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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

神戸市とその周辺メッセージ集

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記事数=41件/更新日:2006年2月5日/編集者:YSK

港町の町並み、六甲山系の景観など、多くの日本人があこがれる町“神戸”。西宮など周辺地域も含めて、神戸に関する話題を集めてみました。震災の惨禍を乗り越えて、躍進を続ける神戸のすがたを感じ取ってください。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2783]2002年8月26日
ニジェガロージェッツ
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だいてん
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だいてん
[4069]2002年10月22日
だいてん
[4081]2002年10月22日
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深海魚
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深海魚
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[8156]2003年1月24日
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[8179]2003年1月25日
らるふ
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[15879]2003年5月25日
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ニジェガロージェッツ
[18378]2003年7月17日
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[25536]2004年2月29日
ニジェガロージェッツ
[44753]2005年9月7日
ニジェガロージェッツ
[47900]2006年1月3日
ニジェガロージェッツ
[48343]2006年1月14日
小松原ラガー

[2783] 2002年 8月 26日(月)02:54:57ニジェガロージェッツ さん
>2781 西宮市の境界について
>西宮市の面積は99.96平方kmと言われています。隣接区市との境界が画定して
>いないみたいですね。どこかは知りませんが・・・。

西宮市は河川(武庫川)で隔てられている尼崎市以外の全ての隣接市と境界未定区域を抱えています。
具体的には、
1)芦屋市奥山(市北端部、六甲山域)と西宮市山口町船坂の境界
2)神戸市北区有馬町と西宮市山口町中野の境界(県道51号、宝塚唐櫃線あたり)
3)神戸市北区有野町有野と西宮市山口町上山口の境界の南端部
4)宝塚市川面5丁目、栄町3丁目と西宮市生瀬東町あたりの境界
5)宝塚市小林、蔵人と西宮市仁川町の境界(西宮カントリー倶楽部、深谷貯水池あたりの約1.5kmにわたって)
が、地図上で確認できます。

この結果、国土地理院「全国都道府県市区町村面積調」の平成13年面積には、西宮市、芦屋市、神戸市北区、宝塚市の面積が「境界未定」として記載されず、神戸市に至っては北区を省いた8区の合計「309.10k㎡」が市の面積欄に記され市公表の「549.98k㎡(平成13年10月1日、国土地理院の面積調べを基礎にし、北区のみ昭和63年の数値を基礎に算定)」とはあまりに大きな違い(もちろん備考欄に注釈は書いていますが)があります。
なお、ここに登場した芦屋市と神戸市、宝塚市と神戸市の間には、未定の境界は無いように思います。
[2793] 2002年 8月 26日(月)23:41:18だいてん さん
懐かしい地元ネタ
[2785]
>並行道路が無い峡谷部分が、電化を契機に新線に移行した点で、保津峡の山陰線と共通点を
>感じる福知山線の武庫川渓谷区間ですが、移行時に新設された 「西宮名塩」 の駅名を見て、
>西宮市域がこの様な所に及んでいた事、序でに道場では神戸市を掠めていた事を知りました。

西宮名塩駅周辺(山口町や北六甲台など)は、「西宮のイナカ」というイメージがありますねえ(住民の方いたらゴメンナサイ。北六甲台在住の友人の家に行った際の正直な感想です)。
しかし最近では開発も進んでいて、山の上まで街ができ、駅の近くから長い長いエスカレーターが設置されたりもしています。
数年前のダイヤ改正で、快速も停車するようになりましたしね。
道場駅は一応神戸市内にありますが、それを知る人は神戸市民でも少ないと思います。
JRの路線図で、神戸市内区域が色分けされているのですが(在京の方は東京23区内が緑色になっているのをご想像ください)、道場駅はその区域に入っていません。
JRでさえこんなありさまです。
何せ無人駅ですし。

>(震災を契機としてか、阪急の西宮北口駅は今津線の構造が一変しましたね。)

今津線の構造が変わったんですか?
どのように変わったのでしょう?
先日帰省した際も今津線に乗りましたが、さして構造が変わったようには感じませんでしたが。
[2799] 2002年 8月 27日(火)03:51:08だいてん さん
Re:西宮北口
[2798]
>今津線が南北に分断されて,かつて有名だった複線同士,十文字の平面交差がなくなったというやつですね。
>これは震災とは関係ありません。
>それよりもすいぶん前の改良工事によるものです。

そうですよね。
私の物心ついたころから、今津線は南北に分断されていましたから。
調べてみたところ、神戸線に10両編成の電車を導入するに際し用地確保のため、1984年3月28日をもって立体交差はなくなったということです。
私は3歳になる直前といったところで、知らないわけです。
この複線同士の立体交差というのは、その道の方々の中では非常に有名だったみたいですね。
いくつものサイトで、交差時の音が聴けるようになっていました。

ところで震災の影響で新しくなった駅といえば、阪急伊丹駅ですね。
1階部分が完全に崩壊し、2階がストンと落ちたようになっていた映像は衝撃的でした。
全く駅が使えなくなってしまったので、300m南に仮設の駅を造って電車を運行していました。
今の伊丹駅はとっても綺麗になっています。
[4069] 2002年 10月 22日(火)14:53:18だいてん さん
灘校
[4066]fさん
>連続ものの投稿どうもお疲れ様でした。完全ではないことは承知の上でしょうが、すぐに抜けを見つけてしまいました。神戸市の灘中学校高等学校も仲間に入れてください。昭和2年の創立です。

[4068]雑魚さん
>一応、設立年不詳で挙げておきました。1927年創立ですか。御教示頂き有難うございます。
今や全国でも指折りの超優良進学校ですが、当時は灘五郷の造り酒屋の師弟が多々集った
いわば御坊ちゃん学校の側面が強かったと聞きます。遠藤周作氏も旧制時代のOBですね。
同様に有名進学校である甲陽学院も、前身で 「辰馬」 を名乗っている点から推察するに、
やはり清酒関連でしょうね。

そういえば灘もそうでしたね。
灘は「中学○年」というようないい方にもまして、「○回生」といういい方がよく使われます。
これは新制の制度が始まった年の生徒を1回生として、数えていくものです。
ですから正しくは「新制○回生」とでもなりますか。

灘はおっしゃる通り、「酒屋の学校」です。
白鶴、菊正宗、桜正宗(これだけマイナーですが)の3社が母体になっており、現在の理事長は菊正宗の社長(会長?)だったと思います(体育祭の挨拶でしか見たことがありません)。
毎年のように用務員さんが新しく入ってくるのは、白鶴を定年退職した人でジャンケンして、負けた人がやってくるからだ、という噂も流れてました。
ま、そんな学校です。
甲陽学院は大関だったかな?
確かに、酒造関係だったはずです。

余談
灘中学の入試の算数の科目では、毎年その年にちなんだ答えが出ます。
93年には計算の答えが「1993」だったり、申年には「さる」という答えがあったりしました。
私が受験したときにはそれらしいものがなくて不安だったのですが、1問目の答え「52」がそれであるとあとで知りました。
私の学年は、「新制52回生」でした。
[4081] 2002年 10月 22日(火)21:39:25ニジェガロージェッツ さん
神戸市林田区
[2536]で神戸市にかつてあった区の1つ、「林田区」について触れました。
その中で、現在における唯一の林田の名残としてご紹介させて頂いた「林田モータープール」が取り壊されているのを、今日見ました。いつもよく通る道なので先週はたしかにあったのですが。残念です。
これで、私の知っている限り旧区名「林田」を物語るものは全て消滅してしまいました。

思えばこの区域に「林田」なる地名はもともと存在せず、明治22(1889)年4月1日の市制・町村制の実施によってこの区域にあった今和田新田、御崎村、吉田新田、東尻池村、西尻池村、長田村、駒ヶ林村、野田村の8村が統合され、その中の駒ヶ林と長田から一字づつ採り「林田村」としたのが始まりです。いわゆる合成地名というもので妥協の産物です。
その後、林田村は明治29(1896)年に西隣の須磨村のうち池田村と共に神戸市に編入され、「林田区」と呼ばれるようになり(同時に湊村も編入されましたが、こちらは「湊区」)、昭和6(1931)年9月1日、神戸市が行政区を設置した際、正式に林田区が成立しました。区役所の所在地は林田区腕塚町2丁目6番地1で、現在の三井住友銀行駒ヶ林支店の位置にありました。
昭和20(1945)年5月1日、神戸市は戦災による人口分布の激変を受け大規模な行政区再編を断行し、林田区はその区域を大幅に改変され「長田区」となり、地図上から消えてしまいました。もともと存在しなかった地名だけにその消滅も早く、昭和29年4月1日、国鉄山陽本線兵庫―鷹取駅間に新駅を設置した際にも元来林田区の中心部に位置していながらも「林田駅」にはならず「新長田駅」とされ、逆に旧林田区役所横にあった商店街「林田筋」が「新長田本町筋」と改称されてしまいました。最後まで残っていたのが長田区大橋町8丁目に昭和40年代中頃まであった川崎重工系列の「川崎林田病院」で、その跡地につい先週まであったのが冒頭にご紹介させて頂いた川重不動産の「林田モータープール」でした。

それにしても、もともと存在した地名はたとえ住所から姿を消しても公園や交差点名などに残っているのも多いと思います。まして大都市の区名にすら成った地名です。合成地名というものの末路、大いに考えさせられるものがあります。

オーナー グリグリさん
[2536]の書き込みには当初「林田モータープール」の所在地を、誤って「若松町8丁目」と書いてしまい、間違いに気づき急ぎ2537で訂正したのを覚えております。
今改めて、2500番代の過去ログを見まして感激致しました。間違えの部分がきっちり訂正されており、2537が削除してあります。オーナーさんの細かなご配慮、ただただ感服です。有難う御座いました。
[4387] 2002年 11月 1日(金)13:48:54hiro さん
果たして、神戸は都会なのか?
人口/可住地面積という形で人口密度を求めてみました。

    人口  総土地面積 可住地面積   人口/総土地   人口/可住地
札幌市 1834744   1121.12  440.58      1637     4164
仙台市 1017966   783.54  338.67      1299     3006
京都市 1467236   610.22  201.35      2404     7287
神戸市 1509072   549.38  316.65      2747     4766
広島市 1133289   741.75  265.03      1528     4276
福岡市 1365246   339.38  224.87      4023     6071
岡山市 630770   513.28  343.15      1229     1838
熊本市 667161   266.77  228.31      2501     2922

まあまあ、でかい岡山市と熊本市も入れて求めてみました。
というわけで、一番右の人口/可住地(面積)の値に着目してランキングすると、以下の通りになります。

1位 京都市 7287人
2位 福岡市 6071人
3位 神戸市 4766人
4位 広島市 4276人
5位 札幌市 4164人
6位 仙台市 3006人
7位 熊本市 2922人
8位 岡山市 1838人

ちなみに、僕は神戸市に住んでいますが、神戸三宮ははっきり言って大都市というには程遠いくらい普通の街です。果たして神戸は「都会」と呼べるのでしょうか?
[4390] 2002年 11月 1日(金)15:42:32深海魚[雑魚] さん
神戸について
[4387]
>果たして神戸は「都会」と呼べるのでしょうか?
兵庫県全域の地勢下で神戸市の位置付けを見ると、大阪と丹波、但馬地区とを結ぶ高速道や
鉄道の軸から逸れており (播但線経由の特急 「はまかぜ」 は、神戸を意識したものでしょう。)
経済的な求心性という意味では、大阪の後塵を拝しているかも知れない。また、新神戸駅から
最寄りの海岸までは直線で僅か2km弱と、市街の展開も非常に細長く、地元茨城の日立市を
連想するかの如きです。

かような観点から、都会や否や、との疑問も出て来るかも知れませんが、私は以下の理由から
神戸は都会である、と考えます。

○ 三大都市の一つとされる大阪市との市街の連続性。
○ 六甲山地裏側の神戸電鉄沿線域における宅地開発の進捗。
○ 上記地区を中心に錯綜する高規格道路整備の進捗。
○ 市営地下鉄地上区間沿線におけるニュータウンの整備。
○ 中心部以東でのJR、阪急、阪神の鉄道三系統の並立状態。
○ 大阪と同等かそれ以上とされてきた港湾機能の要衝性。
○ 「のぞみ」 の新神戸停車。
○ 政令指定都市は伊達ではない。

それにしても、神戸電鉄の菊水山前後は、前後の街とのギャップが物凄いですね。並行する
道路もロクに無いし。
[4455] 2002年 11月 3日(日)00:48:16深海魚[雑魚] さん
唐突ですが神戸牛食べたいです。
[4452] ニジェガロージェッツ さん
くだんの神戸市の都会と見るか否か、の判断材料を三宮地区の集積性のみに求めるとすれば、
正直言って私も判断に窮します。ただ、親類が新神戸駅の至近にいた関係上、幼少の時分に
遊びに行った時の記憶も勘案しますに、何はさておいて先ず三宮へ、という風潮があったかと
思います。そして近年、異人館などの観光名所なり、銘菓の老舗なりを訪ねて、神戸の市内を
徘徊した場合、気付けば三宮地区を中心に動いた自分がいる。これは、ストレンジャー固有の
傾向かも知れませんが、一先ず神戸の中心=三宮 という、自分なりの位置付けを確立するに
十分な材料でした。一方、別途存在する 「神戸駅」 との整合性において他地域の方にとっては
判りにくい面がありはしないか、と余計な心配もあるのです。何しろ東京では、大阪駅=梅田 の
構図も余り知られていない様ですから。

総じて神戸の印象は良いものですよ。唯一、三ノ宮駅からポートアイランドまで夜間利用した
タクシーの素晴らし過ぎる運転を除けば (笑)

三宮の象徴と感じていた阪急駅の建物が、大震災で瓦解したのは残念でした。実を言いますと
f さんやだいてんさんの先輩に当たるであろう灘高OBを含む知人が神戸に多く、震災の直後は、
比較的回線が確保し易かったらしい公衆電話から安否確認の電話を入れ捲ったものでした。
[4485] 2002年 11月 3日(日)22:18:42いな さん
ミナト神戸
[4390] 雑魚 さん
>大阪と同等かそれ以上とされてきた港湾機能の要衝性
これは、神戸の地形により、いわゆる「天然の良港」が自然とできているわけですよね。

[4452] ニジェガロージェッツ さん
>神戸(旧市街地)は南に海に面し、北には急峻な六甲山系が迫り、甚だ東西に広く南北に狭い市街地
六甲山 931mが、摩耶山 699m、石楠花山 653m・・・「山が高いがゆえに、海が深い」わけで、
浚渫しなくても、大型船舶に十分な水深が確保できるわけであります。
(遠浅は港は向かない・・・それでも無理に掘って掘ってできたのが鹿嶋市にある鹿島港)

[4390] 雑魚 さん
>市営地下鉄地上区間沿線におけるニュータウンの整備。
前述の通り、その地形は、山が迫っているから平坦部が少ないわけで、坂の町・神戸は当然のことであります。

そこで、神戸の人達は何を考えたか?
「山を削って、海を埋める」・・・一石二鳥というか、それ以上の効果になるんですが、素晴らしい発想で
山を削ったあとにニュータウン、その土を海に埋めて2つの人工島を作ってしまったのです。

もうず~っとず~っと前のことでしたが、国道2号線を走るとその上を、土砂運搬用のホッパーが
土を積んで、空中を鋼索線で海のほうへ引かれて行っていましたですねえ。
大型ダンプも登場し、河床を利用したダンプ専用道路を走り回っていましたが、
これは積載時が下り坂、帰りの登坂は空荷だったそうで、車には負担が少なかったとか?

さらに同様の発想で、海上の神戸空港構想があったかと思いますが、あれは進んでいるのでしょうか?
[4498] 2002年 11月 4日(月)03:11:29ニジェガロージェッツ さん
神戸雑感 2
[4455]雑魚さん
神戸市の「中央駅」がJRでいえば神戸駅になるのか三ノ宮駅になるのかですが、現在ではご指摘の「何はさておいて先ず三宮へ」の通り、三ノ宮駅でしょう。一般に都府県名と都府県庁所在地と中央駅名の三者は一致するのが多いのですが、兵庫県神戸市三ノ宮駅のように三者バラバラになっているのは極めて珍しいそうです。(他に例があれば教えてください)
では神戸駅の位置付けですが、Issieさんが[1775]でご推察の通り、神戸と兵庫を別の都市と見た場合、明治初期の行政区画でいえば旧兵庫の外れに当り神戸ではありません。兵庫の中心は現在の地下鉄中央市場前駅付近にあったのですが、旧兵庫の範囲は旧湊川の両側に広がり、湊川の東を「湊東」、西を「湊西」と称していました。ただし、神戸駅が設置された湊東地区については当時はまだ湊川河口付近を除いて市街化しておりませんでした。神戸と兵庫が統合された後は丁度両者の中間にあたる神戸駅北側を市の行政の中心地区とし、旧湊川を埋め立てて出来た新開地が一大繁華街になったのは[4452]に述べた通りです。当時の神戸っ子たちは神戸駅を「大ステーション」、三ノ宮駅(現在の元町駅に位置)を「小ステーション」と呼んでいたそうです。ですから、かつて(戦前まで)は神戸駅が文字通りの「中央駅」だったのでしょう。(その後、神戸市が区を設けた際に出来た湊東区は旧兵庫のうちの湊東地区に旧坂本村と旧荒田村を加えた範囲です)

神戸牛・・・
神戸に住んでいながら永らく口にしていません。スーパーでも肉屋でも一番安い肉を買っております。みじめ・・・

[4462]でるでるさん
一般に神戸の夜景は山から(中央区諏訪山にあるビーナスブリッジからが市街地から近くおすすめ)のイメージが多いのですが、海からの眺めも絶景です。レストラン船での夜間クルーズもいいですよ。

[4483]YSKさん
私の拙文を好意的にご評価いただきお恥ずかしい限りです。
一度是非、神戸を歩いてみてください。ただ最近の神戸、特に震災後は単に「小奇麗な街」になり過ぎたような気が致します。以前は何かこう大都市特有の「ドス黒い凄み」みたいな所があったのですが。
港にしても1970年代ぐらいまでは異常なほどに活気の漲った勢いみたいなのを感じられたのですが、コンテナ化が進んだ上に、造船不況もあってか、今はまるで公園みたいな港になっています。

[4484]夜鳴き寿司屋さん
その長田区の焼け野原で私も彷徨っていました。私の店はその焼け野原のど真ん中でした。
しかし今に思えば不思議と悲壮感はなかったです。それより、あの時の住民パワー、凄かったです。

[4485]いなさん
国道2号線の上を、土砂運搬用のホッパーが土を積んで空中を鋼索線で海のほうへ引かれて行っているのは須磨のベルトコンベア―のことでしょうか。今でも稼動していると思いますよ。神戸空港島の造成に活用していることと思います。空港島はすでに一部が海上に陸地を見せています。

[4491]雑魚さん
神戸市西郊の溜池群はこの地域が慢性的に水不足だったためです。神戸市西区西部より加古川左岸までの一帯は「印南野台地」と呼ばれ、丁度お皿を伏せたような緩やかな台地を形成しています。このため、加古川の水は台地一帯には流入せず、加古川やその支流の美嚢川から疎水が引かれています。淡河町というかつて美嚢郡に属した村が1958年2月1日に神戸市に編入されましたが、この編入には美嚢川上流の淡河川からの淡河疎水が現在の神戸市西区域の農村地帯に通じていたたことに関連していたそうです。溜池の多さ、25000分の1地形図「東二見」は壮観です。
[4504] 2002年 11月 4日(月)11:10:01ケン(地理好き) さん
横浜と神戸
横浜市と神戸市は日本を代表する港町であり、それぞれ東京、大阪といった大都市に近いながらも独自に大都市としてて成長してきました。
横浜市で人口増が目立った区は青葉区、都筑区で、神戸市は北区、西区で人口増が目立っています。
ちなみに大阪市の人口は新潟県、宮城県、長野県を上回り、広島県に次ぐ人口です。
[4507] 2002年 11月 4日(月)11:20:54ケン(地理好き) さん
4054の続き
横浜市と神戸市を全体から見ても坂が多いようです。両市とも丘陵部の開発が多く、平坦な土地は沿岸部が多いようです。
開業当時の横浜駅は現在の桜木町駅です。
ポートアイランドや六甲アイランドやみなとみらいや八景島シーパラダイスは埋め立てによってできたそうです。
長田区は何割ぐらい復興しているのですか。
[4511] 2002年 11月 4日(月)12:00:02せか さん
いなみ野
[4498] ニジェガロージェッツさん
> 神戸市西区西部より加古川左岸までの一帯は「稲美野台地」と呼ばれ

普通は「稲美野台地」ではなく「印南野台地」と書きますね。
「稲美」というのは現在の稲美町ができるときに「印南野」と
「稲が美しい田園の町」をかけて作られた新しい地名です。
[4526] 2002年 11月 4日(月)19:23:26いな さん
須磨のベルトコンベア―
[4498] ニジェガロージェッツ さん
>須磨のベルトコンベア―のことでしょうか。今でも稼動していると思いますよ。

あ・・・そうなんですか。そうかもしれません
私が見たのは、ニュータウンやポートアイランドができるよりも、ずっと以前のことですからねえ。
そこから海上運搬でそれぞれの人工島に運ばれて行ったんだったら、そうですね。
・ポートアイランド・六甲アイランド・空港島とだから、たいへんなことですよね。
とにかく膨大な量の土砂を、遠大な計画の元に、あせらずゆっくりと進めているんだな~と感じました。

>神戸空港島の造成に活用していることと思います。空港島はすでに一部が海上に陸地を見せています。
そうですか・・・ やっぱり進んでいるんですねえ。
これに関しては、いろいろと問題もあるやに聞いておりますが、今後の展開に注目していきたいところですね。
[4996] 2002年 11月 17日(日)22:54:15深海魚[雑魚] さん
高等教育機関の分布から見た神戸
[4993] Issieさん
詳細にして判り易い一覧を御提示頂きまして、有難うございます。この表を一瞥しますに、
別格である東京や大阪、名古屋以外で、官立の高校と高専実業系校が同居した都市は、
仙台、金沢、京都、広島、熊本、大分、鹿児島と多くなく、九州に偏在していますね。

官立大扱いの高商と帝大予科の性格が強い官立高校を同列視する事が妥当かどうかは
判然としませんが、神戸高商の存在を根拠として、官立高校が姫路に設置されたとなると、
港湾絡みの商都という性格を共有し、市街が連続する阪神地区において、高校は大阪に、
高商は神戸に、という分散の発想なのでしょうか。

今や政令指定都市である神戸は、当時、官立高校が同居するに足る主要都市の風格を
備え得なかったのか、などと一瞬感じるも、高等工業や高等商船を擁した点で面目躍如。
やはり神戸は昔から都会でした。>ニジェガロージェッツさん

[4995] 実は小学生さん
田方平野の一帯は、静岡県の中でも比較的自治体の分布が細かいですね。私の場合は、
井上靖の小説 「しろばんば」 「夏草冬濤」 の舞台という印象が強く、韮山の反射炉といい、
古くから先進的に発展した地域かと思われます。勤務先の旅行の場合、東名高速を下りた
沼津で魚センターに寄った後に、洋蘭パーク、浄蓮の滝と回り、 「天城越え」 のカラオケが
やたら錯綜する中、修善寺や天城湯ヶ島あたりの旅館に到着するのが定番でした。私は、
伊豆旅行でも、十八番の 「柳ヶ瀬ブルース」 で通しましたが。(笑)
[5012] 2002年 11月 18日(月)07:00:39せか さん
官立高等教育機関
[4996] 雑魚さん
> 官立大扱いの高商と帝大予科の性格が強い官立高校を同列視する事が妥当かどうかは
> 判然としませんが、神戸高商の存在を根拠として、官立高校が姫路に設置されたとなると、

神戸高商があったからというよりは、神戸市が官立高校を誘致しなかったというほうがわかり
やすいですかね。ナンバースクール以後の大正期に新設された官立学校は、政府が地元に
寄付を要求して最もよい条件を出した都市に優先的に設置するという手法をとっていたため、
政府が自主的に設置場所を決定したわけではないのです。兵庫県では大正12年に神戸高商
が神戸商業大学に昇格することが内定し(官立大扱いではなく大学昇格です)、県内に大学
以外の高等教育機関がなくなってしまうという状況となったため、新たな官立高校の設置に
あたって姫路市が誘致しました。また、神戸市は同時期に高等工業学校を誘致しています。

> 港湾絡みの商都という性格を共有し、市街が連続する阪神地区において、高校は大阪に、
> 高商は神戸に、という分散の発想なのでしょうか。

設置された時期が違いますし(神戸高商:明治35年、大阪高校:大正10年)、そういう分散の
発想があったわけではありません。東京高商に次ぐ高商の設置場所の決定にあたっては、
神戸市と大阪市との間で激しい誘致運動が繰り広げられ、帝国議会における採決の結果、
わずか1票差で神戸市に設置することが決まりました。このため、大阪市は独自に市立大阪
高等商業学校(後の大阪商科大学:神戸商業大学・東京商科大学とともに「三商大」)を設置
しています。
[5832] 2002年 12月 3日(火)19:23:35夜鳴き寿司屋 さん
空港問題
[5812]関西人 さん

 「もしも」は禁句でしょうが、最初に現在の関西国際空港が神戸沖に建設されていたら今日のように2つの人工島を建設して空港を作る事態は起きなかったと思います。当初の構想では「泉州沖」「神戸沖」「西宮沖」「淡路島」「播磨沖」の案のうち「神戸沖」が有力だったのに地元の反対で「泉州沖」になったのは関西人さんのいわれるとおりです。当時は港湾設備に影響があるからとの理由だったのとおもいますが、先見性があったなら最初から神戸沖にあったらよかったと思います。

 アメリカのように、土地も広く郊外にいくつも空港を安価で作れるならともかく、日本のように山地が多く空港を作れる平地が少ない場合には、大きなコストをかけて海を埋め立てる場合が多いのです。しかも関西国際空港は公団方式ではなくて株式会社方式にしていますが、昭和時代末期の民間活力の導入が政権により唱えられた為ですが、当初の目論見に反して結果的に地元負担が増大してしまいました。そのうえ神戸空港も開港したら供給過剰になるのは否めないと思います。

 伊丹の騒音公害が激しかった1970年代に比べ航空機の騒音が低くなったことも、地元が存続しても構わないとした理由の一つだと思いますが、当時に比べ航空便の利用が一般的になったからだとおもいます。長い年月がかかる公共事業にありがちですが、計画が策定された当時と状況が変わった事で伊丹空港廃港の選択肢が消滅したため、関西空港の将来に少なからず影響しているのだと思います。

 個人的には関西空港は大変美しく機能的で良い空港だと思いますが、将来に暗い影を落としているのが残念だと思います。将来的に財政問題はどうなるかは予断を許さないと思います。

 話は変わりますが、地方の空港で伊丹のように代替空港が開港したにも関わらず存続している空港に前の広島空港と岡山空港があります。現在の広島西飛行場ですが伊丹と同じようにジェット機の騒音問題と空港拡張が事実上不可能なうえに、空港自体も周囲が中国山地と瀬戸内海に浮かぶ江田島の山地が迫り盆地の底に着陸するようなもので難しく、着陸コースも人口密集地の真上を通るので、代替空港が建設されたのですが、海上保安庁の部隊が山に引っ越す訳にいかないために存続が決まりました。そのため現在の広島空港とは別にコミューター便が就航するようになりました。また岡山空港の場合は児島湖の干拓地に立地していたのですが、拡張が不可能なために山間部に新空港を建設したのですが小規模な空港のために岡南飛行場として存続しています。

 同じように中部空港が開港した場合ですが、実際のところどうするかはわからないですが、小牧空港は航空自衛隊も使用しているので存続すると思います。国際線全部は中部国際空港に移動するでしょうが、もしかすると名古屋・富山間のコミューター便も小牧発着で存続すると思います。

 また首都圏第三空港ですが、日本の三分の一が集中している地域に2つしかジェット機就航可能な民間空港がないのは供給不足なのは明らかですが、いかんせん適切な建設場所はないですね。たとえ3つの空港があったとしても関西地区のような供給過剰にはならないとおもいます。横田基地を返還してもらい空港として利用する案も、今の国際状況では現実味は少ないと思います。自衛隊の航空基地を使うのも難しいとおもいますが茨城県の百里基地を共用空港にする案もありましたが。

 あと同じように小笠原に空港を作る計画も、自然破壊や人口に対して巨額の建設費を使う事になる是非から計画が中に浮いていますが、横浜の民間会社が計画した飛行艇による航空路の開設の方が実現性だけは高いですが、認可されないので難しいようです。
をどうするのか
[5887] 2002年 12月 4日(水)19:48:28ニジェガロージェッツ さん
福原 (ふくわら 神戸市)
[4484][5751][5792]夜鳴き寿司屋さん
>福原は平安時代末期に平清盛により一時的に「福原京」として都が置かれた土地したが、明治維新後に神戸が発展するにつれて取り込まれてしまい昭和時代初期に「赤線地帯」になり、世間とは隔絶された地区にされました。

さいたま市見沼区絡みの地名差別についての貴稿の中にあった部分からの引用ですが、この福原について少し補足させて下さい。

先に結論から申し上げますと、[かつての福原京]=[現在の福原地区(旧福原遊郭)] の図式は成立致しません。
これは後者が前者その他にあやかって命名しただけのものです。以下、詳しく両者について補足致します。

【福原京】
平安時代末期の源平争乱期、後白河天皇の皇子以仁王の令旨によって諸国の源氏が蜂起し、平清盛は1180年6月2日、都を畿内の要港大輪田の泊に隣接する福原に移しました。いわゆる福原遷都です。
翌日、安徳天皇以下福原に入り、この年の11月に再び京都に遷都するまでの約6か月、都として存在したのが福原京です。この福原京は現在の福原地区より北に位置し、雪御所町(のち湊区、現在は兵庫区の町名)、荒田町三丁目(のち湊東区、現在は兵庫区)あたりが中心でした。ただ、この福原京は云わば「仮皇居」であり、別に新帝都として現在の地下鉄長田駅あたりを大内裏とし、須磨に至る地域に「和田京計画」というのも議論されたそうです。

【福原遊郭】
旧暦1867年12月7日の兵庫開港(実際には神戸開港)とともに、宇治川尻(今の東川崎町、のち湊東区の町名、生田区を経て現在は中央区)に遊郭の設置があり、東京の吉原、京都の島原に合わせ福原京にあやかって「福原町」と命名し1868年2月に開業したものの、まもなく大阪―神戸間に鉄道が敷設されるに及び同地一帯が神戸駅構内(のちの湊川貨物駅、現在の神戸ハーバーランド)になるため移転が命じられ、1871年6月17日、湊川(旧)堤防下の寂しい所に移転、当初「新福原」と呼ばれたのが現在の福原地区(今の福原町、のち湊東区、現在は兵庫区)です。
戦前は神戸一の歓楽街だった新開地本通(旧湊川河川敷埋立地、湊東・兵庫区境)に隣接し、吉原、島原と並んで三原と呼ばれ有名だったそうです。1958年の売春防止法(いわゆる赤線の廃止)実施で福原遊郭は廃止されましたが、現在でも飲食店、風俗営業の店の並ぶ歓楽街です。

夜鳴き寿司屋さんの本題からは逸れますが、度々「福原」への言及がありましたので失礼とは存じましたが、補足させて頂きました。お気を悪くなさらないで下さい。
[6874] 2002年 12月 23日(月)16:37:52Moritat さん
「大漁村」駒ヶ林について
こんにちは、先程拝見しましたが、皆さんの博覧強記ぶりには大変
驚かされます。
私は神戸市長田区南部の駒ヶ林のものですが、ニジェガロージェッツ さん
による2536,4081の書き込まれた事実には驚きました。
長田区の前身が「林田区」であることはなんとなく知っていましたが、
林田区が長田区に移行する際かなりの範囲が兵庫区に移管され、またほぼ同面積
が須磨区から長田区に移管されているという事実には驚かされた反面、
地元人としてはこれほど納得の行く事実も無いのです。
というのは、私の住む駒ヶ林は一応「長田区」ですが、長田神社や高速長田駅を
中心とする長田地域とはそれほど縁が深いわけでもなく、むしろ
須磨区の板宿や大田地域の方がよほど関連が深いのです。
それが震災以降、「被災地」長田として有名になってしまい、
駒ヶ林は一顧もされない事実には納得できません。
[6903] 2002年 12月 24日(火)00:07:16ニジェガロージェッツ さん
Re:「大漁村」駒ヶ林について
[6874]Moritat さん
>私の住む駒ヶ林は一応「長田区」ですが、長田神社や高速長田駅を
>中心とする長田地域とはそれほど縁が深いわけでもなく、むしろ
>須磨区の板宿や大田地域の方がよほど関連が深いのです。

確かに神戸市旧市街地においては交通網の関係上、南北軸よりも東西軸の繋がりの方が強いですね。
昔から神戸市街地を車で移動する場合でも、同じ時間で南北に移動するより東西に移動するほうが遥かに距離が稼げます。一方、行政区は南北軸に沿って区分けされており、仰るとおり長田区駒ヶ林地区の場合は長田地区との関連はあまり深くないようです。1945年5月1日の行政区再編で同じ林田区を潰すのなら一層のこと、
旧兵庫区+旧林田区南部兵庫区
旧湊区+旧林田区北部長田区または湊区
ぐらいに大胆に区分けした方が繋がりからいえばすっきりしたかもしれませんね。
しかし歴史的な地域分けでは旧西国街道に代表される東西軸よりは、水利の関係からも湊川、苅藻川に沿った南北軸の繋がりの方が濃かったのでしょう。「長田」という地名も元は苅藻川に沿って長く田んぼが連なっていたことに由来するそうなので。

また、震災で「被災地・長田」といった場合は長田神社周辺からなる狭義の「長田地区」をさすのではなく、長田区の被災地域全体を言うのでしょう。また、そのイメージする所はいわゆる「長田大火」による焼け野原で、東灘区の被災地のような「全区画完全倒壊」とはまた違った印象があります。そう言った意味では狭義の「長田地区」には大火は発生しておらず、焼け野原にはなっていませんでしたね。誰が名づけたのかネーミングミスの感は否めません。因みに大火の発生した新長田駅南地区は旧駒ヶ林村、新長田駅北地区は旧西代村、鷹取東地区は旧野田村、御蔵菅原地区は旧東尻池村、大道、御船通は旧池田村でした。旧長田村ではありません。

また、ご参考までに前出の行政区再編で林田区から長田区への移行の際に他区との間で区変えになった地域を挙げておきます。(町名は当時のものです。*印はすでに廃止され現存しない町名です)

【林田区から兵庫区へ移管】
明和通、*明治通、御崎本町、*川中町、三石通、上庄通、*中庄通、和田宮通、笠松通、小松通、浜山通、遠矢町、吉田町、金平町、高松町、浜中町、材木町、和田山通、御所通、*正慶町

【林田区から須磨区へ移管】
常盤町、千歳町、大池町(5丁目は除く)

【須磨区から長田区へ移管】
松野通、水笠通、御屋敷通、西代通、戸崎通、山下町、大谷町、五位ノ池町、庄山町、西代(現在は平和台町、長尾町、高取山町に分立)
[6910] 2002年 12月 24日(火)10:50:29Moritat さん
「海の明るさ」と「山の趣き」
[6903]ニジェガロージェッツ様

レスありがとうございます。

そうすると、戦前は駒ヶ林と和田岬は同じ林田区に所属していたのですね。
これには最初かなりびっくりしましたが、和田岬と真陽地区の工業地帯的カラー
がよく似ていることを考えればそれほど不思議でもありません。

私は地元の公立中学から神戸第二学区の某進学校に進みました。
これでやっと勉強の出来る真面目な人達と生活できると思ったのも束の間、
大多数を占める北区や長田区・兵庫区北部、まさにニジェガロージェッツさんの
言われる「長田区または湊区」の人々は駒ヶ林の漁村の流れをひく陽気な雰囲気に
慣れた私には非常に表情に乏しく感じられ、あまりにも重苦しい高校生活でした。
そんな中、(親密に話したりはしませんでしたが)和田岬地域出身の人々は
例外的に表情が明るかったように思えます。これらの二つの地域の違いは
「(雰囲気的に)海を感じることが出来るかどうか」でしょう。
この場合、物理的に海から近いかどうかということはさほど問題ではありません。
例えば西代や須磨区の板宿や大田交差点はJR以北にも関わらず
非常に明るい地域だと思いますし、もしかしたら地下鉄で新長田とつながっている
西神地区もそうかもしれません。

こういう「どこどこの地域だから表情が暗い(ように思える)」という
議論には恐らくついていけない人も多いかと思います。
しかし、私にすればそれは神戸という街が大都会では例外的に地域差が
激しいという事実を無視した意見だと思うのです。
無知で失礼ですが、「地理心理学」「風土心理学」のような学問というのは
存在するのでしょうか。

 失礼します。
[7647] 2003年 1月 13日(月)01:51:08【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:またまたふと思ったこと
[7635]松戸さん
>ニジェガロージェッツさんのデータに私の計算した人口密度を加えて見ました。

昭和15(1940)年の人口データを詳細に見て頂き、有難うございました。
ということで、戦前の大阪市街地の密集は凄かったんです。
しかし、この現象は東京も同じで、例えば東京市浅草区では昭和10(1935)年のデータでは
人口273,693に対し、面積5.27平方キロで人口密度51,934.16となり、昭和15(1940)年でも
人口271,063ですので人口密度は51,435.10です。
(拙稿[3399]の東京の面積データは昭和10年のものですが、その後区域の拡大した世田谷区以外は昭和15年時点のデータとみなして差し支えありません)
他に昭和15年時点で人口密度3万を越える区を有する都市は神戸市で、兵庫区で人口密度37,340.75、湊東区でも30,579.41となっております。

確かにお感じの通り、高層マンションもなかった時代ですが、当時の下町の住宅事情に加えて家族構成の違いがあると思います。
以前にNHKアーカイブスという深夜番組で昭和40年代初頭の東京下町の住宅事情をテーマにしたものを放送していましたが、住人一人当たりの畳の数は平均で2.5畳ぐらいであったそうです。
少し脱線します。他の某2chスレッドに「大都市の区について考える」というのがあって、そこにこの下町の住宅事情について投稿したことがあるのですが、すると凄く核心を突いたスレが返ってきました。それを一部引用しますと
>そういった劣悪な住環境であっても人は地方からどんどん
>大都市の下町に集まっていたからな。考えてみれば、地方は昔は
>家督相続制で長男以外は土地も田んぼも分けてもらえる保証ないし、
>車ないからまともな商店もない。テレビもないから、映画が娯楽
>だったろうが、それも田舎にはなかったろう。神戸をはじめとする
>大都市とその他では、雲泥の格差があっただろうな
とのことです。当時の都市人口集中の社会背景の一端を鋭く突くものでしょう。
(こんな鋭いスレ書かれた方。ここの常連さんでは? もしそうでしたら無断での引用申し訳ございません)
ましてや昭和15年といえば戦前の話。時代背景として一人でも多くの男子を産み、兵隊さんとして外地でお国のために・・・、などと言った思想があったようにも聞きます。当時は5人兄弟などはごく当たり前で、下町の狭い長屋でも大家族が暮らしていたようです。(リアルタイムでは存じませんが)

また[7582]で大都市の一区あたりの平均人口を算出しておられましたが、この中で大阪市の区の平均人口が一番少なかったのは、拙稿[3503]にも書きましたが、この昭和15年頃の人口を基に行政区の再編成をやったことにも原因があります。

>ニジェガロージェッツさん、データ勝手にお借りしちゃってすみませんでした
どうぞどうぞ。拙稿をご活用くださり望外の喜びです。
[7912] 2003年 1月 19日(日)13:04:45らるふ さん
長田区の持家着工戸数
[7905] ニジェガロージェッツ さん
長田区の持家着工戸数について、補足しておきます。
一応、比較の対象として神戸市東部の東灘区のデータもつけておきましょう。

91~94年度の持家着工戸数
年度長田区東灘区
91151240
92129280
93157269
94147324
上記の平均146278

95年度以降の持家着工戸数
年度長田区対91~94平均東灘区対91~94平均
95226315.5384013.8
9612108.319357.0
976064.26302.3
983752.63921.4
993592.53791.4
003482.43001.1
012271.62590.9

長田区は、もともと持家着工数が多い方ではないように思いますが、(最近の鳥取県が年間2000戸前後なので)95年度の2263戸という数字はやはり驚異的でしょう。
両区とも95~96年度の2年間では91~94年度平均の20年分以上の着工数で大きな差は感じられませんでした。しかし、それ以降は東灘区の方が元の数値にもどるのが早く、復興のスピード差を感じます。長田区の復興ペースの遅さが、98年以降に持家着工が本格化したと言われる感覚の原因ではないでしょうか。
それから、東灘区の94年度がやや多めなのは、95年3月頃から復興がすでに始まっていたのかも知れません。
[8086] 2003年 1月 23日(木)19:56:31らるふ さん
名水あるところに酒蔵
[8072] 雑魚 さん
清酒原料として、稀有な良質性で知られる 「灘五郷の宮水」 も 「西宮」 がらみの命名ですかね?
六甲山と言えば「あじさい」と言うくらい、六甲山系は雨が多いところです。
「湿気を含んだ上昇気流が雲をつくってその雲が雨を降らす」と聞いたことがありますので、海に近く急勾配な六甲山系はピッタリです。
神戸市灘区から芦屋市あたりの平野部は、六甲山系から大阪湾に一直線に流れる短い河川によってできたものでしょうから、大きな沖積平野ではありません。
短く急流な河川はあまり蛇行せず、天井川をつくり、代表的な天井川である「芦屋川」「住吉川」「石屋川」などは雨の日以外はほとんど水が流れていません。
その分、流れるはずの水は山地から平地(と言っても結構坂でありますが)へ流れるあたりで地下へ流れるようで、それらの地下水脈が灘五郷の酒造地帯をつくり、そのひとつが西宮郷の「宮水」と言うわけでしょう。(確か、宮水と呼ばれるのは灘五郷でも西宮だけだと思います)と言うわけでしょう。西宮市西部の夙川も芦屋川ほど盛り上がってはいませんが、桜のきれいな土手がある天井川です。
ただ、地下水脈があるがために地盤が弱いようで、酒蔵は震災でかなり倒壊してしまいました。

そうそう、関西には鉄道が川の下を走るような天井川がたくさんあります。多分小さな山地が多いからだと思います。

[7796] utt さん
ちなみに、私の母校も。。。
ヒント、プラカードを持つ高校です。
遅いレスですが、私の母校はその高校に方位を付けただけの名前の高校(地理的には甲子園に最も近いが・・・)です。当時は西宮神社にわりと近い自宅から「酒蔵通り」を自転車で通学(私の方が十数年古いようですが)していました。西宮には今でもしょっちゅう行ってます。
西宮の地名自体が西宮神社から来てると思います。
[8143] 2003年 1月 24日(金)21:34:33TN さん
Re:市街地の連続・不連続
[8109]まがみ さん
ご報告ありがとうございました。
「意図的な都市計画で両市街を結合させようとした事例」に当てはまるのかもしれません。
近鉄奈良線沿線では密な市街(住宅地)が連坦しているようですが、現市役所北側は東大阪線開通以前は開発がそれほど進んでなかったのでしょうか。今でもかな?

それから、神戸市須磨区はニジェガロージェッツ さんも「須磨本区、北須磨」と仰ってましたが、地図上でも山を挟んで全く別の街の風情ですね。私的にはグリーンベルトとしての価値を高く評価したいです。
ところで、須磨区は元々須磨町という1つの町だったようですね。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/hensen/(神戸市域の変遷)

北区ですが、鈴蘭台と北神では結構な距離ありますね。道場や岡場から三田経由で大阪に通勤する人のほうが多いらしいですが、北神急行はそんなに利用されてないのでしょうか。

あと、神戸電鉄有馬線に「菊水山」という駅がありますが、人家も無さそうだし、車も入れなそうだし、利用している人がどんな商売なのか気になるところです。
[8156] 2003年 1月 24日(金)23:59:00【1】ニジェガロージェッツ さん
須磨アルプス
[8143]TNさん
それから、神戸市須磨区はニジェガロージェッツ さんも「須磨本区、北須磨」と仰ってましたが、地図上でも山を挟んで全く別の街の風情ですね。私的にはグリーンベルトとしての価値を高く評価したいです。
ところで、須磨区は元々須磨町という1つの町だったようですね。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/hensen/(神戸市域の変遷)
【沿革】
神戸市須磨区を南北に分断する六甲山系西端を形成する一連の山々ですが、通称「須磨アルプス」と呼ばれています。
西の一ノ谷海岸から、鉢伏山248m、旗振山253m、鉄拐山237m、高倉山291m、栂ノ尾山274m、横尾山312m、東山253mと続き妙法寺川まで続き、長田区の高取山330mに対峙しています。
総じて低山ながらも山容は急峻で一部は風化で岩山が露出して崖を形成しています。アルプスと呼ばれる所以です。
この山脈の南側一帯が一般に「須磨」と呼ばれる地域です。冬場の北風も須磨アルプスの山容に遮られ、昔から温暖な所と言われてきました。
明治初期にはこの山脈南側に西須磨村、東須磨村、大手村、板宿村、西代村、池田村が存在し、北側には多井畑村、妙法寺村、車村、白川村が存在し、1889(明治22)年一旦この10村が合併し「八部郡(やたべぐん)須磨村」となりましたが、1896年に東隣の林田村が神戸市に編入されるのに合わせ、須磨村東端の池田村が神戸市に入り(このとき同時に八部郡は兎原郡とともに武庫郡に吸収)、残りの9村で1912(明治45)年に須磨町に昇格しましたが、1920(大正9)年には全域が神戸市に編入されました。
神戸市編入後、市街地化は急速に進みましたが、山脈に沿った一帯は海を見下ろす風光明媚な別荘地として関西各地の富豪が豪邸を構えるようになりました。
1945(昭和20)年に東隣の林田区が長田区に改組された際に旧西代村の区域が長田区に組み込まれ、現在の須磨区の区域がほぼ確定しました。
当時の市街地は須磨アルプスの南側に限られ、北側は丘陵地帯の合間に農村集落があるだけの長閑な山村でしたが、1960年代以降は新市街地の造成工事で北側の丘陵地帯の様相は一変します。須磨アルプスを構成する須磨の主峰高倉山も切り崩されポートアイランドに化けてしまいました(須磨の住民の一部は、あの埋立島を「高倉島」と名づけるべきであったと主張)。
須磨区北部の丘陵地帯が本格的に「須磨ニュータウン」として市街化したのは1977(昭和52)年以降のことです。
この年、正確には1977年6月6日、垂水区に属していた名谷団地造成地が新たに須磨区に編入され、区は行政上、本区(西須磨、東須磨、大手、板宿、多井畑)と北須磨(妙法寺、車、白川および名谷団地造成地)に分割されました。

【現状】
須磨アルプスを越える南北道路は西須磨の離宮公園(旧武庫離宮)から高倉台(旧高倉山跡地)をこえて須磨ニュータウンに至る県道65号「神戸加古川姫路線」及び、板宿から妙法寺川沿いに北上する県道22号「神戸三木線」の2本しかありません。このうち県道22号は地形上、片側1車線で幅員も狭く、交差点には右折レーンすら存在しない欠陥道路です。
また、須磨アルプスを越えて西の垂水区に出る道路は自動車専用有料道路「第二神明道路」以外には海沿いの国道2号線と、そのやや山側(北側)を平行して走る県道21号「神戸明石線、通称・旧神明」の2本だけです。
先の震災では須磨区本区以西の神戸旧市街地が壊滅的被害を出したのに対し、須磨アルプス以北、以西の北須磨、垂水区では外見上ほぼ無傷の状況でした。
このため、この須磨アルプスは被災地と被災を免れた地域とを隔てる「ベルリンの壁」的存在でした。この「壁」には先に申しました通り、4本の穴しか開いておりません。壁の「向こう側」の北須磨、垂水、西区および東播各市の住宅地から神戸に向かう、または神戸から出る車の列はこの山脈で遮断され、その渋滞の長さは想像に難くないと存じます。
現在でもその地理的状況には変化が無く、通勤ラッシュの車の列は・・・悲惨です。
もちろん、TNさんお感じのように須磨の「一大グリーンベルト」としての役割は大きく、須磨の宝でもあります。「須磨アルプス」というネーミングも区民の愛着から出た愛称でしょう。須磨の街にあの山容が無ければ味気なく、風情もありません。

【将来】
現在、須磨区には新たに2本の高速道路が建設または計画中です。
1本目は長田区西代から高取山を打貫いて、欠陥道路・県道22号に並行して北上して阪神高速7号「北神戸線」に接続する「阪神高速神戸山手線」で、今春にも開通予定です。しかし500円?う~~ん。
2本目は阪神高速5号「湾岸線」の六甲アイランド以西の延伸で、須磨では海岸を地下トンネルで抜け、第二神明と本四道路が交差するあたりに接続するものです。
須磨区の南北人口比較では、
調査年\人口須磨本区北須磨須磨区全体
1977.10.197,52536,510134,035
1980.10.191,86363,820155,683
1985.10.186,22295,746181,968
1990.10.181,748106,371188,119
1995.10.163,255113,252176,507
2000.10.170,016104,040174,056
2003. 1.171,698102,061173,759
1980年代初期には神戸市の人口増加の大部分を引き受けていた観のある北須磨ですが、震災後は明らかに人の流れが変わっています。震災後の郊外からの人口流出は垂水区、北区でも見受けられます。
北須磨支所創設当初は将来的に人口10万人をメドに北須磨分区も構想としてあったようですが、須磨本区の人口減もあり見送られてきました。更に近年は北須磨そのものからの人口減もあり、将来的にも須磨区の分区計画は有り得ないでしょう。
一方、北区の方は鈴蘭台を中心とした本区(旧八部郡山田村)とそれ以外の北神地区(旧播磨国美嚢郡に属した上淡河村、淡河村以外は全て摂津国有馬郡)に分区する計画が20年来の懸案としてあります。
[8179] 2003年 1月 25日(土)13:01:56らるふ さん
西宮北口
かつて阪急西宮北口駅に「ダイヤモンドクロス」(神戸線と今津線が平面交差していたところ)があった頃の話。
今津線のホームはすべて交差点の北側にありましたが、神戸線のホームは東行きが西側、西行きが東側にありました。神戸線の立場で見るとまるで道路の交差点で信号待ちをする位置にホームがあることになります。特急を始めすべての電車が西宮北口駅に停車するので、すべての神戸線の電車が一時停止して今津線が通過していないスキに神戸線が出発進行して通過するような構造でした。(神戸線の方が本数が多いのでこうする方が安全だったのでしょう)
実は、私はダイヤモンドクロスを通過する今津線今津行きの最終列車に乗り合わせました。1984年2月のことだったと記憶していますが、当時阪神西宮と西宮北口の間を今津経由で通勤していて、たまたま仕事が遅くなって終電に乗ることになってしまいました。「そうや、今日でこの交差も終わりやったんや」そんな感じでしたが、終電のわりには乗客が多く、ほとんどが鉄道マニアのようでした。ダイヤモンドクロスでは神戸線がホーム構成上、実質複々線だったので、今津線の電車の「ガタガタガタガタ・・・・」という通過音が強烈だったんですよね。

[8126] utt さん
西宮M高は県立ですよね。私の母校は西宮市立。もう少し甲子園に近いところです。uttさんも西宮市立の方でしょう。
[8216] 2003年 1月 26日(日)00:08:00【1】ニジェガロージェッツ さん
六甲全山縦走市民大会
[8191]TNさん
須磨アルプス関連HP見てみましたが、はっきり言います。
凄い!
ご覧になられましたか。Yahoo!で「須磨アルプス」を検索すると661件ものページが出てきました。
あるもんですね~。
神戸とはこういうところなんですよ。
なにしろ、人口150万を擁する政令指定都市でありながら、新幹線駅から裏山で猪が徘徊しているのを目撃できるぐらいですから。(笑)

ミニ登山家の血が騒いでまいりました。もう少し?前なら鉢伏山から西宮市甲山まで1日で縦走なんてことも考えたでしょう。
神戸には「六甲全山縦走市民大会」という11月のイベントがあります。
スタート地点の山陽電鉄須磨浦公園駅からゴールの阪急宝塚駅まで54.4km(公称56km)の六甲山系を縦走する市民大会ですが・・・・これ、相当にキツイです。
コースは六甲山系の山々を稜線に沿って縦走するもので、途中に6箇所ほどのチェックポイントが設けられ、写真入の参加証にハンコが押されます。以下にコースの概略を纏めておきました。
地名標高m累計距離   km到着時刻備考
須磨浦公園 (須磨区)100.05.30出発、チェックポイント
旗振山 (須磨区)2532.06.00
横尾山 (須磨区)3127.07.45
萩の寺 (須磨区)5011.58.30チェックポイント
高取神社 (長田区)32013.09.30
鵯越駅 (兵庫区)13516.510.15
菊水山頂 (北区)45919.511.30第一の難関、昼食
鍋蓋山頂 (北区)48622.012.45
再度山大竜寺 (中央区)36023.513.15チェックポイント
市ガ原 (中央区)25024.613.30ここから摩耶山までの登りは第二の難関
摩耶山頂 (灘区)70228.015.00チェックポイント、レモンジュースの差し入れあり
記念碑台 (灘区)79637.416.30チェックポイント、六甲ロープウエイの誘惑は第三の難関
一軒茶屋(東灘区)88039.717.30最高峰、近くの分岐点にチェックポイント、完走へ最終判断を要す。時間制限あり。
水無山 (西宮市)80442.118.00
船坂峠 (西宮市)66344.118.20
塩尾寺 (宝塚市)34051.420.00
宝塚駅 (宝塚市)5254.420.30ゴール
小生も体重60キロほどだった1983年の第9回と、84年の第10回大会の2度参加し、見事完走しました。今の体型と体力ではとても無理ですが、当時は趣味で毎週日曜日には神戸の背山登山に出かけており、健脚でした。(実に金のかからない趣味。財布に岩倉具視か伊藤博文が一人でも居れば一日遊んで十分お釣がきた。)それでも、2ヶ月ぐらい前から「分割縦走」とか、「六甲越え(灘―有馬)」で毎週少なくとも30kmぐらいは山歩きトレーニングをして、本番に臨みました。縦走タイムは、それでも15時間ぐらいかかった記憶があります。
大会については神戸市のホームページにも紹介されています。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/17/040/Rokko/index.htm
小生が参加した頃は、参加資格として「神戸市在住か神戸市内に勤務の方で、参加経験3回以内の人」
というのが有ったのですが、最近は制限なしのようです。
完走すれば、宝塚駅前で賞状と記念メダル(現在は記念盾?)が渡されます。

TNさんも如何ですか?

追伸:高取神社から長田区一望できるそうですね。
東京ご在住のTNさんがどうしてこんなローカルなことをご存知で?
高取山は六甲山系でも独立峰で、山頂の高取神社からの展望は絶景です。
小生が通った小・中学校はそれぞれ高取山麓に位置し、確か小学校5・6年だったと思いますが、
夏休みの必須課題に「高取山毎朝登山」というのが有った記憶が有ります。
(発想がまるで田舎の学校。政令指定都市立小学校のやることとは思えない)
[8243] 2003年 1月 26日(日)14:18:23【1】ニジェガロージェッツ さん
幻の姉妹都市 ・ 神戸
ここに驚くべき(個人的に・・ですが)文書があります。
1996年9月5日付けで神戸市長(当時)によってニジニノヴゴロド市長(当時)宛てに書かれたものですが、冒頭に全文を転載します。(一部の団体名、個人名は伏せます。伏せ方は団体名を示唆したつもり)

ニジニ・ノヴゴロド市長
I.P.スクリャロフ様

拝啓
 ニジニ・ノヴゴロド市と神戸市の姉妹都市提携に関する8月8日付のお手紙ありがと
うございました。国際●●連盟の○○○○氏がご親切にも親書を届けて下さいました。
 神戸は、シアトル市、マルセーユ市、リオ・デ・ジャネイロ市、天津市、リガ市、ブリ
スベーン市、バルセロナ市、これらの都市はすべて国際港湾都市ですが、この7都市と姉
妹都市提携を結んでいます。ご存知のとおり、神戸は昨年1月17日に、大震災にみまわ
れ約4,500人の命が奪われ、180,000戸の家屋、道路や下水道、鉄道といっ
た生活生命線が破壊されました。震災により財政的に非常に苦しい現状では、既存の姉妹
都市との交流活動も以前のようには進められない今、残念ながら、新たに姉妹都市提携を
結ぶことは困難です。
 このような状況のもと、市長様のせっかくのお申し出にそうことはできませんが、神戸
に対してこのような興味をもっていただきましたことを光栄に思っております。今後とも
両市の市民が引き続き交流を続けお互いの理解と友情を深めることを希望しております。

 最後になりましたが、市長様のご繁栄と御健康をお祈りいたします。
敬具

神戸市長  笹山 幸俊

お断りしておきます。小生のニジニノヴゴロド滞在期間中と時期的に符合するのですが、小生が画策した訳では御座いません。
たまたま、96年秋に家業のことで一時帰国しているところに、兵庫県日本ロシア協会を通じて小生の許へ上記親書の原文がファックスで送られ、新聞記者からコメントをもとめられたのですが、開いた口が塞がらないとは、このことです。
思わず「なんですか?これは」とコメントしてしまいました。
それにしても両市の何所に「市民が引き続き交流を続け」ているのか見当がつきません。もし、いらっしゃればご紹介願いたいところです。
ニジニノヴゴロド市については拙稿[8116]で、ご紹介させて頂きましたので、どういう都市かのご参考にして頂くとして、逆にニジニノヴゴロド市の姉妹都市をしらべてみると、
タンペレ(フィンランド)、リンツ(オーストリア)、フィラデルフィア(米国)、済南(中国)、エッセン(ドイツ)、ハリコフ(ウクライナ)の6都市があり、また別途、提携都市としてボローニャ(イタリア)、ブルノ(チェコ)、ライプツィヒ(ドイツ)の3都市がありました。
ニジニノヴゴロド市は日本の都市との姉妹都市提携は無く、新たに日本の大都市との提携を結びたい意向を持っていることは、耳にしたことがありましたが、何故によりによって、それが神戸なのかは正直なところ見当もつきません。(自動車工場があり、また第3の都市圏を形成する産業都市であるあたり、名古屋のほうが合っているようにも思う)また、冒頭の笹山前市長からの回答の中に「ご存知のとおり、神戸は昨年1月17日に、大震災にみまわれ」た事実をニジニ側が「存知」ていたかどうかさえ疑問です。
ま、折角ですから[4656]で広島とヴォルゴグラードを比べたように神戸とニジニを比べてみましょう。

神戸市1,493,398    VSニジニノヴゴロド市1,357,000[ゴーラド ニージニィ ノーヴガラト]
西区235,758 自動車工場区331,800[アフタザヴォーツキー ラヨン]
垂水区226,230 ソルモヴォ区177,000[サルモーフスキー ラヨン]
北区225,184 カナヴィノ区165,000[カナーヴィンスキー ラヨン]
東灘区191,309 ソビエト区159,700[サヴェーツキー ラヨン]
須磨区174,056 レーニン区155,900[リェーニンスキー ラヨン]
灘区120,518 モスクワ区138,100[マスコーフスキー ラヨン]
中央区107,982 ニジニノヴゴロド区130,200[ニジェガローツキー ラヨン]
兵庫区106,897 沿オカ区99,300[プリオークスキー ラヨン]
長田区105,464
  (神戸市は2000年10月1日の国勢調査人口、ニジニノヴゴロド市は2000年1月1日推計人口)
また、両市の人口の推移は
神戸市人口ニジニノヴゴロド市人口
1889年134,7041897年95,100
1920年608,6441923年135,400
1925年644,2121926年181,200
1940年967,2341939年644,000
1945年378,592
1955年981,3181956年876,000
1960年1,113,9771959年941,000
1965年1,216,6661967年1,120,000
1970年1,288,9371970年1,170,000
1975年1,360,6051976年1,305,000
1980年1,367,3901979年1,344,000
1985年1,410,8431986年1,409,000
1990年1,477,4101992年1,440,600
1995年1,423,7921996年1,385,900
2000年1,493,3982000年1,357,000
2002年1,509,3252002年1,346,000
  (2002年人口は7月1日のデータ、両市人口とも当該年次の市域によるもの。
   参考までに神戸市面積は1889年21.28、1920年63・58、1940年83.06、1955年492.42、
   1960年530.24、1980年542.36、2000年549.94平方キロ)
う~~ん。似ているといえば似ているような・・・。
それにしても最近のニジニの人口自然減はお気の毒なぐらいです。ニジェガローツイ連中は口を揃えて「ニジニは150万都市だ!」と言っていましたが、これではねぇ。(悲)
「神戸も150万都市だよ」と持参した絵葉書やロシア語で書かれたガイドブックを見せると、
「こんな山と海に挟まれた狭いところに150万人も張り付いているのか?」とビックリされ、
[8156]高倉山とポートアイランドを例に、神戸の都市経営を説明してやると
「日本が高度な技術を持つ国だと知っていたが、そこまでする国とは・・」
と絶句していました。

両市に幸多かれと願うばかりです。

ロシア語の雑学から。
ロシア語で「姉妹都市」は город-побратимы [ゴーラト=パブラチームィ]といいます。
姉妹ではなく брат[ブラート]兄弟 ですね。つまり兄弟都市。
これは город[ゴーラト]市 が男性名詞ですから、女性の「姉妹」にはなり得ないからです。
[8578] 2003年 2月 2日(日)00:17:38【1】ニジェガロージェッツ さん
明石郡7ヶ村(現・西区)の神戸市編入の経緯
[8545]NSKさん
西区域が明石市ではなく神戸市に編入された詳しい経緯は分からないのですが、神戸市中心部よりも明石市との結びつきが強い地域が多いです。
明石市の後背地一帯に位置し、現在「神戸市西区」となっている旧明石郡7ヶ村(伊川谷村、櫨谷村、押部谷村、玉津村、平野村、神出村、岩岡村)の神戸市への編入の経緯について時代背景も含め、詳しく述べてみます。

戦前の神戸市域は概ね現在の灘区から須磨区までで、市域面積83.06平方キロと狭く、その約6割は山林であるため、実質の市街地面積は約35平方キロ位で、ここに1939年10月の推計人口で1,006,100人が住み、実質の市街地平均人口密度は3万人近くに達していました。
ここで、戦前期にも神戸市会では大々的な市域拡張について議論されることなり、その区域を武庫川から加古川まで拡張するような意見さえ出ていた程でした。
まず皮切りに西隣の明石郡垂水町(31.99平方キロ)を1941(昭和16)年7月1日に須磨区に編入し、市域を115.05平方キロとしたものの、大東亜戦争の勃発で市域拡張計画は一時見送られることとなりました。
一方、明石市は1919年11月1日に明石郡明石町が市制を敷き誕生しましたが、このときの市域は概ね現在のJR朝霧駅から西明石駅の範囲7.74平方キロに過ぎませんでした。垂水町の神戸市編入の少し後の1942(昭和17)年2月11日に西隣の明石郡林崎村を編入し市域を16.06平方キロとしました。更に1943(昭和18)年には明石郡玉津村との合併を県に申請しましたが、これは不成立に終わりました。

戦後、神戸市において再び市域拡張について議論されることとなり、その当時の事情を「神戸市会史」によれば、
「神戸市は、明治の開港以来、国際港都として日本の門戸の役割を果たしつつ、異常な発展を重ねてきた。しかし、その市域をみると六甲山系と大阪湾に挟まれた僅かな帯状の土地に局限された地理的環境から、将来の大きな発展を望むにはおのずから限度があった。その60%が山地に属し、有効面積が40%という、極めて特殊な地形から考えても、早晩市域の拡張を実施しなければならないことが、長年にわたる市の懸案として残されていた。
しかも戦火によって甚大な災害を受け、かつ過密都市の欠陥を各所に露呈しつつあった神戸市としては、一日も早く市域を広げるとともに、住みよい都市づくりに着手しなければならない情勢に迫られていたのである。そこで、神戸市は戦後いちはやく理想的文化都市、田園産業都市づくりの構想をたて、東北西の三方向にわたって画期的市域拡張をおこなうため、編入の対象として次の町村を選んだ」
としており、編入の対象とされたのは
東部 = 武庫郡御影町、魚崎町、住吉村(1950.4.1編入)、本山村、本庄村(1950.10.10編入)
北部 = 武庫郡山田村、有馬郡有馬町、有野村(1947.3.1編入)
西部 = 明石市(編入されず)
       明石郡伊川谷村、櫨谷村、押部谷村、玉津村、平野村、神出村、岩岡村(1947.3.1編入)
       明石郡大久保町、魚住村、加古郡二見村(編入されず)
の1市4町14村でした。
神戸市ではこの拡張計画とともに戦災復興計画も併せて行い、人口の分散、市街地の疎開、港湾地区、商業地区、住宅地区など土地分配の適正化をはかり、文化都市としての諸施設を整備、市の工業生産品と西部、北部方面の蔬菜、酪農品、水産物などの交流を円滑にするとともに、明石郡南部の工業地帯を育成して国際港都としての内容を一層充実させようとするものでした。
一方、市域編入の対象となる市町村にとっても、地理、交通条件、また社会的、経済的にも神戸市と密接な関連性がありながら、狭小で財力が及ばないため、現状のままでは地方の発展に即応できない立場にあり、神戸市編入によって共同の恩恵に浴することを希望していました。
1946(昭和21)年、神戸市は各市町村と合併交渉を進め、北部の有野村から西部の二見村まで、北部1町2村と西部1町9村の計13ヶ町村と協定が成立、仮調印を済ませました。しかし、東部の御影町は時期尚早とし、明石市も拒否反応を示す住民が多く、合併を見合わせると回答しました。
1946(昭和21)年12月、神戸市会は仮調印済みの13ヶ町村との合併を満場一致で可決、兵庫県知事に合併許可を申請しました。兵庫県も1947年1月26日、合併は都市計画上も妥当と決議しましたが、
「もし調印済みの13ヶ町村を合併せしめることによって、明石市を孤立させる恐れがある場合は、明石市に隣接する明石郡大久保町、魚住村、加古郡二見村の3ヶ町村をしばらく保留し、明石市の態度決定をまって改めて裁定するを適当と認める」とクギをさしました。
神戸市は、この3ヶ町村を外し、残りの10ヶ町村を1947(昭和22)年3月1日編入し、市域は一挙に390.50平方キロに拡大しました。
この10ヶ町村のうち、明石郡7ヶ村は垂水区(1946年11月1日、旧垂水町の範囲を須磨区より分区)に編入され、のち1982(昭和57)年8月1日、西区として独立しました。
一方、神戸市は仮調印を済ませながらも「外された」大久保、魚住、二見の3ヶ町村については、将来の神戸市編入を見越して一旦明石市に移し、明石市との1対1の合併交渉で編入する方針をとりました。当時の明石市長は熱心な「神明合併論者」で、将来の明石市合併を比較的楽観視していたのでしょう。
この結果、明石市は3ヶ町村を1951(昭和26)年1月10日編入し、市域面積47.31平方キロ、人口111,673(1951年現在)を擁する県の中堅都市になりました。市では神戸市との合併を巡り議論百出の状態となり、市長のリコール運動も起こり、1954(昭和29)年には神戸市との合併を拒否することと決定しました。それを受け旧3ヶ町村の範囲で明石市に留まるか神戸市に移るかのアンケートを取った結果、明石市残留が多数を占め、この地域の神戸市への編入は不成立に終わり、現在に至っています。

神戸市域の変遷については[8143]TNさんがリンクを張っておられた神戸市のホームページ
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/hensen/(神戸市域の変遷)
に、わかりやすい地図がでています。
[14949] 2003年 5月 8日(木)22:42:31ニジェガロージェッツ さん
神戸旧市街地における新住居表示実施に伴う廃止町名(兵庫・東灘区以外)
住居表示に関する興味深い書き込みが続いていましたので、神戸からも報告かたがた。

神戸市の旧市街地(灘区・中央区・兵庫区・長田区および須磨区本区)のほとんどは、昭和初期には密集市街地を形成し、市街化と共に「町」の設定がありました。このことは、戦前期に人口100万人を擁していた嘗ての「六大都市」に共通することと考えます。(京都は可也事情が異なるが・・)
1962年5月10日施行の「住居表示に関する法律」に基づき、市街地における従来の「地番」による住居表示から、「街区符号」と「住居番号」で表示する「新住居表示法」による住所に変っていくこととなりました。そして基準となる道路や線路などの「恒久的な施設」によって町域を設定し直したために、従来の小さな町は整理統合され、多くの町名が失われる結果となりました。
神戸市においても1965年以降、逐次住居表示の改正が行われましたが、市の旧市街地では、多くの町が明治時代以降、昭和初期までに市街化に伴い行われた耕地整理事業などによる道路の整備に合わせて町域が設定されていたため、他都市に見られるような大規模な町の統廃合は比較的少なく、多くが従来の町名をそのまま引き継いでおります。[14768]TKS-Hさんご紹介の「町の名称は、できるだけ××町○丁目とはしないで××○丁目とすることが適当である」とのお上からのお達しも無視して、そのままの町名のままです。
一般に神戸市の都心部を除く旧市街地では、100メートルおきに碁盤の目状に道路で区切られ、それが町・丁目界を成していたため、新住居表示の実施にあたっても、街区と住居番号の設定をするだけに留めたので、町域の再編には至らなかったと言えるでしょう。
(ですから、新宿区柏木のような大きな町名が廃止されたことは、神戸では想像出来ません)

ところが、その神戸市においても、町名整理の大鉈が揮われた所があります。兵庫区と東灘区です。
両区の事情については稿を改めるとして、ここでは両区以外で新住居表示実施の結果、廃止された町名をご紹介することとします。

廃止町名読み方設置年廃止年人口(年)現行町名備考
 【灘区】
新在家中町1-5丁目しんざいけなかまち193819671,492(65)新在家南町隣接町に統合
入船町いりふねちょう193419670(65)新在家南町隣接町に統合
庄屋町しょうやちょう19491970661(65)六甲町六甲町新設
辰中町1-2丁目たつなかちょう193119701,928(65)六甲町六甲町新設
花園町はなぞのちょう19311970895(65)六甲町六甲町新設
前手町まえてまち19311970841(65)六甲町六甲町新設
 【中央区】
上橘通1-2丁目かみたちばなどおり1872198038(80)橘通隣接町に統合
 【長田区】
中村町なかむらちょう19261972438(70)真野町隣接町に統合
 【須磨区】
下手崎町1-4丁目しもてざきちょう192419661,365(65)青葉町改称
上手崎町1-3丁目かみてざきちょう19241966919(65)行平町改称
上中島町1-3丁目かみなかじまちょう192419661,039(65)中島町中島町新設
下中島町1-2丁目しもなかじまちょう192419663(65)中島町中島町新設
東寺田町ひがしてらだちょう19241967495(65)東町東町新設
中寺田町なかてらだちょう19241967547(65)東町東町新設
西寺田町にしてらだちょう19241967501(65)東町東町新設
下寺田町しもてらだちょう19241967654(65)東町東町新設
長池町ながいけちょう19301967200(65)堀池町堀池町新設
下堀内町しもほりうちちょう19231967332(65)堀池町堀池町新設
上堀内町かみほりうちちょう19241969400(65)若木町若木町新設
下兼広町しもかねひろちょう192419691,111(65)若木町若木町新設
兼広町かねひろちょう1924196981(65)若木町若木町新設
下細沢町しもほそざわちょう19241969116(65)若木町若木町新設
東細沢町ひがしほそざわちょう1930196915(65)若木町若木町新設
椎ノ木町しいのきちょう19301969330(65)若木町若木町新設
寺畑町てらばたちょう19241969102(65)若木町若木町新設
山畑町やまばたちょう19241969129(65)若木町若木町新設
東須磨南町ひがしすまみなみまち193019651,711(65)南町改称
東須磨北町ひがしすまきたまち193019651,344(65)北町改称

その他、長田区池田塩町、池田新町、池田経町、池田谷町、池田惣町、池田宮町、池田丘町の町域錯綜地において上池田(1973年・新設)、宮丘町(1974年・新設)への統合がありましたが、各町ともごく一部が統合を免れ、現存しています。
[14959] 2003年 5月 9日(金)00:26:15【2】ニジェガロージェッツ さん
神戸旧市街地における新住居表示実施に伴う廃止町名 (兵庫区)
[14949]の続きで兵庫区の状況です。

兵庫区の場合は、中世以降より集落が成立した「兵庫津」周辺における歴史的町名が、現状の市街状況との違いが大きく、新住居表示にあわせ整理を余儀なくされた結果、数多くの由緒ある町名が失われていったのですが、これはある意味仕方の無いことかも知れません。
とはいえ、現実には神明町、南仲町、磯之町、船大工町などの小さな町が、新住居表示で区域を若干変更されながらも現存しており、ならば兵庫町1・2丁目、本町1・2丁目、七宮町1・2丁目などとせず、それぞれ算所町、江川町、戸場町、小物屋町、宮内町、川崎町と出来なかったものだろうか?
何か、町名に対するダブルスタンダードのようなものを感じざるを得ません。
以下、神戸市の英断を得られず消された町名の数々です。

廃止町名読み方設置年廃止年人口(年)現行町名備考
 【兵庫区】
中町西通1-2丁目なかまちにしどおり19451975297(70)新開地新開地新設
西古湊通1-2丁目にしこみなとどおり19451975547(70)新開地新開地新設
江川町えがわちょう江戸期1977332(70)兵庫町兵庫町新設
算所町さんじょちょう18731975216(70)兵庫町兵庫町新設
川崎町かわさきちょう江戸期252(70)七宮町七宮町新設
北宮内町きたみやうちちょう江戸期197757(70)七宮町、本町本町新設
宮内町みやうちちょう江戸期1977186(70)七宮町、本町本町新設
宮前町みやまえちょう江戸期1977175(70)七宮町、本町本町新設
戸場町とばちょう1873197764(70)本町本町新設
富屋町とみやちょう江戸期197710(70)本町本町新設
鹿屋町しかやちょう江戸期197728(70)本町本町新設
小物屋町こものやちょう江戸期1977452(70)本町本町新設
松屋町まつやちょう江戸期1977119(70)本町、鍛冶屋町隣接町に統合
匠町たくみちょう江戸期1977142(70)鍛冶屋町隣接町に統合
魚棚町うおだなちょう江戸期1977210(70)島上町、本町隣接町に統合
北仲町きたなかまち江戸期1977261(70)本町本町新設
浜新町はましんまち江戸期19750(70)中之島中之島新設
新町しんまち江戸期1975185(70)中之島中之島新設
関屋町せきやちょう江戸期1975293(70)中之島中之島新設
新在家町しんざいけちょう江戸期1975176(70)中之島中之島新設
住吉通1-4丁目すみよしどおり189419752(70)明和通、御崎本町隣接町に統合
明治通1-3丁目めいじどおり19001978597(70)芦原通、駅南通隣接町に統合
正慶町しょうけいちょう19001978332(70)駅南通駅南通新設
川中町かわなかちょう1930197337(70)和田宮通隣接町に統合
中庄通1-3丁目なかしょうどおり19051973181(70)上庄通隣接町に統合

このうち、中町西通および西古湊通は、1945年旧湊東区を兵庫・生田2区に分割した際、旧中町通、古湊通も分割し、兵庫区側に新設。なお、中町通、古湊通は中央区に現存。また同様に分割され、のち廃止された生田区側の上橘通は兵庫区に西上橘通が現存。
また上記表中、「川崎町」は市街地図には表記のないものの道路上に現存。兵庫運河水面上に現存しながらも地図に町名として表記されない「兵庫運河」とともに神戸の幽霊地名です。
[15018] 2003年 5月 11日(日)09:05:30ニジェガロージェッツ さん
神戸旧市街地における新住居表示実施に伴う廃止町名 (東灘区)
神戸市の市街地図を見れば気が付くことですが、六甲山脈南麓の神戸市街地において東灘区とそれ以外の5区とでは、町の設定に大きな差異があります。
東灘区を構成する旧武庫郡5か町村(御影町、住吉村、魚崎町、本山村、本庄村)が神戸市に編入されたのが戦後の1950年のことで、神戸の一部として市街化が顕著になってきたのは編入後のことで、厳密な意味でここを「神戸旧市街地」と呼べるかは大いに疑問ですが、灘区に続く六甲南麓の市街として、今では旧市街地と東灘区を区別する意識は薄れています。
ここ東灘区では、戦後の短い期間のうちに2度の町名(字名)の大変更がありました。1度目は1950年から1962年にかけて市街化にあわせて行われた「区画整理」によるもので、2度目は1968年以降に行われた「新住居表示」によるものです。
1度目の町名大変更は、「区画整理」により街の状況が一変し、従来の「字界」が道路や水路の付け替えなどで収拾がつかない状況になり、区画整理後の市街状況にあわせて町や字を設定し直したもので、数多くの町名が生まれました。
しかし、それらの町名は字名として扱われ、頭に旧町村名を冠した「大字」を付けていました。それが「新住居表示」による2度目の町名大改正の嵐を招く伏線となります。このため、地名の「大量放棄」と言うべき大改正により、「旧町村名など+方角名など」といった無味乾燥な町名に統一されてしまいました。中でも中野、小路、北畑、田辺、野寄(以上、本山町)、横屋(魚崎町)といった大字までもが廃止されました(一部に山中に残るものもあり)。野寄が「西岡本」と改称されたのにはいささか失望しました。
地名好きとしては、少なくとも1度目の「区画整理」につけられた町名(または字名)に沿った「新住居表示」が出来たであろうと思えてなりません。
因みに、現在においても御影町の区域の一部が新住居表示になっておらず、字名のまま残っています。
http://map.yahoo.co.jp/pl?la=1&sc=3&nl=34.43.5.662&el=135.15.12.588&CE.x=243&CE.y=239

ここでは、「区画整理」後に誕生し、ごく短い期間を経て廃止させられた「字」のうち、本庄地区に設けられ「町・丁目」の形をとっていたものを列記してみます。(人口は1970年国勢調査人口)

廃止町名(大字)廃止町名(字)設置年廃止年人口現行町名
本庄町西青木福池町1950197128本山南町4・5丁目
前田町195019712,028北青木3・4丁目、本山南町4・5丁目
本町195019712,352北青木3・4丁目
梅本町19501971808青木6丁目
西浜町19501971483青木3丁目
本庄町青木戸浪町195019711,139本山南町3・4丁目
古堂町195019711,357北青木2・3丁目
寺門町19712,011北青木2丁目
大倉町1971302北青木2丁目
竹本町19501971904青木5丁目
松本町19501971841青木5丁目
東浜町19501971185青木1・2丁目
中浜町195019711,023青木2丁目
文教町1950197183青木4丁目
新浜町195019710青木1丁目、深江南町5丁目
本庄町深江踊松町19501972545深江南町5丁目、深江本町4丁目
大日町195019721,262深江本町3丁目
磯島町195019722,057深江南町4丁目
長栄町195019721,219深江本町2丁目
見附町19501972861深江南町3丁目
東町195019721,456深江南町2丁目
神楽町195019721,787深江南町1丁目
永江町195019721,170深江本町1丁目
高橋町19501972782北青木1丁目、深江北町5丁目
永井町3-4丁目1972298深江北町1丁目
繁昌通2-4丁目1972764深江北町1丁目
栄通1-4丁目19722,818深江北町2丁目、本庄町1丁目
札場通1-4丁目19722,542深江北町2・3丁目、本庄町2丁目
稲荷筋1-4丁目19721,958深江北町3・4丁目、本庄町2・3丁目
薬王寺町1-3丁目1972818深江北町4丁目、本庄町3丁目
[15721] 2003年 5月 22日(木)20:53:02ニジェガロージェッツ さん
神戸・外国人居留地
[15714]TN さん
地図で見ますと、あの街路が斜めに振れている部分が、旧外国人居留地なのでしょうか。他の部分が住居表示実施されているのにあの部分だけが頑なに残っているのは興味深いですね。

まさにそのとおりです。
1872(明治5)年の「神戸外国人居留地計画図」を見つけましたので、ご参考まで。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/3_kindai/019.html

この地図を見ますと、当時の外国人居留地の範囲は
当時の地名現在の地名
生田川フラワーロード・市役所前
西鯉川鯉川筋・大丸西側
西国街道大丸神戸店北側から花時計北側を結ぶ道路(地下鉄海岸線)
海岸線概ね、阪神高速3号神戸線
になっています。
その区域を126のロットに区切り、英国64区、ドイツ23区、オランダ15区、米国11区、フランス11区の買取があったそうです。
また、当時清国は日本と条約を結んでなかったため、居留地内の生活は認められず、清国の人たちはその西隣の地域に住み初め、「南京町」のもとができました。
この外国人居留地が、神戸に返還されたのは1899(明治32)年7月17日のことで、[15714]に列挙した13町が神戸市の町名となったのは、その時のことです。二つの「海岸通」があるのは、このためと憶測します。

なお、1980年12月1日に生田区と葺合区が合区した際に、旧居留地以外の旧生田区の市街地は新住居表示に移行したのですが、ここだけは対象から外されました。その理由を憶測するとすれば、
道路をはさんで向かい合う建物が同じ町名になるという珍しい区画になっているため、そのままの町割りでは新住居表示に不向き。
居留地時代の町名が馴染み深く、新町名を設定し辛い。
古くからの地番(番地)そのものがビルの名称などになっている所が多く、地番表示が分り易い。
といったところでしょうか。
[15879] 2003年 5月 25日(日)10:42:30ニジェガロージェッツ さん
神戸市中央・北区の直線境界と「一里山論争」
[15787]TN さん
中央区といえば、北区との境界が直線で、神戸港地方という地名も目を引きますね。

レスが遅くなり申し訳ございません。
この部分の「直線区界」ですが、いつ頃からこの区界になったかが判然としません。
神戸市の「市域の推移」と題する表からも、この件に関して窺い知ることが出来ません。
明治期の神戸市の市域地図からは、この部分の境界は、神戸市(神戸・葺合)と武庫郡山田村の境界になっているのですが、直線ではありません。ところが、昭和初期の地図では既に両者の境界は現在と同一のもの(中央区と北区の境界)となっており、何らかの形で、市境の変更があったことが推測できます。
考えられるとすれば、大正11年に「神戸都市計画区域」が設けられ、その区域に当時の神戸市全域(現在の中央、兵庫、長田、須磨区)に、武庫郡8カ町村(現在の灘、東灘区)と山田村(北区南部)のうち「奥一里山」と呼ばれる神戸の背山が加えられました。もしかしたら、このころに神戸市と山田村の間で、境界の画定があったのかも知れません。
謎です。

この地域には、江戸期より「一里山論争」という六甲山脈南の神戸(兵庫)側と、北の山田側に、両者の境界を巡っての紛争が起きています。
これは、神戸の背山である六甲山脈に属する一連の山域を、南から一里ごとに「口一里山」「中一里山」「奥一里山」と称して三つに分け、それぞれがどちら側の所領かを争ったものですが、結局「口」と「中」は旧兵庫と神戸側の村々が入会権を持ち、「奥」は山田村の所属になり、互いに他を侵せない取り決めになったようです。それらの境界は、地形的な稜線ではなく、塚を点々と造って、それをつなぐ一線で画したようです。このあたりも現在の「直線境界」につながった一因ではないでしょうか。

「中一里山論争」
1604(慶長9)年11月5日、山田庄の村民が中一里山に狩に出かけたところ、そこへ柴刈りに来ている福原庄村民を発見し、越境を理由に暴行を加え制圧。これを発端に争われた論争。結局「口一里山は福原庄所属、中一里山は山田庄の領内ではあるが、従来どうりの福原庄村民の柴刈を認め、山年貢を出す」との裁定。その後も度々山論を繰り返すものの、維新後の地租改正では、神戸側が山年貢を払い続けていたことから、中一里山は神戸側の所有となる。

また、中央区の地名「神戸港地方 こうべこうじがた」ですが、これは「神戸港の周辺地」という意味で、古くは兵庫津周辺をいう「兵庫港地方」に対応して明治後期に付けられた地名ですね。神戸区の区域となった「口一里山」「中一里山」の部分に付けられたようです。
[16800] 2003年 6月 14日(土)23:39:08【1】ニジェガロージェッツ さん
北神はなぜ「有馬区」とならなかったか
[16740]utt さん
神戸市北区についてですが、かなり以前に書いた拙稿[3283]にまで、目を通して頂いて恐縮です。

鈴蘭台のあたりに中心を置いたのは、やはり神戸電鉄の分岐だからかと思ったのですが、(中略)古い温泉街である有馬に区役所を置かず、新興住宅地である鈴蘭台とするあたり、後に「株式会社」と呼ばれる神戸市の都市経営手法の一つかもしれません。

いえ、特に「(株)神戸市」の都市経営というようなものではなく、地理的に見ても人口分布の点からも鈴蘭台地区に区役所が設置されたのは、至極当然のことです。
まず第一に、北神地域が兵庫区から分区されたのは、この地域の人口増加が進み、新区設置の目安である人口10万人を大きく上回ったことによります。
分区前後の1970年と1975年の国勢調査によれば、
人口1970年国調人口1975年国調人口2003年5月1日推計人口
北区全域81,213135,697224,486
旧武庫郡山田村48,76292,244146,011
旧有馬郡地域および旧淡河村32,45143,45378,475
 うち、有馬町3,5393,338
となっており、鈴蘭台地区を含む旧山田村の区域での人口増加がいかに急激であったかお分かり頂けると思います。もし、仮に区の東端に位置し、人口の少ない有馬温泉のある有馬町(2000年国調人口で2,007人)に区役所が設置されていれば、人口の過半を占める鈴蘭台周辺の区民にとっては不便だったことでしょう。またuttさんのご指摘にあるように、鈴蘭台には「区民の足」ともいえる神戸電鉄の分岐点でもあり、これ以上の立地条件はなかったと思われます。
さて、区役所は鈴蘭台地区に設置で良かったとして、区名はなぜ公募1位に挙がった「有馬区」にならなかったのかと言えば、当時の構想では北区となった北神地区の2001年将来人口を30万人としており、山田と有馬とで再分区が行われることが折込まれていたからです。つまり、北神北部に設置されるであろう新区の名称として有馬の名前は「保存」したということです。
現在においてもこの「北区北部の再分区」構想は存在していますが、現状は拙稿[3283]にご紹介した通りで、実現には至っておりません。更に新区の名称を「甲北区」とする案まで巷では噂されております。
新区の区役所予定地は神戸電鉄岡場駅周辺が有力です。
小生(よそものの長田区民)は個人的には「北区」を解体して「山田区」と「有馬区」にするのが良いと思いますが、地名は生き物ですから、「そうは問屋が卸さない」ことでしょう。


「東灘」駅はどこにも存在しません。
旧国鉄時代に「東灘操車場」なら、灘駅の東隣にありましたよ。現在では信号場のようですが。
[18378] 2003年 7月 17日(木)23:30:38【1】ニジェガロージェッツ さん
兵庫と神戸
[18304]赤尾鯰 さん
兵庫県は、旧幕府が安政条約で兵庫湊を開港することとなったのに、隣に神戸港を開削したため、両者がモメテしまった。結局、明治政府が、兵庫県神戸市兵庫区という組み合わせで決着させることとなった。

地元のことにつき反応させて頂きます。

まず兵庫・神戸の両港が「モメタ」というお話ですが、浅学のためか聞いたことがございません。
また「兵庫県神戸市兵庫区」ですが、その成立は昭和8(1933)年1月1日のことで、「明治政府」とは何ら関係がございません。兵庫区の誕生は、神戸市街地の一翼をになう旧「兵庫」のうち、旧湊川の西側に属する部分に成立した「湊西区」を改称してのことでした。

因みに現在の兵庫区の範囲は、昭和20(1945)年5月1日に拡大されたもので、当初の兵庫区の区域に湊区の全域を加え、湊東区の一部と林田区の一部を合わせたものです。

話を明治維新期に移します。

旧幕府は安政の条約で兵庫津の開港を諸外国と約束しましたが、兵庫の町は中世から続く古い街で、江戸期の書物には
「諸国の商船ここに泊り、町小路の賑、昼夜のわかちなく、繁花の地なり」(摂津名所図会)
とあるほどで、この兵庫に外国の商館や居留地を設けることは土地的に余裕はなく、また治安の面からも当時は幕末の騒然とした時代で攘夷論もやかましく、古くからの因習に満ちた兵庫の住民と、西洋諸国の居留民との間で衝突の懸念もありました。
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。
兵庫は江戸初期には尼崎藩領でしたが、明和6(1769)年に幕府の直轄地となり兵庫城(現在の地下鉄中央市場前駅の西側あたり)に勤番所を設け、明治元(1868)年に明治政府は兵庫鎮台を置き、2月に兵庫裁判所、5月に兵庫県庁と改称しました。これが「兵庫県」の始まりです。
つまりこの時点では県庁は「兵庫」に位置し、一方の「神戸」は開港間もない小さな集落に過ぎなかったと言えるでしょう。

一方の神戸村は西国街道に沿って人家が並び、海岸に「神戸浦」と呼ばれる船着場がありました。安政6(1859)年に船たで場を構築、文久3(1863)年に海軍操練局の設置を経て、慶応3(1867)年の兵庫開港(実質には神戸開港)を迎えました。
開港直後の明治元(1868)年、神戸村に同じ西国街道沿いの二ツ茶屋村、走水村を合併して神戸町となり、明治5(1872)年には後背地にあたる生田宮村、中宮村、花熊村、北野村、宇治野村を合併しました。

明治12(1879)年に郡区町村編制法施行に伴い、前述の神戸町と兵庫津に、その中間に位置する坂本村が合併して「神戸区」となりました。ここに「兵庫」は「神戸」に吸収されたことになり、県名以外の行政区画名として「兵庫」の名は消えました。この時点で両者の力関係は既に拮抗あるいは神戸側が優位に立っていたことが想像できます。
明治22(1889)年4月1日には市制が施行され、神戸区に葺合村と荒田村を併せ「神戸市」となりました。

一方、港では、兵庫(神戸)開港以降は(旧)湊川河口を境として神戸港と兵庫港が共存していました。兵庫港に於いても桟橋・運河・埋立など近代化を図りましたが、神戸港の盛況に及ばず、明治25(1892)年に神戸港域に含まれる内港となり、行政上は兵庫港の名を用いなくなりました。
神戸市の市章は2つの扇が重なりあった形をしていますが、これは神戸港・兵庫港の両方が扇形の海岸線をしており、この2つの港の融合を象徴とし、神戸の旧仮名遣い「カウベ」の「カ」の字を2つの扇で模ったものです。
[25536] 2004年 2月 29日(日)14:09:23【1】ニジェガロージェッツ さん
旧垂水区域の市街化
[25523] 2004 年 2 月 29 日 (日) 08:16:06 軒下提灯 さん
神戸市垂水区の市街地は神戸本体の市街地とは地形的に隔絶し、むしろ明石市街地と連続状態にあるため、明石&垂水の市街地を1ククリにして1つの都市としています。

軒下提灯さんがご作成の「日本の都市ランキングビッグ1,000!」は、昭和40年代の統計情報がベースとなっているようなので、ここで言う「神戸市垂水区」は現在の垂水区域ではなく、当時の旧垂水区域として考えます。
当時の垂水区は現在の垂水区、西区全域に加え須磨区北須磨のうち名谷団地以西をその区域としており、嘗ては全土が明石郡の郡域でした。
これらの区域は神戸市街地の本体とは急峻な六甲山地の一角にあたる通称「須磨アルプス」(拙稿[8156][8162]をご参照下さい)に遮られ、市街の連担は物理的に望めません。一方の明石市街とは地形的な障害はなく、現在の垂水区および西区玉津地区、伊川谷地区の西部では事実上市街地は明石と繋がっています。
この現状を踏まえて、時代背景は昭和40年代後半を想定しての話として旧垂水区域を6つに分けて考えてみます。
但し、ここからは小生の主観が濃く入り、客観的なのもではありませんので、ご了承下さい。因みにこの区域には個人的に知り合いも多く、馴染みのある所ですが、小生自身は住んだ経験がないことを付け加えておきます。

当時の垂水区で市街化されていた区域は
(1)国鉄線、山陽電車線、および国道2号線に沿った海岸周辺。一部垂水駅あたりより福田川に沿って内陸に開発の進む市街地を含む
(2)現在の西区玉津地区南部
(3)現在の西区押部谷地区の神戸電鉄沿線

(1)の区域はその沿革から更に細分して考えます

(1-a)東部の塩屋町、東垂水あたり
この地域は戦前期より神戸・大阪圏の別荘地として開発のあった地域で、その意味では同じく別荘地として開けた須磨区西部の丘陵地帯と同一の発展をしたものとして、明らかに神戸との連帯が見られます。
代表的な別荘地としては塩屋町の丘陵に開発された「ジェームス山」が代表です。
漁村としての旧塩屋村は別として、戦後の市街地化もあくまで神戸市街地の一部として発展しています。

(1-b)垂水駅周辺(福田川左岸の東垂水町西部を含む)
垂水漁港を核として古来より独自の発展をした地域で、この限りにおいては神戸でも明石でもありません。
戦後は背後の丘陵地に住宅団地の大規模な建設が始まり、昭和34年の高丸団地を嚆矢(雑魚さんが懐かしい・・)としています。これら一連の住宅団地は神戸市人口増加の受け皿としての側面が強く、その意味においては明らかに神戸の一部です。
住宅団地の形成とともに人口は増え、それに合わせて垂水駅北側では商業核として発展が見られ、町の性格から漁村の要素が薄れてきました。

(1-c)舞子あたり
垂水区の西部に位置し、明石市に隣接しています。嘗ては「山田村」と呼ばれ、江戸期には明石藩領でした。当然明石との結びつきは深く、その意味において神戸ではありません。
明治22年に山田村は東垂水、西垂水、多聞、塩屋、下畑、名谷の各村と合併し垂水村の一部となり、垂水の一翼を担い発展しましたが、昭和16年に垂水町(昭和3年町制)の神戸市編入により神戸市域(昭和21年までは須磨区)となりました。
昭和30年代以降に区内で始まった住宅団地建設は舞子の背後の丘陵地でも始まり、これらの事情は前出の垂水の高丸団地等と同じです。これらの住宅地からは明石海峡の見晴らしが良く、当時は人気がありました。

(1-d)第二神明道路以北
現在の垂水区北部です。昭和44年の5万分の1地形図では舞子の北方にある多聞台団地以外には目立った造成地は無く、ほとんどが古来よりの丘陵地とそれらの谷あいに村落が点々と分布しているに過ぎません。また現在須磨区に編入されている名谷団地の区域でも造成が行われていません。

(2)玉津町南部
明らかに明石市街地の一部です。
実際に明石市は昭和18年に玉津村との合併を県に申請しましたが、これは不成立に終わりました。背後には当時神戸市において市域拡張により大神戸市を建設する構想が始動し(前出の垂水町の神戸市編入はその一環。拙稿[8578]に既述。但し戦時非常時により中断)、明石市そのものが神戸市域に編入の構想になっていたことも一因と考えます。
そして現在の市街化も神戸の一部というよりは明石市街地の拡大による性格が濃いと思われます。

(3)押部谷町の神戸電鉄沿線
明石とは全く関係の無い地域です。この地域を走る神戸電鉄粟生線は神戸高速新開地駅(兵庫区)と三木市街を結び、この区域の発展は神戸の一部(三木派も考えられますが、こちらは少数派でしょう)としてのものです。
但し、昭和44年の5万分の1地形図では現在のような顕著な市街化は見受けられません。

最後に参考の付表として、国勢人口推移データを提示しておきます。
区域\年次昭和40年昭和45年昭和50年昭和55年昭和60年平成2年平成7年平成12年
旧垂水区域計148,014207,880275,279320,357363,483423,436491,509486,330
垂水区南部97,670144,929166,747163,993161,851161,839163,044151,475
垂水区北部7,58116,41938,68248,76562,36173,41577,21474,895
須磨区名谷団地以西1,63720,65728,49729,60229,08824,197
西区伊川谷5,5067,44711,78414,69621,62342,66260,79161,209
西区櫨谷2,8442,8762,9382,9637,87525,26545,38354,744
西区押部谷5,7626,49714,65923,03926,98328,61733,61032,400
西区玉津11,96612,16019,94526,06828,57232,53337,62240,871
西区平野4,1934,3054,4984,3258,0889,94323,17523,172
西区神出6,7737,3358,0708,3698,6088,5158,5488,682
西区岩岡5,7195,9126,3197,4829,02511,04513,03414,685
注)垂水区の南部・北部の人口計算は、昭和45年~平成7年のデータは国勢統計区ベース、昭和40年および平成12年のデータは町名ベースで算出。おおよそ第二神明道路を区切りとしました。
昭和55年以降、伊川谷、櫨谷、平野で人口の激増が見られますが、これは西神ニュータウン、西神南ニュータウン、学園都市の造成、市営地下鉄の西神中央への延伸に寄るところが大きく、いずれも神戸の発展の一環と見ることができます。
最後に垂水在住(舞子を含む)の小生の知人連中から受けた印象では、やはり神戸の住民との意識が強く、明石に対してはその意識が全くといってよいほど感じられません。

*記事訂正 平成12年の垂水区南部・北部の人口値を修正。
[44753] 2005年 9月 7日(水)15:47:07ニジェガロージェッツ さん
須磨のベルトコンベアーがついに・・・
落書き帳第二回公式オフ会@神戸開催まで、あと10日となりました。
現在のところ、21名のご参加エントリーが寄せられています。にわか幹事役として、深く御礼申し上げます。

その神戸からのニュースですが、
海面埋め立てによる神戸市域の拡大と、郊外の住宅団地用地の造成という、「山、海へ行く」と形容された都市経営を一手に支えた「須磨ベルトコンベアー」が、ついに9月12日に稼動が終了することになるそうです。

[4485] 2002 年 11 月 3 日 (日) 22:18:42 いな さん
もうず~っとず~っと前のことでしたが、国道2号線を走るとその上を、土砂運搬用のホッパーが
土を積んで、空中を鋼索線で海のほうへ引かれて行っていましたですねえ。
[4498] 2002 年 11 月 4 日 (月) 03:11:29 拙稿
須磨のベルトコンベア―のことでしょうか。今でも稼動していると思いますよ。神戸空港島の造成に活用していることと思います。
[4526] 2002 年 11 月 4 日 (月) 19:23:26 いな さん
須磨のベルトコンベア―

過去ログでも話題になったベルトコンベアーですが、1964年の始動以来41年の間に運んだ土砂は計五億七千八百万トン。
神戸の地図にポートアイランド、六甲アイランド、須磨ニュータウン、学園都市、西神ニュータウンなどの新市街を次々と生み出した原動力は、来年2月16日開港予定の神戸空港の埋め立て完成に向けて、12日14時に最後の船がベルトコンベアー先端の須磨海岸より神戸空港に向けて土砂を運ぶとのことです。
今後は、西区の神戸複合団地まで続く14.5キロに及ぶトンネルやベルトコンベアーの跡地利用が検討されるそうです。

山を削り海を埋め立てる神戸の都市経営については賛否がありますが、神戸っ子の一人としては、高度成長期以来の神戸の発展を支えた「名物」の退場に、寂しい思いです。
[47900] 2006年 1月 3日(火)17:59:40ニジェガロージェッツ さん
遅れ馳せながら新年のご挨拶
今年の初書き込みになります。
遅くなりましたが、謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。

年末の寒波とはうってかわり、神戸は暖かな新春を迎えました。(また数日で寒波が来そうですが・・・)

[47780]EMM さん、[47782]なお さん、[47787]小松原ラガー さん
お気遣い恐縮です。
ここ数日は仕事も休みで安静に出来ているお陰で、怪我のほうは随分と楽になりました。昨日は学生時代の旧友に誘い出されて、大阪へ行ってきました。事故以来初めての外出でしたが、ちょっと足が突っ張っている以外は特に問題はありませんでした。本当にお騒がせして申し訳なく思います。

さて、今年の神戸は震災から11年目になりますが、2月16日に神戸空港が開港します
旅客機の就航予定路線は、新千歳、仙台、新潟、羽田、熊本、鹿児島、那覇の7路線です。

神戸空港の建設には、いろいろと賛否両論がありましたが、いよいよ開港まであと44日。
東アジア各国のハブ港湾の拡張による物流の変化や、震災によって大幅にダメージを受けた神戸港が、今ではまるで静かな公園のように綺麗になった一方で、往時の賑わいを失った現状を見ると、新空港が貨物空港として神戸港を補完する役割を担うことを期待したく思います。

生活に余裕があれば、経県値稼ぎに神戸空港からひとっ飛びしたいところですが(笑)
[48343] 2006年 1月 14日(土)11:26:21小松原ラガー さん
国際空港神戸・・・???
小松原ラガーです。

新聞か何かで読んだのですが、2月16日開港の神戸空港。「国内線のみ就航」ということで進められてきましたが、どうも政府は地元の要請を受けてビジネスジェットに限り神戸空港の利用を認める方向になる模様です。逆に、定期便はおろか、チャーター便までもが神戸でだけでなく伊丹も認められず、関空のみとなる模様です。

確かに、市街地からあの距離/時間で、かつ、伊丹へ向かって渋滞で遅延することを思えば、阿波座から先の大阪港線の渋滞さえクリアすればあとはほとんど渋滞のない湾岸線経由でポートアイランドまでいけることを考えると、大阪からも伊丹とそうは遜色ない距離に神戸空港があるわけですから、忙しい企業の幹部の方々には魅力的かもしれません。

ということで、形はどうであれ、「神戸に国際空港が存在する」という状況に向かいそうです。(この投稿では厳密な国際空港の定義がどうのこうのということには敢えて触れさせて頂きませんので、あしからず御了承下さい。)

因みに、私は開港初日ではありませんが、2月中に利用の予定。合わせていっちゃんさん御推薦のお店訪問と小山宿泊で経験値+1狙いの予定です・・・^^:
(その3週間前にも状況の予定があるのですが、これは新宿あたりでエンドレスモードなので、経験値には無縁。)

ところで、ビジネスジェットの利用状況というか、ビジネスジェットの利用実績のある空港って全国にどのくらいあるのだろうか・・・

P.S.
恐らく、この投稿で市制基準突破、のはず。

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