外と理解してかまわないロケーションですけどね。標高が高いので「日本の最高学府」などと言う人もいます。)

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